思いつかないのは才能の問題ではなく、データ不足である
前半で示したリサーチの経路を、この後半では思考の形式として言語化していく。講師がホワイトボードに書いたのは三つの語だった。演繹法、帰納法、そしてアブダクション。前の二つは学校で習うが、三つ目は日本でほとんど教えられない。にもかかわらず、実務で仮説を立てるとはほぼアブダクションのことである、というのがこのパートの主張である。
参加者の一人は演繹と帰納の違いを「スタートから考えるかゴールから考えるか」と説明し、講師はそれを半分正解と評した。講師の定義はより明確で、演繹はルールから導き出すもの、帰納はデータからルールを作るものである。人間はいつか必ず死ぬというルールがあり、ソクラテスは人間であるという事実があるから、ソクラテスは死ぬ——これが演繹。ソクラテスが死に、プラトンが死に、ナポレオンが死んだから、どうやら人間は死ぬらしい——これが帰納。前者は確実性を持つかわりに新しいものを生まず、後者は事例の量がそのまま結論の強度になる。
そして三つ目のアブダクションは、講師の言葉では「仮説的推論」である。目の前の事象から、それを最もよく説明する仮説を跳躍的に立てる。ペーパーテストでは採点できないので学校では扱われない。しかし研究者の仕事はほぼこれであり、実務で「何を言っていいか分からない」「予想が立てられない」という状態は、才能ではなくアブダクションを支えるデータ量の不足だと講師は断じた。
この回の後半では、参加者に研究者・大学教員が複数いたことで議論が学問論にまで拡張していく。論文を演繹で書くか帰納で書くか、数学は演繹にならざるを得ないこと、社会科学が実証主義へ傾いた歴史的背景、そしてアブダクションがなぜ生まれたのかという問いまでが、その場で交わされた。
アナロジカル・リーズニング――似ているとは何が似ていることか
三つの推論に入る前に、講師はアナロジカル・リーズニング(類推)という枠組みを提示した。経営学や認知科学で使われる考え方で、二つの対象のあいだに類似性を見つける作業だが、その類似には二段階あるとされる。
サーフェス・シミラリティ(表面的類似性)
見た目が似ている、同じ業界である、共通の属性を持つ、という水準の類似。半導体の事例から半導体の事例を探すのはこちら。取りかかりやすいが、射程は狭い。
ストラクチュラル・シミラリティ(構造的類似性)
業界も見た目もまったく違うが、要素間の関係とメカニズムが同じ。主役が売れる→周辺素材が不足する→長期契約で囲い込む、という関係式が一致すれば、半導体と菓子店は同じ事例になる。
講師は、アメリカでは「両方やってこい」と言われたと述べ、実務では自分の業界の周辺だけを調べる人が圧倒的に多いと指摘した。参加者の竹中さんからの質問に答える形で、身体を整える業界のリサーチをかけるのが表面的類似であり、そこからソフトウェアや自動車、製造業といった遠い業界に同じ構造がないかを探すのが構造的類似だ、と具体化している。だから他業界のリサーチが必要になる、という結論だった。
表面的類似性と構造的類似性の区別は、認知科学者Dedre Gentnerの構造写像理論(structure-mapping theory)に由来する。原論文は "Structure-Mapping: A Theoretical Framework for Analogy"、Cognitive Science誌第7巻155-170頁、1983年。Gentnerはそれ以前のTverskyのコントラスト理論が「共通属性が多いほど類推が強い」と想定していた点を批判し、それは字義通りの類似(literal similarity)には当てはまっても類推には当てはまらないとした。良い類推とは、関係しているもの自体ではなく関係のほうが一致しているものであり、関係の階層が深い(高次の関係が一致する)ほど有望な類推になる、というのが同理論の核である。Gentnerはこの業績で2016年のDavid E. Rumelhart賞を受賞している。
三つの推論と、実務で通る順番
講師は三つを並べたうえで、参加者に「実務ではどういう順番で通ると思うか」と問いかけた。ある参加者は「ルールを見つけて、そのルールが合っているかを演繹で検証する」と答えたが、講師の答えは違った。実務家もリサーチャーも、まず過去の事例を大量に集めるところから入る。つまり帰納が①である。そこで蓄積したデータを土台に、アブダクションが②として仮説を生む。そして生まれた仮説を既存のルールと突き合わせて詰めるのが演繹の③という順序になる。
この順序が意味するのは、②に到達できないのは知識不足だということである。講師は「何を喋っていいか分からない」という状態を、能力ではなくデータ量の問題として説明した。経験の厚い参加者たちを名指ししながら、彼らは過去のデータを膨大に見ており、A業界に対してB業界の考え方も頭に入っているから、②を経由して③に至れるのだと述べている。
| 演繹法(ディダクティブ) | 帰納法(インダクティブ) | アブダクション | |
|---|---|---|---|
| 流れ | ルール → 事実 → 結論 | データ → 共通点 → ルール | 事象 → それを最もよく説明する仮説 |
| 講義の例 | 不可欠な部品が不足すれば大手は長期契約で囲い込む/AIブームでSSDが不足/ゆえに長期契約が結ばれるはず | ウェーハ不足時に長期契約が結ばれた、リチウム不足時も結ばれた/ゆえに今回も結ばれるだろう | SK・サムスンの製造キャパを見るともう間に合わない/ならば誰かが取りに来るはずだ |
| 確実性 | 手順を誤らなければ誰でも同じ正解 | 事例の量が結論の強度を決める | 打率の世界。当たらないことが前提 |
| 学校で習うか | 習う | 習う | ほぼ習わない |
アブダクションが学校で扱われない理由として、講師は学校教育が100%正解のあるものしか教えないからだと述べた。演繹は手順を守れば誰でも同じ答えに至るのでテストにできる。しかし「おそらくこうではないか」という推論は採点できない。だから日本でアブダクションを学んだという人に会ったことがない、と講師は言う。一方、研究者の世界はアブダクションそのものであり、大量のデータがあるからこそ仮説が生まれ、仮説が生まれるから既存のルールと照らし合わせる作業が始まる——この循環を繰り返すと、次のルール、次の市場トレンドを予想できるようになる、というのがこのパートの到達点だった。
アブダクション(abduction)に論理形式を与えたのは、アメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce, 1839-1914)である。パースはこれを演繹・帰納から区別し、「説明仮説を形成する過程」であり「新しい観念を導入する唯一の論理的操作」と定義した。初期には Hypothesis や Presumption といった語を用い、後に Retroduction および Abduction が標準的な用語になった。講義では提唱者名への言及はなかったが、「仮説的推論」という日本語訳はこのパースの概念に対応する。なお最初に提唱した正確な年については、1880年代から1890年代の一連の著作にまたがるため、単一の年を特定する記述は確認できなかった。要確認
論文の書き方から見た演繹と帰納
ここで参加者の一人(研究者)から、論文執筆の実務に基づく補足が入り、議論の解像度が一段上がった。論文では冒頭で演繹で書くか帰納で書くか、あるいは両方を使うかを宣言する。帰納はインダクティブ(inductive)、小から一般へ向かい、データを集めて統計的に結論を導く。演繹はディダクティブ(deductive)で、語源に「引き出す」の意があり、一般に言われていることから細かく引き出していく。一般的にこうだから、こうだ——その寄せ集めで戦略を練るのが演繹的なアプローチだという説明である。
菓子店の売上を例にすると、帰納で攻めるなら売れている店や売れている商品のデータを大量に集めて傾向を抽出する。演繹で攻めるなら、一般論を細かく積み上げて戦略を構築する。この参加者は、帰納のほうがアイデアや発想を強く要求されるとし、逆に演繹で論文を通す人は極めて論理的でなければ通らないと述べた。分野による偏りも共有され、ファイナンスや統計学は演繹で書かれることが多く、社会学は帰納で書かれることが多い。博士論文は演繹より帰納のほうが通りやすいのが現実だ、とも語られた。
講師はこれに対し、演繹は理論検証に、帰納は理論構築に使われる、という整理を提示している。参加者はさらに踏み込んで、理論構築のほうはデータを集めて結果を出せばいい単純な力勝負の面があり、「発見」と捉えたほうがよいと補足した。また、ビッグデータやRCT(ランダム化比較試験)は基本的に演繹側に立つという指摘も出て、結局はコンビネーションになる、という点で一致した。
なぜアブダクションが必要になったのか――学問史からの応答
議論はさらに遡る。数学を専門とする参加者から、すでに固まった論理や公理を組み合わせて新しい定理を作る数学のやり方は演繹だと思うが、それと似たことが文系でも起きているのか、という問いが出た。講師は、研究手法としての演繹は定量的データ、つまり統計や数値の世界になり、帰納的アプローチは定性的、つまり言葉や事例やインタビューといったケーススタディが中心になる、と整理した。数学は元となるデータがそもそも存在しないので演繹にならざるを得ない、という点も参加者間で確認されている。
これに対して、もう一人の参加者から学問史的な応答が出た。要旨は次の通りである。文系の学問は社会学の登場以降、実証主義(ポジティビズム)を目指した。社会学が支持されたのは、ロジスティクスや植民地統治に使えたからであり、研究費が出るかどうかは「それがどれだけ再現可能か」に懸かっていた。だから文献の学問も含めて全体が実証の方向へ傾き、これに抗ったのは人類学だけだった。結果として文系の学問はある意味で数学化し、逆に理系の学問は文系化した——自分が観測していない時間性や不確実なものへどうリーチするかという問題を抱え込んだからである。
そしてアブダクションがなぜ生まれたのかについて、この参加者は「演繹でも説明不可能、経験からも説明不可能」という違和感から生まれたと述べた。論理的に無矛盾であっても、それがどのように矛盾構造から発生するのかは説明できない。経験主義の制限を受けると直感を生かせない。現実は移り変わり、社会体制も観測方法も変わるため、認知の可能性そのものがずれていく。演繹は世界を説明する原理であるがゆえに「神からしか発生できない」——世界を想定した文言でなければゼロから始められず、アトミズムが成立しないから、厳密には演繹は不可能だ、という論だった。近代以降、演繹も帰納も現実に対して不十分になり、その穴を埋める形でアブダクションが要請された、というのがこの応答の結論である。
議論の途中、参加者から「野中先生のSECIモデルは大ヒットだが、日本人からすると喫煙室での談話がきっかけで生まれた理論であり、それがヒットになるのかという感覚はあった」「海外では、優秀に組み立てられ事例も多かったので世界デビューできた論文だと言われていた」という趣旨の発言が出た。事実関係として、SECIモデルの前身は野中郁次郎『知識創造の経営』(1990年)およびHarvard Business Review掲載の "The Knowledge-Creating Company"(1991年)で公表され、1995年にオックスフォード大学出版局から刊行された同名書(竹内弘高との共著)で世界的に知られるようになった。同書は10カ国語以上に翻訳され、世界的なナレッジマネジメントのブームを生んだ。一方、「喫煙室での談話が理論の着想源だった」という経緯については、公開資料で裏づけを取ることができなかった。参加者自身が海外で聞いた評価として語られたものであり、事実としての確認は取れていない。要確認
仮説の品質は、仮説に至るプロセスで決まる
終盤、講師はこの回で最も繰り返した主張に戻った。自分は神ではないので外す。合っている・間違っているで判断されるのは嫌で、どうやってその仮説に行き着いたのかのほうが大事だ、というものである。その説明のために持ち出されたのが、待ち合わせに遅刻してくる友人の例だった。
遅刻の理由を予想するとき、「あいつは過去に何度も同じ理由で遅れてきた」「あいつは俺たちより別のことを優先する価値観だ」という事例の積み重ねから立てた仮説なら、外れていても理解できる。過去に存在したプロセスがあるからである。しかし「あいつはそういう顔をしているから」で立てた仮説は、外れても何も残らない。実際の理由が「猫を助けていた」「倒れた人がいて救急車に同乗した」だったとしても、前者の立て方をしていた人は「この人にはこういう一面がある」という発見を得られる。後者は得られない。講師は「大抵の人の仮説はそれなんですよ」と二度述べ、感情や気分で立てた仮説と、プロセスを踏んだ仮説を峻別した。
この基準は、他人に対する要求の話にも接続される。相手に正解を求めるのは無茶であり、それができるのは神だけだ。正解を求め、間違ったら人のせいにするという態度が、最も人を腐らせる——講師はそう述べて、自分の発信についても「必ず自分で調べてください」と言い続けている理由を説明した。確証など取れないし、アブダクションができるようになるほど「こうなったらこうなるだろう」の連鎖が増えて、断定できなくなる。株が上がると言い切った直後に工場が爆破されれば、それで終わりだからである。
質疑応答
宿題・アクションアイテム
- 直近で自分が立てた仮説を一つ書き出し、それが演繹・帰納・アブダクションのどれで立てたものかを判定する。
- その仮説の根拠が「過去の事例の積み重ね」か「印象・気分」かを区別し、後者だったものを列挙する。
- 自分の業界とまったく違う業界を一つ選び、構造的類似性(関係とメカニズムの一致)が成立する事例を一つ見つける。
- 自分の発言・発信が演繹と帰納のどちらに偏っているかを、直近の議事録やポストで点検する。
- 演繹と帰納を往復していて生じた「違和感」をメモとして残し、それを次の仮説の起点にする。