エグゼクティブサマリー
この回の後半は、量子コンピューティングを「いつ実用化されるか」という時間軸の話から切り離して、すでに実装が始まっている量子技術は何かという問いに振り直すところから始まった。講師が挙げたのが量子鍵配送、すなわちQKDである。量子コンピューターそのものが2030年以降だとしても、量子を前提にした暗号の置き換えは今まさに進行している、という整理だ。
議論の芯は単純で、現在の公開鍵暗号は「解くのに莫大な計算量がかかる」ことだけを安全性の根拠にしている。ならば計算量を桁違いに減らす機械が登場した瞬間に、その根拠は消える。だから計算量に依存しない安全性を別の原理から調達しなければならない。その別の原理として物理法則を持ってきたのがQKDであり、その代表的な手順がBB84方式である、という筋道になる。
そしてこの話は、講師がこれまで延々と続けてきたデータセンター・光ファイバー・前工程後工程の講義と一本につながる。QKDは光の上に鍵を乗せる技術なので、専用の光ファイバーネットワークが要る。つまり量子暗号の普及は、そのまま光通信インフラの需要になる。冒頭で講師が「技術を知らないと株に乗り遅れる」と言い切ったのは、この接続を指していた。
YouTubeでは話さない、という前置き
この回は、講師が「そもそもYouTubeの視聴者に量子コンピューティングのどこがどうという話をしても意味にならない」と切り出すところから始まっている。前提となる半導体やデータセンターの知識がない相手に量子の各論をぶつけても、ポツンとするだけで終わる。だからYouTubeという媒体では、まず教育の段階を踏まないといけない、という媒体論である。
ただしこれは視聴者を突き放す話ではなく、その直後に矛先が受講生側へ向く。講師はここで、「量子コンピューティングの波に乗りたいのなら、こういう技術をしっかり覚えていないと株に乗り遅れる」と明言した。技術を覚える目的は教養ではなく判断であって、ある半導体企業の製品が量子側で使われているとわかれば長期保有の理屈が立つし、使われていないとわかれば短期の見方に切り替える、という具体的な使い道がある。
そのうえで講師は、これまでの講義の狙いを種明かしした。データセンターの技術、装置の話、Corningの分析課題、前工程・後工程、ASEやAmkorといった後工程企業――あれらを順番に扱ってきたのは、半導体のAIブームがそこにあるからではなく、この量子の話に接続するためだった、と。受講生側も笑ってはいられない、という言い方で、過去課題の消化状況が問われる形になっている。
講師が名前を挙げたASE(日月光投資控股、台湾)とAmkor Technology(米国)は、いずれも半導体の後工程(組み立て・パッケージング・テスト)を受託するOSAT大手で、この分野の世界首位・二位を長く占めてきた。前工程を担うTSMCと並べて語られるのは、AI向けチップで先端パッケージングが性能上のボトルネックになっているためである。量子側でも、量子ビットを制御する低温エレクトロニクスや光配線の実装には同じ後工程技術が要求される。
計算量で守る暗号は、なぜ終わるのか
受講生から「量子暗号というのは、たとえばDNAを調べるときに使うようなイメージなのか」という質問が出た。講師はこれを認証・ブロックチェーン寄りの文脈に置き直しながら、より根本的な説明を始める。いま使われている暗号方式は、結局のところ計算量によって守られている。つまり鍵を総当たりで割り出すのに現実的でない時間がかかる、という一点だけが安全性の担保になっている。
ところがその計算量を圧倒的に短縮する機械が視野に入ってきた。講師の言葉では「計算だけでやってしまうものは、量子コンピューターで抜かれてしまう」。だから計算量に依存しない暗号方式、従来型とは別のシステムを作らなければならない。そして量子コンピューターの到来が見据えられている以上、そちらへ切り替えていきましょうという流れが少しずつ起こっている、というのが現在地の説明である。
受講生が「RSA暗号のことか」と確認すると、講師は一つの方式に限った話ではないと答えた。高速な鍵の計算が必要になる暗号は一種類ではなく、一般的には素数暗号と呼ばれるものが挙げられるが、実際には複数方式の組み合わせで運用されている。ただし組み合わせようとも、安全性の根拠が計算量である限り同じ弱点を共有する――ここが論点だという整理だった。
講師の「計算で守っているものは抜かれる」という主張は、具体的な見積りとして裏付けがある。RSA-2048の素因数分解に必要な論理量子ビットは理論上4,099個(2n+3、Beauregardの回路、2003年)とされるが、誤り訂正を含めた物理量子ビットでは2021年時点の代表的な見積りが約2,000万個だった。ところが2025年5月にGoogleのCraig Gidneyが発表した解析では、アルゴリズムと誤り訂正の改良だけで100万個未満・1週間未満まで下がっている。ハードウェアの前提を変えずに20分の1になった、という点が重要で、「まだ先」という感覚が更新され続けていることを示す。
また米国では、NISTが2024年8月14日に最初のPQC(耐量子計算機暗号)標準3本を確定させており、政府調達側にも期限が入り始めている。CNSA 2.0では2027年1月以降の国家安全保障システムの新規調達を対象とし、2035年までに完全な移行を求める枠組みになっている。「少しずつ起こっている」という講師の表現は、制度側から見ると期限つきの移行計画として動き出している段階にあたる。
RSA-2048の解読に必要とされる量子ビット数の見積り(対数目盛)。論理量子ビットは誤り訂正を含まない理論下限、物理量子ビットは誤り訂正込みの実装見積り。出典:Beauregard(2003)/Gidneyら(2021)/Gidney(2025)を基にClaude作図。
BB84 ―― 光の波を合わせたところに鍵が生まれる
講師は前田さんに「QKDと調べてください」と指示を出し、QKDがQuantum Key Distribution、すなわち量子鍵配送の略であること、そしてBB84という方式があることを提示した。日本企業では東芝が関わっている、という補足も添えられている。
仕組みの説明は、あくまで「すごく簡単に言うと」という断りつきで進んだ。量子暗号は光の上に情報を変換して流すので、専用の光ファイバーネットワークが必要になる。送信する側がいるということは受信する側もいる。そこで光の波の状態を変えて、両者をマッチングさせる。そして合致したときに、そこで初めて暗号鍵が生成される。この「ガチャンと合わせる」ところがQKDの要点であり、BB84方式と呼ばれるものだ、というのが講師の描き方である。
そしてその鍵の性質を、講師は一言で「ワンタイムパスワード」と表現した。だから途中で何らかのハッキングのような干渉があれば、暗号鍵そのものが生成されない。破られるのではなく、そもそも成立しない。これが計算量ベースの暗号とは決定的に違う点になる。
受講生から「ということは逆にハッカーも狙いにくくなるのか」という確認が入り、講師は「なかなかできなくなるけれど、それも突破してくるとは思う。どこかは分からないが」と答えた。原理的に安全だから終わり、という話にはしていない。
従来の公開鍵暗号
安全性の根拠は計算量。鍵は数学的な難問の上に立つ。盗聴されても通信自体は成立し、後から解読される可能性が残る(Harvest Now, Decrypt Later)。QKD(BB84方式)
安全性の根拠は物理法則。鍵は送受信の波の状態が合致したときにその場で生成される。干渉があれば鍵が生成されず、通信が成立しない。BB84は1984年にCharles BennettとGilles Brassardが提案したプロトコルで、名称は二人の姓のイニシャルと発表年に由来する。世界で最初の量子暗号プロトコルであり、現在も量子鍵配送の基本形として扱われている。原理はハイゼンベルクの不確定性原理に基づき、直交しない二つの基底で符号化された単一光子を送ることで、盗聴者が状態を観測すれば状態自体が変化する――つまり盗聴が痕跡として残る構造になっている。送受信後に互いの基底選択だけを公開して一致した分だけを鍵として残す「sifting」の工程があり、講師の言う「波をマッチングさせる」はこの部分に対応する。
「ワンタイムパスワード」という表現については補足が要る。BB84が配るのは鍵そのものであり、その鍵を使い捨てで用いれば情報理論的に安全な暗号(ワンタイムパッド)が構成できる、という関係にある。実運用ではQKDで配送した鍵をAESなどの共通鍵暗号に供給する形が多い。講師の言い方は仕組みの直観としては的確だが、「BB84=ワンタイムパスワードそのもの」ではなく「BB84はワンタイムパッドを可能にする鍵配送」と理解するのが正確である。
すでに入っている ―― 東芝と金融、そして光の上を流れる情報
講師がこの話を持ち出した動機は、量子技術の実装時期に関する誤解を解くことだった。半導体やQPUの文脈では「2030年以降」と言われることが多いが、実はすでに導入されている技術がある。特に金融業界、そして医療業界に比較的導入されていると言われている、というのが講師の説明である。
そして日本企業では東芝が関わっている、と名前が出た。講師自身、この話は4〜5年前、マイキークラブが発足する前の配信ですでに扱っていると述べており、目新しいテーマではなく長く追ってきた領域だという位置づけになっている。
ここから議論は光の重要性に戻る。講師が「なぜ光が重要なのか」を改めてまとめた部分では、今後は光の上に情報を流すことがベースになるから、という一点に集約されている。量子暗号もその上に乗る。つまり光技術そのものが、量子時代のインフラ側の必需品になるという読みである。
東芝の名前は正確だった。東芝と東芝デジタルソリューションズは2022年2月、JPモルガン・チェース、Cienaと共同で、米国で初めて金融アプリケーション実行基盤上でのQKDネットワークの実用性を実証している(70kmの光ファイバー上でQKDに保護された800Gbpsのデータ伝送)。またQuantum Xchangeのネットワークを通じて、ニューヨーク・ニュージャージー間で金融取引アルゴリズムや顧客口座といった機密情報の伝送に東芝のQKDシステムが使われている。2025年3月にはオプテージ・東芝デジタルソリューションズ・フォーティネットジャパンが、QKDとPQCを組み合わせた「量子セキュアデータ通信」に成功したと発表しており、QKDとPQCは択一ではなく併用の方向にある。
一方で要確認「医療業界にも比較的導入されている」という部分は、金融ほど明確な商用事例が確認できなかった。QKDの医療応用は電子カルテや遺伝子情報の保護を想定した実証実験の段階にとどまる例が多く、金融と同列に「導入されている」と言えるかは検証の余地がある。発言をそのまま事実として扱わず、医療分野の具体事例を各自で確認しておきたい。
量子で守り、量子で破る ―― セキュリティ企業をどう見るか
講師はここで話を反転させた。量子コンピューティングのようなものができてくれば、当然それを使ってハッキングしてくる側も出てくる。いまでもAIを使ってハッキングされているのだから、量子でも同じことが起きる。だから量子耐性を持つセキュリティ企業という領域が立ち上がる、という論理である。
その例として講師が挙げたのがインフォシス(Infosys)だった。ただし同時に釘を刺している。そもそもCrowdStrikeのような既存のセキュリティ企業をきちんと押さえていなければ、量子耐性セキュリティの話に進む必要すらない。セキュリティ会社自体をちゃんと勉強していかないといけない、という順序の指摘である。
この直後、受講生から「小松さんと川さんが速攻で株を買いそうな話だ」という軽口が出て、実際に「割と持っている」という返しがあった。講師は「さすが、講義が効いている」と応じている。技術の理解が保有判断に直結する、という冒頭の主張が、その場で実演された形になった。
耐量子への移行が「いつかやること」から「期限のあるプロジェクト」へ変わりつつあるのが現在の局面である。米国の大統領令ベースの計画では、耐量子の鍵交換(暗号化)を2030年まで、電子署名・証明書(認証)を2031年までという二段階が示されており、国家安全保障システムでは2033年までにほぼ全システム類型で必須化、2035年までに完全な耐量子アルゴリズム化が求められる。期限が設定されると需要は景気ではなくコンプライアンスで動くため、SIer型の企業には確度の高い案件が積み上がる。Infosysのようなサービス企業がこの領域に名乗りを上げている理由は、まさにそこにある。
NTTは光、富士通は超伝導 ―― 誰の技術が本命か
質疑では、NTTが量子に関わるとしたらどこか、光通信のところか、という問いが出た。講師は逆に「どこだと思いますか」と問い返し、質問者が富士通の名前を出して迷ったところで、はっきり否定している。NTTの技術は超伝導や冷却のところではなく、むしろ光のところだ、と。
この整理を受けて質問者は、富士通がこけたとしても光のところは有力に見える、と応じた。講師は、NVIDIAも超伝導やシリコンの研究はやってはいるが、フォトニックの技術を最大限に活かすとなるとやはり光量子方式になってくるのではないか、という見立てを示している。
さらに後段で「一番早いのは光か半導体か」という問いが出たとき、講師の答えは方式の勝者を決める形ではなかった。それぞれが生き残るのではないか、特性が違うのだから最終的には「ガチャンこ」になる、というのが読みである。そのうえで、どれか得意なものを連結させる役回りをNVIDIAが担う、という補完関係の構図に落ちた。ここは次のレポートで扱う「コントロールセンター」論の入り口にあたる。
なお冒頭では小賀さんから、IBMの25%という数字に驚いていたが今日の話でだいぶ分かった、という感想が出ている。講師は「直接関係ないですけどね」と流しており、この回の主題からは外れる論点として扱われた。
質疑の時点(2026年7月15日)では「NTTがどこで関わるかは分からない」という留保つきの議論になっていたが、公開情報では答えはすでに出ていた。NTTは2015年から光方式の量子コンピューティング研究に着手しており、2024年11月に汎用型の光量子計算プラットフォーム、2025年1月に強い量子性を持つ量子パルスの生成で世界初の成果を報告している。そして2025年11月18日、東大発スタートアップのOptQCと連携協定を締結し、100万量子ビット級の光量子コンピュータ実現を掲げて厚木R&Dセンタ内に光量子コンピュータの研究開発拠点を設置した。光量子方式は常温動作で冷却装置が不要、消費電力が小さくスケールしやすいという特性を持つ。つまり講師の「NTTは超伝導ではなく光」という判断は、公開データと完全に一致していた。
答え合わせとして付け加えると、この講義の約3週間後の2026年8月3日、NTTとOptQCは資本業務提携へと関係を一段深めている。講義時点の「光のところが有力ではないか」という受講生の直観は、その後の事実によって裏づけられた形になる。
もう一点、富士通については「こけたとしても」という仮定が置かれていたが、富士通と理化学研究所は2025年4月22日に世界最大級となる256量子ビットの超伝導量子コンピュータを開発したと発表し、2026年には1,000量子ビット機の構築・公開を目指している。さらに、NVIDIAと産総研が構築したABCI-Qには、富士通の超伝導量子ビット、QuEraの中性原子量子ビット、OptQCの光量子ビットが同一システム内に併存している。方式間の勝ち負けではなく併存・連結へ向かうという講師の「ガチャンこ」の読みは、この構成に既に現れている。
このテーマに関する質疑応答
A. 十分に理解できた、との回答。IBMが25%という差で大きく動いたことに驚いていたが、今の話でだいぶ分かった、と述べた。講師は「直接関係ないですけどね」と応じ、この回の主題からは切り離した。
A. 講師は質問者に問い返したうえで、明確に「NTTは超伝導や冷却のところではなく、むしろ光のところ」と回答した。質問者は富士通の名前を挙げて迷ったが、それは違うと否定されている。
講師はさらに、NVIDIAも超伝導やシリコンの研究は行っているが、フォトニック技術を最大限に活かすとなると光量子方式になるのではないか、と補足した。
A. 講師はブロックチェーン的な認証の文脈に置き直したうえで、本質は別のところにあると説明した。現在の暗号方式は計算量によって守られているため、計算量で突破されうる。だから計算量に依存しない暗号方式を作る必要があり、量子コンピューターの到来を見据えてそちらへ切り替える流れが起きている、と答えている。
A. 一つの方式に限った話ではない、との回答。高速な鍵の計算を要する暗号は一種類ではなく、一般的には素数暗号と呼ばれるものが挙げられるが、実際には複数方式の組み合わせで運用されている。ただし計算だけで守っている限り、量子コンピューターによって抜かれてしまう、という点が共通の弱点だと整理された。
A. なかなかできなくなるが、それも突破してくるとは思う、との回答。どこがどう突破するかは分からない、と留保がついた。原理的安全性を絶対視しない姿勢が示されている。
A. 講師は「どうなんでしょうね、光か半導体か」と受けたうえで、それぞれが生き残るのではないか、と答えた。特性が違うので最終的には統合される(「ガッちゃんこする」)と見ている。受講生からは、どれか得意なものを連結させる役割をNVIDIAが担うのではないか、補完関係になるのではないか、という見方が出て、講師も「しばらくそれでいく気がする」と同意した。
次回までに手を動かすこと
- QKDを自分で調べる。講義中に講師が前田さんへ出したその場の課題がそのまま宿題になる。Quantum Key Distributionの略であること、BB84方式の手順、そして日本で関わっている企業を確認する。
- 東芝の量子暗号通信事業の現在地を確認する。実証実験のどれが商用運用に移っているか、どの業界の案件か、パートナー企業は誰かを洗う。
- セキュリティ企業を先に押さえる。量子耐性の話に進む前に、CrowdStrikeをはじめとする既存のセキュリティ企業の事業構造を理解しておく。講師の言う「そもそもそっちに行く必要がない」を回避するための前提作業。
- 過去のデータセンター・半導体回を見直す。全部覚える必要はないが、「こういう流れかな」という地図を頭に入れておく。量子が本格化したときに即座に接続できる状態を作るのが目的だと講師は説明した。
- 知らない単語から調べ始める。閉会時の講師の指示。分からないことが多かったはずなので、まず用語の特定から入ること。