この回は、主宰者が自らのコミュニティを「どういう設計思想で作ったのか」を、初めて全体像として言語化した回である。組織論の教科書的な話ではなく、実在するひとつの組織の入口から出口までの設計を、本人が図に書きながら開示していく。本レポートはその設計思想の部分を扱う。
この回の前半は理念論の講義と参加者の議論に費やされ、後半のおよそ1時間が主宰者本人による「マイキークラブの設計」の開示にあてられている。話の起点は、勉強会の直前に複数の講師と交わした対話だった。「私だったらこう運営するのに」「この運営方法が嫌いだ」という意見が会員から届いており、そうした不満がなぜ生じるかも含めて全部わかったうえで設計しているのだ、だから一度ロジックを開示する――という前置きから本題に入る。
開示された内容は、要約すれば「社会一般の評価基準の真逆を、意図的に実装した」という一点に集約される。世の中は、金を持っている人・年長者・常識やルールを守る人を高く評価する。この評価軸に対して、知識と経験を持つ人を優遇し、他人を不快にさせない配慮より自分の意見を言える人を評価し、過去の実績ではなく環境への適応能力を測る、という逆張りの評価制度を組んだ。逆張りである理由は感情ではない。金銭的成果の7〜8割は運であり、知識と経験だけは時間を投資しない限り絶対に得られないという、資源配分上の判断がある。
設計の目的として本人が挙げたのは三つだった。第一に、金を持っていなくても能力のある人材を発掘すること。金を評価軸にしたコミュニティでは、そもそも発掘対象が「すでに金を持っている人」に限定されてしまい、フィルターがかかる。第二に、現在優遇されている人が本当に評価に値するのかを検証すること。環境を変えても同じ評価を受けるなら実力だが、環境を変えたとたん評価されなくなるなら、それは「環境ガチャ」でしかない。第三に、日本社会の同質化問題を壊すこと。経営者は経営者だけで固まり、会社員は会社員だけで固まる。米中では当たり前になっているアカデミックと経営者の交差が、日本では断絶している。
そして最後に、この設計を成立させるために本人が支払っているコストが開示される。コミュニティ運営で金を稼ごうとすれば、会費を取ったうえでバックエンド商品を売り、更新料を取り、外部の商材を紹介して手数料を抜くことになる。長期的に学ぶ場を作りたいなら、その収益源を全部捨てなければ成立しない――「お金を稼ぐという発想を捨てない限りコミュニティは成り立たない」という言い方で、トレードオフの構造が説明された。継続費用を月額水準まで下げているのも、参加者のキャッシュフローを守り、長期的に学び続けられる状態を作るための設計だと説明されている。
この回は、冒頭から予告があった。数日前から複数の講師と長時間の対話を重ねており、「組織作りってここまで考えて作ってるんだ」という部分を参加者に分かってもらいたい、自分の頭の中がどうなっていたのかを出そうと思っている――と、開始から6分ほどの時点で本人が述べている。実際の開示は開始から1時間ほど経った時点で始まった。
開示に踏み切った直接の理由は、会員側の状況にあった。新規参加者が継続的に増え続けており、この時期には百数十名規模の追加があったと述べられている。何年も在籍していながら設計意図の説明を受けていない会員も多い。同時に、「私だったらこう運営するのに」「この運営方法が好きではない」という意見が、直接ではなく講師を経由して本人に届いていた。運営に対する不満そのものは想定内だが、その不満が「設計されていないからそうなっている」という誤解に基づくのであれば、一度ロジックを開示したほうがよい――という判断である。
興味深いのは、この開示について「後出しのほうがいい」という同意が講師側から示されている点だ。理念やオリエンテーションを先に配ってしまうと、参加者は毎回の講義をその枠組みに当てはめて理解するだけになる。むしろ一つひとつのルールのように見えるものを自分で繋げようとしてきた人にとって、後から示される全体ビジョンは強い意味を持つ。言葉にしてしまうと陳腐に聞こえる内容でも、体験を経てから聞くからこそ重みが出る、という趣旨の指摘だった。
この前提は、後述する評価制度と直結している。理解できる範囲の情報だけを提供する場は、参加者の現在の処理能力を再確認させるだけで、能力の伸長を生まない。だから講義は難易度を落とさず、置いていかれても構わないという運用になる。そして、置いていかれた側が「もっと分かりやすく説明してほしい」と言ってきたときの返答も設計に含まれている――分からない時点で対応できていないのだから、どうやって対応するかを考えればよい、あなたが対応できなかった理由は何が足りなかったのか、という問いに変換される。
設計の説明は、定義から始まった。ビジネススクールと呼んでいるが、実態は何かといえばコミュニティである。コミュニティとは人の集合体を指す言葉であり、その意味では会社も国も地域も同じカテゴリに入る。では自分にとってコミュニティとは何かというと、「社会実験場所」である――これが出発点として置かれた。
この定義は、世の中の大半のコミュニティと明確に異なる。営業のコミュニティであれば影響力をどう高めるか、ビジネスのコミュニティであればビジネス能力をどう高めるか、音楽であれば情報交換と売れるための方法論、というように、通常のコミュニティは特定の目的に特化することで成立している。本人の表現では「限定性が高い」。マーケティングのコミュニティならマーケティング以外はやらない、という形で範囲を絞ることが、コミュニティの効率性を担保している。
社会実験場所という定義を採ると、この限定性が逆に邪魔になる。実験とは、条件を変えたときに何が起きるかを観察する行為だからだ。何を変えるのかといえば、評価基準である。既存社会の評価基準が支配的に働いている場所では、既存社会と同じ結果しか出ない。だから評価基準そのものを差し替えた環境を作り、そこで人がどう振る舞うか、誰が浮上して誰が沈むかを観察する――という構造になる。
本人はこの設計を最後に「仮説検証」という言葉で締めている。参加者がどう変化するかによっては自分の考えているものが失敗に終わる可能性があり、その場合は「環境を変えたとしても人は変わらないという結論になるだけだ」と述べた。つまり、コミュニティ側が一方的に価値を提供する構造ではなく、参加者の変化そのものが検証対象として位置づけられている。この非対称性——実験の被験者が実験のコストを払っていない(後述のとおり収益を取らない設計)——が、この組織の特殊性を作っている。
なお、実在するコミュニティの内部運営に関する記述は、すべて主宰者本人の説明に基づく。会員数・収益性・費用構造は第三者による検証ができない自己申告であり、本レポートでは発言内容としてそのまま記録するに留める。要確認
説明はきわめて実務的な手順を踏んだ。まず、世の中の評価基準を白紙に書き出す。第一に、金を持っている人が偉い。第二に、年を取っている人が偉い(年功序列)。第三に、常識的な人、ルールを守る人、フォロワーとして振る舞える人が「すごい人」とされる。皆がセミナーに行くのも「すごい人だから話を聞こう」という動機であり、この三つが実質的に社会の評価関数を構成している、という整理である。
そのうえで、自分のコミュニティの評価基準を書く。金を持っている人よりも、知識と経験を持っている人を優遇する。理由は明快に示された――ビジネスも投資もやってきて分かったこととして、金儲けというのは7対3、あるいは8対2で運が実力を上回る。一方で経験というものは、時間を投資しない限り絶対に得られない。だから、運の寄与が大きい変数(金額)ではなく、時間投資の証跡である変数(知識・経験)を評価軸に置く、という論理である。
第二の軸は、年齢の扱い方である。ここでは株式に喩えた説明がなされた。年配の人と若い人、どちらに将来性があるかといえば若い人である。ということは、年を取るにつれて評価されなくなる可能性が構造的に存在する。したがって年配側に必要となるのは、若さでは代替できない資源、すなわち知識と経験を持ったうえで若い層と融合することである。本人自身も「もう若い人ではない」と付け加えている。年功序列を否定しているというより、年齢が持つ資産価値の減価を前提に置いたうえで、何を積むべきかを示している。
第三の軸が、この設計で最も摩擦を生む部分である。日本には「相手を不快にさせない」ことを美徳とする文化があり、それが実質的な評価基準になっている。これに対して、この場では相手に悪口を言える人、自分の意見を言える人を評価する。たとえ人を傷つけることになっても、である。そして評価対象となる能力は、コミュニケーション能力・アウトプット能力・プレゼンテーション能力に、創造性を掛け合わせたものとして定義された。
| 評価の対象 | 社会一般の評価基準 | この設計での評価基準 |
|---|---|---|
| 資産 | 保有金額が大きいほど偉い | 金額は問わない。知識と経験の蓄積量を見る |
| 年齢・在籍 | 年功序列。長く在籍しているほど偉い | 年齢は減価する資産。知識・経験との融合があるかを見る |
| 態度 | 常識的でルールを守るフォロワー | 意見を言える人。相手を不快にさせても発言できるか |
| 実績 | 過去の数字(売上・年収・上場) | 実績はどうでもよい。適応能力と自己変革の姿勢を見る |
| 能力の中身 | 専門領域での成果 | 言語化・プレゼン・ユーモア・創造性の掛け算 |
第一の目的は、発掘である。ここでの論証は反実仮想の形をとった。金額で評価するコミュニティを想像してほしい。ビジネススクールと呼ばれる場には年商数十億という参加者が大勢いる。その人たちを評価軸の上位に置いたとして、いま講師として立っている人物たちを発掘できたか――「無理でしょう」という結論である。
言い換えれば、金という指標はフィルターとして機能してしまう。優秀な人材は存在するが、既存の評価制度の中では評価されない人たちが一定数いる。金持ちが優遇される場では、その人たちは手を挙げることすらしない。本人の比喩を借りれば、暗号資産で一発当てて数十億を稼いだ人と、時間をかけて知識を積み上げてきた研究者や実務家と、どちらが凄いのか。後者だと考える、なぜなら知識は絶対的な時間投資なしには得られないからだ、という判断である。
第二の目的は、検証である。いま社会で優遇されている人は、本当に能力があるのか、それとも単にその環境に適合していただけなのか。これを判別する方法は一つしかない――環境を変えることである。環境を変えても評価されるなら実力であり、環境を変えたとたん評価されなくなるなら、それは「環境ガチャ」でしかなかったことになる。
だからこの場では、プレゼンテーション、言語化能力、ユーモア、創造性を評価軸に置く。大企業の社長かもしれない、部署の責任者かもしれない、しかし環境が変わったこの場でどれだけの評価を受けているか。評価を受けているなら適応能力が高い人であり、受けていないなら適応能力が低いということになる、という判定になる。ここで「あなたは適応できていない」と告げられることの意味は小さくない。既存の環境での成功が、能力の証明としては扱われないからである。
第三の目的が、同質化の破壊である。日本の社会問題として指摘されたのは、経営者は経営者だけで固まり、会社員は会社員だけで固まるという分断だった。これに対して米国や中国では、独自路線の経営が次々に立ち上がってくる。その差は何かというと、アカデミックとの断絶である。米中ではアカデミックと経営者、あるいはアカデミックと会社員が交差することが当たり前になっているが、日本ではそれが起きていない。
経営者は金を儲けるのが上手いが、知識は限定的になりやすい。そこにアカデミックの知識を接続すれば、戦略の選択肢が拡大し、同質化から外れることができる。だからこの場には経営者も大量に入れるし、学術的なバックグラウンドを持つ人も入れる――という構成の理由が説明された。とりわけアカデミックに重点を置く理由は、日本人が「知の探索」を苦手としているからであり、それはリサーチ能力の欠如として現れる、と続く。
「経営者だけで固まると戦略の選択肢が狭まる」という指摘は、経営学では組織学習の文脈で裏づけがある。ジェームズ・マーチが1991年に Organization Science 誌へ発表した論文 "Exploration and Exploitation in Organizational Learning" は、シミュレーションによって、組織が既存知の活用(exploitation)に偏ると短期的には効率が上がるが、長期的には自己破壊的になることを示した。同質な集団は同質な知識しか循環させないため、この偏りが加速する。
なお、この理論の詳細——コンピテンシー・トラップ、知の探索と知の深化、両利きの経営——は本セッションの後半でまとめて扱われており、本レポートとは別に理論編としてまとめている。ここでは「同質化の破壊」が思いつきではなく、既存の組織学習理論を実装先として選んだ結果であることだけ確認しておく。
ここまでの三つの目的を、より抽象度の高い言葉で整理し直したのがこのパートである。現在の社会の評価制度とは何かといえば、静的資産価値である。実績、年収、保有資産。すべて過去に積み上がったストックであり、時点で切り取れば静止している。これに対して、この場が評価したいのは動的対応力である。知識と経験のプロセス、未来への投資すなわちポテンシャル、そして環境対応。いずれも時間微分の側にある変数だ。
| 評価の性質 | 静的資産価値(社会一般) | 動的対応力(この設計) |
|---|---|---|
| 測る対象 | ストック(累積量) | フロー(変化率・成長率) |
| 具体的な指標 | 実績、年収、役職、上場の有無 | 知識・経験のプロセス、ポテンシャル、環境対応 |
| 時間軸 | 過去に達成したこと | 今後どれだけ変化できるか |
| 数値化 | 数字で見える | 数値化しにくい(=面白いかどうか、が代理指標になる) |
| 弱点 | 環境が変わると評価が無効化する | 評価者の負担が大きく、一貫性と信用が必要 |
日本社会に根強く残る評価軸として名指しされたのは二つだった。ひとつは成果主義、より正確には「金銭的成功=偉い」という等式である。もうひとつはハイコンテクスト文化、すなわち察する能力と暗黙の了解を賢さと見なす価値観である。この二つに対して掲げられたのが、能力による格差(知識・行動・発想)と、察する文化の否定だった。
そして、この評価基準の変更こそが、VUCA——変動性・不確実性・複雑性・曖昧性——の時代における最も合理的な生存戦略である、という結論が置かれる。実績のみで人を評価してしまうと、この四つの性質に対応できなくなる。だからプロセスと適応能力への投資が決定的に重要になる、という論理構成だった。
VUCA(Volatility/Uncertainty/Complexity/Ambiguity)は、1987年の米陸軍戦略大学のカリキュラム開発資料が初出とされる軍事由来の概念である。冷戦終結後の1990年代に国際情勢を指す言葉として定着し、2010年代に経営・マネジメントの文脈へ流入した。裏取り済
もともと「予測可能性が失われた戦場でどう指揮するか」という問いに答えるための概念であることを踏まえると、この回で提示された「評価基準の変更こそが最も合理的な生存戦略」という主張は、VUCAの本来の含意に沿っている。予測不能な環境では、過去の実績を根拠にした人選が最も脆くなるからである。
この設計で最も誤解されやすい部分が、「格差と差別の社会を作る」という表現である。これは環境適応能力の話だ、と本人は説明する。変化が起きている以上、全員が対応できるわけではないのだから、格差は生まれて当たり前である。パソコンが導入されたとき、使える人と使えない人に分かれた。インターネットが出てきたとき、携帯電話やスマートフォンが出てきたとき、同じことが起きた。いま世界中で環境が変化している以上、格差が生まれるのは当然の帰結である。
問題は、日本社会が「格差が生まれること自体が良くない」という風潮を持っていることだ、という指摘が続く。だからこそ社会実験場所として、格差と差別を明示的に組み込む。適応できた人はできたし、できなかった人はできなかった、という結果が可視化される場を作る。実際に、環境変化に適応できなかった層が補助金や給付金を求める一方で、適応した層は資産を増やしている――という現実の対比が、この設計の妥当性の根拠として挙げられた。
この点について、参加者の一人から鋭い対比が提示された。他のコミュニティを複数経験してきた立場からの発言である。多くのコミュニティでは、講義そのものが次の商品への教育になっている。バックエンド商品が必ず売られ、それを買わなければ成長できないと刷り込まれる。それを繰り返されると、参加者は知らないうちに搾取され、結果として勉強を続けられなくなる。
そのうえで、決定的な違いが指摘された。他のコミュニティは、格差を意識させないまま格差をつけているのに対し、この場では格差をつけると先に口で言っている。前者は「私たちはフェアに扱っています」と言いながら、実際には金を払った人が優遇される導線を作っている。だから優遇されたい人はさらに払う。この構造では、結局は金を持っている者が勝つ。それを潰したい、というのが本人の応答だった。
設計の最後のブロックが、収益構造の開示だった。長期的に学べるコミュニティを作ろうとしたとき、絶対的にトレードオフになるものがある――それが金である、という切り出し方をしている。
コミュニティ運営で金を稼ごうとするなら、やることは決まっている。まず会員費を払ってもらう。その後にバックエンド商品を次々に売る。継続したければ更新費用として数十万円を払ってもらう。面白い人がいるからこの商材を買ってくださいと紹介し、そこから手数料を抜く。これをやり続けているコミュニティはいくらでもあり、結果として参加者は辞めていく――という診断である。
これに対して、自分は会員に商品を売り付けたことがなく、誰かをここに連れてきて商品を買わせるようなこともしていない、と述べる。実際にこの時期にも「マイキーさんのところで売らせてもらえませんか」というオファーが多数届いており、仲の良い相手からのものも含めて全部断っていると説明された。理由は明快で、それをやると自分の判断基準が金になってしまい、コミュニティの構造が崩れるからである。
そのうえで本人は、収益性について強い主張を行っている。バックエンドを売らず、外部誘導もせず、広告費もかけていないにもかかわらず、この業界で自分より利益率の高い運営は他にない、というものである。会員数の規模でははるかに大きいコミュニティに対して、収益性では勝っているという趣旨の発言が、具体的な人数を挙げる形で複数回なされた。
会費水準・会員数・利益率・広告費に関する記述は、いずれも主宰者本人の口頭説明のみを根拠としており、公開された財務資料や第三者の監査に基づくものではない。要確認
本レポートは、これらの数値の真偽を判定する立場にない。ここで意味があるのは数値そのものではなく、「収益を取らないという制約を先に置き、その制約下で成立する設計を逆算した」という構造の側である。制約を先に置く設計は、制約を後から調整できる設計より、意思決定の一貫性を保ちやすい——という点が、この回で開示された方法論の中身にあたる。
収益を捨てる理由として説明されたのは、時間軸の問題である。人間はすぐには変われない。考え方を変えても、外部との接触ですぐ元に戻る。だから講義の回数を多くしている、元に戻らないように――という説明があった。長期的に接触し続けるためには参加者が経済的に継続できなければならず、そのためには運営側が短期的な収益を諦めるしかない。ここでも一貫して、短期と長期のトレードオフが判断基準になっている。
開示の後、参加者から重要な補助線が引かれた。設計というのは、要するに一貫性を保つことであり、一貫性を保つとは誤解される行動を全部排除するという意味だ、という指摘である。
この読み替えは有用である。「どうせ金目当てなんでしょう」「結局は口だけなんでしょう」と言われうる余地を、あらかじめ全部潰しておかなければ、この行動は取れない。バックエンドを売らないのも、外部商材の紹介を断るのも、単に金に興味がないからではなく、そこに一つでも例外を作った瞬間に「やはり金なのだ」という解釈が成立してしまうからだ。全ての行動を排除したうえで、どうすれば周囲から一貫性が見えるか、皆が一貫性を認めてくれるかを想定しないと、この設計は動かない。
本人もこれを肯定し、「人がどう誤解してくるかまで先に読んでいないとできない」「上がってくる不満が大体こういうものになるだろうと分かったうえで作っている」と述べている。人はおそらくここに不安を持つ、ここに不満を持つ、と想定したうえで構造を組む。この点が、設計されたコミュニティと、人を集めて適当に講義をしているだけの場との差になる、という整理だった。
この回の締めくくりで繰り返し強調されたのが、この点である。良い話が聞けたと納得した瞬間に終わっている、なぜ良かったのか・なぜ悪かったのかというところまで一歩踏み込まないと成長しない、という指摘があった。会社組織であれば、これを自分で作らなければ経営者ではない、という言い方もされている。
別の参加者からも同趣旨の発言があった。今日の話で意図は見えたはずだが、「いい話だった」で終わったら本当に意味がない。だから次は自分がどうするのか、どういう目的で経営するのか、この講義に参加するのかを意識して言語化したうえで参加する。それだけでかなり変わるはずだ、という提案である。普段話さない部分が開示された回だからこそ、受け取り方が問われる、という締め方だった。