「抽象的な理想と、受け手の具体との溝をどう埋めるか」という受講者の問いに、講師マイキー氏がサービス・ドミナント・ロジックで答えた長尺の応答を軸にした回。
この回の中核は、受講者の小島氏から出た実務的な悩みだった。企業がいったん立ち上がって走り始めた後も常に変化していくが、既存の持ち物や武器がある一方で、社会的ニーズや環境変化とのあいだにどうしてもズレが出る。そのズレをどう埋めるのか。プレゼン能力やコミュニケーションで埋めるという答えは分かっているが、その段階的なイメージがつきにくい。自分は方向性を持ち、社会からも求められていると思うが、その部分があまりに抽象的で、具体を入れながら分かってもらうまでの距離が埋めにくい――そういう問いである。
これに対して講師のマイキー氏が答えたのが、コトラーを3.0までに止めるべきだと言ってきた「もう一つの理由」だった。コトラーの3.0以降にはアカデミックの世界で否定的な見方もある。というのも、コトラーが組み立てたマーケティング1.0・2.0・3.0はグッズ・ドミナント・ロジック(GDロジック、物中心主義)に立っているからだ。そしてそれが否定され始めたのが2004年以降であり、対置されたのがサービス・ドミナント・ロジック(SDロジック)である。
SDロジックを提唱したのはスティーブン・バーゴとロバート・ラッシュの二人。マイキー氏は彼らを「経営学におけるジョン・レノンとポール・マッカートニー」と評した。バーゴはアーキテクチャ(設計図)の側、ラッシュは実務の側から、両サイドで理論を構築したという整理である。物を作って売るというグッズ中心から、リソースを整えて文脈を作るというリソース中心へ。この転換によってマーケティング理論そのものが二分化した、というのがマイキー氏の見立てだった。
後半では、前田氏が今回の裏テーマとして「捨てること」を提示する。積み上げてきたものが制限を起こし、時代とのズレを生むので、いかに捨てていくかの方がむしろ重要ではないか、という問題提起である。小島氏はこれに対して、捨てる勇気というより、目に見えて手に入るところから遠回りすることへの恐怖、失うことへの恐怖が大きいと応じた。マイキー氏は、短期の利益を捨てた方が長期の利益は出やすいのは間違いないが、短期の利益を全部捨てれば自滅する、と時間的なリソース配分の問題として引き取っている。
小島氏の問いは、理念と現場のあいだにある落差についてのものだった。企業が一度出来上がって走り始めた後も常に変化していく。しかし既存で持っているものや武器がある中で、社会的ニーズや変化に対してどうしてもズレが出てくる。そこをどうやって埋めるのか。
本人の自己診断はこうだ。物事や理想、パーパスが重要だという流れの中で、自分の考え方は比較的抽象度を高く目的を考えるようになった。ところが受け手側のニーズについては「自分たちが気づいていない」ものとして理解してしまっているので、自分たちの思いがすっと入り込むようにするための距離の埋め方が難しい。受け手側は比較的抽象度の高いものでは理解しづらいのではないか、という懸念も同時に述べられた。
ここで前田氏が「これは僕が答えた方がいいかもしれない」とマイキー氏に振り、話がSDロジックへ移る。
マイキー氏の説明はこうである。コトラーのマーケティング1.0・2.0・3.0はGDロジック――グッズ・ドミナント・ロジック、すなわち物中心主義――に立っている。物を作ってなんぼで、どう構築し、どう売っていくのか、というマーケティングの語り方をしているのがコトラーだ。ところがこれが否定され始める時期が2004年以降に出てくる。代わって出てくるのがSDロジック、サービス・ドミナント・ロジックである。
2.0から3.0へと進み、文脈が重要だ、インサイトが重要だという話になったとき、では受け手側がどのように文脈を作るのか、ストーリーテリングに乗っていくのか、という問いが立つ。そこで価値の起点がグッズ中心からリソース中心に変わる、と指摘したのがこの二人だった。
マイキー氏は、コトラーの説明は元々グッズ主義で組み立てられたものを、文脈の時代の話とごちゃ混ぜにしていると批判した。コトラーの文脈で通じるのは、率直に言って3.0まで、それも3.0の途中までだという。そこから先は文脈ベースで考え直さなければならず、それを変えたのがバーゴとラッシュだ、という結論である。
| GDロジック(グッズ中心) | SDロジック(サービス中心) | |
|---|---|---|
| 価値の起点 | 作られた物(グッズ) | 知識・技能などのリソース |
| 価値が決まる場所 | 店頭での交換(取引時点) | 顧客が使う文脈の中 |
| 顧客の位置 | 消費する受け手 | 価値を共に作る当事者 |
| 企業の課題 | 良い物を作り、売り切る | リソースを整え、文脈を届ける |
| 関係の終わり | 売れた時点で終了 | 終わらない(使用の中で続く) |
なお「22年前に起きている」という講義中の表現は、2004年を起点とすれば2026年時点で22年であり、年数としては整合している。
前田氏はここで、自分は最後はフィロソフィーになると思っている、と述べた。ただしコトラーのちゃんとした文脈ではそこまでは出てこないはずだ、とも付け加えている。マイキー氏も「出てこないです」と即答した。前田氏の理解では、コトラーは社会の関係層から無理やりそちらへ寄せていった形になっており、本来的にはフィロソフィーまで繋げなければならない。そしてそれは、以前にマイキー氏が述べたCPO(最高哲学責任者に相当する役職)が必要だという話と合致する、という整理だった。
マイキー氏の応答はより手厳しい。今のサービス上、哲学まで行っているのはあくまで発信者側の哲学であって、グッズが送り手と受け手の双方のフィロソフィーのところまで到達しているサービスは存在しない。だから5.0には行けない。まずインサイトを見て、その後にコンテキストをどう作るか。そこがないと哲学は生まれない。各々がそこで初めて哲学を持つ、という段になったとき、コトラーにはそこまで書かれていない。ゆえに3.0から5.0、特に4.0と5.0は完全に後付けで作ったものであり、むしろSDロジックの方が現代に合っている、というのが結論である。
そして日本への評価が続く。日本の製品は1.0・2.0で止まっているから世界で受けない製品を作り続けているのではないか、とりわけサービスがそうだ、と述べられた。前田氏はこれを引き取って、3.0と4.0ではベクトルが違う、情報の伝達の向きが違うのでギャップが生じる、同一の企業や人物がやるには自己矛盾を抱える形になるので、そういうスタイルを取れない人たちにはそもそも無理だ、と補足した。
ここから受け手側の責任という論点が出る。前田氏は、共創である以上は受け手側にもそれなりのレベルや成長する意識・マインドが必要ではないかと述べた。マイキー氏の答えは「エデュケーションがないと成り立たない」である。ただし興味深いのは、そのエデュケーションが誰向けかという点だった。マイキー氏は「フィードバックが、企業向けのエデュケーションだと思っている」と答えている。顧客側が全員気づかない状態であれば企業も気づけない。ではどう気づかせるか。そこで必要になるのが徹底的な強制的ルールだ、という主張へ接続し、話はサイバーセキュリティの具体例へ移っていく(この先は別レポートに収録)。
ここまでの議論を受けて、前田氏が今回の裏テーマを明かした。最終的に自分が何をしたかったのか。もう一つ重要なのは「捨てること」だと思っている、という。積み上げてきたものが制限を起こしてしまったり、時代とのズレを生じてしまうので、いかに捨てていくかの方がむしろ重要なのではないか。今回の中心命題の一つはそこだ、と述べられた。
小島氏はこれをダイナミック・ケーパビリティに引きつけて受け、潮流にきちんとアジャストしなければならない場面は多い、その際に自分たちが固執しているものを捨てるというのはよく分かる、と応じた。ただし、と彼は続ける。最先端を行きすぎるとき、それは捨てる勇気なのか、それとも手に入っている・目に見えて手に入るところから遠回りすることへの恐怖なのか。失うことへの恐怖が大きく、そのギャップに悩んでいる、と。
積み上げた資産が制約になり、時代とのズレを生む。既存の武器があるほど、ズレは自覚されにくい。
目に見えて手に入るものから遠回りする恐怖。短期の利益を全部捨てれば自滅する。
前田氏の答えは、時間的なリソースの使い方と組み合わせなければならない、というものだった。マイキー氏も、簡単に捨てるわけにはいかない、短期の利益を捨てた方が長期の利益が出やすいのは間違いないが、短期の利益を全部捨てるのは自滅する、と同意している。捨てる/捨てないの二択ではなく、時間軸上のどこに資源を置くかという配分問題として整理された形である。
もう一つ、この節で出た実務的な示唆がある。マイキー氏は、前田氏が常々言っている「リアリティ・ディストーション」をグッズにどう入れるかが大事になる、文脈にどうやってプレゼンテーションを載せるかが重要になる、と述べた。抽象的な理念を受け手に届ける手段は、理念を薄めることではなく、物と文脈の側に語りを載せることだ、という含意である。