「ドラッカーの理論はいま通用するのか」という一つの問いから、マクロ中心とミクロ手法の混同、日本企業が3.0に留まる構造、そして伝統文化を存続させる条件までが一続きで論じられた回。
この回の起点は、マイキー氏が前田氏に投げた一つの質問だった。フォレットの考えは当時早すぎて通じず、後にドラッカーがまとめた。ではそのドラッカーのマネジメント理論は、現在でも通用するのか。場が固まったところで前田氏が持ち出したのがフィリップ・コトラーで、この人物もドラッカーから強い影響を受けており、本質的な部分はかなり類似しているという指摘だった。
前田氏の回答の骨格は、理論を二層に分けて読むという方法論である。一つは問題意識、つまりその理論が何を課題とし何を解決しようとして生まれたのかというコンセプトの層。もう一つは、その概念を浸透させるために当時の問題に対して提示された解決方法や手段の層。世に出回る解説は後者の手段ばかりを取り上げている、というのが氏の印象だった。調理法は十世紀と十五世紀と現在で全く違うが、調理の目的は同じである、という喩えが添えられた。
この二層の区別から、「あの人は言うことが変わった」という批判の多くが成立しなくなる。根本的な内容は変わっていないが、時代に合わせて手法を作り直しているだけだからである。逆に言えば、マクロの中心を理解していれば、時代や環境が変われば結果的にまったく違うものが出てくるのが自然になる。
後半はコトラーへ移る。日本人の考えはほとんど3.0で止まっており、外側だけ4.0の格好をしているのではないか、というマイキー氏の見立てが示された。米中は5.0の顔をかぶった4.0、日本は4.0の顔をかぶった3.0。ならば次にやるべきは5.0ではなく4.0だ、という提案である。そこから3.0と4.0の間にあるキャズムの理由、組織になりきれない群れの問題、伝統文化を存続させる条件、そして旗を振る人がいない国という論点へ展開した。
理論も文化も企業も、同じ構造で扱われている。中心にある目的を理解しないまま、目に見える手法や形だけを写し取ると、外側は更新されているのに中身が前の段階に留まる。4.0の皮をかぶった3.0という表現は、理論の読み違いと産業の停滞を同じ一語で言い当てている。
参加者の一人から、時代の流れが速くなり、企業が早めに手を打つなかで「お前はこれをしろ」と割り当てる場面が増えている、そこで生じる反発を成長の方に向けられればドラッカーは現代でも使えるのではないか、という問いが出た。前田氏はこれに、理論を二つの面に分けて見たほうがいいと応じた。
どういう課題があり、何を解決しようとしてその議論が出てきたのか。理論の中心にある問題意識であり、時代が変わっても残る部分。
その概念を浸透させ検証するために、当時の状況に合わせて提示された具体的方法。時代とともに作り直されるべき部分。
質問者は「目的と手段がごちゃ混ぜになっている」と受け取った。前田氏はさらに、テイラーは人を企業の中のパーツとして役割を与えているように見える、と補足した。そう見えると言い方をするのは、その人の考えを100%理解しているとは言えないからだという留保付きである。そしてリーダーというパーツとメンバーというパーツを別物として分け、パーツによって動きが変わるという提示の仕方をしている、と整理した。
これに対してフォレットとドラッカーの問題意識は「人間は自立して動くものだ」という点にある。とくにドラッカーは自立を強く強調した。自立的に動くために何をするのかを突き詰めた先に出てきたのがマネジメントというコンセプトである。つまりマネジメントは手法ではなくコンセプトだ、というのが前田氏の理解だった。
参加者がこれを「マクロの考え方がベースにあり、時代に合わせて具体化するとミクロな手法として表現される」と言い換え、前田氏は同意した。フォレットもドラッカーもコトラーもマクロ中心を最重要視しているが、ミクロのほうが分かりやすいのでミクロで提案している。日本ではそれが翻訳される過程でミクロ具体に寄りすぎ、本質が見えなくなっている、というのがマイキー氏が常々言っていることだ、という確認がなされた。
MBO(目標管理制度)は『現代の経営(The Practice of Management)』1954年で提示された。上司と部下が共同で目標を設定し、期待される成果で個人の責任を定義する仕組みである。ナレッジワーカーという語は1959年の『変貌する産業社会(Landmarks of Tomorrow)』が初出とされる。講義中の「1950年代に知識社会の到来とナレッジワーカーの重要性を明言した」という説明は年代として正確である。
マイキー氏は、有名人の名前を引用して語りたがる研究者への批判を前置きしたうえで、ドラッカーの具体的な中身に踏み込んだ。最も注目された仕組みはMBO、目標管理制度である。上司がノルマを命令するのではなく、自ら目標を設定してセルフマネジメントしようという発想は、コンセプトとしては生きている。しかし時間軸が違う。
| 論点 | ドラッカーの前提 | 現在 |
|---|---|---|
| 目標管理の周期 | 四半期または1年単位で目標を掲げる | シリコンバレーでその周期は使われていない。1ヶ月・2週間単位で回す |
| ナレッジワーカーの範囲 | 特定企業に集約された社内の人間を指す | 社外の知をどれだけ自社のバリューチェーンに引き込めるかが競争力になる |
| 意思決定の情報環境 | 集まるのは現場の顧客接点データのみ。量が少ないからじっくり考えてよい | インターネットで情報量が激増。トップに集約して熟考する前提が崩れた |
| 権限の置き場所 | トップマネジメントの役割・意思決定・責任を重視 | 権限を小さなチームへ譲渡する自律分散型のデザインが有効になっている |
この四点目が、この回全体の折り返し点になる。中央にリーダーシップが存在しない自律分散型の組織デザインが機能する時代は、ドラッカーの前提とは違う。むしろフォレットの状況の法則のほうが、いまの時代に合っている。埋もれた先駆者が、周回遅れではなく周回先で再浮上しているという逆転である。
マイキー氏は自己啓発の世界にも同じ構造を見ている。特定の指導者を中心にした派閥ができ、その人物が何年も前に作った枠組みが現在にそのまま持ち込まれる。いまならもう少し科学的な裏付けのあるものがあるはずだ、という指摘である。理論を人格に紐づけて固定すると、更新の回路が失われる。
講義中の「シリコンバレーでそんなことをやっているところはない」は、周期の話として理解するのが妥当である。MBOの発想を継いだOKR(Objectives and Key Results)は四半期を基本単位としつつ、週次のチェックインで進捗を確認する運用が一般的で、年次評価に紐づけないのが特徴とされる。四半期・年次という設計思想そのものが消えたわけではなく、確認と修正のサイクルが週単位まで細かくなった、という理解が実態に近い。要確認
次回以降の予定としてコトラーを扱うことになり、マイキー氏が「何点0までやるのか」と尋ねた。前田氏の答えは5.0までだが、一つ一つを深くやるより、なぜこの変遷があったのかをやるほうが適切だ、というものだった。ここでもコンセプトと手法の区別が方針になっている。
これに対してマイキー氏が出したのが、日本人の考えはほとんど3.0で止まっているという見立てである。だから5.0まで行かずに4.0をやってほしい、と要望した。理由の説明は次のようになる。日本の大手企業は外側だけ4.0の格好をしているが中身は3.0ではないか。アメリカや中国はそこに関して5.0の顔をかぶった4.0になっている。つまり日本は一歩遅れており、いま最も重要なのは、4.0の皮をかぶった3.0から本当の4.0へ移り、そのうえで5.0に向けて何を考えるかだ、という順序である。
前田氏はこれを受けて、では3.0と4.0の間になぜキャズムがあるのかが論点になると応じた。要因として2000年代初頭の政府方針の方向性を挙げつつ、「僕の勝手な意見で言うと日本人がわがままだから」と述べた。これは講師個人の見解として明示されたものであり、制度要因や産業構造要因を排除する主張ではない。マイキー氏は、自分が話しているのは4.0の話なのに、聞き手は4.0の皮をかぶった3.0の話しかしていない、と応じた。
4.0のフェーズを特徴づけるものとして挙げられたのが自己表現であり、デジタルとリアルの融合がキーポイントになるという確認がなされた。形式としてデジタル施策を導入していても、顧客を自己表現の主体として扱っていなければ、それは3.0の価値主導を装いを変えて続けているにすぎない、という含意である。
『マーケティング3.0』は2010年、『マーケティング4.0』は原書2016年末刊・2017年流通(版により表記が分かれる)、『マーケティング5.0(Marketing 5.0: Technology for Humanity)』は2021年刊。いずれもヘルマワン・カルタジャヤ、イワン・セティアワンとの共著である。3.0が価値主導、4.0が伝統的からデジタルへの移行と自己実現、5.0が人間のためのテクノロジーを主題とする。講義中の「5.0まである」「4.0は自己表現とデジタルとリアル」という説明は原典の位置づけと整合する。
渡辺氏がここで別の角度を入れた。経路依存性の問題として、フォレットの時代、マンチェスター学派、あるいはそこに代表される個人主義という系譜があるが、日本にはそれと似た神話的な線があり、結果として排他主義になっている。複雑化への反動として作られるのは組織ではなく群れである、という指摘だった。
したがって組織を語る以前に、自分たちが群れなのか組織なのかを定義できるかどうかが問われる。社会の対立に対して自己防衛の反応でしか結束していないなら、それは群れとしての自己しか獲得していない。組織に適用される理論と群れに適用される理論は違う、という整理である。さらに渡辺氏は、日本人が社会を「関係性の拡張が統合を求めるプロセス」として見ておらず、力の論理としか見ていないところに民主主義の限界があり、テイラー的モデルがOSとして入っている、と述べた。
マイキー氏は同じ構造をゲームで説明した。レベルの低い層では使いやすい武器で勝ち続けられるが、上に行くとその武器は通用しない。そこで武器を替えられない人はパワーが上がらない。使いやすい武器は誰でも使えるから弱く、使いにくい武器は誰も使えないから強い。楽な方に留まるか、いまはきついが勝てる状態を取りに行くかの差であり、その発想がない人はゲームがうまくならない、という話である。伝統業界で道具を替えない人にも同じ構造がある、と長崎氏・花井氏が応じた。
伝統産業の話題が出たところで、渡辺氏が論点を立てた。日本の道具はユーザビリティではなく、人間が道具に合わせる思想でできている。だが道具が発明された時代と現在では身体感覚が変わっており、昔の人は切れたという説明は現代の人間には通用しない。効率の問題と、それがどんな意味と価値を持つのかは別の説明を要する。伝統は物語に立脚しているのだから、そこから外れて新しい価値を提供するにはユニバーサルデザインのような別の説明軸が要る、というのが渡辺氏の見立てだった。物語を説明する人の物語を受け入れたうえで、それを上回る物語を作らなければならない、とも述べた。
マイキー氏の切り込み方は違った。まず問うべきは「いまの文化と伝統は、この形で輸入されてきたものですか」であり、答えはノーである。日本の文化や伝統は朝鮮半島や中国大陸など様々な経路から入ってきたミックス型であり、三百年前、五百年前、千年前と現在では中身が変わっている。つまり私たちが受け継いでいるものは、そもそも改変を重ねて現在の形になったにすぎない。
「守る」を既存のままに保つことだと解釈する意見が多いが、マイキー氏は存続させることが守ることだと考えている。存続させるなら文化も伝統も進化しなければならない。企業にも文化と伝統と歴史があり、進化し続けた企業しか生き残っていない。ならば伝統文化も同じはずだ、という論理である。
渡辺氏はこれに、自然破壊や環境変化、組織構造の変化、上下の秩序といった問題が感情的に結びつき、守ることにブレーキをかけている、それが本質的なソリューションなのか、現代への不安の解消なのかを見分ける必要がある、と応じた。企業と伝統文化が相関的に同じ動きをしているのは、閉じた性質が作り上げた病巣ではないか、という見方である。
マイキー氏はここから産業政策の話に接続した。将来どうなるのかを明確化し、ビジョン・ミッション・バリューとして掲げること自体はどこでもやっている。だが誰がリーダーシップを張るのかが決まっていなければ、掲げても誰も動かない。旗を取らせることは牽制を生むため、日本では特定企業の名前を出せない。自動車を復活させるのにトヨタ中心でやりますとも、ITベンダーならNTT中心、製薬なら武田中心とも言えない。国民が黙っていないからである。
対して中国はBYD中心と決まっており、アメリカはAIが安全保障の論点に上がってOpenAIやAnthropicを軸に据える形になっている。旗を誰も取れないままなら、そのまま衰退していくのではないか。存続させる、進化させる、変わっていくには、必ず旗を取る人が必要ではないか、というのが問題提起だった。長崎氏には、自分がルールだというくらいの感じで手を上げてほしい、それくらいのインパクトがなければ何も変わらない、と促している。
特定企業を国策の中心に据えるべきだという主張は、講師の見解である。対立する立場として、政府が勝者を選別する産業政策は競争を歪め、選ばれなかった企業の資源配分を非効率にするという批判が経済学では広く共有されている。中国のBYD集中や米国のAI政策を成功例として評価するかどうかも、時点と評価軸によって結論が変わる。
渡辺氏は、背景にはユートピア指向があり、それが静的モデルを要請すると応じた。叩き台を作り、静的モデルに批判的なことを言い、その批判を引き受けるリーダーシップが必要なのは確かだが、私たちは常にありもしない映画を国家に重ねてしまう。そこがポピュリズム的にはうまくいってしまう、という指摘である。マイキー氏は、最悪の未来と明るい未来の両方が見えるからこうする、という連続性を持った物語が日本には弱い、と締めくくった。
前田氏はこの質問自体を、人から知識を引き出すポイントとして評価した。そのうえで直接答える前にコトラーを持ち出し、コトラーもドラッカーから強い影響を受けており本質はかなり類似していると述べた。回答の軸は、時代状況が分からなければ理論の本旨は分からない、だから歴史から話す、という点にある。
前田氏は、理論はコンセプトの層と手法の層に分けて見るべきだと答えた。世に出ている解説は手段ばかりを扱っている。調理法は時代ごとに違うが調理の目的は同じで、まず目的と「何をするか」の考え方を見る必要がある、というのが回答だった。質問者は目的と手段の混同という形で受け取った。
根本的な内容は変わらないが、手法は違うものを出してくるだろう、という答えだった。「あの人は言うことが変わった」という評は、時代に合わせて作り直しているだけで、根幹を見ていない人の言だと思っている、と前田氏は述べた。質問者は、理論を「この人はこういうやり方を言った人」という塊でしか見ていなかったと振り返った。
5.0までやるが、一つ一つを深くやるより、なぜこの変遷があったのかを扱うほうが適切だ、というのが前田氏の方針。これに対しマイキー氏は、日本人は3.0で止まっているので、5.0まで行かずに4.0をやってほしいと要望した。1.0から3.0は急いで通し、4.0に時間を使うという構成が確認された。
渡辺氏は、防衛規制の解除や生態系としての組織という論点を挙げ、成長理論を人間や社会の完成としてアップデートできない限り組織のアップデートもできないと述べた。与えられた理解の中に留まっているために、自分で法則性を発見する経路がない。日本の成り立ちや社会構造、いま何が重要なエンジンなのかについて自分なりの答えを持っていないことが、4.0に行けない理由だという見立てだった。
マイキー氏の返しは「いまの文化と伝統は、この形で輸入されてきたものですか」という問いだった。答えはノーで、ミックス型として変化を重ねてきた以上、守るとは存続させることであり、存続させるには進化が必要ではないか、という問いかけを逆に返した。
花井氏は、手に馴染んだものが絶対という信仰があり、効率が悪いと指摘しても批判されると述べた。渡辺氏は、日本の道具は人間が道具に合わせる思想ででき、身体感覚が変わった現代では同じ説明が通じないと応じた。伝統は物語に立脚しているため、それを上回る物語を作るか、ユニバーサルデザインのような別の合理性軸から説明する必要がある、という二択が提示された。