STUDY REPORT / 2026年6月度 勉強会

パーパスと事前責任論
――「明日この会社が消えたら、社会は何を失うか」

パーパスは掲げた時点で終わるのではなく、そこから課題を見つけ続ける装置である。経営理念との境界、制度との関係、そして未来世代への責任という根源へ。

EXECUTIVE SUMMARY

本レポートの概要

パーパスの検証質問
明日消えたら
社会は何を失うか
経営理念との差
ステークホルダー
/社会全体
引用された事例
iPod「1,000曲を
ポケットに」
理論的支柱
ハンス・ヨナス
事前責任論
記憶に残る条件
負の感情か
欠けたピース
対立時の解
非市場戦略
(力と正当性)

この回の前半は、パーパス経営をめぐる質疑で占められた。講師が最初に置いた命題は単純で、パーパスは作った瞬間に完成するものではなく、そこから課題を見つけ、解決し、また次の課題を見つけるという終わりのない運動の起点にすぎない、というものである。「パーパスを作りました、終わりです」という状態こそが失敗であり、掲げた文言が次の問いを生まないなら、それはただの飾りだという。

その運動が空転していないかを確かめるために、講師は一つの検証質問を提示した。もしこの会社が明日消えたら、社会は何を失うのか。誰も気づかないなら貢献性はない。逆に、NVIDIAが突然消えたら世界がどうなるかを想像してみれば、その企業が社会に対してどれだけ「抜けない」ポジションを築いているかがわかる。パーパスとは、この「抜けなさ」を長期視点で設計するための道具だという位置づけになる。

後半、この議論は二つの方向に分岐した。ひとつは、パーパスのような言葉に本当に力があるのかという疑問である。制度やシステムを変えなければ何も変わらないのではないか、iPodの成功はたまたまではないか、という学生からの問いに対し、講師は野中郁次郎のSECIモデルを引きながら、方向性を定める言葉があるからこそ制度が作りやすくなるのだと答えた。さらに別の講師は、言葉が刺さったかどうかは発した側の意図ではなく受け手の記憶の側で決まると述べ、人の心に残るのはネガティブな体験か、自分に欠けていたピースが埋まった瞬間のどちらかだという見立てを示した。

もうひとつの分岐は、パーパスをより根源的な理論に接続する方向である。ビジネスは倫理の分配、すなわち社会統制から生まれたものであり、資源を使う者はその運用の責任を伴う。この責任原理こそがパーパスをMVVから分かつ線だという整理が示され、技術哲学者ハンス・ヨナスの事前責任論――いま技術と資源を使うことは未来の人類から奪うことであり、その自覚に立つべきだという議論――が持ち出された。企業が株主だけでなく従業員や社会に対してどこまで責任を負うのかという不満を「納得」に変えるために、パーパスは正当性を移出する概念として機能している、という説明である。

この回を貫く1本の線。パーパスは美しい理念ではなく、正当性という資源を手に入れるための装置である。だからこそ、掲げて終わりにはできない。課題を見つけ続けること、対立する価値観とぶつかったときに非市場戦略で決着がつくこと、そして未来世代への責任という根源まで降りていくこと――この三つがセットで初めて、パーパスは経営の言葉になる。
PART 0

パーパスは終わりではなく、始まりである

講師はまずパーパスを北極星に喩える説明を紹介したうえで、その喩えが誤解されやすいと注意を促した。北極星があれば進む方向は決まるが、到達すれば終わりというものではない。パーパスを掲げたあと、企業は自分たちがどうやって社会に貢献し続けられるかを常に模索し、更新し続けなければならない。課題を見つけ、解決し、また新しい課題を見つける。この繰り返しが止まった時点で、パーパスは機能を失う。

その運動を駆動する問いとして提示されたのが、冒頭の検証質問である。自分の会社が明日消えたら社会は何を失うのか。消えても誰も気づかないなら、そこに貢献性はない。講師はこれを短期でつくれるものではないと断ったうえで、長期視点に立って社会に対する重要性を持つポジションをどう築くか、それがパーパス経営の要点ではないかと述べた。

📌 Claude補足|「1,000 songs in your pocket」の出所
講義中に引用された言葉は、2001年10月23日にスティーブ・ジョブズが初代iPodを発表した際のキャッチコピーである(講義では一度「iPod touch」と言い直しがあったが、この表現が使われたのは2001年の初代iPod)。初代iPodは5GB・1.8インチHDDを搭載していた。なお「メッセージが製品名より先に決まっていた」という逸話も複数の記録に残っており、講師の「言葉が先に方向性を定める」という論旨と整合する。
PART 1

経営理念とパーパスは、どこで線を引くのか

最初の質問は、パーパスの意味がミッション・ビジョン・バリューのミッションとほとんど重なって見える、という率直なものだった。企業はミッションとパーパスを別々に掲げるのか、それともどちらか一方なのか。講師はこれを本質的な問いだと受けたうえで、まず両者を完全に一致させてはいけないと答えた。

整理はこうである。経営理念はより抽象的で、自分たちがどのように動くかという活動指針に近い。パーパスはそれをもう一段具体化したものにあたる。そして決定的な差は宛先にある。経営理念は基本的にステークホルダー、すなわち利害関係者という業務の内側に向けて訴えるものだが、パーパスは業務の外側、社会そのものに向けて社会貢献性を明確に打ち出す手段である。CSRのように業務内容とは別筋の活動まで含めて「自分たちはこうやって社会に貢献する」と宣言できる装置が、これまで存在しなかった。だからパーパスという語が比較的最近になって現れた、というのが時代背景の説明であった。

講師は最後に、この境界には正解がないとも述べている。「あるのかもしれないが、自分は正解はないと思っている」。つまりこの分け方は講師の整理であって、定説として提示されたものではない。
📌 Claude補足|SECIモデルの提唱者一部要確認
講義中に「日本人の野中先生」として言及されたのは野中郁次郎であり、暗黙知と形式知の変換を共同化・表出化・連結化・内面化の四局面で説明するSECIモデルの提唱者である。メタファーとアナロジーが表出化の局面で重要な役割を果たすという指摘も同モデルの議論に含まれる。ただし、講義で触れられた「高度経済成長期の日本の強さがこのプロセスで説明できる」という帰属の当否については、本レポートでは裏取りしきれていない。
PART 2

言葉か、制度か――「たまたまではないか」への応答

続く質問は鋭い。目標を掲げても制度が同じなら形骸化して何も変わらないのだから、パーパスより制度やシステムのほうが経営にとって重要なのではないか。講師はその視点自体の重要性を認めたうえで、しかしパーパスがなければ方向性がまとまらないと返した。ここで引かれたのがiPodの事例である。開発が難航していたところに「1,000曲をポケットに」という一言が生まれ、そこから一気に制作が進んだと言われている。進むべき方向がはっきりする言葉があるからこそ、制度も作りやすくなる、という因果の置き方である。

質問者はさらに踏み込んだ。それはたまたまではないのか。この問い返しを講師は重要な姿勢として評価し、一例で断定はできないと認めたうえで、SECIモデルの中で複数の事例が挙げられていることを示した。ここで議論は一度、事例の数の問題に移る。

この応答を引き取ったのが別の講師で、視点をずらした。成功事例には後付け理論が多いのは事実である。だが重要なのは、ジョブズ本人がそれをキャッチフレーズとして意図していたかどうかではない。何気ない会話から生まれた言葉であったとしても、それが事例として語り継がれているということは、誰か社員の心に刺さり、記憶に残ったということだ。そして人が動き、組織が変わり、行動パターンが変わったのなら、それは正解と見なしてよい。プレゼンテーションも営業も同じで、難しい言葉を羅列するより、日常会話から生まれるフックが人に刺さっている状態をいくつ作れるかのほうが大事だ、という主張である。

制度が先だ、という立場

グノシー的に目標を掲げても制度が同じなら形骸化する。動くのは制度とインセンティブであって、言葉ではない。(質問者の立場)

言葉が先だ、という立場

方向性を定める言葉があるからこそ、その方向に沿った制度が作れる。言葉は制度の設計図として先行する。(講師の立場)

記憶に残るのは、負の感情か、欠けたピースか

では何が人の心に残るのか。ここで示されたのは、二つしかないという極端な見立てだった。ひとつは、相手が傷つくほど強い負の感情を伴った場合。もうひとつは、自分の考え方と何かが繋がり、欠けていたパズルのピースが埋まった瞬間である。それ以外はほとんど残らない。人に優しくされたことより、ひどいことをされたほうが記憶に残るのと同じ構造だ、という説明である。

この論点は、親への感謝という例で展開された。幼い頃に世話をしてもらったことは総量として圧倒的に大きいはずなのに、そこは感謝として残らず、ちょっとした悪口のほうが重く受け取られている。足し算引き算をすればトラウマもクソもないはずだ、と講師は言う。名指しで意見を求められた学生も、自分も些細な悪口を重く受け取っているところはあると認めた。そして講師は、両方を入れれば両方響く、と結んだ。

講師見解として扱うべき箇所。「人の心に残るのはネガティブな体験か欠けたピースの二つしかない」「トラウマは足し算引き算で解消できるはず」という主張は、この講師の経験則であって心理学上の定説ではない。実際にはトラウマ記憶の形成は感情の強度や反復、発達段階などの要因が絡み、単純な総量計算で相殺できるものとは考えられていない。本レポートでは講師の見解としてそのまま記録し、書き換えは行わない。
PART 3

OSを切り替えられるか――社会問題を解くということ

起業と熱量をめぐる質問が続いた。サービスを提供しているうちに金儲けに染まり、何がしたかったのかわからなくなる。創業者がそれほどの熱量を持って人のために動かないと見失うのではないか、という問いである。講師はこれに対し、熱量がなくてもうまくいく人は超絶優秀か、あるいはそこで止めようと決めているかのどちらかだろうと応じた。

そのうえで論点を転換する。社会問題を解決するということは、市場が大きいということだ。社会問題なのだから対象は広い。当然でかいビジネスになる。にもかかわらず「自分にできる範囲で」と止まってしまうのは、多くの場合それが本当の社会問題ではなく、自己都合で社会問題だと思い込んでいるものだからではないか。自分の持ち牌のスキルの内側で「これが問題でこれで解決できる」と設計してしまうと、問題そのものが小さくなり、結局伸びない。

ここで前の発言者が使った「OSを変える」という表現が拾われ、議論の核心になる。OSを変えるとはどういうことか。それは、自分の価値観と真逆のことをやらなければならない場面が来たときに、それができるかという問いである。やりたいことと社会問題が一致しているなら誰でもできる。問題を解決する過程にやりたくないことが含まれていたとき、それをやれるように自分を書き換えられるOSを持っているか。人はやりたいことはできるが、やりたくないことはやらない。

この問いは、ペット関連の事業をしている参加者への極端な仮定として具体化された。犬に同化するために全身に育毛剤を塗って犬のように毛深くなれば目的が達成できるとわかったとき、イエスと答えられるか。参加者は「解決できるならやる」と答えたが、講師はそこで条件を足す。それをやれば結婚できなくなるかもしれない。それでも達成したいか。勝つのは、それを受け入れる側の人間だ、と講師は言い切った。

この論点は、数回前の回で扱われた「自分の親を殺した相手と握手できますか」という問いと同じ構造だと指摘された。中国の歴史において、生き延びるために敵の機嫌を取り、時に味方を切ることは倫理の問題ではなく生存の方法として必要づけられてきた。それができなければ自分たちが消される側に回る――これが大陸の理屈であり、民族が滅ぼされうるという危機感を持たない日本人には理解しにくい。「敵の敵は味方」という言葉が出てくるのは、力をどう使うべきかという軍略的な問いがビジネスの根底にあるからだ、という説明であった。
PART 4

責任原理と非市場戦略――パーパスが手に入れているもの

ここで議論は最も抽象度の高い層に降りる。ビジネスはどこから生まれたのか。講師のひとりは、社会統制、すなわち倫理の分配から生まれたと述べた。世界のさまざまな資源や資本は、一つひとつの責任とそれを運営する者の責任を伴っている。この責任原理を持ち込んだ点にこそ、パーパス経営がミッション・ビジョン・バリューと異なる糸がある。市場における自らの行動選択の話ではなく、万物を説明しうる根源の理論の側に「責任」という語を置いたのがパーパスだ、という整理である。

そこで引かれたのがハンス・ヨナスの事前責任論であった。いま我々が技術や資源を使うことは、未来の人類――子や孫やその先――に対してネガティブなことをしているという自覚に立つべきだ。それはどこに換算され、誰がその負債を負うのか。この問いを投げたのがヨナスであり、技術の影響力が巨大化した現代においてこそ考えるべき論点になる。逆に言えば、この責任に対してソリューションを用意していることが、人類にとってのソリューションを提供しているという評価につながる。

📌 Claude補足|ハンス・ヨナス『責任という原理』
ハンス・ヨナス(1903-1993)はフッサールとハイデガーに学んだ哲学者で、ハンナ・アーレントと親交があった。主著『責任という原理――科学技術文明のための倫理学の試み』(原題 Das Prinzip Verantwortung)の原著刊行は1979年、ドイツのInsel社から。同書は技術の潜在的危険を指摘し、未来世代への責任を基礎づける新しい倫理原理を構築しようとしたもので、「未来倫理」と呼ばれる。日本語版は加藤尚武訳・東信堂。講義で語られた内容は同書の趣旨と整合している。

価値観が衝突したとき、何が決めるのか

SDGsやESGのように環境保護を掲げる価値観がある一方で、地元の農業従事者にとっては害獣被害が増え、開発や産業が抑制されるという逆の立場がある。それぞれがパーパスを掲げてぶつかったとき、どう折り合いをつけるのか。この問いに対する答えは明快だった。基本的に非市場戦略になる。どうやって味方を囲うか、政治が動くか、環境団体をどう動かすか。そしてそれが地域住民にとって正しい方向になるとは限らない。世界中でむしろ逆方向に起きていることのほうが多い。結局これを動かすのは市場と力の論理である。

企業の影響力が勝つのか、市民活動が勝つのかは、その国や組織のポテンシャル次第であって一概には言えない。市民団体の力が強い場合も、戦い方が優れている場合もある。企業が資本を投下したり政治家と関わりを持ったりして状況を変えることもあるだろう。過去10年のSDGsの盛り上がりがここ数年のトランプ的潮流でトーンダウンしているように見えるのも、影響力と社会的受け取りの状況が変わっただけだ、という見立てが示された。

この回で最も身も蓋もない結論。ドラッカーによればビジネスとはソーシャルコントロールである。そのソーシャルコントロールをどこで行うかという用途のひとつがパーパスであり、それ以上でもそれ以下でもない。経済学が資源の配分や企業活動の社会的影響、環境負荷までを扱うようになったというムーブメントの表れがパーパス経営である。「彼氏も綺麗事だけじゃないということですよね」という参加者の問いに対し、講師は「正当性を手に入れるだけの話です」と答えた。
📌 Claude補足|「ドラッカーによればビジネスとはソーシャルコントロール」要確認
ピーター・ドラッカーが企業を社会的機関として捉え、マネジメントに社会的責任を組み込んだことは広く知られているが、「ビジネスとはソーシャルコントロールである」という定式を彼が明示的に述べた出典は、本レポートでは特定できなかった。講義中の引用は趣旨の要約である可能性が高い。原典にあたる場合は『現代の経営』『マネジメント』の社会的責任の章を起点にするのが適切と考えられる。

パーパスは企業だけのものか

最後に、パーパスは企業にしか当てはまらないのかという質問が出た。答えは否である。存在意義という意味なのだから個人にも当てはまる。自分がどのような意義としてここにいることを許されていると自覚しているか。あるいはそういうものとして社会に発信するか。自分が熱量を持っていると自覚し、さらにそれを持つ者としてここにいるから居場所を見つけてほしいと外に出す――その両方だ、という応答であった。

Q&A

このテーマで交わされた質疑応答

Q1|パーパスはMVVのミッションと意味が似ている。企業はミッションとパーパスを別に掲げるのか、それとも被るものなのか。(前田さん)
A|完全に一致させてはいけない。経営理念のほうが抽象的で活動指針に近く、パーパスはそれを具体化したもの。決定的な差は宛先で、経営理念はステークホルダーという業務の内側に向くが、パーパスは社会という広い範囲に向く。ただしここに正解はないと講師自身が留保している。
Q2|MVVは昔からあったのに、パーパスという語が最近出てきたのは時代背景として何があるのか。
A|社会貢献性を明確に打ち出す手段がこれまでなかったから。CSRのように業務内容とは別筋の活動まで含めて「社会に貢献する」と宣言できる装置として、パーパスが必要になった。
Q3|目標を掲げても制度が同じなら形骸化する。パーパスより制度やシステムのほうが重要ではないか。
A|視点は重要だが、パーパスがないと方向性がまとまらない。iPodの「1,000曲をポケットに」という一言で開発が一気に進んだように、方向を定める言葉があるから制度も作りやすくなる。
Q4|Appleの事例は理解できるが、それはたまたまではないのか。
A|一例で断定できないという指摘自体が重要。SECIモデルの中で同様の事例は複数挙げられている。加えて別の講師から、意図の有無ではなく受け手の記憶に残ったかどうかで判断すべきで、人が動き組織が変わったならそれは正解だという応答があった。
Q5|短期的視野がリーマンショックを招いたという話だったが、長期的視野でも結局起きるのではないか。
A|起きること自体は否定しない。問題は起きやすさと、どちらが安定しやすいか。短期的なものは排除されやすいが、コカ・コーラのようなロングセラーは急に消えない。新製品のジュースはバズっても急に消える可能性が十分ある、という対比で説明された。
Q6|大学生への回答として、自分はどう受け止めるか。(講師から学生への逆質問)
A|学生は、親に世話をしてもらっているはずなのに、些細な悪口のほうを重く受け取っているところはあると認めた。講師は、ネガティブな体験と欠けたピースの両方を入れれば両方響くと結んだ。
Q7|起業して金儲けに染まると何がしたかったのか見失う。創業者の熱量がないと駄目なのではないか。(まきさん)
A|熱量がなくてもうまくいくのは超絶優秀な人か、そこで止めると決めている人。社会問題は市場が大きいのだから本来でかいビジネスになるはずで、「できる範囲で」と止まるのは自己都合の思い込みが混じっているからではないか。
Q8|海外のビジネスは社会貢献を前提に、提供する幅をもっと広く作る土台から入るということか。
A|入り口でできることは限られている。重要なのはOSを変えられるか、つまり自分の価値観と真逆のことが必要になったときにやれるかどうか。人はやりたいことはできるが、やりたくないことはやらない。
Q9|「やりたくないこと」と「ここは譲れない」の境界がわからない。(北川さん)
A|犬に同化するため全身を毛深くすれば目的が達成できるとわかったらやるか、という極論で確認された。参加者は「解決できるならやる」と答えたが、結婚できなくなるリスクまで含めて受け入れられるかが分岐点で、勝つのは受け入れる側だという回答であった。
Q10|中国では当事者が自分でやらなければという文化が強いのか。
A|ビジネスに限らず人間の生き方まで含めた法則。生き延びるために敵の機嫌を取り味方を切ることが倫理ではなく生存の方法として必要づけられてきた歴史があり、それができなければ消される側に回るという危機感が前提にある。
Q11|環境問題のような大きな話に戻ってきているのは、人類の根源に基づくということか。
A|それは政治的判断に基づく。市場ではなく政治的判断や未来への責任について、企業がどこまで責任を持つのか――株主だけなのか――という不満が必ず出る。その不満をどう納得させるか、正当性を移出するために必要な概念がパーパスである。
Q12|相反する価値観を持つ者同士がそれぞれパーパスを掲げてぶつかった場合、どう折り合いをつけるのか。(渡辺さん)
A|基本的に非市場戦略になる。味方の囲い込み、政治の動員、団体の動員。それが地域住民にとって正しい方向になるとは限らず、むしろ逆が多い。動かすのは市場と力の論理で、勝敗はその国や組織のポテンシャル次第。
Q13|SDGsが盛り上がったあとトランプ的な潮流で後退しているのは、影響力と社会的受け取りの状況が変わっただけか。
A|そのとおり。ビジネスとはソーシャルコントロールであり、それをどこで行うかという用途のひとつがパーパス。それ以上でもそれ以下でもなく、綺麗事ではなく正当性を手に入れる話である。
Q14|パーパスは企業にしか当てはまらないのか。(中さん)
A|個人にも当てはまる。存在意義という意味だから、自分がどのような意義としてここにいることを許されていると自覚しているか、そしてそれを社会に発信するか。その両方である。
HOMEWORK

この回から持ち帰るべき課題

  1. 自社または自分の所属組織について「明日消えたら社会は何を失うか」を書き出し、誰も気づかないと結論づけられる部分がどれだけあるかを確認する。
  2. 経営理念とパーパスを両方掲げている企業を数社選び、宛先(ステークホルダー向けか社会向けか)で実際に書き分けられているかを検証する。
  3. 自分が過去に本当に動かされた言葉を三つ挙げ、それがネガティブな感情によるものか、欠けたピースが埋まったものかを分類する。
  4. 自分が取り組みたい課題について、その解決過程に「やりたくないこと」が含まれていないかを列挙し、含まれていた場合にやれるかどうかを自問する。
  5. ハンス・ヨナス『責任という原理』を、企業の未来世代に対する責任という観点から読む。
GLOSSARY

このレポートに登場した用語

パーパス企業や個人の存在意義。社会に対する貢献性を外向きに宣言する装置で、掲げた時点が起点になる。
MVVミッション・ビジョン・バリュー。経営理念を三要素で表す枠組みで、基本的にステークホルダー向け。
SECIモデル野中郁次郎による知識創造の枠組み。暗黙知と形式知の変換を四局面で説明し、メタファーとアナロジーが表出化を担う。
事前責任論ハンス・ヨナスが『責任という原理』(1979)で提示した、未来世代に対して現在の技術使用の責任を負うという倫理。
非市場戦略市場での競争ではなく、政治・世論・規制・団体などを通じて自社に有利な環境を作る戦略。
正当性の移出企業活動への不満を納得に転換するため、外部に向けて正当性の根拠を発信すること。
ソーシャルコントロール社会統制。倫理や資源の分配を通じて社会の秩序を形づくる働きで、ビジネスの原型とされた。
CSR企業の社会的責任。業務内容とは別筋で行われる社会貢献活動を指し、パーパスの射程に含まれる。