この回の前半は、SECIモデルの解説に入る前段として「情報」と「知識」を分けて見る訓練に充てられた。前田氏は、この区別がないままSECIモデルを聞いても何を言っているのか分からないはずだ、と前置きしている。実際、モデルに出てくる暗黙知・形式知の「知」は情報ではなく知識を指すため、両者を同じものとして扱っていると、モデル全体が意味を失う。
区別の基準はきわめてシンプルに提示された。「ただ知っているよ」で止まるものが情報、「使えますよ」まで到達したものが知識である。情報には事実性・客観性・記録性が求められ、そこに主観の介在はない。誰がどこから取ってきても同じものが得られるのが情報だからだ。対して知識には、情報と情報の掛け合わせと、分析・検証・判断という主観的な操作が必ず入る。摩擦熱が起きることを知っていて、リンが低温で発火しやすいことも知っている――それだけでは何も生まれないが、二つを掛け合わせた瞬間にマッチという知識が生まれる、というのが講義で示された最小の実例だった。
後半はこれを料理のメタファーに置き換えて展開された。情報は生肉であり素材である。素材には鮮度があり、その場でしか手に入らないものもあり、牛・豚・鶏という種類によって必要な調理法も変わる。情報をそのまま流したところで何の意味もなく、調理という過程を経て初めて知識になる。そしてコミュニケーションとは、相手が差し出した素材を受け取り、自分なりに味付けして料理として返す往復のことだ、という定義が導かれた。多くの人がやりがちなのは、相手が魚を出してきたのに「僕が食べているのはビーフコンソメのポテトチップスです」と返すことで、これは素材を完全に無視しているため会話が膨らまず、知識も積み上がらない。
マイキー氏はここに、理解度を外形的に判定するテストを重ねた。メロン1個とメロン1個で2個だと分かる人が、いちごに置き換えた瞬間に分からなくなる。これは「1+1=2」が知識になっておらず、メロンという情報のまま覚えている状態である。同じ論理を別の例えに置き換えて提示したときに反応できるか、その反応速度はどれくらいか、自分の言葉で翻訳できるか、さらに他者の誤りを指摘できるか。この4段階を踏ませれば、相手が知識まで到達しているのか情報で止まっているのかが外から測れる、という実務的な道具が提示された。
情報は交換できるが、交換しただけでは何も生まれない。言われたことを返すだけ、確認するだけの往復は、素材を渡し合っているにすぎない。自分の判断・分析・検証・意見を掛け合わせて初めて料理になり、その料理を出し合うことだけが新しい知識を生む。つまり「自分の言葉になっているか」は礼儀や表現力の話ではなく、知識が成立しているかどうかの唯一の外形的証拠である。
講義に入る前、マイキー氏は進行中の面談について触れている。当初は関連企画と合わせて600件規模を見込んでいたが、絞り込んだ結果400件程度に着地する見通しで、直近1週間だけで180本を消化した。10月中旬までに終わらせたい理由として、10月1日に桜インベストメントのライブ出演、その後に証券会社での講演、10月3日のサミット、そして10月下旬から3週間で10カ国というヨーロッパ出張が控えていることが挙げられた。
面談の合否基準について語られた内容は、この回のテーマと直結している。年齢や経歴では見ておらず「人間性」で見ている、学ぶ気がある人・面白いと思った人にだけクラブの説明をする、そうでなければ何も説明せずに切る、という運用である。判断材料が履歴書という「情報」ではなく、会話の往復で観察できる何かに置かれている点が、後の講義と符合する。
もう一つ、イベントでの世界的スピーカーとの15分間の会話が振り返られた。マイキー氏は自分でその映像を見直して「性格が悪い」「詐欺師だ」と評している。日本人は下を向いて歩いている人が多いが、あなたが話した後に参加者がどれだけ笑顔で新しい希望を見つけて出ていったか――そうした賛辞を、本心ではないまま真顔で述べたという。
ただし、そこには明確な狙いが置かれていた。高額な受講料を払って最前列に座っていた参加者にとって、講演後のサイン会と撮影が最後の接点になる。しかし当の登壇者は高齢で疲弊しきっており、そのままでは「こんな姿を見せられない」状態だった。興行として最後まで満足してもらうための一つの流れとして、相手のモチベーションを上げる嘘をつくことも重要だ――これが本人の説明である。内容に不満があった別の登壇者には過去に直接文句を言っているが、今回は指摘しても響かないと判断し、褒めて持ち上げることで参加者への最終パフォーマンスを上げるほうが合理的だと切り替えた、という整理だった。
書籍については、新たに13,000部の増刷が決まり累計88,500部に到達したことが報告された。このペースならあと1カ月ほどで10万部に届きそうだという見立てである。会場では配布用の書籍が不足し、登壇後に参加者の3分の1が外に出てブースへ向かったため在庫が一気に消え、翌日に追加した分も午前中2時間で消えたという。
前田氏はまず、この区別について統一的な見解が存在するわけではない、と断りを入れている。そのうえで今回提示するのは、こう見ておくとSECIモデルが比較的理解しやすくなる、という実用的な整理だ、と位置づけた。
SECIモデルは組織において知識を創造する理論である。創造とはクリエーション、つまり生み出すことを指す。そのために何が必要かといえばコミュニケーションであり、そのコミュニケーションを理解するために情報と知識の区別が要る――この順番で話は組み立てられている。
言葉づかいの話に聞こえるが、影響は大きい。前田氏が指摘したのは、モデルに登場する暗黙知・形式知という語の「知」は一貫して知識を指しているという点である。知識である以上、そこには必ず意味が伴う。情報と知識を混同したまま読むと、「意味を持たないもの」を組織で循環させる理論だと誤読してしまう。
摩擦で熱が起こることは知っている。リンが低温で発火しやすいことも知っている。しかし知っているだけでは何も生まれない。この二つの事実を掛け合わせたとき、初めてマッチという成果物が出てくる。前田氏はこれを「情報の掛け合わせによって生み出された知識」と呼んだ。ここに分析・検証・判断が加われば、良い悪いや美しい醜いといった価値判断が入り込み、主観が介在する領域に移る。
SECIモデルの提唱者は野中郁次郎氏(1935年5月10日生、2025年1月25日逝去、一橋大学名誉教授)。竹内弘高氏との共著『知識創造企業』で国際的に知られ、その原型は1990年の『知識創造の経営 日本企業のエピステモロジー』(日本経済新聞社)にある。組織学会会長(1996〜2002年)、日本学士院会員、カリフォルニア大学バークレー校特別名誉教授などを歴任した。
SECIの4モードは、共同化(Socialization:暗黙知から暗黙知)、表出化(Externalization:暗黙知から形式知)、連結化(Combination:形式知から形式知)、内面化(Internalization:形式知から暗黙知)である。講義中に「インターナリゼーションが内面化」「これが連結化」と確認されていた箇所は正しい。
なお、前田氏が「統一的な見解があるわけではない」と断った点は誠実で、情報と知識の境界は情報科学・知識経営・認識論で定義が分かれる。今回の整理はSECIモデルを読み解くための作業定義として受け取るのが適切である。
ここから前田氏はメタファーに切り替える。情報とは何かと問われれば、それは生肉であり素材である。食べ物は素材があって初めて成り立つが、素材そのものは食べ物ではない。
素材として見ると、情報の性質がよく見える。鮮度があり、新鮮なものも腐敗したものもある。その場でしか手に入らないものもある。牛肉・豚肉・鶏肉という種類の違いがあり、種類が違えば必要な調理法も変わる。情報には調理が必要で、調理には過程が必要であり、情報をそのまま流したところで何の意味もないというのが結論である。同じ牛肉をもらってもハンバーグにするかステーキにするかで味は変わる。料理に変えて初めて知識になる。
ここで「コミュニケーション」という語が差し挟まれる。なぜわざわざこの語を挟むのかといえば、コミュニケーションが成立するには必ず情報を知識に変える過程が要るからだ。他人の話が素材だとすると、自分の話は料理として相手に提供するもので、その意識で話すことが重要になる。話をされたことを受け取り、自分なりに味付けや調理をしたうえで「こんな料理ができるんじゃないでしょうか」と出していく。この過程がなければ、そもそも会話として成立しない。
知識の創造は、単純にポンと思いつくものではない。この過程の繰り返しによって知識の幅が増え、大きくなっていく。素材を無視し続けていれば、新たな料理も新たな味も、より美味しいものも生み出せない。
前田氏は最後にもう一段踏み込む。言われたことをそのまま返すだけ、確認するだけというのは、まさに素材を渡し合っているだけであり、交換しているにすぎないから何も生まない。自分の判断・分析・検証・意見、あるいは自分が持っている知識をそこに掛け合わせる意識がない限り、コミュニケーションにはならない。そしてコミュニケーションにならなければ、いくら情報を持っていても新しい知識は生み出せない。
| 状態 | やっていること | 生まれるもの |
|---|---|---|
| 情報の交換 | 言われたことを返す、確認する、素材を渡し合う | なし |
| 素材の無視 | 相手の話と無関係に自分の話したいことを出す | なし(会話が成立しない) |
| 調理して返す | 受け取った素材に分析・検証・判断・自分の知識を掛け合わせて出す | 新しい知識(幅が増え大きくなる) |
マイキー氏はこの整理に、人を相手にした判定方法を接続した。情報を知りましたという状態から知識に変わったかどうかは、人でテストすると分かりやすい、というのが出発点である。
メロンが1個あります。もう1個あります。答えは2個です。これを、いちごが1個ありますという話に変えた瞬間に分からなくなる人がいる。これは知識になっていない。メロンとして覚えているが「メロンはフルーツだ」という上位の枠から外れている状態で、いちごにした瞬間に答えられなくなる。本質は「1+1=2」であって、いちごなら2個になるがメロンなら2個にならない、というのは計算ができていないのと同じである。
ここで示された例は不動産だった。Aというマンションは外面は良いが、テレビはブラウン管、風呂は五右衛門風呂、エアコンはなく扇風機。Bという家は最新のエアコンが入り、4Kテレビがあり、追い焚きのできる風呂がある。どちらが欲しいかと聞けば当然Bになる。
これを置き換えると、日本企業とアメリカ企業の買収の違いになる。アメリカがM&Aをするときは「Bの家」を買っているようなもので、新しい考え方・新しい技術・新しい知識が入っているからこそ買収する必要がある。では日本でなぜM&Aが少ないかといえば、古びた家電製品が入っている家を買わないからだ、という説明である。言っていることは不動産の例と同じだが、この置き換えが理解できない人がいる。そしてそれは反応速度で大体分かる、つまり意思決定のスピードとして表に出てくる。
次に問われるのは言語である。置き換えた内容について「つまりこういうことですよね」と自分の言葉で言い直せるか、いまの例とは別の例を自分で出せるか。言語化ができたときに初めて知識になっているとマイキー氏は述べる。逆に言語化能力がなければ、そもそも言語化ができていないのだから知識になっていない、という判断ができる。
最後の段階は、他の人が別の話を出してきたときに「それは違うのではないか」と突っ込めるかどうかである。自分がフィードバックを受けて認知した内容について、今度は逆方向に指摘できるなら、本人が理解していると判断してよい。この4段階を挟めば、自分自身が理解しているかどうかも含めて判定基準になる、という組み立てだった。
この判定は組織運営にも直結する。マイキー氏は、社員や周囲の人が理解したのかどうかをコミュニケーションで探れる、と述べている。プレゼンテーションが大事だ、経営の基盤が大事だと言っているところで、情報を少しすり替えた瞬間に分からなくなる人は、知識になっていない人として扱える。知ること自体は楽しいが、聞いた話を人に分かりやすく説明できるか、フィードバックを受けたときに「それは違う」と指摘できるか、別の例え話で話してみてと言われたときに即座に出てくるか――そこが知識と情報の分かれ目になる。
ここで示された4段階は、教育測定の分野で言う「転移(transfer)」の評価に近い。表層の文脈が変わっても同じ構造を適用できるかを見る手続きであり、同型構造を別領域に移せるかどうかで理解度を測るという考え方は、学習研究では標準的な扱いになっている。
要確認ただし「反応速度=理解度」と単純に置くことには留保が要る。反応が遅い理由には、慎重さ、前提条件の確認、異なる解釈の検討などもあり得るため、速度だけを基準にすると熟慮型の人材を誤って低く評価するリスクがある。テスト3・4(自分の言葉での再現と、他者への指摘)のほうが判定材料としては頑健である点は、実務で使う際に意識しておきたい。