一般均衡を「デマンドプル・インフレの究極体」とたとえたところから、この回の議論は理論の弱点へ向かった。値上がりで買えなくなった人が、モデルの中では「需要が調整された」として消えてしまう。時間が止まった19世紀のモデルを、年金も長寿もある2020年代に当てはめるとき、何がずれるのか。
この日の理論パートは、前田氏によるワルラスの効用最大化の解説から始まった。前日の回で扱ったワルラスの法則やパレート最適の話とは狙いが違い、今回は「みんながより満足したいと思って動く」という行動原理から、どうやって市場全体の均衡が出てくるのかを、おにぎりとハンバーガーという具体的な数値例だけで組み立てるという構成だった。ここには数式がひとつも出てこない。前田氏自身が「ワルラスの理論はどちらかと言えば数式がメインなので、表現方法は完全に僕の解釈になります」と断ったうえでの説明である。
解説が一通り終わったところで、講師(マイキー氏)が「分かりやすく言うとデマンドプル・インフレの究極体みたいなイメージ」という一言を投げた。この一言が、この回の最も生産的な議論を呼び込むことになる。参加者から「いいインフレ・悪いインフレという整理と、この効用の話は関連づけて説明できるのか」という質問が出て、講師は自分の比喩を自ら修正しにいった。似ているが、決定的に違う点が二つある、と。
第一の違いはタイムラグである。賃金上昇と物価上昇はセットで考えられること自体がそもそも間違いで、経済学上の理想は物価が先に上がり、賃金が後からついてくる形だ。その賃金が追いつくまでは苦しい。この痛みを負えるかどうかが、コストプッシュからデマンドプルへ移れるかの分岐点になる。ワルラスのモデルにはこのタイムラグが存在しない。
そして第二の、より根本的な違いが、このレポートの表題にした論点である。ワルラスの世界では、値段が上がって買えなくなった人がいるとき、その人が「買わないことを選んだ」結果として需要が調整されたと見なされてしまう。理論上は市場が均衡し、効用が最大化されたと結論づけられる。しかし現実には、それは買いたくても買えない、生活水準の低い人の痛みである。講師はこれを「かなりワルラスの冷徹なところ」であり「ワルラスの弱点」だと明言した。一方、現実のデマンドプル・インフレが目指すのは、評価制度が機能して給与が満遍なく配られ、買えなかった人も買えるようになることだ。同じ「均衡」でも、切り捨てて到達する均衡と、底上げして到達する均衡はまったく別物である。
この回のワルラス論は、理論の解説というより「モデルが何を数えていないか」を探す作業だった。時間を数えていない。腐敗も保存も数えていない。年金も定年も長寿も数えていない。そして最も重要なことに、買えなくなった人の痛みを数えていない。参加者の小澤氏がワルラスを社会学者として読み直し、この静学モデルは社会設計のための純粋な道具として意図的に切り出されたものだと指摘したことで、この「数えていなさ」は欠陥ではなく設計だった、という理解に到達する。問題は理論の側ではなく、それを何に使うかの側にある。
前田氏はまず、ワルラスの位置づけを一文で示した。メンガーが非常に個人的なところに追求しているのに対して、ワルラスは「これを市場全体で見た場合に、どうやって満足度が最大化するのか」を問うている。同じ限界革命の系譜でも、視点の置き場所が違う。
そのうえで、前提となる効用の復習に入った。空腹の人が満腹になるまでにおにぎりを4つ食べたとする。1個目を食べた時点で満足度が4に上がる。2個目で4から7へ。3個目で7から9へ。4個目で9から10へ。総量としては満腹に近づいていくが、変化量を見ると4、3、2、1とどんどん減っていく。限界効用とは、おにぎり1個あたりの満足度の変化率である。
ここから前田氏が引き出した実務的な含意が、価格差別の説明だった。何個目かによって、その人にとっての価値が違う。だから飲食店で1杯目1,000円、2杯目は半額の500円という設定をするのは、ある意味この理論を利用している。
ワルラスは『純粋経済学要論』(第1部1874年)において、限界効用にあたる概念を稀少性(rareté)という語で表現した。これは父オーギュスト・ワルラスから受け継いだ用語で、「稀少性こそが価値の唯一の有意な原因である」という父の結論を、息子が数理的に展開したものである。講義中の「満足度」という平易な言い換えは、この rareté を現代の日本語話者向けに置き換えたものと理解してよい。
なお、講義では触れられなかったが、この効用最大化を数学的に解く道具としてラグランジュの未定乗数法が使われることは押さえておきたい(前田氏は後段でこの手法に言及している)。予算制約という束縛条件のもとで効用関数の極値を求める、という定式化である。興味深いのは、このとき導入される未定乗数λが貨幣の限界効用として解釈できる点だ。つまり「持っているお金の1単位が自分にとってどれだけの満足を生むか」が、数式の中に自然に現れる。前田氏が「ラグランジュの未定乗数法はこの人の理論を理解するのに実は必要」と述べたのは、この構造を指している。
前田氏はここで、ワルラスの理論が置いている前提を一つずつ並べた。「非常にいっぱい前提があるのですが、まず一番ベーシックなところだけ」と断ったうえで示されたのは、次のような世界である。
| 前提 | 意味するところ |
|---|---|
| 生産も消費もなく、交換のみがある | 市場に新しいものが入ってくることも出ていくこともない。中でぐるぐる循環して交換されているだけ |
| 全員が例外なく効用を最大化する | 自分たちが持っているお金で満足度を最大化するようにみんなが動く。一人の例外もない |
| お金は常に循環している | 持っているお金は全部使ってしまうように行動する |
| 商品の数は増えも減りもしない | 基本は一定 |
| 社会の資本=市場規模も一定 | 増えも減りもしない |
| 取引費用は発生しない | 交換にコストがかからない |
| 時間が止まっている | 上記すべてを成立させるための最終的な前提。だから消費財も「食べる」のではなく「動くだけ」の交換商品として扱われる |
前田氏はこの最後の点を強調した。消費財も、食べるという発想ではない。動くだけ、交換する商品なのだ。なぜそんな前提を置くかといえば、時間が止まっているからである。時間的な変化を入れ、市場規模も変化させ、消費財を消費していく前提で考えると、この理論は成り立たない。最も単純化するために、消費するとか生産するという行為を全部排除して考えているのがワルラスの理論だ、と。
この前提の上で、価格変化が行動を変える様子が数値例で示された。ハンバーガー、ポテト、アイスがある。いま自分はハンバーガーを持っており、売れば150円になる。ポテトとアイスはそれぞれ100円で買える。効用の点数は、ハンバーガーが10点、ポテトが8点、アイスが7点である。
この状況では、わざわざハンバーガーを売ってポテトやアイスに買い替えるメリットがない。150円ではポテト1個(8点)しか買えず、10点から8点に下がってしまうからだ。だから持ったままになる。
では、ハンバーガーの価格だけが200円に上がったらどうなるか。ポテトとアイスの値段は変わらず、効用の点数も変わらない。すると、ハンバーガーを持っている人は売る。200円でポテトとアイスを両方買えるからだ。同じ200円で、効用は10点から8+7=15点へ上がる。
価格が上がると、その商品を持っている人は「売りたくなる」。売って別のものを買いたいという行動に走る。そしてこの行動は一人ひとり違うので、一人ひとりに別々に起こる。同じ金額でも買い替えることによって効用が上がるなら、人は必ず買い替える。自分の満足度が最大化するまで、この行動を繰り返す。
前田氏はここから一気に全体へ跳んだ。市場参加者がこの行動を取り続けると、市場全体の効用も最大化される。そして市場全体の効用が最大化されたら、もう他に動く理由がない。この状態が、前回話が出たパレート最適である。これ以上動くと誰かが損をしなければならないから、誰も動きたくない。
さらに日本社会にはゲーム、食べ物、運動、医薬品といったさまざまな市場があり、これらが全て連動している。全市場の効用が最大化するまで動きは続く。そして全市場の効用が最大化している状態とは、一つひとつの市場の効用が最大化している状態にほかならない。社会全体の満足度が最も高い状態=各市場の満足度も最も高い状態、これが一般均衡である。だから一つの市場だけ見ていても動きは分からない。
前田氏はこの解説の最後に、自ら留保をつけている。非常に単純化したモデルであり、現実にはむしろ不完全均衡のほうが多いことも指摘されている。ただしこれはあくまで考える基準として、あったほうが分かりやすいのではないか、と。そのうえでマーシャルの部分均衡は「静的な、ある瞬間だけ切り取ったモデル」ではなく時間的な要素をどう取り入れるかという方向に、ドブリューのモデルはそれをさらに時間的要素を含めて発展させる方向に進んだ、と系譜を示して締めくくった。
講義中の「マーシャルの部分均衡は時間的な要素をどう取り入れるかという視点」という位置づけは、一般的な学説史の記述とは強調点が異なる。アルフレッド・マーシャルの『経済学原理』(1890年)における最大の貢献としてまず挙げられるのは、他の条件を一定(ceteris paribus)とした個別市場の分析、すなわち部分均衡の確立である。ただしマーシャルが短期・長期という時間区分を経済分析に持ち込んだこと自体は事実であり、講義中の整理はその側面を捉えたものと読める。
また、ジェラール・ドブリュー(Gérard Debreu)については、ケネス・アローとの共著論文(1954年)で一般均衡の存在を証明したことのほうがよく知られる。ドブリューが時間を扱ったのは、財を「いつ・どこで・どの状態で」受け渡されるかまで含めて定義し直すという方法(日付付き財、条件付き財)によってであり、これは時間を動学として扱ったというより時間を財の定義に押し込んだと言うべきものである。講義の系譜の描き方は方向としては正しいが、この読み替えの技巧を知っておくと理解が深まる。
前田氏の解説が終わった直後、講師が投げたのが冒頭の比喩だった。「分かりやすく言うとデマンドプル・インフレの究極体みたいなイメージですよね」。そして参加者に対して、まずコストプッシュ・インフレとデマンドプル・インフレの違いを調べてくださいと促した。
ここから質疑が始まる。参加者から出たのは、いいインフレ・悪いインフレという通俗的な区別――デマンドプルがいい方で、いま日本で起きているのは悪いインフレという理解――と、この効用の話を関連づけて説明できるか、という問いだった。
前田氏の答えは重要である。ここまでの理論は、インフレに関してはある意味「いいもの」を前提にしている。だから、インフレをどうやってうまく利用するかという理論として捉えるとよい。それが恐慌などが起きることによって破綻するモデルが見えてきたので、それを批判的に捉えるために、ケインズやミルトン・フリードマンがそこに入ってくる。経済学の発展の仕方を見るうえで、この視点の切り替わりは重要だ、と。
講師の答えは、より実務的だった。コストプッシュ・インフレをデマンドプル・インフレにするためには二つの要素が必要だ、と。
値段が上がったことにぶつぶつ言わずに消費を続ける。それによって企業の収益が上がる。企業の収益が上がったことで評価制度を見直し、それがしっかりと給与に反映される。この循環が必要になる。
講師の診断はこうだ。日本の場合、パンが10円上がったからとそのパン屋に行かないという選択肢を取り、できるだけ安いものを追い続ける。安い方、安い方へ行くということは、お金が回っていない状態である。結果として給料が上がるわけがない。
賃金上昇と物価上昇をセットで考えること自体がそもそも間違っている。経済学上の理想論では、物価が先に上がり、賃金が後からついてくる。
ただしその賃金がついてくるまでは苦しい。これを痛みとして負えるか、負えないか。負えないのであればデマンドプル・インフレはありえない。この二番目の条件が、講師が自分の「究極体」という比喩を訂正するために持ち出した論点である。
講師が「経済学上の理想論」として述べた「物価が先に上がって賃金が後からついてくる」という順序は、デマンドプル・インフレのメカニズム記述としては一定の説得力がある。需要超過が価格を押し上げ、労働需要の逼迫を通じて賃金が追随する、という経路である。ただしこれを「経済学上の理想論」として一般化するのは、講師独自の整理と読むべきである。賃金と物価のどちらが先行するかは、賃金・物価スパイラルをめぐる長年の論争の対象であり、経済学に確立した「理想の順序」があるわけではない。実証的にも、局面によって因果の向きは変わりうる。この点は、そのまま定説として引用しないほうがよい。
そして講師が示した、二つ目の、より根本的な違いがこれである。
「この効用最大化というワルラスの世界だと、値段が上がってしまうことによって買えなくなった人がいます。で、効用を最大化した結果、買わないことを選んだ結果として需要が調整されたと見なされてしまうんですよ。これがかなりワルラスの冷徹なところであって、現実的には買いたくても買えない、生活水準の低い人の痛みなんですけど、理論上、市場が均衡したというので解決してしまった、効用最大化になってしまったよねと結論づける。これがワルラスの弱点なんですよ」
この指摘の鋭さは、モデルの数学的な誤りを突いているのではない、という点にある。ワルラスの体系は、この処理を正しく行っている。効用最大化とは、与えられた予算制約のもとで最も満足の高い組み合わせを選ぶことである。予算が足りずに買えないなら、それは「その予算のもとでの最適解」として処理される。数学的には何も間違っていない。問題は、この処理が「その人が選んだ」という形式をまとってしまうことにある。選択と制約の区別が、モデルの中では消えてしまう。
講師が対比として置いたのは、現実のデマンドプル・インフレである。そこで起きることは、買えなかった人も買えるようになることだ。評価制度が機能して給与が満遍なく配られ、お金に余裕ができたからまた価格が上がっていく。底上げによって均衡へ向かう。ワルラスの効用最大化は、切り捨てによって均衡へ向かう。同じ「調整」という言葉で呼ばれるが、中身は正反対である。
前田氏もこの点を引き取って、ワルラスの一般均衡理論は「あくまで市場が均衡して解決してしまった」というところで止まっており、物価が上昇した後に何が起きるかへの考慮が一切ない理論だと確認した。あくまで調整しました、というところまでで完結する。だからデマンドプルに近いけれど、タイムラグがある。概念というか大枠は同じだが、タイムラグの有無と落としどころが違う、と。
さらに前田氏は、ワルラスの世界では「持っているお金を全部使い切る=常に循環する」という前提があるため、不況によって物が売れ残るということ自体が絶対に起こり得ないと整理した。誰もが商品を売りたがっているのに誰も買わないという状態は、それイコール調整だと見なされる。
「効用最大化が制約による排除を選好による選択として処理してしまう」という論点は、経済学の内部でも繰り返し提起されてきた。有効需要(effective demand)と潜在的需要の区別、あるいはアマルティア・センの潜在能力(capability)アプローチが「何を選べたか」ではなく「何を選ぶ自由があったか」を問題にするのは、まさにこの構造への応答である。ただし今回の調査では、ワルラス体系への批判としてこの論点が定式化された特定の一次文献を特定できなかった。講師の指摘は既存の批判系譜と共鳴するが、この形での定式化は講師独自のものとして扱うのが正確である。
なお、前田氏が述べた「不況による売れ残りが起こり得ない」という帰結は、セイの法則(供給はそれ自身の需要を作る)と実質的に同じ含意を持つ。ケインズが『一般理論』(1936年)で正面から否定したのはこの命題であり、前田氏が「恐慌が起きることによって破綻するモデルが見えてきた、そこでケインズが入ってくる」と述べたのは、この文脈を指している。この点は学説史の記述と整合する。
議論はここから政策論へ派生した。参加者が「いまの政府が、コストプッシュからデマンドプルへ持っていくために政策的に何ができるか」と問いを立てたのがきっかけである。参加者自身の案は、バウチャーを配るのではなく、消費税を期限を決めずに毎年0.5%ずつ下げるというものだった。税金は下がるが来年下がるかどうかは分からない、という状態にしておけば、今年下がるなら買っておこうかという需要喚起が効くのではないか、という発想である。お金はどこかにある――おそらく高齢層にいちばんある――のだから、そこを刺激することでタイムラグを克服できないか、と。
これに対する講師の答えは、消費税減税には賛成だが最大の効果はない、というものだった。理由は、資産を持っている層の構成比にある。
日本の資産の7割ほどは70歳以上が持っている。彼らのお金をどうやって引き出すかが重要であるという観点に立つと、消費税を減税しても彼らは最低限しか使わない。消費税減税をすれば最初の1〜2年はGDPが成長しやすくなるが、3年後から落ちるというデータがある。5年、10年スパンで考えるなら、消費税ではなく所得税の減税のほうがよい。すなわち「頑張っている人が報われる」状態にするということである。
最もお金を使うのは20代から50代、60代までの労働者である。仕事を辞めた人はお金を使わない。使わないのであれば、彼らからどうやってお金を徴収するかを考えたとき、消費税を減税すれば彼らも得をしてしまう。それなら、いま頑張って労働している人たちの可処分所得を上げるほうが合理的だ。所得税減税のほうが長期的に経済が回るというのはヨーロッパで何回も行われている。日本で所得税減税が言われない理由は、自治体側の票の数が大きいからにすぎない――というのが講師の見立てだった。
資産構成について。日銀の資金循環統計(2025年4〜6月期)によれば家計の金融資産は2,239兆円で過去最高となり、60歳以上の世帯が6割前後を保有しているとみられる。より細かい推計では、70歳以上の保有割合が31.8%、60歳代と合わせて約62%とされる。講師の「7割ほどを70歳以上が持っている」という表現は、70歳以上単独では約32%であり、この数字とは食い違う要確認。ただし「60歳以上で6割超」という点は裏付けが取れる。高齢層に資産が偏在しているという論旨自体は妥当だが、年齢の区切りと割合の対応がずれている。
減税効果について。ここは食い違いがより明確である。内閣府の短期日本経済マクロ計量モデル(2022年版)の乗数をもとにした試算では、5兆円規模の減税を比較したとき、1年目の実質GDP押し上げ効果は消費減税のほうが所得減税より2倍以上大きいとされる。別の試算では、法人税0.48%、消費税0.43%、所得税0.25%の順である。理由は、給付金や所得減税分の一部が貯蓄に回ってしまうためだ。つまり「消費税減税のほうが短期の効果は大きい」というのが標準的な推計であり、この点は講師の説明と同じ方向を向く。
他方、講師が「3年後から落ちるというデータがある」と述べた持続性の問題については、支持する推計が存在する。食料品の軽減税率引き下げの場合、2026年の実質GDPは0.33%押し上げられるが、翌2027年には反動で0.20%押し下げられ、2028年には効果がほぼ消滅するという試算がある。「短期には効くが持続しない」という部分は裏付けられる。
整理すると、講師の主張のうち「消費税減税の効果は持続しない」は支持されるが、「所得税減税のほうが効果が大きい」という部分は、少なくとも短期のGDP押し上げについては公開データと逆になっている。講師が想定しているのは可処分所得を通じた長期の循環効果と考えられるが、その5〜10年スパンでの優位を示す具体的な推計は今回の調査では特定できなかった要確認。「ヨーロッパで何回も行われている」という根拠も出典が明示されていないため、そのまま引用せず自分で確認する必要がある。
この議論の延長で、参加者から資産課税の可能性も出た。自分の持っている資産の1%は必ず消費に使ってください、というルールが決まればこれは可能だ、と講師も応じている。どこかで資産税を入れたほうがいいかもしれない。銀行預金を持っている人に課税するとか、使わざるを得ないよねという状態になるので悪くないが、そんなことを言った瞬間に票がなくなる――という現実的な留保がついた。参加者からは「いまの話はピケティが言っている、r>gをこれで解消するということですよね」という接続も出ている。
ワルラスのモデルには時間がない、という前提は、この回で最も遠くまで飛んだ論点になった。講師の整理はこうである。ワルラスの理論ができた時代には、いまのような年金制度もなければ高齢者向けのサービスもなかった。みんなが労働者の時代だったので、結果として金は使っていた。だからこそ「最大効用」という発想が理論として成立した。年齢に関係なく、お金を持っていればそのお金が流れ続けるという時代に生まれた理論なのだ、と。
ところが現代は、平均寿命が長くなり、医療も発達し、引退してから働かない期間がどんどん伸びていく。この理論でいう効用最大化を狙えるかというと、狙えない。今の時代に照らし合わせると、価値の捉え方が変わってしまう。講師はここで「今の時代だと生まれていなかった理論だからこそ、僕は価値があるのかなと思います。当時、90歳とか100歳まで生きるおじいさんはいませんよ」と述べている。
この長寿の話から、議論はFIRE(早期リタイア)論へ飛んだ。講師の批判は、時間を入れないモデルへの批判とまったく同じ構造をしている。
いま生涯年収が2億円だとして、20年前のアメリカでは200万ドルだった。いまアメリカで200万ドルで一生暮らせるかといえば無理である。物価が上がっていく前提で考えると、今の生涯年収は将来の生涯年収ではない。80歳、90歳まで生きるには、最低でも500〜600万ドルは必要になる。
戦後に生涯年収2,000万円と言われていた時代に、2,000万円で引退した人がどうなったか。1990年代になった時点で家もなくどうしようもない状態になった。50年、70〜80年前にその金額でFIREした人たちは、もう全員死んでいる。「今でしか考えられない」から、そういうことを言う――というのが講師の批判である。
講師自身は、自分が死ぬ頃には日本の生涯年収がおそらく4億円くらいになっていると想定し、FIREを考えるなら8億円くらい持った時だろう、と述べた。ただし同時に「この10年間でFIREしようと10回くらい考えたが、仕事が舞い込んでくるのでできない」とも述べ、FIREできている人は誰からも相手にされていないだけではないか、という辛辣な見方も示している。
この一連の発言は、明らかに講師個人の価値判断を含んでおり、FIREを選んだ人に対する評価としてはかなり強い表現である。ただし論理として取り出せる部分は明確で、「ある時点の物価と収入だけで将来を計算するのは、時間が止まったモデルで現実を扱うのと同じ誤りだ」という一点に尽きる。ワルラスのモデルが時間を消したのは、理論を作るための意図的な単純化だった。個人の資産計画で時間を消すのは、単なる計算の欠落である。この対比が、この回の議論を貫いている。
この回で最も密度が高かったのが、参加者の小澤氏と渡辺氏による、ワルラスの人物像と体系の読み直しである。きっかけは小澤氏の一言だった。「ワルラスは社会主義者だと言われていたじゃないですか」。数式で表せられれば国が全部コントロールできるから計画経済ができる、という証明に使われていた、と。
前田氏は即座に肯定した。ワルラスはマルクス主義ではないが、社会主義者である。しかも「今回あえてそこは外した」と述べている。パレートにつながる流れと、この数式がどう使われたかという本来のワルラスの人物像とを分けたからだ、と。
ここから渡辺氏が、体系全体の構造を説明した。ワルラスは経済学を三部構成で構想していた。
| 部門 | 扱うもの | 位置づけ |
|---|---|---|
| 純粋経済学 | 交換と価値。一般均衡はここに入る | 他の要素を意図的に排除した基礎理論。応用物理学に対する基礎物理学にあたる |
| 応用経済学 | 生産と産業 | 純粋経済学が示した理念的な「自由競争」へ向けて、現実経済を大規模な国家介入で人為的に組織していく課題を負う |
| 社会経済学 | 分配と所有 | 最終目標。ここを何とか解決したいという問題意識が、体系全体の動機になっている |
渡辺氏の指摘の要点は、アダム・スミスら古典派が交換価値・生産・産業・分配・所有をすべて一つの理論で説明しようとしたのに対し、ワルラスはそれを全部分けたという点にある。純粋な交換と価値だけを独立させて閉じて扱うことで、政治的な効用も合理性もこの理論から一切排除し、どう分配されるか・所有されるかという社会的背景も排除した。
ではなぜそんなことをしたのか。渡辺氏の答えは明快だった。社会的な分配のために応用するための基礎理論が必要だったからである。そして「なぜ均衡なのか」といえば、均衡状態こそが市場メカニズムが最も安定している状態であり、そこでは中間層が最も厚くなるからだ。中間層の数が最も多いときに価格が安定し、安定した価格において戦略が立てやすく、金利が下げられて社会の安定的な計画が立てやすくなる。交換価値だけを取り出さなければならなかった理由は、社会設計を純粋にするための道具を手に入れるためだった――これが渡辺氏の読解である。
そして問題は、後の経済学がこの社会構想のほうを完全に無視してしまったことにある、と渡辺氏は続けた。シュンペーターも含めて、現在起きている静的な交換や価値の最大化をどうすればいいかを逆算する道具としてだけ、ワルラスの一般均衡が使われるようになった。二段仕掛けの後段が落ちたのである。
この場面での二人の指摘は、経済学史研究の記述と細部まで一致する。レオン・ワルラスは生涯「社会主義者」としての自認を持ち続けた人物であり、純粋経済学・応用経済学・社会経済学の三部門からなる体系を構想していた。体系化された形で公刊されたのは純粋経済学部分(『純粋経済学要論』)だけで、他の部門は『社会経済学研究』『応用経済学研究』として論文集の形で出版されている。この三部構成は渡辺氏の説明どおりである。
さらに、渡辺氏が言及した土地の国有化構想も裏付けが取れる。ワルラスはこれを父オーギュストから受け継いで提唱した。論理は次のようなものだ。社会が進歩するにつれて地価は常に上昇していくが、私有財産制の下ではその収益は地主に帰する。土地は自然からすべての人間に与えられたものであるから、社会が必要とする経費は地代収入によって賄うべきである――。土地をすべて国有にし、テナントとして企業家に貸し与えるという構想のもとに一般均衡理論は作られている、という渡辺氏の説明は正確である。
そして最も重要な一点。ワルラスは応用経済学に対して、純粋経済学が指し示した理念的な「自由競争」に向けて、現実経済を大規模な国家介入によって人為的に組織していくという課題を担わせていた。つまり自由競争は放任の結果ではなく、設計して作り出すべき状態である。この構造を知らないと、なぜ一般均衡が「一般」なのか、何のために使われる理論なのかが分からなくなる、という小澤氏・渡辺氏の指摘は、まったくそのとおりである。
小澤氏が付け加えたのは、ワルラスは摩擦を消すところから設計しているという一点だった。摩擦がないために、この均衡という問題を作っている。渡辺氏はこれを受けて、間違いなくJ.S.ミルの影響があると述べ、ミルが持っていた理論をワルラスは実現したかったのだろう、社会発展という問題に見えるのではないか、と応じている。だから自分としてはどうしても「社会学者、社会哲学者としてのワルラス」のほうが強いイメージだ、と。
参加者からは「均衡(equilibrium)とスタティックス(statics)という物理学の用語を使っているのはその影響か」「ワルラスは経済学を物理学っぽくしたかったのではないか」という確認も出た。天体の軌道や衛星の動きのように、経済学でもできるんだと示したかったのではないか、と。渡辺氏はこれを肯定し、ニュートン以来の古典力学をある意味で経済学に応用したかった、そのアナロジーとしての一般均衡であり、ラボアジエやラグランジュを使ったのもそこにつながる、と応じている。
そのうえで渡辺氏は、より深い動機を示した。経済を科学にしたかったのと同時に、人間の情の通った部分は、あえて応用経済学・社会経済学のために取っておいてある。役割が別だと言いたいのだ、と。それまでの理論はすべて一つの理論で生産から論じ、その生産の目的も全部入ってしまう。そうするとどこまでが人の感情の部分で、どこが市場で現に起こっている現象の説明なのかの線引きができなかった。古典派でもマルクスでもそうで、労働というものに極端に文学的な、あるいは私的な、あるいは人間の自己完成的な意味が入っている。それでは純粋な現象を追えない。純粋に現象だけを追うために、他の要素をいったん除外して考えようという話であり、だから「純粋」と言っている――これが渡辺氏の到達点だった。
PART 4で見た「買えない人が調整済みとして消える」という弱点は、この読解を経ると意味が変わる。それはモデルの欠陥ではなく、設計上の意図的な排除である。分配と所有の問題は社会経済学で扱う予定だったのだから、純粋経済学の側でそれを扱わないのは当然だった。問題は理論そのものではなく、後の使い手が三部構成の後段を捨てて、純粋経済学だけを現実の政策判断に使ってしまったことにある。切り出した道具を、切り出したことを忘れて使うと、切り落とした部分が「存在しないもの」に見える。これがこの回の最も深い教訓である。