STUDY REPORT / 2026年3月度 勉強会

ロックインと探索の基準値――閉じたネットワークから抜けるとき、何を基準にすればいいのか

埋め込みの機構を分解したあと、講義は「では抜けるべきか」という実践側へ移った。抜けた先にあるのは別の埋め込みでしかない。ならば何のために移るのか。台形の面積という一つの例え話が、この日もっとも遠くまで届いた。

EXECUTIVE SUMMARY

この回で立てられた問い

リサーチの基準値
自分が諦めた地点
そこが最低ライン。そこからさらに掘る
日本の症状
低収益
閉鎖ネットワークへのロックインという批判
物理的制約
解消しつつある
国境・海・山を越える前提が変わった
脱出の定量基準
存在しない
何回・何カ国という基準は理論上ない
拠点の例
新竹・バンガロール
物理制約を外して信頼の置き場を移した例
実行の最小単位
通る道を変える
昼食を買う場所を変えるだけでも動く

この日の後半、講義の軸は「埋め込みとは何か」から「埋め込まれていることの費用対効果」へ移った。講師の立場は一貫している。埋め込まれることには良さがあり、同時にリスクがある。両方を見た上でこの理論を学ぶべきだ、というものである。

そのリスクの実例として引かれたのが、日本の低収益体質に関する議論だった。埋め込みは安定性をもたらすが、企業が不調なときに互いに支え合ってしまうため、伸びるべき企業が伸びなくなる。淘汰されるべき事業が社会に埋め込まれているために維持され、資本効率を押し下げる。利益の出ている企業が不調な企業を救済すれば、そのリソースは他へ投資できない。さらに強すぎるネットワークは外部が入り込みづらく、外部の知識が入らなくなる——という筋である。

一方で、抜けた先には何があるのか。講師の答えは冷静だ。埋め込みから抜けるとは、別のところに埋め込まれに行くことである。そこに意味があるとすれば、これまで学んできたことが本当に妥当なのかを確かめる場所ができることと、どちらが合理的で生産的かを天秤にかけられるようになることだ。外部にリーチしていなければ、その比較すら発想に上らない。

◆ この回を貫く一本の線
合理性は、自分が最初に学んだ環境に埋め込まれている。だから「どちらが合理的か」という問い自体が、比較できる立場に立たなければ発生しない。移動の目的は自由でも成長でもなく、自分の合理性を検証できる第二の座標を手に入れることである。
PART 0

開始前――リサーチの基準値は「自分が諦めた地点」

講義開始前の個別相談で、リサーチの深さについてのやり取りがあった。ある業界の業務を調べると非常に複雑で、どこかで人は諦める。講師の指摘は、そこが問題なのだという。自分が「ここまで調べたからもう十分だろう」と思った地点こそが最低ラインであり、そこを基準にしてさらにリサーチを重ねる。なぜなら「もう十分だ」という判断自体が感情だからである。そこでやめている時点で能力がない、という厳しい言い方までされている。

具体例として挙がったのが、株式市場の外国人比率だった。あるテーマで上がっている日本株を見ると、外国系ファンドが入っていることが多い。ここから読めるのは、日本人が自国の武器になる技術を誰も知らないのに、外国人はすでにそこまで日本を調べているという非対称である。日本のことは日本人がもっともよく知っているべきなのに、実態は逆になっている。これがリサーチ能力の差だ、という整理だった。

そして逆も成立する。米国株を買うなら、アメリカ人よりアメリカ企業に詳しくなければ先取りできない。だがたいていアメリカ人のほうが自国産業を早く深く理解している。日本人が知らないのに外国人が知っている日本の強い産業はいくらでもある——理由は単純で、みんな興味がないからだ、という結論である。

◆ このPART 0は本編の予告になっている
「近くにいる者が興味を持たず、遠くにいる者のほうが調べている」という構図は、後半で扱われる閉じたネットワークが外部の知識を遮断するという論点と同じ形をしている。雑談として始まった話が、そのまま本編の入口になっていた。
PART 1

日本のロックイン――埋め込みが低収益を生むという批判

講師がここで名前を挙げたのが、クリスティーナ・アメジャンである。埋め込みから抜け出さないことによって日本企業が低収益になり、業績が悪くなっているという議論を展開している研究者として紹介された。

埋め込みが与えるもの
安定性。企業が不調なときに互いに支え合える。取引関係が予測可能で、探索のコストが下がる。
埋め込みが奪うもの
淘汰されるべき事業が維持され、資本効率が下がる。救済にリソースが割かれ、別の投資ができない。ネットワークが強すぎて外部の知識が入らない。

講義で挙げられた具体像は二つ。第一に、いわゆるゾンビ企業が「日本という社会に埋め込まれているから」維持されてしまうこと。第二に、利益の出ている企業が不調な企業を救済する構図で、自動車業界の系列的な支え合いが例として言及された。

📌 Claude補足|クリスティーナ・アメジャンの所属と研究領域

Christina L. Ahmadjian は一橋大学の経営管理研究科教授(現在は名誉教授)。比較コーポレートガバナンス、企業間ネットワークと企業集団、グローバル資本市場がローカルな経営慣行に与える影響、日本企業の変容を研究領域としている。ハーバード大学卒、スタンフォード大学MBA、カリフォルニア大学バークレー校ハース校でPhD取得。日本のサプライネットワークや企業間関係における埋め込みを扱った研究があり、講師の紹介(一橋大学にいた人/日本の閉鎖的ネットワークへのロックインを論じている)は所属・研究領域ともに一致する。

ただし、講義で語られた「ゾンビ企業の維持」「不調企業の救済によるリソース配分の歪み」という具体的な因果の記述が、アメジャン氏のどの論文のどの主張に対応するかは特定できなかった。講師による要約と敷衍として読むのが正確である。要確認

PART 2

物理的制約が外れたあと、信頼をどこに置くか

講師はここで視野を世界に広げた。かつては国境・海・山といった物理的な弊害があり、それを越えることが難しかった。だからネットワークは物理的に近い者同士で組まれた。近くにいるから信用できる、隣町の人間は信用できない、同じ学校なら信用するが隣の学校は信用しない、ライバル企業がやっていることは信用しない——そうやって何らかのフィルターがかかっている状態である。

しかしインフラが発達し、その物理的制約から解放されつつある。すると問われるのは、信頼のネットワークをどこから持ってくるかになる。この転換の実例として挙げられたのが、台湾の新竹サイエンスパークとインドのバンガロールだった。バンガロールは、アメリカやヨーロッパで学んだ人々がその考え方を持ち込むことで物理的ネットワークを外し、スタートアップの拠点になった。新竹については、半導体に関する決定権を持っているのは政府ではなくこのサイエンスパークだ、という言い方がされている。

その裏返しとして、日本の状況が「ガラパゴスか」と評された。強い繋がりではあるが、その壁が非常に重い。海外のベンチャーキャピタルがバンガロールに、海外投資家が新竹に流入しているのに対し、日本のインキュベーションセンターは規模でまったく比較にならない、という辛辣な評価である。

📌 Claude補足|新竹サイエンスパークと台湾へのAI投資

新竹科学工業園区は1980年12月15日設立。台湾の科学技術産業を育成する国家計画の一環として作られ、約653ヘクタールの敷地を持つ。TSMC発祥の地であり、園区管理局は国家科学及技術委員会(国科会)の系列下にある。主要産業は集積回路、コンピュータ・周辺機器、通信、光電、精密機械、バイオテクノロジーなど。

「決定権を持っているのは政府ではなくサイエンスパークのほうだ」という講師の表現については、管理局が国科会の下にある以上、制度上は政府機構の一部である。産業の実質的な意思決定が集積地側にあるという趣旨は理解できるが、統治構造としての記述としては正確ではない。要確認

台湾への海外AI投資については、NVIDIAが台湾に年間約1,500億ドル規模の投資を行い、新拠点「Constellation」を2030年に稼働させる計画を公表している。講義で挙がったAmazon・Microsoftの台湾拠点については、同等の規模を示す公開情報を確認できなかった。要確認

PART 3

台形の面積――合理性は最初に学んだ環境に埋め込まれる

この日もっとも遠くまで届いた例え話がこれである。日本の教育では台形の面積を「(上底+下底)×高さ÷2」という一本の式で求める。アメリカの代数の授業では、この公式を教えないことがある。代わりに、台形に縦線を引いて長方形と二つの三角形に分解し、三回面積を出して足し合わせる。

講師の問いはこうだ。どちらが合理的か。日本側から見れば、三回計算するより一本の式のほうが明らかに速い。ところが、分解法で習ってきた人にはそれが伝わらない。「そんなものは非合理的である」と反論されることすらある。

◆ この例え話の要点
問題は計算方法の優劣ではない。「何が合理的か」という判断そのものが、最初に学んだものに埋め込まれているという点である。だから講師は、自分たちが言う合理性は、日本にしかいなかった人や小さい世界で戦ってきた人には合理性として感じられない、と述べた。この日の講義で語られた「大抵の不満は、そういう風にしか聞こえなかった」という一言は、この構造を人間関係に適用したものである。

もっとも、講師はここで一つの解法も示している。その計算式で台形の面積を10問解かせ、答えを見せて「全部同じになる」と示せば、こちらでいいと納得する人は出てくる。問題はそれをやろうとしないことであり、何度説明しても振り向きもしない人が一定数いること。全員が全員そうではない、という留保も添えられている。

PART 4

抜けるとは、別の埋め込みに入ることである

講義では、埋め込みの拡大が歴史的な順序で語られた。家族という小さな枠に埋め込まれ、そこから村へ、藩へと広がる。藩が変われば国が変わった時代には、藩から抜けることが埋め込みから抜けることだった。そこで新しい情報に触れ、それまで学んできたこととは別の信頼性を天秤にかける。その繰り返しで価値観が更新されていく。四国へ、九州へ、北海道へ、そしてアジアへ——行動範囲を広げるたびに、以前信じていたものと新しく信じられるものを比較する機会が生まれる。

ここで講師が付け加えた条件が重要である。「自分が学んできたことが間違っていたかもしれない」と受け取れる素直さがあって初めて、このサイクルは回る。そうでなければ移動は観光にしかならない。

業界という埋め込みから抜ける

より身近な単位でも同じことが言える。同じ業界としか付き合っていない人は、その業界に埋め込まれ始める。異業種交流、経営者しか見てこなかった人が大学や研究者や政治家と関わってみること、社長とばかりいる人が一般社員と関わってみること——これらはすべて殻を抜けるポイントになる。

◆ パーティーの実験
講義で紹介された研究として、うまくいっている経営者とうまくいっていない経営者にセンサーを付け、パーティー会場で誰と話すかを計測したものが挙げられた。うまくいっている人はできるだけ他業種の人と話し、うまくいっていない人は同業者や自分と話しやすい人と話す。最終的にそこで分かれた、という結果である。
(この実験については、Alex Pentland らのソシオメトリックバッジ研究など複数の類似研究が存在するが、講義では出典が特定されなかったため、本レポートでは特定の研究として同定していない。要確認

そして最小の実装として示されたのが、日常の構造パターンを変えることだった。いつも使っている道か、まったく違う道か。人は既存の道のほうが歩きやすいので、そちらへ行きやすい。だからこそ通勤の経路を変える、昼食を買う場所を毎回変える——それだけでも、しがらみを緩めるための方法になる、という締め方である。

PART 5

どこまで抜ければいいのか――探索に定量基準はない

参加者から、この回でもっとも実務的な問いが出た。埋め込み直されに行くにも時間と慣れのコストがかかる。どういう基準で「次に行こう」「ここで踏ん張ろう」を判断するのか。何回抜けた人のほうが成功したという研究はあるのか。

講師の回答は、ダイナミック・ケイパビリティ理論を参照枠として示したうえで、「どのくらい」という量的な基準は言われていないというものだった。基準は目指す場所によって変わる。言えるのは、続けたほうが効果的であるということだけ。止めた時点で自分の広がる範囲を止めることになる。

もう一人の講師(マイキー氏)も同じ方向で応じた。1カ国で変わる人もいれば、10カ国で変わる人もいて、190カ国行っても変わらない人もいる。回数や国数は基準にならない。基準になるとすれば、探索の幅のどこかに何かがあるはずだという考えを持っているかどうかである。そして続けて、探索するには原資が要るという参加者の指摘に対しては、金は入り口の問題であり、バックパッカーでも探索はできると応じた。

◆ 基準の代わりに提示されたもの――テーマを持って行くこと
「何も勉強せずにベトナムに行けば、面白かった、飯がうまかったで終わる。歴史や産業を知って行けば、持ち帰るものが違う」。行く前に何をテーマとして持っていくか——これが、定量基準の代わりに提示された唯一の実務的な指針だった。

📌 Claude補足|ダイナミック・ケイパビリティの出典

David J. Teece, Gary Pisano, Amy Shuen "Dynamic Capabilities and Strategic Management"(1997年、Strategic Management Journal)で定式化された概念。変化する環境の要求に合わせて、組織内外のスキル・資源・機能的コンピテンスを適応させ、統合し、再構成する企業の能力と定義される。

講義中に「経営学の中でもっともノーベル賞に近いと言われている考え方」という言及があったが、経済学賞に経営学の理論として選ばれた例はなく、この表現は評価の比喩と受け取るべきである。要確認

Q & A

質疑応答(このテーマに属する全件)

Q. やったことのない場所に飛び込むと違和感が発生する。この違和感をどう解消すれば、埋め込みから抜けたことになるのか。

A. 「黙って慣れるだけ」。抜け出すか黙るかのどちらかで、とりあえず黙ってやり続ける。全員が外国人の場でひとり日本人がいたとして、「日本だから日本の空気にしようぜ」と主張する人間はやばい。その環境に慣れるしかない、という回答だった。
これに対し参加者から「なぜそのほうが速いのかという道筋が理解できれば、そちらへ行くのでは」という重ね方があり、講師は「理解できる人とできない人がいて、最後までブツブツ言う人と、こっちのほうが楽だと言って移る人の二通りに分かれた」と実体験で応じている。

Q. FAXから日本が脱却できないのも、FAXという埋め込みから抜けられない負の側面が強いということか。

A. 一つの例として言ってよい。なおこの質問者に対して講師は、すでにその外に出て人とコミュニケーションを取れている以上、あなたはもう抜けていると応じ、自信を持つよう促している。

Q. 埋め込み直されに行くにもコストがかかる。どういう基準で「次へ」「ここで踏ん張る」を判断するのか。何回抜けた人が成功したという論文はあるか。

A. ダイナミック・ケイパビリティ理論が最も影響の大きい参照枠だが、量的な基準は示されていない。目指す場所によって基準が変わるため、「続けたほうが効果的」としか言えない。止めた時点で広がる範囲が止まる。GAFAMのトップは探索を続けているように見える、という補足があった。

Q. 探索し続けるには、資源と時間と金を確保する必要があるのではないか。事業なら利益が上がらなければ探索し続けて死ぬ。

A. 金は入り口の問題で、バックパッカーでも探索はできる。それよりも重要なのは、行く前に何をテーマとして持っていくかである。歴史や産業を知って行くかどうかで、持ち帰るものが変わる。

宿題

持ち帰るべき課題

  1. 自分のリサーチが止まった地点を記録し、そこを起点にもう一段掘る。止めた地点は結論ではなく基準値である。
  2. 自分が「合理的だ」と思っている手順のうち、最初に習ったからそう感じているだけのものを一つ特定する(台形の面積のテスト)。
  3. 自分が属している業界・職位・国のうち、もっとも壁が厚いものを一つ選び、その外側の人と話す機会を実際に作る。
  4. 通勤経路と昼食を買う場所を変えてみる。最小コストで構造パターンを崩す実験。
  5. 新竹サイエンスパークとバンガロールについて、誰が資本を入れ、誰が意思決定しているのかを一次情報で確認する。講義の評価と実態のズレを自分で測る。
  6. SWT理論とダイナミック・ケイパビリティは、それぞれ別回で扱うと講師が明言している。次回以降の講義予定。
用語集

この回に出てきた用語

ロックイン閉鎖的なネットワークに固定され、外部の情報や機会に対応できなくなる状態。
オーバーエンベッドネス埋め込みが一定を超えると害になるという議論。安定性と引き換えに外部ショックへの脆弱性が高まる。
ダイナミック・ケイパビリティ環境変化に応じて組織内外の資源を再構成する能力(Teece, Pisano & Shuen, 1997)。
探索と深化新しい可能性を探る活動と、既存の能力を磨く活動。埋め込みの内側は深化に、外側は探索に向く。
新竹サイエンスパーク1980年設立の台湾の科学工業園区。TSMC発祥の地で、半導体産業の集積地。
バンガロールインドのIT・スタートアップ集積地。欧米で学んだ人材が知見を持ち帰って形成された。
リバースイノベーション新興国で生まれた製品や仕組みを先進国へ逆流入させる考え方。講義では外部からの持ち込みの例として言及。
ガラパゴス化閉じた環境で独自進化し、外部市場との互換性を失うこと。日本の状況の比喩として使われた。