この回の後半、話題は完全に個人の側へ移った。きっかけは、建築業で長く技術を磨いてきた参加者からの相談である。業界内でトップと呼ばれる位置まで来て、副大臣や文化庁から声がかかるようにもなった。1番になれば口を利くだけで食べていけると思っていたら、今度は「次の世代を育ててください」と、これまでやったことのない仕事を求められるようになった。技術は教えられるが、人をどう集め、この先どう生きていけばよいかをどう伝えるかが分からない、という悩みだった。
講師の整理は明快だった。技術があることと、それを人に渡せることは別のスキルである。教えるにはコミュニケーションが要り、次の世代を引っ張るにはリーダーシップが要る。継承や教育の立場に立つということは、間違いなくソーシャルスキルの上に成り立つ営みである。そして本当に継承したいと思うなら、自分がこれまでやってこなかった分野をどう勉強するかを考えるはずだ、というのが結論だった。
そこから議論は教え方に移り、「昔ながらの数をやれという方法は続かない」という参加者の反省に対して、講師は珍しく明確な反対意見を出す。量が分からない人間には質が分からないからだ、と。うまい肉かどうかは、100種類の肉を食べて初めて判断できる。「100個も食べたくないがうまい肉は食べたい」というのは通らない。日本食しか食べていない人が「日本食がうまい」と言っても、それは判断ではない。
その延長で、講師自身の来歴が語られた。高校1年で全米の数学トップスコアを取り、天才が集まる場に送られたところ、3日で言語を習得する人間がいた。どれだけ量をこなしても、その相手が努力したら勝てない。そこで採ったのが、特化した天才たちが軒並み欠落している領域を「中の上」で広く押さえ、知識が自分に集まる位置に立つという戦略だった。必要だったのはソーシャルスキルと、分からない分野だけをやり続けることである。
最後に、脳みそと筋肉という比喩で研究者と経営者の非対称が語られる。アカデミアへの投資は返ってこなかった、という具体的な失敗談を伴って。そして講師自身にとって、事業も投資も金儲けではなく「トークン(経験)」を集める仮説検証の場である、という自己規定で締めくくられた。
相談の内容はこうだった。経験に基づく知識では誰にも負けず、他の人が描けない図面も描ける。しかし自分の仕事しかやってこなかった人間が、人を育てるとはどういうことか分からない。まず人を集めなければならず、技術は教えられるとしても、次の世代がどう生きていけばよいかまでは教えられない。
講師は、その状態を「一つのこととしては極めて優れた特殊能力者」と位置づけたうえで、二つの別のスキルが必要になると整理した。第一に、人に何かを教えられるか。それはコミュニケーションが取れるか、教えるのがうまいかという問題である。第二に、若い世代を引っ張るリーダーシップを取れるか。どれほど高いスキルを持っていても、人に教えられなければ事業承継は成立しない。
そのうえで講師が置いた分岐は、「これまでやってこなかった分野を突きつけられたときに、学びますと言うか、私にはできませんと言うか」だった。本当に継承したい、社員に幸せになってほしいと思う人間なら、自分がやってこなかった分野をどう勉強するかを考える。逆に、これまで感情だけで情報を判断してきた人にとっては、ここが難しくなる。
相談者は、最初は「数をやれ」という昭和的なやり方をしていたが体力的にも精神的にも続かず、先に全体の流れを把握させてから細かくレクチャーする方法に切り替えた、と述べた。ここで講師は反対意見を出す。「量をやれ」には賛成だ、と。
理由は、量が分からない人間には質が分からないからである。質の良し悪しは経験値から生まれる。うまい肉を初めて食べた人がそれを「うまい」と言うことはできるが、それが本当にうまいかどうかは、100種類の肉を食べて初めて判断できる。「100個も食べたくないが、うまい肉は食べたい」という要求は成立しない。日本食しか食べていない人が「日本食がうまい」と言っても意味がなく、世界中の食事を食べたうえで日本食がうまいと言うなら理解できる、という言い方もされた。
質を評価する基準そのものが、量の蓄積からしか生まれない。だから量をやっていない段階で質を論じるのは順序が逆であり、そういう人は基本的に成長しない。
目的を持たずにただ量をこなすだけでは続かない。全体の流れを先に示し、細かくレクチャーするほうが定着する。ただし「顔を洗うくらい当たり前になるまで量をこなせば質も上がるかもしれないが、そこまでできる人間がどれだけいるか」という留保付き。
参加者から「アメリカの研究で、天才は才能ではなく量だったという発表があったはず」という言及があった。関連する著名な研究として、K. アンダース・エリクソンらによる「意図的な訓練(deliberate practice)」の一連の研究がある。1993年のベルリン音楽アカデミーでの調査を基に、卓越した演奏者と平均的な演奏者の差を、生得的才能ではなく累積練習時間で説明した。マルコム・グラッドウェルが『Outliers』(2008年)でこれを「1万時間の法則」として広めた。
ただし重要な留保がある。エリクソン自身は「1万時間」という単純化された数字を自分の主張ではないと否定しており、後年のメタ分析(Macnamara et al., 2014)では、練習量が説明できる分散はゲームで26%、音楽で21%、スポーツで18%、専門職では1%未満と報告されている。つまり「量が支配的」とまでは言えず、領域によって寄与度が大きく変わる。「才能ではなく量だった」という要約は、この研究群を単純化しすぎている可能性がある要確認(発言者が具体的にどの研究を指したかは特定できなかった)。
なお、タイガー・ウッズが2歳からゴルフを始めていたという例が挙げられたが、これは早期の集中訓練(early specialization)の例であり、逆に多くのエリート選手が幼少期に複数競技を経験した「サンプリング期」を経ているという研究もある。ここも一義ではない。
この論点は、量質論と表裏になっている。講師は自身のYouTubeとコミュニティ運営を例に出した。3年かけて作ってきたが、本業から見た生産性は極めて低い。立ち上げまでの2年間は無収入である。しかしそれは新しいことだから当たり前で、トライアンドエラーには時間がかかる。
問題は評価の基準にある。すでに1億円稼いでいる事業を持つ人が、次の1000万円に膨大な時間がかかると聞けば「効率が悪いからやる必要がない」と言う。しかしそれは、既存のキャッシュポイントを物差しにして測っているだけである。講師の言葉を引けば――やったことがないから効率が悪いのは当たり前であり、今持っているキャッシュポイントを基準にすれば新しいことはすべて非効率になる。
| 対象 | 時間の扱い方 | 理由 |
|---|---|---|
| すでに構築されている事業 | 時間を短くして収益を上げる | すでに生産性が出ているので、効率を追うべき局面にある |
| まだ構築できていない新規 | やりすぎ・無駄と言われるくらい時間をかける | 量をこなすことでしか効率性は生まれない。質はその後に求めるもの |
参加者からは、四国で提供しているサービスを北海道で展開すれば四国以上に時間がかかる、という具体例が出た。それを効率が悪いと言えば展開はできない。海外なら立ち上げから資金回収まで3〜4倍かかることもあるが、それを非効率と切り捨てれば一生海外展開はできない。「今までやってこなかったのだから時間がかかるのは当たり前」というのが講師の一貫した答えだった。
「なぜ量をやろうと思ったのか」という問いに対して、講師は自身の来歴を語った。高校1年のときにSATで全米トップクラスの数学スコアを取り、退屈していたところ、教師から「その年齢で大学を出ている人間がいる」と言われ、推薦でネバダ州のギフテッド教育のサマースクールに送られた。そこには3日で言語を習得する人間がいた。講師は当時2週間でスペイン語を覚えて周囲に驚かれていたが、その場では通用しなかった。
そこで得た結論が二つある。第一に、どれだけ量をこなしても同等にはなれるが、その相手が努力したら勝てない。第二に、そういう突出した人間は何かに特化しすぎて、別の何かが決定的に欠落している。難解な物理は解けるのに小学生の算数が解けない、というような偏りである。
ならば、彼らが分からないことが分かるようになれば、知識は自分のところに集まる。各分野で「中の上」を押さえておけば、全員が自分を経由するようになる。分からないことは彼らに聞けばよく、彼らが聞いてきたことには自分がある程度答えられる。この立ち回りのために必要だったのが、ソーシャルスキルと、分からない分野だけを潰し続けるという方針だった。
この戦略のもう一つの効用として、人を見分けられるようになる点が挙げられた。自分に知識のない領域の話をしている相手がどれほど優秀でも、こちらに知識がなければ、その人を人脈として取り逃がしてしまう。芸術に興味がなければ、目の前にいる優れた芸術家の価値が分からない。
実例として、ビバリーヒルズでの食事の席で同席した台湾人男性が「俳優をしている」と言うので当たり障りなく応じたところ、後で台湾の友人にその写真を見せたら、台湾で木村拓哉に相当するレベルの俳優だったという話が語られた。しかもその俳優は、L'Arc〜en〜Cielのhydeらと映画に出ていた。知らなかったために気づかなかった、という実例である。
講師が使った「知の探索」「知の深化」は、経営学者ジェームズ・G・マーチが1991年の論文 "Exploration and Exploitation in Organizational Learning" で提示した対概念(exploration と exploitation)に対応する。組織は目先の成果が出やすい深化に資源が偏りやすく、探索が痩せていくことで長期的な適応力を失う――この偏りは「コンピテンシー・トラップ(有能さの罠)」と呼ばれる。両立を目指す組織のあり方は「両利きの経営(ambidexterity)」として議論されており、講師が個人のレベルで語っている「中の上を広く押さえたうえで深掘りする」という戦略は、この枠組みの個人版として読める。
終盤、講師は「過去に絶対リターンがなかった業種がある」と切り出し、それがアカデミアへの投資だと明かした。経済学者がビジネスで成功した事例はない、というのが講師の観察である。理由として提示されたのが「脳みそと筋肉」という比喩だった。
優れたロジックを組み立て、極めて良質な研究をする。しかしマネタイズが発想の中にない。「やりたいことをやる、金はどこから持ってこようか」という思考順序になる。筋肉を引っ張ってこないと事業が動かない。
金を稼ぐのがうまい。ただし講師の言葉では「戦略から何から全部腐っている」。脳みそから見れば何をやっているのか分からない状態になりやすい。
したがって、脳みそに投資し続けるなら、それを動かす筋肉を別に引っ張ってこなければならない。良質な研究であってもマネタイズされないまま資金が溶ける。講師は自身の失敗として、医学部の研究にラボまで作って資金を投じたが、相手が定年退職を理由に返済せず終わった事例を挙げた。「ビジネスセンスがない」と最初に指摘したうえで債権の形で出したにもかかわらず、そうなったという。
この文脈で、資金拠出側から見た構造の説明も参加した研究者から補足された。国の研究費など、マネタイズが直接の目的ではない資金源が背景にあるため、温度差が生まれやすい。近年は企業と組むことが求められるようになってきたが、比率は依然として大きく異なる。
議論の途中、講師は大学で教えることへの強い関心を示している。給与は要らない、むしろこちらが払ってでも教壇に立ちたい、という表現まで出た。理由は教えること自体よりも、研究し探索するための「箱」があることへの興味である。参加者からは、寄付講座という制度があり、慶應などでは年間1000万円程度、国立大学ならおよそ700万円程度で1年間自分の名前を冠した講座を作れる、という具体的な情報が提供された。また、学生よりも大学院のほうがリアクションが違う、という助言も出ている。
寄付講座(寄附講座)は、企業・個人からの寄付により大学に設置される講座で、多くの国立・私立大学に制度がある。ただし、発言中の「慶應で年間1000万円」「国立でおよそ700万円」といった金額は大学・学部・講座の規模によって大きく異なり、一般に公表された統一相場は確認できなかった要確認。個別に大学の産学連携窓口へ照会する必要がある。なお寄付講座は通常、寄付者本人が教壇に立つ制度ではなく、寄付をもとに大学が教員を任用する形式が一般的である点も、実務上の確認事項になる。
最後に、講師と参加者の間で共通の事業観が確認された。参加者は自身の会社を「ラボ」と呼び、それぞれの会社を特定の実験をするための場と見なしていること、終わったラボは売却するか閉じることを述べた。講師も同様に、手がけた事業はすべて手放してきたと応じている。
講師自身の言葉では、哲学や社会学が生んだソリューションを実証する場が経営や経済であり、ビジネスや投資はその「トークン」を得る手段にすぎない。金儲けではなく、理論が現実に当てはまるか否かを見たいという動機である。はまらなかったときにこそ、社会学や哲学を見直すきっかけになる。だから株式も入れたら決済せずに放置しており、結果として資産が膨らんでいるのは、トークンが増えているにすぎない、と語った。