本レポートの概要
社会は何を失うか
/社会全体
ポケットに」
事前責任論
欠けたピース
(力と正当性)
この回の前半は、パーパス経営をめぐる質疑で占められた。講師が最初に置いた命題は単純で、パーパスは作った瞬間に完成するものではなく、そこから課題を見つけ、解決し、また次の課題を見つけるという終わりのない運動の起点にすぎない、というものである。「パーパスを作りました、終わりです」という状態こそが失敗であり、掲げた文言が次の問いを生まないなら、それはただの飾りだという。
その運動が空転していないかを確かめるために、講師は一つの検証質問を提示した。もしこの会社が明日消えたら、社会は何を失うのか。誰も気づかないなら貢献性はない。逆に、NVIDIAが突然消えたら世界がどうなるかを想像してみれば、その企業が社会に対してどれだけ「抜けない」ポジションを築いているかがわかる。パーパスとは、この「抜けなさ」を長期視点で設計するための道具だという位置づけになる。
後半、この議論は二つの方向に分岐した。ひとつは、パーパスのような言葉に本当に力があるのかという疑問である。制度やシステムを変えなければ何も変わらないのではないか、iPodの成功はたまたまではないか、という学生からの問いに対し、講師は野中郁次郎のSECIモデルを引きながら、方向性を定める言葉があるからこそ制度が作りやすくなるのだと答えた。さらに別の講師は、言葉が刺さったかどうかは発した側の意図ではなく受け手の記憶の側で決まると述べ、人の心に残るのはネガティブな体験か、自分に欠けていたピースが埋まった瞬間のどちらかだという見立てを示した。
もうひとつの分岐は、パーパスをより根源的な理論に接続する方向である。ビジネスは倫理の分配、すなわち社会統制から生まれたものであり、資源を使う者はその運用の責任を伴う。この責任原理こそがパーパスをMVVから分かつ線だという整理が示され、技術哲学者ハンス・ヨナスの事前責任論――いま技術と資源を使うことは未来の人類から奪うことであり、その自覚に立つべきだという議論――が持ち出された。企業が株主だけでなく従業員や社会に対してどこまで責任を負うのかという不満を「納得」に変えるために、パーパスは正当性を移出する概念として機能している、という説明である。
パーパスは終わりではなく、始まりである
講師はまずパーパスを北極星に喩える説明を紹介したうえで、その喩えが誤解されやすいと注意を促した。北極星があれば進む方向は決まるが、到達すれば終わりというものではない。パーパスを掲げたあと、企業は自分たちがどうやって社会に貢献し続けられるかを常に模索し、更新し続けなければならない。課題を見つけ、解決し、また新しい課題を見つける。この繰り返しが止まった時点で、パーパスは機能を失う。
その運動を駆動する問いとして提示されたのが、冒頭の検証質問である。自分の会社が明日消えたら社会は何を失うのか。消えても誰も気づかないなら、そこに貢献性はない。講師はこれを短期でつくれるものではないと断ったうえで、長期視点に立って社会に対する重要性を持つポジションをどう築くか、それがパーパス経営の要点ではないかと述べた。
経営理念とパーパスは、どこで線を引くのか
最初の質問は、パーパスの意味がミッション・ビジョン・バリューのミッションとほとんど重なって見える、という率直なものだった。企業はミッションとパーパスを別々に掲げるのか、それともどちらか一方なのか。講師はこれを本質的な問いだと受けたうえで、まず両者を完全に一致させてはいけないと答えた。
整理はこうである。経営理念はより抽象的で、自分たちがどのように動くかという活動指針に近い。パーパスはそれをもう一段具体化したものにあたる。そして決定的な差は宛先にある。経営理念は基本的にステークホルダー、すなわち利害関係者という業務の内側に向けて訴えるものだが、パーパスは業務の外側、社会そのものに向けて社会貢献性を明確に打ち出す手段である。CSRのように業務内容とは別筋の活動まで含めて「自分たちはこうやって社会に貢献する」と宣言できる装置が、これまで存在しなかった。だからパーパスという語が比較的最近になって現れた、というのが時代背景の説明であった。
言葉か、制度か――「たまたまではないか」への応答
続く質問は鋭い。目標を掲げても制度が同じなら形骸化して何も変わらないのだから、パーパスより制度やシステムのほうが経営にとって重要なのではないか。講師はその視点自体の重要性を認めたうえで、しかしパーパスがなければ方向性がまとまらないと返した。ここで引かれたのがiPodの事例である。開発が難航していたところに「1,000曲をポケットに」という一言が生まれ、そこから一気に制作が進んだと言われている。進むべき方向がはっきりする言葉があるからこそ、制度も作りやすくなる、という因果の置き方である。
質問者はさらに踏み込んだ。それはたまたまではないのか。この問い返しを講師は重要な姿勢として評価し、一例で断定はできないと認めたうえで、SECIモデルの中で複数の事例が挙げられていることを示した。ここで議論は一度、事例の数の問題に移る。
この応答を引き取ったのが別の講師で、視点をずらした。成功事例には後付け理論が多いのは事実である。だが重要なのは、ジョブズ本人がそれをキャッチフレーズとして意図していたかどうかではない。何気ない会話から生まれた言葉であったとしても、それが事例として語り継がれているということは、誰か社員の心に刺さり、記憶に残ったということだ。そして人が動き、組織が変わり、行動パターンが変わったのなら、それは正解と見なしてよい。プレゼンテーションも営業も同じで、難しい言葉を羅列するより、日常会話から生まれるフックが人に刺さっている状態をいくつ作れるかのほうが大事だ、という主張である。
制度が先だ、という立場
グノシー的に目標を掲げても制度が同じなら形骸化する。動くのは制度とインセンティブであって、言葉ではない。(質問者の立場)言葉が先だ、という立場
方向性を定める言葉があるからこそ、その方向に沿った制度が作れる。言葉は制度の設計図として先行する。(講師の立場)記憶に残るのは、負の感情か、欠けたピースか
では何が人の心に残るのか。ここで示されたのは、二つしかないという極端な見立てだった。ひとつは、相手が傷つくほど強い負の感情を伴った場合。もうひとつは、自分の考え方と何かが繋がり、欠けていたパズルのピースが埋まった瞬間である。それ以外はほとんど残らない。人に優しくされたことより、ひどいことをされたほうが記憶に残るのと同じ構造だ、という説明である。
この論点は、親への感謝という例で展開された。幼い頃に世話をしてもらったことは総量として圧倒的に大きいはずなのに、そこは感謝として残らず、ちょっとした悪口のほうが重く受け取られている。足し算引き算をすればトラウマもクソもないはずだ、と講師は言う。名指しで意見を求められた学生も、自分も些細な悪口を重く受け取っているところはあると認めた。そして講師は、両方を入れれば両方響く、と結んだ。
OSを切り替えられるか――社会問題を解くということ
起業と熱量をめぐる質問が続いた。サービスを提供しているうちに金儲けに染まり、何がしたかったのかわからなくなる。創業者がそれほどの熱量を持って人のために動かないと見失うのではないか、という問いである。講師はこれに対し、熱量がなくてもうまくいく人は超絶優秀か、あるいはそこで止めようと決めているかのどちらかだろうと応じた。
そのうえで論点を転換する。社会問題を解決するということは、市場が大きいということだ。社会問題なのだから対象は広い。当然でかいビジネスになる。にもかかわらず「自分にできる範囲で」と止まってしまうのは、多くの場合それが本当の社会問題ではなく、自己都合で社会問題だと思い込んでいるものだからではないか。自分の持ち牌のスキルの内側で「これが問題でこれで解決できる」と設計してしまうと、問題そのものが小さくなり、結局伸びない。
ここで前の発言者が使った「OSを変える」という表現が拾われ、議論の核心になる。OSを変えるとはどういうことか。それは、自分の価値観と真逆のことをやらなければならない場面が来たときに、それができるかという問いである。やりたいことと社会問題が一致しているなら誰でもできる。問題を解決する過程にやりたくないことが含まれていたとき、それをやれるように自分を書き換えられるOSを持っているか。人はやりたいことはできるが、やりたくないことはやらない。
この問いは、ペット関連の事業をしている参加者への極端な仮定として具体化された。犬に同化するために全身に育毛剤を塗って犬のように毛深くなれば目的が達成できるとわかったとき、イエスと答えられるか。参加者は「解決できるならやる」と答えたが、講師はそこで条件を足す。それをやれば結婚できなくなるかもしれない。それでも達成したいか。勝つのは、それを受け入れる側の人間だ、と講師は言い切った。
責任原理と非市場戦略――パーパスが手に入れているもの
ここで議論は最も抽象度の高い層に降りる。ビジネスはどこから生まれたのか。講師のひとりは、社会統制、すなわち倫理の分配から生まれたと述べた。世界のさまざまな資源や資本は、一つひとつの責任とそれを運営する者の責任を伴っている。この責任原理を持ち込んだ点にこそ、パーパス経営がミッション・ビジョン・バリューと異なる糸がある。市場における自らの行動選択の話ではなく、万物を説明しうる根源の理論の側に「責任」という語を置いたのがパーパスだ、という整理である。
そこで引かれたのがハンス・ヨナスの事前責任論であった。いま我々が技術や資源を使うことは、未来の人類――子や孫やその先――に対してネガティブなことをしているという自覚に立つべきだ。それはどこに換算され、誰がその負債を負うのか。この問いを投げたのがヨナスであり、技術の影響力が巨大化した現代においてこそ考えるべき論点になる。逆に言えば、この責任に対してソリューションを用意していることが、人類にとってのソリューションを提供しているという評価につながる。
価値観が衝突したとき、何が決めるのか
SDGsやESGのように環境保護を掲げる価値観がある一方で、地元の農業従事者にとっては害獣被害が増え、開発や産業が抑制されるという逆の立場がある。それぞれがパーパスを掲げてぶつかったとき、どう折り合いをつけるのか。この問いに対する答えは明快だった。基本的に非市場戦略になる。どうやって味方を囲うか、政治が動くか、環境団体をどう動かすか。そしてそれが地域住民にとって正しい方向になるとは限らない。世界中でむしろ逆方向に起きていることのほうが多い。結局これを動かすのは市場と力の論理である。
企業の影響力が勝つのか、市民活動が勝つのかは、その国や組織のポテンシャル次第であって一概には言えない。市民団体の力が強い場合も、戦い方が優れている場合もある。企業が資本を投下したり政治家と関わりを持ったりして状況を変えることもあるだろう。過去10年のSDGsの盛り上がりがここ数年のトランプ的潮流でトーンダウンしているように見えるのも、影響力と社会的受け取りの状況が変わっただけだ、という見立てが示された。
パーパスは企業だけのものか
最後に、パーパスは企業にしか当てはまらないのかという質問が出た。答えは否である。存在意義という意味なのだから個人にも当てはまる。自分がどのような意義としてここにいることを許されていると自覚しているか。あるいはそういうものとして社会に発信するか。自分が熱量を持っていると自覚し、さらにそれを持つ者としてここにいるから居場所を見つけてほしいと外に出す――その両方だ、という応答であった。
このテーマで交わされた質疑応答
この回から持ち帰るべき課題
- 自社または自分の所属組織について「明日消えたら社会は何を失うか」を書き出し、誰も気づかないと結論づけられる部分がどれだけあるかを確認する。
- 経営理念とパーパスを両方掲げている企業を数社選び、宛先(ステークホルダー向けか社会向けか)で実際に書き分けられているかを検証する。
- 自分が過去に本当に動かされた言葉を三つ挙げ、それがネガティブな感情によるものか、欠けたピースが埋まったものかを分類する。
- 自分が取り組みたい課題について、その解決過程に「やりたくないこと」が含まれていないかを列挙し、含まれていた場合にやれるかどうかを自問する。
- ハンス・ヨナス『責任という原理』を、企業の未来世代に対する責任という観点から読む。