本レポートの概要
この日の講義は、受講者の多くが抱えている混同から入った。経営理念とパーパスは似ている。似ているどころか、区別がつかない。ならばなぜ、経営理念という言葉がすでにあるにもかかわらず、わざわざパーパスという別の語が必要になったのか。講師はこの問いを講義全体の背骨に据え、「何が違うのか」ではなく「何が背景にあってこの語が出てきたのか」という順序で説明を組み立てた。
最初に置かれたのは抽象論ではなく、一社の具体例である。味の素が掲げる「アミノサイエンスで、人・社会・地球のWell-beingに貢献する」という一文。調味料・食品の会社というイメージが強い企業が、アミノ酸という技術の軸で自社を再定義し、その結果として創薬や半導体材料までが同じ一文の射程に入る。パーパスとは事業領域の宣言ではなく、社会に対する存在理由の宣言だから、こういう書き方ができる――という導入である。
そこから講義は歴史をさかのぼる。ミルトン・フリードマンの「企業の社会的責任は利益の増大である」という立場を置き、それが四半期ごとの数字を良く見せる短期主義へと接続し、その限界が露呈した事象としてリーマンショックが示される。危機のあとに社会の側から立ち上がってきたのがSDGs、ESG、そしてZ世代という三つの潮流であり、これらに共通するのは「利益を第一に置いていない」という一点だった。利益から価値観へ。この転換が、パーパスという語が必要になった土壌である。
後半は概念の位置決めに費やされた。ESGは外部基準であり、経営理念は内部基準である。パーパスはそのどちらでもなく、内部から外部へ架ける橋として置かれる。CSVは社会課題の解決が競争優位に変換される回路、CSRは本業の外側で行う活動であり、パーパスは本業そのものの目的だから、CSRとパーパスは本来離れている――ただしこの距離を縮めていく作業が重要になる、という整理である。近江商人の三方よし、オックスフォードのコリン・メイヤー、ブラックロックのラリー・フィンクが補助線として引かれた。
味の素という一文 ―― 事業領域ではなく存在理由を書く
講師が最初に画面に出したのは味の素のパーパスだった。「アミノサイエンスで、人・社会・地球のWell-beingに貢献する」。この一文のどこが優れているのかを、講師は企業イメージとのズレから説明する。味の素と聞けば誰もが調味料や食品の会社を思い浮かべる。ところがこの一文には食品という語が一度も出てこない。書かれているのはアミノ酸という技術と、貢献する対象としての人・社会・地球だけである。
その帰結として、事業の実態が一文の中に収まる。講師が挙げた最も分かりやすい例がABF――半導体パッケージ基板に使われる絶縁フィルムで、これがなければ先端半導体が作れないという位置にある素材である。講師はそのシェアを100%と表現した。食品も当然手がけているが、創薬や半導体材料といった領域まで射程が及んでおり、それが言葉のなかにあらかじめ現れている。もし「食」を軸にした一文を掲げていたら、現在の事業構成を説明できなくなっていたはずだ、という指摘である。
つまり講義の論旨――「事業の多様化を先に言葉が受け止めている」――は同社自身の説明と整合するが、年次は4年ずれている。書き換えずに食い違いとして記録する。なお2019年前後に同社が対外的に強く打ち出していたのはASV(Ajinomoto Group Creating Shared Value)であり、講義の後半で出てくるCSVの文脈と重なるため、記憶が混線した可能性はある。
パーパスは「Why」である ―― 5W1Hで理念を分解する
次に講師が導入したのは、北極星という定番の比喩である。パーパスとは北極星のようなもので、企業が向かう方向を決める羅針盤にあたる。ただしこの比喩だけでは経営理念との差が出ない。そこで講師は5W1Hという枠を持ち出した。経営理念を構成する要素をWho・What・When・Where・Why・Howに分解したとき、パーパスが担っているのはWhy――社会における存在理由――である。残りの要素は他の概念が担う。この分解をすることで、両者の輪郭が初めて分かれてくる、という説明である。
そのうえで講師は、理念とパーパスを分ける決定的な差を「宛先」に置いた。理念とは自分たちの内部にある心情であり、自分たちがどういう集団なのかを表明するものである。これはステークホルダーという比較的近い相手に向けて、名刺のように差し出される。対してパーパスは、自分のポジションを把握したうえで、社会に対してどんな問題があり、自分は何をしなければならないのかと問いを立てる作業だと講師は言う。掲げるものではなく、動かすもの。名刺ではなく、決意表明である。
フリードマンから短期主義へ ―― リーマンショックが暴いたもの
ここで講師は、あえて対極の立場を置いた。ミルトン・フリードマンである。企業の社会的責任とは利益の増大であるという、あの主張。講師はこの人物の理論を細かく扱うことは避けると断りつつ、前回扱ったドラッカーとは向きが変わっていることに注意を促した。フリードマンの論理では、自分たちの心情を社会に還元し、それを利益という数字に変えることが企業の役割になる。
問題は、その数字をいつ出すかである。講師の説明はここで急に現実的になる。上場企業はステークホルダーに対して四半期ごと、つまり3か月ごとに内容を報告する義務を負っている。となれば、成果は短期で見せたほうが分かりやすい。結果として企業は四半期ごとの数字を良くすることを優先し、目の前のことに追われる自転車操業のような状態に入り、それが蓄積して限界値に達する。そして崩壊が起きる――その事例がリーマンショックだった、という組み立てである。
講師はここで慎重な留保を置いた。リーマンショックには当然いろいろな要因があり、短期主義だけが直接の原因ではない。ただし、この危機によって一つだけ明らかになったことがある。それは短期主義の限界が可視化されたということだ。そして重要なのは、危機そのものよりも、そのあとに社会にどのような変化が現れたかを読むことだという。
一方、講義中の「上場企業は四半期ごとに報告する義務がある」という説明は、日本の現行制度とは食い違う。金融商品取引法の改正により、2024年4月1日以後に開始する四半期会計期間から第1・第3四半期の四半期報告書は廃止され、四半期決算短信(取引所ルール)に一本化された。金商法上は半期報告書が法定開示となっている。四半期ごとの情報開示自体は残っているが、「法定の報告義務」という性格は変わっており、日本では短期開示の圧力をむしろ緩める方向に制度が動いた点は、講師の論旨(短期主義が制度によって強制される)と逆向きである。この差の意味は各自で確認したい。
SDGs・ESG・Z世代 ―― 利益から価値観への転換
リーマンショックのあとに現れた社会変化として、講師は三つを並べた。SDGs、ESG、そしてZ世代・ミレニアル世代である。この三つに共通する性質として講師が指摘したのは、いずれも利益を追求していないという点だった。SDGsもESGも、細かい説明は省くとしたうえで、少なくとも建前としては社会貢献性を掲げている。Z世代が仕事に求めるものも、給料よりは楽しさややりがいの側にある。
つまり、社会が企業に向ける評価軸そのものが動いた。お金を追求しようという方向から、価値観を問う方向へ。講師はこれを「利益より価値観に変わってきた」と一言で表現した。企業の側から見れば、利益で説明していれば済んだ時代が終わり、自分たちが何のために存在しているのかを外向きに語る語彙が要るようになったということである。経営理念という内向きの語彙だけでは足りなくなった。ここにパーパスという語が入る余地が生まれる。
そのうえで講師は、これらの概念とパーパスとの関係を基準の所在で切り分けた。ESGはどちらかといえば外部基準である。外から与えられる評価の物差しであって、企業の内側から出てくるものではない。経営理念は基本的に内部基準である。パーパスはある意味で内部から出てくるが、その内部から外部にかけて橋を架けるものだ、という位置づけになる。経営理念とパーパスの違いが実際に現れるのは、まさにこの点だという。
| 概念 | 基準の所在 | 本業との関係 | 講義での位置づけ |
|---|---|---|---|
| 経営理念 | 内部 | 本業の内側 | 自分たちの心情。名刺として掲げるもの |
| パーパス | 内部から外部への橋 | 本業の目的そのもの | 社会への決意表明。動かすためのエンジン |
| ESG | 外部 | 評価の物差し | 外から与えられる基準。利益追求が主目的ではない |
| SDGs | 外部 | 目標体系 | 同上。建前として社会貢献性を掲げる |
| CSV | 内部 | 本業に接続 | 社会課題の解決が競争優位に変わる回路 |
| CSR | 内部 | 本業の外側 | パーパスとは本来乖離している。近づける作業が要る |
CSV・CSR・三方よし ―― 隣接概念との距離を測る
講師が次に持ち出したのはCSV、共通価値の創造である。ここでの論理は明快だった。社会課題が存在する。それを解決することによって、企業は市場のなかで他社に対して優位なポジションに立てる。社会課題の解決と収益性は、一見すると無関係に見えるかもしれない。だが実際にはこうしてつながってくる――という説明である。
対してCSR、企業の社会的責任は性格が違う。講師によればCSRは本当に企業の本業の外側でやるものであり、パーパスはあくまで本業の目的である。したがってこの二つは一見すると乖離している。ただし、と講師は続けた。この乖離を近づけていく作業が非常に重要になる。なぜあえてそう言うのかといえば、前回扱ったドラッカーの議論で、企業は基本的に社会に貢献するという性質を持つ必要があると説かれていたからである。フリードマン的に利益の方を向いていたベクトルを、社会への貢献の方へ向け直す。その作業がパーパスの導入だという位置づけになる。
ここで講師は日本の古層に接続した。近江商人の三方よし――売り手よし、買い手よし、世間よし。この考え方はパーパスに非常に近いものではないか、というのである。自社と取引相手だけで閉じず、世間という第三項を最初から勘定に入れる構えが、外向きの存在理由を語るパーパスと同じ方向を向いている。
さらに二人の人物が引かれた。ひとりはオックスフォードのコリン・メイヤー教授。彼が提唱するのは、社会問題を解いて儲けるビジネスである。社会問題を解決することが企業の利益にもなる、そういうビジネスモデルへ転換していくことが重要だという主張。もうひとりはブラックロックのCEOラリー・フィンクで、「パーパスなくして長期的利益なし」という立場である。短期的なものに走った結果がリーマンショックだったのなら、今度は長期的な視線で社会に貢献することが企業の利益にもなる。ただしそれは、短期的な利益を犠牲にする可能性があると講師は付け加えた。ここが、パーパス経営が単なる美談で終わらない分岐点である。
コリン・メイヤーはオックスフォード大学サイード・ビジネススクールの教授で、著書『Prosperity: Better Business Makes the Greater Good』(Oxford University Press, 2018)などで、企業の目的を「人と地球の問題に対して収益性のある解決策を生み出すことであり、人と地球に問題を生み出すことで儲けることではない」と定義している。講義の「問題を解いて儲けるビジネス」という要約は、この定義のうち前半部分にあたる。
ラリー・フィンクの主張は2018年の年次レター「A Sense of Purpose」に代表される。ただし同レターは利益を犠牲にして社会貢献せよという内容ではないとする読み方が一般的で、長期戦略と社会への貢献は相反しないというのが本来の論旨である。講義の「短期的な利益を犠牲にする可能性がある」という補足は、フィンクの原文というより講師自身の解釈と見るべきである。
パーパスはOSの入れ替えである ―― ダノンが示した失敗の型
講義の最終盤、講師は最も重い論点を置いた。パーパスはただ掲げるだけでは意味がなく、機能するようにしなければならない。言ったから良くなるわけではない。では、どうすれば機能するのか。答えは三つの接続である。パーパスをもとに戦略を作る。パーパスに照らして人を評価し、人を集める。パーパスに従って投資の判断をする。この三つを一貫して動かすエンジンにならなければ、パーパスは掲げただけの文言で終わる。
そこで出てきたのが、この回でいちばん記憶に残る比喩だった。企業にとってパーパスを作る、あるいは変更するというのは、パソコンでいえばOSを入れ替えるのに近い。言葉を掲げるだけではなく、それによって戦略が変わり、人事評価が変わり、投資方針が変わる。企業のスタイルそのものを根本的にこの方向へ変えます、というシステムの変更が必要になる。だからパーパスの策定は、広報の仕事ではなく経営の仕事になる。
そして、その変更をやらなかった場合に何が起きるかの実例として、ダノンのCEO解任が挙げられた。2021年に解任されたこのCEOはパーパスを掲げていた。だが結局どうなったか。言葉だけを掲げて、内部のガバナンスは変わらなかった。システムが変わらなかった結果、掲げたパーパスは何にも反映されなかった。講師の総括はこうである。パーパスというのは言葉を変えることではなく、あくまで内部のガバナンス、制度、システムを根本的に変えるものである。これを変えない限り、言葉を変えても何も変わらない。そして、どう変えるかを決めるときの指質になるものがパーパスなのだ、と。
ダノン取締役会が取締役会議長兼CEOからの解任を発表したのは2021年3月15日(講義の「2021年に解任」は正しい)。背景として報じられたのは、ネスレやユニリーバと比べた業績の見劣りと、アクティビスト・ヘッジファンド(ブルーベル・キャピタル等)からの交代要求である。
ただし解釈には注意が要る。講義では「内部のガバナンスを変えなかったから反映されなかった」と説明されたが、公開情報上はむしろ会社形態まで変えたうえで業績が伴わず株主圧力に敗れた、という読み方も有力である。「パーパスと市場の相克」「株主資本主義がステークホルダー資本主義に勝ったのか」という論点で当時広く論じられた。要確認 講師が「ガバナンスが変わらなかった」と述べた根拠がどの側面(取締役会構成・報酬制度・事業ポートフォリオ)を指すかは、本レポートでは特定できていない。
質疑と論点整理
この日の講義パートは講師が一気に通す構成で、途中で正式な質疑は挟まれなかった。以下は講義中に講師自身が設定した問いと、それに対する回答をQ&A形式に整理したものである。参加者からの質問がまとまって出たのは同月16日の回であり、そちらは別レポートに収めている。
宿題・アクションアイテム
- 自分が保有・注目している企業のパーパスを一文で書き出し、その企業の事業ポートフォリオが本当にその一文の射程に収まっているかを確認する。味の素のABFのように、イメージから外れた事業が言葉に含まれているかを見る。
- 同じ企業について、パーパス策定・改定の前後で「役員報酬のKPI項目」「設備投資・M&Aの判断基準」「人事評価制度」が変わったかを有価証券報告書と統合報告書で突き合わせる。変わっていなければ掲げただけである。
- 日本の四半期開示制度の変更(2024年4月以降の四半期報告書廃止と決算短信への一本化)が、講義で語られた短期主義の圧力にどう作用しているかを自分で調べる。制度が緩んだことで短期主義が弱まったのか、それとも開示頻度は変わらず圧力も残ったのかを検証する。
- ダノンのファベール解任について、「ガバナンスを変えなかった失敗」と読むのか「変えたうえで業績で敗れた」と読むのかを、当時の報道と取締役会の構成変更から自分で判定する。
- コリン・メイヤーの定義(人と地球の問題に対して収益性のある解決策を生む/問題を生み出すことで儲けない)を使って、自分の投資先が後者に該当していないかを一社ずつ点検する。