市場で交換されるものはすべて商品である。だがその中に、他のどれとも似ていない特殊な商品が二つだけある――貨幣と労働力。この回の講義は、その二つをまったく同じ図式で語り切るという構成上の技をとった。そこから、量と質、機械と人間、そして帝国主義へと線が伸びていく。
この回の講義は、前回までの「商品とは何か」「価値に物差しはあるのか」という土台の上に、一段だけ具体的な問いを置いた。すなわち、市場で交換されるあらゆるものの中に、なぜ二つだけ扱いの違う商品があるのかという問いである。答えは貨幣と労働力だが、講義の眼目はその二つを並べたことそのものにあった。参加者の一人が講義後に指摘した通り、講師は貨幣を語るときと労働力を語るときで同じ図式を二度繰り返して使っている。「なぜこれが商品なのか」「なぜ他の商品と違うのか」「その差はどこから来るのか」。この反復が、後半で出てくる矛盾の議論の伏線になっている。
貨幣の側から見ると、貨幣は奇妙なことに特定の欲求を満たす力を持たない。使えない場所で紙幣を持っていても誰も喜ばない。ところがその「誰の特定の欲求も満たさない」という欠落こそが、すべての人に共通して働くという強みに転じる。車とメロンとダイヤモンドを、貨幣なしで比較できるか。できない。貨幣は商品の社会的価値を評価する装置――講師の比喩ではドラゴンボールのスカウター――であり、この評価能力を持つのは貨幣だけである。それゆえに一般的等価物と呼ばれる。
労働力の側から見ると、労働力が特殊なのは価値を生み出す唯一の商品だからである。機械は商品を生産するが、マルクスの言い方では「資本を移動させているだけ」で、価値そのものは増やさない。この論点には質問が集中し、結果として当日いちばん精度が上がった箇所になった。100万円の機械からは100万円分しか出てこないが、人は同じ賃金のまま8時間でも12時間でも働ける。参加者の一人はさらに踏み込み、「機械はお金と等価交換で誰でも買えるから、そこには競争が生まれない。だから機械は超過利潤を生まない」と言い直し、講師はこちらのほうが適切だと即座に認めた。
そして賃金である。資本家が労働者に支払うのは、労働の成果に見合った額ではなく翌日また働ける状態を再生産するための生活費である。生活が成り立てば労働者は働き続けてくれる。だから資本家にはそれ以上を払う理由がない。一方で商品価値を増やせるのは労働力だけだから、資本家は労働を増やす方向にだけ要求を出し続ける。両者の差が剰余価値であり、これが搾取と呼ばれる。ただし講師が繰り返し強調したのは、これは誰かが悪意でやっていることではないという点だ。資本主義において適切な行為とステップを踏むと、結果として搾取になってしまう。個人の悪徳ではなく構造の問題だ、というのがマルクスの主張の核心である。
貨幣を投じて商品を作り、商品からまた貨幣が出てくる。だが出てきた貨幣は投じた貨幣より増えている。同じ貨幣なのに増えている。労働も同じで、生活費を払って労働してもらっただけなのに、なぜ資本家は儲かっているのか。質は変わっていないのに、変化している。この矛盾を説明する概念として、マルクスは「量」を持ち出した。質的に違わないものが変化したのなら、それは量が変化したのだ、と。この一手が『資本論』の理論構造を決定づけ、同時にその限界も決定づけている。当日の議論は最終的にすべてこの一点に収束した。
講義に入る前の30分弱は、新規入会者の話に費やされた。講師はこの1か月で入ってきた顔ぶれを一人ずつ紹介していく。UCLAを出て海外で複数回起業し、現在は日本でデータセンターの建築プロジェクトを回している37歳。もとは建築の設計士で、設計とデータセンター構築の両方を持ち込んで起業し、Equinixなどと組んで150億円規模のプロジェクトを動かしているという。アクセンチュアに14年いたという人物も入ってきた。
だが講師がいちばん面白がっていたのは、大学を出たばかりの24歳だった。先輩の草刈りを手伝ったら面白かった、というだけの理由で造園業を知らないまま会社を立ち上げ、営業で全部取ってきて月商1000万円を超え、粗利率60%近くを出しているという。千葉で機材を安く買い叩き、数名雇い、現金が余るのが嫌だから工具や機材に投資して生産性を上げる。その人物が最初にした質問は「マイキーさんの講義に行ったら議論に参加できるんでしょうか」だった。講師の返答は「すごいメンバーだから、そこに参加できたら本物かもしれない」。
この話に続けて講師は、自分のコミュニティ運営を担っている人物も同じタイプだと言った。大学時代にアフィリエイトで月2万円稼げた時点で「俺は起業できる」と判断し、親に黙って明治大学を中退し、そのまま起業して縁を切られた。いまは相当な規模になっている。アフィリエイトで2万円稼いだくらいで起業できると普通は思わない。それを実行してしまうところが常軌を逸していて、そういう人間がうまくいく――というのが講師の観察である。造園業も同じで、草刈りが面白かったから造園業をやろう、とは誰も思わない。
雑談は他にも、出版予定の書籍の推薦文をコミュニティのメンバーに書いてもらう話(出版社からは著名人に依頼しろと言われたが、そこだけは譲らなかったという)、前日に事業相談へやってきた相手が全文英語で送ってきたので誰かと思ったら知り合いの博士だった話、そして講師自身が60時間ほぼ寝ずに30名前後の事業相談を捌き続けて目の下に隈ができている話に及んだ。年末に向けて相談が集中しているらしい。
「造園業を知らないのに造園業で起業する」「2万円で起業を決める」という行動は、後半の議論に出てくる量と質のどちらから入るかという論点の生活版でもある。判断材料(質)が揃うのを待たず、まず動いた回数(量)で情報を作りにいくタイプの人間が、結果的に新しい質にたどり着く。講師が終盤で「技術の限界が来たら量に走る。量に走ることでいろんなものが見つかってまた質に変わる。ただこれも循環にすぎない」と述べた構図と、きれいに重なっている。
講義の冒頭、講師はまず「なぜこんなに細かくやるのか」を説明した。『資本論』は定義がきわめて細かい。そして自分はいま、その定義を一つずつ見直しているのだ、と。どんな学問でも定義を見直し、そこに正しい定義を与えることで次の意味が出てくる。さらに定義を見直し続けていると、定義の変遷が見えてくる。線が見えれば、次にどうなるかの予想がつく。マルクスはこの定義へのこだわりが異常なほど強いから、一つずつ解いていくことが次に繋がる、という理屈である。
この態度は、投資や事業のリサーチにおける「用語を自分で定義し直す」作業と同型だ。他人が使っている言葉をそのまま借りて議論すると、その言葉が抱えている前提もまるごと借りることになる。マルクスがやったのは、当時の経済学が無自覚に使っていた「商品」「価値」「労働」という語を、いったん全部分解して置き直す作業だった。
マルクスにおける商品の定義は「市場で交換されるもの」である。そして市場で交換されるものの中に、特別な商品が二つある――貨幣と労働力。貨幣は市場で交換されるから商品である。労働力も、有形無形にかかわらず市場で交換されるから商品である。ではなぜこの二つだけが特別なのか。ここから講義は二本立てで進む。
マルクス『資本論』第1巻の初版刊行は1867年(ハンブルク、マイスナー社)。第2巻・第3巻はマルクスの死後、エンゲルスの編集によりそれぞれ1885年・1894年に刊行された。第1巻の第1篇で商品と貨幣を扱い、労働の二重性(具体的有用労働と抽象的人間労働)という概念が提示される。
講義でいう「特殊な商品が二つある」という整理は、『資本論』の記述そのものの語り口というより、講師による再構成である。マルクス自身の叙述では、貨幣は第1篇(価値形態論の帰結としての一般的等価物)、労働力商品は第2篇(貨幣の資本への転化)で扱われ、章立てとしては離れている。両者を「同じ図式で語れる二つの例外」として並置して見せたのは講義上の工夫であり、この点は当日、参加者からも「同じ構造で語ったのが技だ」と指摘された。
商品の定義の一つに「人の特定の欲求を満たすもの」がある。ところが貨幣はこの条件を満たさない。講師はここを強調した。貨幣そのものは特定の欲求を満たす能力を持っていない。お金が使えない場所でお金を持っていても、誰も喜ばない。他の商品には必ず「それを必要とする人」がいるが、貨幣にはそれがない。
だがその欠落が反転する。他の商品は特定の人にのみ有用だが、貨幣はすべての人に共通する役割を持つ。高級なエビと150円のおにぎりを比べたとき、エビを持っている人にとってはおにぎりのほうが価値が高い、ということが起こりうる。通常の商品はすべてのものと交換できるわけではない。ところが貨幣だけは、どんな商品とも交換でき、どんな商品も評価できる。
講師はこの評価機能をスカウターに喩えた。車が何台、メロンが何個、ダイヤモンドが何カラット――これらを貨幣なしで比較できるか。車1台は金何グラムと交換できるのか。基準がない。貨幣がなければ、どちらが高いのかも、どちらの価値が高いのかも、まったく分からなくなる。交換可能であること、そして価値の評価ができること。この二つを同時に満たし、かつすべての商品に共通して働くのは貨幣だけであり、これを一般的等価物と呼ぶ。
| 比較軸 | 一般の商品 | 貨幣 |
|---|---|---|
| 特定の欲求を満たすか | 満たす(それが存在理由) | 満たさない。補助的手段にすぎない |
| 必要とする人 | 特定の人には必ずいる | 「これ自体が必要」という人はいない |
| 有用性の範囲 | 特定の人にのみ有用 | すべての人に共通して有用 |
| 交換の相手 | すべてとは交換できない | どんなものとも交換できる |
| 他の商品を評価できるか | できない(人により価値の度合いが変わる) | できる。社会的価値を評価する唯一の存在 |
「特定の欲求を満たさないことが、すべてに使えることの条件になっている」という構造は、貨幣だけの話ではない。プラットフォーム、標準規格、共通言語――いずれも個別の用途に最適化されていないからこそ、あらゆる用途の間を橋渡しできる。逆に言えば、特定の顧客の特定の欲求に深く最適化した商品は、その顧客の外では交換価値を失う。事業設計における汎用性と特化のトレードオフは、この貨幣の議論と同じ形をしている。
もう一方の特殊な商品が労働力である。ここで講師は労働と労働力を明確に分けている。労働力が特殊なのは、価値を生み出す能力を持っているからだ。機械を導入すれば価値が生まれるのではないかという反論に対して、マルクスは「機械は資本を移動させているだけ」と答える。機械は商品を生産できるが、価値そのものは上がらない。人の手が加わらなければ価値は増えない――これがマルクスの主張である。
ここから資本家の側の話になる。資本家は市場で労働力を購入している。給料を払って人を雇うという行為は、市場で労働力を買っているということだ。そして労働者に支払う費用の基準は何かというと、賃金は1日の生活費がベースになる。翌日また生活できるだけの金があれば、労働者は働いてくれる。労働者にも生活があり、生活のために働いているのだから、生活が成り立てば働き続けてくれる。ならば資本家にはそれ以上を払う理由がない。
この帰結が重要である。いくら労働しても、賃金は労働量に比例しない。労働者の視点から見ると、仕事量がどれだけ増えても賃金は増えない。資本家の視点から見ると、労働者の仕事が増えれば商品の価値が増える。なぜなら商品の価値を増やせるものは労働力しかないからだ。そして資本家は支払った以上の見返りを求めるから、労働を増やす方向にだけ要求を積み増していく。減らす方向には動かない。したがって必ず、支払う賃金よりも生み出される商品価値のほうが大きくなる。この差が剰余価値であり、ざっくり言えば資本家の利益である。
講師はこの数字で機械との違いを説明した。100万円の機械を買えば、そこから出てくるのは100万円分の価値だけである。一方、人を1万円で雇った場合、8時間働くのか10時間なのか12時間なのかで、生み出せる価値が変わる。疲労を度外視すれば、1時間で10個作れる人は10時間で100個、15時間なら150個作れる。この「積み上がってしまう」性質が、機械にはなく労働力にだけある。
「どうしても搾取と言うと非常に悪いニュアンスになるかもしれない」と前置きしたうえで、講師はこう述べた。資本主義社会において、資本家が適切な行為と適切なステップを踏むことで商品価値を生み出す。そのこと自体が搾取につながってしまう。労働者をいじめることが目的なのではなく、商売として適切なことをやったら結果として搾取になる。資本主義においてはそれが構造の中に組み込まれていて、一人ひとりがあえてやろうとしているわけではない。ここが資本主義のシステムであり、同時に問題点でもある――というのがマルクスの主張の骨格である。
講義で語られた「賃金=1日の生活費」は、マルクスの用語では労働力の価値=労働力の再生産に必要な生活手段の価値として定式化される。労働者本人が翌日も労働できる状態に戻るための費用に加え、世代としての労働力供給を維持するための家族の生活費、および必要な訓練費用が含まれるとされる。つまり「その日を生き延びる分」だけでなく、労働力という商品が社会的に再生産され続けるためのコスト、という射程を持つ。
この考え方自体はマルクスの独創ではなく、リカードら古典派の「賃金の自然価格」論を引き継いだものである。マルクスの独自性は、そこに「労働力の使用価値(=労働)が、労働力の交換価値(=賃金)を上回る」という一点を差し込んだところにある。この差が剰余価値の源泉になる。
「機械は価値を生み出さない、資本の移動だ」という部分が理解できない、という質問が出た。講師はまず100万円の機械の例で答えたが、そこに別の参加者が入って議論が一段深くなる。
100万円の機械を買えば、そこから作れる商品は100万円分の価値しかない。機械はそれしかできない。だが人は、1万円で雇ったとして、8時間か10時間か12時間かで生み出せる価値が変わる。時間が積み重なっていくイメージ。
1時間で10個作れるなら、10時間で100個、12時間で120個、15時間で150個。この積み上がりが機械にはない。
機械を買って何かをするというのは、そもそも絶対競争ではない。お金と機械は等価交換であり、誰でもできる。だからそこでは競争が生まれない。競争が生まれない以上、機械を買っても超過的な価値は生まれない。
講師の応答は即座だった。「僕のさっきの説明よりは今の説明のほうが適切」。同じ機械を買ってしまえば優位性は出ない。バランスで入れ替わるだけである。
この言い直しが効いているのは、マルクスの命題を競争優位の言葉に翻訳した点にある。「機械は価値を生まない」は、字面だけ読むと機械が生産に寄与しないという明らかに誤った主張に見える。だが「誰でも同額で買えるものからは超過利潤が出ない」と読み替えれば、これは現代の戦略論とそのまま接続する。市場で調達可能な資源は、それ自体では持続的な差を作らない。差を作るのは、市場で調達できない組み合わせや蓄積のほうだ。
マルクスの用語では、機械・原材料など生産手段に投じられた資本を不変資本(c)、労働力の購入に投じられた資本を可変資本(v)と呼ぶ。不変資本は生産過程で自らの価値を生産物へ移転するだけで大きさが変わらないから「不変」、可変資本は投下額を超える価値(剰余価値 m)を生むから「可変」と呼ばれる。講義中の「機械は資本を移動させているだけ」という表現は、この不変資本の価値移転を指している。
したがって「機械は生産に寄与しない」という意味ではない。機械は使用価値の生産には決定的に寄与するが、価値の増殖には寄与しない、というのが正確な主張である。参加者の「誰でも買えるから競争にならない」という言い直しは、この価値移転と価値増殖の区別を、市場競争の側から説明し直したものと読める。
ここで参加者の一人が、講義の構成そのものについて重要な指摘をした。講師は貨幣を語るときと労働を語るときで、まったく同じ図式を使っている。そしてその理由はこうだ、と。貨幣も労働も、言葉としては一語だが、因数分解すればまるで違う効果を持つものが同じ名前で括られている。この括りの粗さから問題が出ている。
資本主義の循環過程を説明するとき、貨幣が使われる。投資して商品を生み出し、その商品がまた貨幣を生む。貨幣→商品→貨幣という循環である。ところが、出てきた貨幣は投じた貨幣より増えている。それでも同じ貨幣である。この違いは何なのか。労働も同じで、労働を維持するための金を払い、実際に労働をしてもらった。それだけなのに、なぜ資本家は儲かっているのか。始まりと終わりが違う。
質的に変わったのかといえば、変わっていない。では質的に変わっていないものが変化したことを、どう説明するか。それを「量」として説明した――これが指摘の核心である。最初に投下されたものと最後にできたものが質的には違わないのに違うものであるということは、量が変化したということだ。この循環の中で貨幣が定義づけられたということは、この循環の中から生み出された価値がある。そこに量的な差を見出した。これが「商品として規定された貨幣」であり、資本としての運命を担わされた貨幣である。
そして労働も同じだ、と議論は続く。労働というのは本来、自分の人生における仕事であったり、喜びを生じさせる仕事でもありうる。ところがこのシステムの中に嵌め込んでしまうと、まるで違う労働になってしまう。そこに対する価値や尊厳といったものが一気になくなり、単なる量的なものになる。労働において軽量化・均質化されたもの、それが「抽象的な人間の労働」である。人間の労働のさまざまな価値や苦労の側面が全部見えなくなって、そういう他のものになってしまう。この構造を、始まりと終わりの矛盾を突く形で説明する理論として、商品論が立てられている。
この指摘に対して講師は、やはり弁証法がベースになっているので基本は二項対立を意識したほうがいい、と応じた。そして次に来るのは商品フェティシズムと限界革命であり、「量から質にどう繋がるか」という話に意識を置いていたので、この流れのほうがいいと思ったと、構成の意図を明かしている。
議論に出た「貨幣→商品→貨幣で増えている」という循環は、マルクスの記法ではG–W–G′(Geld–Ware–Geld′)と書かれ、単純商品流通 W–G–W(商品→貨幣→商品)と対比される。W–G–W は使用価値の獲得で終わるが、G–G′ は増殖そのものが目的になっており、この定式化が「資本」の定義そのものになる。
また、講師が次の論点として挙げた限界革命は1870年代に起きた。ジェヴォンズ『経済学の理論』(1871年)、メンガー『国民経済学原理』(1871年)、ワルラス『純粋経済学要論』(1874年)がほぼ同時期に独立して限界効用の概念を提示し、価値の説明を「投下された労働量」から「最後の一単位がもたらす効用」へと転換させた。労働価値説から効用価値説への軸の移動であり、講義の「量から質へ」という表現はこの転換を指している。
もう一人の講師がここで時代背景から補足を入れた。マルクスが言っているのは平等主義・イコーリティの部分をかなり意識したもので、現代から見ると偏った理論に映る。その理由を、マルクスが立てた労働の分類から説明していく。
| 概念 | 原語 | 内容 | 対応する軸 |
|---|---|---|---|
| 具体的労働 | konkrete Arbeit (concrete labour) | 実際の、個別具体的な労働。質の部分。使用価値・利用価値を生む | 質 |
| 抽象的労働 | abstrakte Arbeit (abstract labour) | 純粋な人間労働一般として同質化されたもの。量が重要になる | 量 |
| 複雑労働 | komplizierte Arbeit (complex labour) | 専門的・熟練を要する労働。単純労働の何倍かに還元できるとされる | 質を量に換算する試み |
この二つ(あるいは三つ)の観点があったとき、マルクス自身は量の尺度を優先した。価値の大きさは基本的に「時間」という量的指標で表現される。それが『資本論』の構造である。ただしマルクスが質を無視していたわけではない。第三の概念として複雑労働を用意し、熟練労働者や特定のスキルを持つ人の労働は単純労働の何倍かに還元できると述べている。係数のようなものに放り込めば計算できる、と。
だが講師の評価は容赦がない。「そこの計算式は激烈に曖昧です。マジで曖昧です」。そして現代のケースで問いを立て直す。AIのスキルがある人と、ワードが打てるだけの人が、同じ労働時間として表現されていいのか。答えは否である。しかし理論の完成のためには、量から入るというプロセスを取らないと矛盾が生じてしまう。だからあえて量に重きを置いた理論になっている。人は平等であるという前提が土台にあり、それが時代背景として存在した、ということである。
思考実験はこうだ。10人でチームを組み、2泊3日かけて1本のプレゼン資料を作る。延べ480時間で成果物1本である。だが同じ資料を30分で1本作れる人がいたら、その人は同じ480時間で桁違いの本数を作れる。ところが時間という量の物差しでは、両者は同じように計算される。生産性も、質的な利用価値も、同じであるはずがない。ここから量から質への転換が必要になる。
「最強は量もやって質もあるやつが最強です。量と質が両方ないと、そもそも勝てませんという時代になっている」――これが講師の結論である。かつては量というところで時間を平等に分配することで金が分散して流れ、最低水準の生活が上がる、という考え方が成立する時代背景があった。だがそれだけでは発展しないから、必ず質の話になる。そして技術の限界が来たら、今度は量に走る。量に走ることでいろんなものが見つかって、また質に変わる。ただしこれも循環にすぎない。
この観点から講師は各国を比較した。中国が強いのは量も質も両方やるから。日本の問題は量を担保して質を上げようとしないこと。ヨーロッパは量を制限して質を上げようとしている。中国とアメリカが経済発展するのは、質も量も両方求めてしまっているから――という整理である。
量的な尺度では正しく評価しきれない、という不満が革命につながるのではないか。ではそれをどうコントロールするのか。ケインズの方向に行くのか、それとも労働組合的なものなのか――という質問が出たところで、もう一人の講師がローザ・ルクセンブルクの名前を出した。
この論点は、その後の研究者が引き継いだ部分である。ローザ・ルクセンブルクは、資本主義は自らのシステムを維持させるために、必ず外部的なものを自分に取り込んでいくと論じた。資本を中心とした社会システムをこのまま維持していったときに生じる歪みを、何が埋めるのか。内部システムが自己修正するのではなく、外部から取り込んでくる。つまり資本主義システムは必然的に価値をめぐる戦争を運んでくる。帝国主義的な活動へ行くのだ、という論証である。
マルクスの思想を引き継いだうえで、資本家が価値を求め、それを政治に圧力をかける形で通そうとする。それに対して、資本主義システムを維持させるための――破綻させないための――戦争が起こる。これが帝国主義的な産業や利潤体系のモデル化へと引き継がれていった。価値と量というものの差が破綻として生まれてくる。それを埋めるための戦争が起こる。この歴史的な循環を説明する理論である。
そして、そこから先は暴力装置の議論に行く道もあれば、同じような労働者をスタンプのように作り出してしまうという教育の問題に行く道もある。マルクスの子どもたちがそれをさまざまな形で発展させている、と見たほうがいい――というのが締めくくりだった。
ローザ・ルクセンブルク(1871–1919、ポーランド生まれのドイツの革命家・経済学者)の主著『資本蓄積論』は1913年刊行。副題は「帝国主義の経済的説明への一つの寄与」。
主張の骨格は、閉鎖された資本主義体系の内部だけでは、資本が生産する剰余価値のすべてを実現(=販売して貨幣に転化)することができない、というものである。したがって資本蓄積は非資本主義的な領域を必要とし、そこへ拡張していく。植民地、農村共同体、前資本主義的な経済圏などが、その外部にあたる。帝国主義とは、この外部をめぐって帝国主義国家同士が争う現象である、と説明される。講義中の「必ず外部的なものを自分に取り込んでいく」「価値の戦争を運んでくる」という表現は、この議論の要約として正確である。
なお講義では言及されなかったが、ルクセンブルクは1919年1月、ドイツ革命の混乱のなかでベルリンで殺害されている。
質問者は「労働者側が資本家を依存させるという関係にも気づけたはずなのに、なぜその発想がなかったのか」と問うた。講師の答えはこうである。新しい職業を作るということ自体が、当時は現代のようには存在しなかった。技術が発展して新しい産業が生まれ、それ自体に価値があるという状態になり、人がスキルアップしていく――そのスピードが、当時は圧倒的に遅かった。
だから、まず分配しなければ暴動が起きたり内戦が起きたりする、反発の多い時代だった。「ある程度金をぶん投げておけば満足するだろう」という発想も成り立った。加えて、質だけを求めれば優秀な者だけが仕事に就き、そうでない者は食えなくなる。当時は戦争や内戦のために「数」も必要だった。どちらかというと両方必要な時代だった、というのが講師の時代診断である。
価値は市場で決定されるという以前の議論と、今日の「価値は貨幣で表示できる」という話を、マルクスはどう繋げていたのか。この質問に対する講師の答えが、この回のもう一つの実務的な収穫だった。
マルクス自身は、労働力が増えれば価値が増えるというイメージで捉えている。労働価値説である。ただし価値と価格は別物だ。同じ商品でも価格比較サイトを見れば値段は変わっている。同じ商品なのだから機能は同じで、できれば安いほうがいい。金をたくさん払ったからいいものが手に入るわけではない。つまり価値は同じでも価格は違う。
では価値とは何か。講師の定義は明快である。価値は価格の変動幅を決めるものにすぎない。物差しにすぎない。価値が上がれば価格も高くなる傾向がある、というだけのことだ。質問者が「では価値は平均点のようなものか」と確認すると、まずはそういうイメージでよい、と応じている。順序としては、まず価値を評価し、それから価格に行く、というステップになる。
この整理から、講師は現代批判を一つ挟んだ。「価格を高くすればいいんじゃないか」と言っている人たちは、そもそも商品自体が分かっていない。商品が分かっていないのに価格を語るから、言っていることがめちゃくちゃになる――という評価である。
講義の終盤、この価値・価格の議論が事業の話に接続された。大抵のものに価格の透明性がない。なぜなら価格の透明性は測れないからだ。「100人分の人件費がかかっているからこの値段にします」と言っても、その人件費が無駄な人件費だったら、それに正当性と透明性はあるのか。妥当性があるかどうかの問題である。「うちは100人分の人件費がかかっています」と言われて、その全員が江戸時代の技術水準の人だったら、顧客はそれで納得するのか。
ここから講師は問いを一つ投げた。ではなぜアメリカの大手企業はいま人員削減をしまくっているのか。価格の透明性と妥当性をどう表現するかを考えたとき、絶対に見なければならないのはサプライチェーンの見直しであり、バリューチェーンの見直しである。それを考慮したうえで事業をやらなければ価格の妥当性が生まれず、人はそのものに対して単に高い・安いと判断するだけになってしまう。
「かかったコストの積み上げで値段を決める」という発想は、実は素朴な労働価値説である。そしてこの回の議論は、その発想の弱点をそのまま突いている。投下された労働量は、それが妥当な労働であったかを何一つ保証しない。マルクスが複雑労働の換算式を曖昧なまま残したのと同じ穴が、コストプラス方式の値決めにも空いている。価格の妥当性を顧客に説明するためには、投入量ではなく、バリューチェーンのどこでどんな質が加わったかを示せなければならない――というのが、この回の理論と実務の接点である。
機械は確かに生産は行う。ざっくり言うと、100万円の機械を買った場合、そこで作れる商品は100万円分の価値しか作れないというイメージ。一方、人はどんどん労働していけばいくほど生み出せる価値が変わる。1万円で雇ったとして、8時間か10時間か12時間かで生み出せる価値が変わってくる。
質問者が「経験によって作業が早くなり価値が上がるイメージか」と重ねたのに対しては、疲労などを抜きにして時間が積み重なっていくイメージだと訂正している。1時間で10個作れるなら2時間で20個、10時間で100個、12時間で120個、15時間で150個。
講師の応答は「僕のさっきの説明よりは、今の説明のほうが適切」。人間に機械並みのことをやらせても仕方がない、ということでもある。同じ機械を買ってしまったら優位性は出ない。質問者が「バランスで入れ替わるだけ」と要約し、講師も「そのほうがより適切です」と認めた。当日、講師自身の説明が参加者によって上書きされた唯一の場面である。
指摘はさらに続く。資本主義の循環過程では、貨幣が商品を生み、商品がまた貨幣を生む。だが出てきた貨幣は増えている。同じ貨幣なのに増えている。労働も同じで、労働を維持するための金を払って労働してもらっただけなのに、なぜ資本家は儲かっているのか。始まりと終わりが違う。質的に変わったわけではないのに変化している。この矛盾を説明しなければならない。
その説明として持ち出されたのが「量」である。質的に違わないものが変化したのなら量が変化したのだ、と。この循環の中から生み出された価値がある、量的な差を見出した、というのが「商品として規定された貨幣」であり、資本としての運命を担わされた貨幣である。労働についても同じで、システムに嵌め込まれた瞬間に価値も尊厳も消え、単なる量的なもの=抽象的な人間の労働になってしまう。
講師の応答:弁証法がベースなので基本は二項対立を意識したほうがいい。そして次に来るのが商品フェティシズムと限界革命であり、「量から質にどう繋がるか」を意識してこの流れにした。
具体的労働(concrete labour)が質の部分で使用価値・利用価値を生み、抽象的労働(abstract labour)が量の部分で、人間労働は一般として同質化されたものとして扱われる。この二つの観点があったとき、マルクス自身は量の尺度を優先した。価値の大きさは時間という量的指標で表現される。
ただしマルクスは質を無視していたわけではなく、第三に複雑労働(complex labour)を置いて、専門的・熟練的な労働は単純労働の何倍かに還元できるとした。ただしその計算式は極めて曖昧である。現代で言えば、AIのスキルがある人とワードが打てるだけの人が同じ労働時間として表現されていいのか、という問いに対して答えは否だが、理論を完成させるためには量から入るプロセスを取らざるをえなかった。人は平等であるという前提と、その時代背景がある。
講師の答え:新しい職業を作るということ自体が、当時は現代のようには存在しなかった。技術が発展して新しい産業が生まれ、人がスキルアップしていくというスピードが、当時は遅かった。だからそこまでの想像には至らず、まず分配しないと暴動や内戦が起きる、反発の多い時代だった。ある程度金をぶん投げておけば満足するだろう、という発想もあった。
また資本家からすると、質だけを求めれば優秀な者だけが仕事に就き、そうでない者は食えなくなる。当時は戦争や内戦のために数も必要だった。どちらかというと両方必要な時代だった。現代のアンチテーゼは「質より量だ」ではなく、量的なものもしっかり確保しなければならないが、ずっと質や資本家にコントロールされてきたことが問題だ、という形になる。なおマルクス自身も質のことは書いており、補うようなことは言っている。ただ現代から見るとかなりずぼらである。
その一人がローザ・ルクセンブルクである。資本主義は自らのシステムを維持させるために、必ず外部的なものを自分に取り込んでいく。内部システムが歪みを自己修正するのではなく、外部から取り込む。つまり資本主義システムは必ず価値の戦争を運んでくる。帝国主義的な活動へ行く、という論証に結びつく。
マルクスの思想を引き継いだうえで、資本家が価値を求め、政治に圧力をかける。それに対して資本主義システムを破綻させないための戦争が起こる。これが帝国主義的な産業や利潤体系のモデル化へ引き継がれた。価値と量の差が破綻として生まれ、それを埋めるための戦争が起こるという歴史的循環の説明である。そこから暴力装置の議論に行く道も、同じような労働者をスタンプのように作り出す教育の問題に行く道もある。マルクスの子どもたちがさまざまな形で発展させていると見たほうがいい。
マルクス自身は、労働力が増えると価値が増えるというイメージで捉えている(労働価値説)。ただし価値と価格は別物である。同じ商品でも価格比較サイトを見れば値段は違う。同じ商品なら機能は同じだから安いほうがいい。金をたくさん払ったからいいものが手に入るわけではない。
したがって価値は価格の変動幅を決めるものにすぎず、物差しにすぎない。価値が上がれば価格も高くなる傾向がある、というだけである。質問者が「価値は平均点のようなものか」と確認したのに対しては、まずはそういうイメージでよい、と応じている。順序は、まず価値を評価し、それから価格に行く。
質問者が「今の時代は価格を高くすればいいと言っている人もいて、価値と価格が分からなくなる」と述べたのに対しては、そういう人たちはそもそも商品自体が分かっていない。商品が分かっていないのに価格を語るから、言っていることがめちゃくちゃになる、という評価だった。
なお講師は、価格に対するアプローチにはマルクス的なものと、以前扱ったMR=MC(限界収入=限界費用)のアプローチという二つの大きな潮流があると述べ、利潤とは何かを紙に書いて全部説明する回を別途設けると予告している。