本レポートの概要
この回のレポートは全3本に分割している。本ファイルはその2本目、テーマは「マルクス批判の骨格と、複雑性という方法」である。
前半の講義が「東エルベで何が観測されたか」だったのに対し、後半は「その観測から何が導かれたか」に移る。中心にあるのは経済決定論への批判である。マイキー氏はこれを最も平易な形に圧縮した。マルクスは金がすべてを決めていると言い、ウェーバーは宗教や文化も大事ではないかと言った。そして階級闘争についても、資本家と労働者という二項で歴史が成り立ってきたわけがない、文化も宗教も政治も絡んでいる、と応じた。それだけの話だと考えれば分かりやすい、という整理である。
渡辺氏はこれを別の言い方に置き換えた。ウェーバーが研究したのは歴史を動かすエネルギーは何かである。マルクス的な要因もあるかもしれないが、それだけで成立していない動因がある。人類史の初めから追っていけば、それは宗教を追うことになる。そして地域ごとに、自国民の文化に目覚める時代もあれば、目の前の紛争にとらわれている時代もある。説明理論は一つではなく、使い分けなければならない——社会学を関係性の学問として豊かにした人だ、というのが渡辺氏の評価だった。
そして終盤、マイキー氏がこの回で最も引用しやすい論点を出す。当時は各分野のスペシャリストが一点突破で理論を作るのが主流であり、シンプルなモデルが好まれていた。ウェーバーはそこに逆張りをした。現実社会はそんなにシンプルではない、だから理論も複雑に作ったほうが説明がつく。結果として処理できる人も議論に参加できる人も少なくなり、軽視されたり視野から外されたりする。複雑さは欠陥ではなく、意図された設計だったという読みである。
金がすべてを決めているのか
マイキー氏は、参加者に向けてもっと単純な入口を提示した。ウェーバーがマルクスをどう批判したかに着目すれば分かりやすい、という提案である。批判は大きく二本ある。
第一の批判――経済決定論
マルクスは、経済がすべての社会を、したがって歴史を決定すると考えた。上部構造は下部構造によって決まる、という説明である。これに対してウェーバーが言ったのは、経済だけがすべての構造を決めるわけではなく、価値観も文化も宗教もあるだろうということだった。
マイキー氏はここで、なぜウェーバーがそう言えたのかにも触れている。この人物はかなり多くの学問に精通していたので、いろいろな要素が見えた。だから経済だけで決定するなどおかしいのではないか、と訴えることができた。視野の広さが批判の根拠になっているという読みである。
第二の批判――階級闘争
マルクスは歴史の階級闘争が結果として資本家(ブルジョアジー)と労働者(プロレタリアート)の二層編成を生んだと言い、これが階級社会を生んでいるとした。マイキー氏はこれをミクロ的な視点にすぎないのではないかと批判する。
その実例として持ち出されたのが現代の国際分業である。仮にアメリカが資本家で、日本・台湾・韓国が労働者だとすると、この両者は対立していないと言えてしまう。もっとマクロなもので言えばこれも階級闘争になるはずだが、二項対立の枠では捉えきれない。
ウェーバー側の主張として、マイキー氏は次のように整理した。階級だけでなく、権力・地域・文化的要素も社会を動かす要因である。同じ収入の人でも、職業や社会的地位によって影響力が異なってくる。だから二つの対立構造だけで社会構造が作られているわけではない。多角的な視点を入れれば入れるほど世界は大きくなっていくことを示した人がウェーバーだ、というのがマイキー氏のイメージである。
整理として妥当ウェーバーの階層論は、社会的不平等を階級(Klasse)・身分(Stand)・党派(Partei)の三次元で捉える。階級は市場における財の処分機会、身分は社会的名誉と生活様式、党派は組織的な権力獲得の手段にかかわる。「同じ収入でも職業や社会的地位で影響力が異なる」というマイキー氏の説明は、この身分の次元を指しており、階級一元論への批判として的を射ている。
押さえておきたい非対称ただし、ウェーバーがマルクスを「否定した」と読むのは正確ではない。ウェーバー自身は経済的要因の重要性を否定しておらず、『プロテスタンティズムの倫理』の末尾でも、精神的要因による一面的な因果解釈を、唯物論的な一面的解釈に置き換えることを戒めている。「経済だけではない」であって「経済ではない」ではない。前田氏が講義冒頭で「認めるからこそ批判する」と述べた区別が、ここで効いてくる。
渡辺氏の言い換え――歴史を動かすエネルギー
マイキー氏に振られた渡辺氏は、より抽象度の高い定式に置き換えた。ウェーバーが研究したのは「歴史を動かすエネルギーは何か」だと自分は思っている、という言い方である。
そのエネルギーを決定した要因はマルクス的なところにもあるかもしれないが、それだけで成立していない要因がある。それを各地域の人類史の初めから追っていくと、宗教を追うことになる。そして歴史を追うことで「その地域が自国民の文化に目覚めるのはいつか」を考えると、歴史も分割して考えなければならない。自発的に主体性を持って自分の国民性や宗教や文化が見える時代もあれば、目の前の紛争をどうするかにとらわれている時代もある。説明理論を一つに決めず、複数のエネルギーを使い分けて説明しなければならない——そこで社会学を関係性の学問として豊かにした人だ、というのが渡辺氏の結論だった。
プロテスタントというバイアス
マイキー氏は、ウェーバー自身にかかっているバイアスも指摘した。ウェーバーはプロテスタントであり、宗教的な価値観が資本主義を発展させたと考えた。マイキー氏の言い方では、そこには「優秀なプロテスタントは金儲けがうまいだろう」と決めつけている部分もある。そして「優秀だから金儲けがうまいというのは、よく分からないのですが」と、その論法自体には距離を置いている。
発言と学説の食い違いこの論点は宗教にかかわるので、丁寧に分けておく。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904–05)の主張は「プロテスタントは優秀だから金儲けがうまい」ではない。ウェーバーの論証は、カルヴァン派の予定説が信徒に救済の確証をめぐる強烈な不安を与え、その不安への対処として世俗内禁欲——職業労働への献身と消費の抑制——が生まれ、その意図せざる結果として資本の蓄積が進んだ、という構造をとる。宗教的動機は蓄財を目的としておらず、資本主義の精神はその副産物として析出したというのが眼目である。したがって「優秀さ」を出発点に置く読み方は、ウェーバーの因果の向きとは異なる。
ただし批判の存在は事実一方で、ウェーバーのテーゼに対する批判は当時から現在まで続いている。カトリック地域でも商業資本主義が先行していた(ヴェルナー・ゾンバルトやアミントレ・ファンファーニ以来の指摘、北イタリア諸都市の事例)、統計的裏づけが弱い、といった論点である。「ウェーバーにバイアスがある」というマイキー氏の見立て自体は、学説史上まったく孤立した見解ではない。問題はバイアスの中身の特定であって、そこは上記のとおり、優秀さの前提ではなくプロテスタンティズムを特別扱いする問題設定そのものに置くほうが批判として強くなる。
この節の記述はマイキー氏の見解として明示的に扱っている。ウェーバー擁護の立場、批判の立場のどちらも学界に存在し、決着していない論争である。
19世紀末ドイツで、何が争われていたか
渡辺氏が最も強調したのは、ウェーバーを「難解な人」というイメージで読むなということだった。当時ドイツの歴史学・経済学・法学はすべて論争のただ中にあり、その論争の中でどちらを取るかという選択を、目の前の政治的・経済的状況の中で常に迫られていた。その岐路に立たされた一人の個人として見る——これが渡辺氏の提案する読み方である。
争点はこうだった
渡辺氏が挙げた争点は具体的である。歴史における理論とは何か。自然科学の方法は歴史にどう適用されるべきか。合理的な体系はどう作られるべきか。歴史を読み解く方法論はどう確立されるべきか。そのどちらを重視すべきか。これによって法学も経済学も歴史学も見方が完全に二つに割れる。
渡辺氏は参加者に問いかけている——こういう論争があるのだが、すぐに答えられるか。この二択が未決のまま、ドイツという国はイギリスやフランス、アメリカの状況も見ながら自分たちの方向性を決めなければならなかった。
渡辺氏はさらに、当時の学際的議論の内実を挙げた。心理主義をどうやって持ち込んではいけないか。文化を論じる領域に再現可能性はあるのか。集団と個人のどちらに本質的な主導権を握らせるべきか。ウェーバーはこうした論争の影響を強く受け、古い思考様式を解体することを積極的にやっていた点にこの人の着眼点の面白さがある、というのが渡辺氏の評価である。
裏取り済渡辺氏の言う「論争」の具体的な名は方法論争(Methodenstreit)である。1883年、カール・メンガーが『社会科学とくに経済学の方法に関する研究』を刊行して歴史学派の原理を批判し、同年グスタフ・シュモラーが激しい書評で応じたことで始まった。19世紀後半のドイツ語圏の経済学は、ヴィルヘルム・ロッシャー(1843年の綱領的著作)からカール・クニース、ブルーノ・ヒルデブラント、そしてシュモラーの新歴史学派へと連なる歴史学派が学問的にも大学人事的にも支配的だった。ウェーバーはこの学派の内側に位置しながら、その方法を批判的に整理する仕事をした。
裏取り済この日、渡辺氏が名前を挙げたメンガー、シュモラー、ヴィルヘルム・ロッシャーはいずれもこの論争の当事者である。ウェーバー自身は1903年から『ロッシャーとクニース、および歴史学派経済学の論理的諸問題』を書き始め、この論争の論理的前提を検討している。療養期に取り組んだ仕事であり、前田氏が前半で述べた「葛藤の後に代表作が出てくる」という時期と重なる。
裏取り済渡辺氏が言及した新カント派とハインリヒ・リッケルトは、南西ドイツ学派(バーデン学派)に属する。ウェーバーの方法論はリッケルトの影響下にあり、自然科学の法則定立的な認識と、歴史・文化科学の個性記述的な認識を区別する枠組みを継承している。渡辺氏の「新カント派の影響を受けている、リッケルトの影響を受けている」という指摘は正確である。
批判上等で書いていた
前田氏は自分の印象として、ウェーバーは批判されることを前提に書いているような気がすると述べた。逆に言えば、そうしなければ議論が起きない、学問にならないという意識を持っていたのではないか。表現の仕方でギリギリのところを攻めている印象があり、それは意図的だったのではないか、という読みである。
渡辺氏はこれに同意し、具体例を添えた。ウェーバーが「純粋なものは戯画にすぎない」といった言い方をしているところは挑発的だ、と。そしてこう続ける——だからこそアメリカ的なものにも惹かれていったのではないか。そういうところが、ドイツにとどまらない学者になれた理由でもあるのではないか。
この応酬に前田氏が返した比喩が、この日の会話でおそらく最も印象に残る一言だった。
権威か倫理か――16世紀を知らないと読めない
参加者の齋藤氏が「お二人の話の10%以下しか分かっていないと思う」と率直に述べたのを受けて、マイキー氏が前提知識の所在を示した節である。ここは宗教にかかわる論点なので、誰の見解かを明示して記録する。
マイキー氏が示した前提
マイキー氏の主張はこうである。ウェーバーは宗教の話をかなりしているが、16世紀の宗教改革から何が起きたのかが分からないと、ウェーバーのやりたいことは分からない。この200年ほどのヨーロッパの対決とは何かと言えば、カトリックの権威性 対 プロテスタントの倫理性の戦いである。
そしてマイキー氏は、より踏み込んだ解釈を提示した。「マックス・ウェーバーがやろうとしたのは、このプロテスタントの倫理性を広げる啓蒙活動でもあるわけです、これって」。つまり中立的な記述ではなく、価値的な運動としての側面があった、という読みである。
対立する見方がある論点この解釈はマイキー氏個人の見解として明示的に扱う必要がある。ウェーバー自身は、自分を「宗教的に音痴(religiös unmusikalisch)」と表現しており、信仰の当事者としてではなく分析者として宗教を扱う立場を取った。また『職業としての学問』では、講壇から価値判断を説くこと(講壇預言)を明確に退けており、学問は価値の当否を決められないという立場を打ち出している。「啓蒙活動だった」という読みは、この自己規定と正面から食い違う。
ただし、ウェーバーの叙述にプロテスタンティズムへの評価的な傾きを読み取る解釈も、学説史のなかに実在する。プロテスタント的な禁欲的職業倫理を近代の合理性の起源に据える構図そのものが、ヨーロッパ中心的で価値負荷的だという批判は繰り返し提起されてきた。したがって「マイキー氏の読みは学界の一部の批判と方向を共有するが、ウェーバー本人の自己規定とは対立する」という二重の位置づけで理解するのが正確である。この日の議論では反対意見は出ていない。
予定説――カルヴァン派とルター派の違い
マイキー氏は齋藤氏に具体的な確認をした。『プロテスタンティズムの倫理』は読んだことがある、予定説も知っている、という齋藤氏に対し、「予定説でカルヴァン派とルター派がどう違うか説明できますか。それが説明できないと、この後が繋がらない」と問うている。齋藤氏はここで答えに詰まった。
渡辺氏が助け舟を出したが、この箇所は音声が不明瞭で、宗教改革の旗手であるルターとカルヴァンの違いに触れた発言であることまでは分かるものの、内容の正確な再現ができない。本レポートでは推測での補完を行わず、ここは文字起こしから確定できないと記録しておく。
裏取り済該当箇所が不明瞭なため、論点そのものを整理しておく。ルター派は信仰義認(人は信仰によってのみ義とされる)を中核に置き、職業を神から与えられた召命(Beruf)として肯定したが、救いの確実性を個人が行為から読み取るという発想は前面に出ない。これに対しカルヴァン派の二重予定説は、誰が救われ誰が滅びるかが創造以前に定められており、人間の行為はそれを変えられないとする。
ウェーバーの論証が要求するのはカルヴァン派の側である。救済が既に決まっていて変えられないなら、信徒に残るのは「自分は選ばれているのか」という不安だけになる。この不安を鎮める方途として、職業労働における成功を選びの徴(しるし)として読むという心理機制が生じ、そこから世俗内禁欲が生活態度として定着する。つまりウェーバーの因果連関はカルヴァン派の予定説を通ってはじめて成立し、ルター派の召命観だけでは成立しない。マイキー氏が「その違いが説明できないと後が繋がらない」と言ったのは、この論理構造を指している。
フランス革命はバスティーユから語るな
前田氏はこの流れで、歴史の読み方についての持論を展開した。フランス革命はよく、バスティーユをどう制圧したか、ロベスピエールがどうしたか、という形で語られる。しかしそこから語るのはフランス革命が全然分かっていないことになる、というのが前田氏の感覚である。
前田氏が挙げた順序はこうだ。その前の戦争がどう流れてきたのか。支配体制はどうだったのか。そしてルイ14世の時代に非常に多くの戦争を起こし、ものすごい額の戦争国債を発行している。実はルイ16世の時代にこの戦争国債の返済ができなくなる。フランス革命の一番の引き金は、ルイ14世の時の借金ではないか、というのが前田氏の見立てである。さらにマリー・アントワネットをめぐる関係がなぜ生じたのかまで含めて全部を見なければならない。これを全部組み合わせて見ようとしているのがウェーバーの視点ではないか、というのが着地点だった。
前田氏はここでも「そこまでは僕の感覚値とも言える。これが正解というつもりもない」という留保を置いている。
発言と公開情報の差フランス革命の財政的原因について。1789年のフランスの公債残高は約40億リーヴルに達していたが、これを最も大きく膨張させたのは七年戦争(1756–63)とアメリカ独立戦争(1778–83)であり、後者はルイ16世治下でほぼ全額を借入で賄った。前田氏が挙げたルイ14世の戦費も、スペイン継承戦争をはじめとする長期の戦役によって巨額の債務を残しており、興味深いことに「その債務は四分の三世紀前にルイ14世が残した債務と比べて特段大きくはなかった」という比較を提示する研究もある。
つまり「ルイ14世の借金がルイ16世の時に返済不能になった」という因果の一本線は、公開されている経済史の記述とはずれる。債務の累積そのものはルイ14世期から連続しているが、危機を臨界に押し上げた直接の要因はアメリカ独立戦争の戦費であり、ネッケル・カロンヌ・ブリエンヌらの財政改革が特権身分の抵抗で挫折したことが引き金になった。ただし「バスティーユから語り始めても革命は分からない、前の戦争と財政から見ろ」という前田氏の方法論的主張そのものは、財政史的な革命解釈と方向を同じくしている。ずれているのは特定の王への帰属であって、見る順序の主張ではない。
なぜウェーバーは軽視されるのか
参加者の質問に答える形で、マイキー氏がこの日で最も応用の利く整理を出した節である。
簡単に説明してほしいという願望
マイキー氏の出発点は、「人というものは基本的に、簡単に説明してほしいという願望が強い」という観察である。そしてこれがウェーバーが軽視されやすいポイントだと言う。
当時、宗教学・経営学など様々な学問が大雑把に存在し、そのスペシャリストが一点突破の論法で理論を作っていくケースが非常に多かった。一つの焦点に絞るから理解がしやすい。同時に、別のものを入れると矛盾が生まれるから排除する。シンプルで扱いやすい理論やモデルが好まれた。学問がまだ進化していなかったという事情もある。
逆張りとしての複雑性
マイキー氏の言葉では、ウェーバーの理論は「ものすごい複雑な要素を絡ませまくって」いる。ウェーバー自身の考え方は「現実社会はそんなにシンプルではない、もっと複雑だ、だから理論自体も複雑に作ったほうが説明がつくのではないか」というものだった。
その結果として起きたことも、マイキー氏は率直に述べている。処理ができない。議論に参加できる人が少ない。だからウェーバーは軽視されたり、あえて視野から外されたりすることが起こった。「簡単に説明することを好む人たちには、マックス・ウェーバーの考え方は100億%分かりません。あえて難しくしているので」——マイキー氏はそう言い切ったうえで、こう続けた。「でも、そんなに簡単で説明できるほど世の中通っていないよ。もう分かるじゃないですか、それって」。周りが分かりやすく説明していこうという背景があった分、それをハンマーでぶっ叩くようなことをやり始めたのがウェーバーだと思えば分かりやすい、という結論である。
この節の締めくくりに、マイキー氏は自分たちの場にも刃を向けた。「マイキークラブでも、もうちょっと分かりやすく渡辺さんと前田さん説明してくださいと言ったことがある人は、マックス・ウェーバーは絶対分かりません」。
ウェーバーは答えではなく道具を出す
マイキー氏が渡辺氏に振ったのは、ウェーバーは積極的に答えを出すというより、こういう考え方の通路を生み出す人ではないかという問いだった。
渡辺氏はこれを肯定し、イデアルタイプ(理念型)がまさにそこだと答えた。極端な例を出す。その極端な例を出したうえで、内的な動機からするとこの人はこうなりたがっている、この人の目的や到達点はここだ、と先に決めてしまう。すると社会はこれを目的とし、これをエンジンとしてここに行き着く、というのをまだ実現していない状態で見せられる。両極端を出せば、この理念が実現された時と、違う理念が実現された時の距離、そして社会的に起こる影響を対比しやすくなる。便宜的に、道具として作っている——それが渡辺氏の説明だった。
渡辺氏はこれを「思考実験をすることで、今起こっている現実をより篩にかけることができる」と表現した。まだ成長していない時点では同じものに見えていても、その理論を加速させたときに、これだけの違いが出ると見える。
渡辺氏はもう一点、ウェーバーの学者としての良心が偶然性を極力まで少なくすることにあったと述べた。多くの場合、偶然性を後からいろいろな理論で積み重ねると、それはもう理論ではなくなってしまう。一つの理論を社会学の方法をもっていかなる地域・いかなる時代・いかなる分野においても適用可能にすると考えると、個人や思想における偶然性をどれだけ捨象できるかが問題になる。曖昧な判断や価値基準がつきやすい学問においては、その方法論を確立しなければならない——それを言った人がウェーバーだ、という整理である。
渡辺氏はさらに、社会科学において「科学的」とはどういうことかについて一つのモデルを示してくれたという言い方をした。そうでなければ、経済学についても、決まった概念を説明する物差しを持てないままだった。マルクスが提起した歴史の再現性という問題を、ウェーバーなりに違った形の再現性として扱い、内的な動機と外的な事象を照合させて話すことをしている——それがなければ歴史は説明不可能になってしまう、と。
渡辺氏はもう一段、歴史的な前提を補った。それまで「個人」と言えば、どこかで個人の声=神の声のようになっていた。前田氏が「個人が語られなかった」と言ったのは、個人というものが良心的な行いとして神の声の延長線上に語られていたため、議論の枠組みに入ってこなかったということである。しかし個人の選択の自由ができてきた社会では、個人をそのように語ることができなくなる。伝統や慣習で説明できる個人ではなく、欲望を持ち、可能性を持ち、社会的適合性を持った個人の選択をどこで説明するのか。そこで改めて個人の裁量や判断を取らなければならなくなった——渡辺氏はこれを限界効用の概念にも関わってくる問題ではないか、と接続している。
民主主義を守ろうとして、官僚制を生んだ皮肉
この日の終盤、参加者の小澤氏が持ち出したのが、この回で最も現代的な論点だった。ウェーバーを好きな理由として小澤氏が挙げたのは、「民主主義を守ろうとして官僚制を生み出してしまった」というところが一番皮肉だという点である。
そして小澤氏は、前田氏と渡辺氏に何を議論したいのかを先走って明かした。AIが出てきたことによって、究極の官僚が出てきてしまったのではないか。ウェーバーはリーダーやカリスマを求めていたが、最強の官僚が出てきた中で、カリスマとは何なのか。SNSとAIが加速していく中で、ウェーバーは最後に「目的は一つではない」という多神的な話のほうに行ったはずだが、最強の官僚を全員が持っている中でそれぞれの目的がぶつかり合うと、破滅の方向へ加速装置として進んでしまうのではないか——これが小澤氏の提起である。
カリスマについても同じである。カリスマとは、それについて回る人間がそれをどれだけ現実化し、再現可能なシステムとして提示できるかという争いになる。それが神々の争いだ、というのが渡辺氏の読み替えだった。したがってこれは、人間がどうやって評価軸を作るかという問題になる。出てきた結果そのものではなく、その結果を、時間的な概念を交えてどういう評価軸で価値づけられるのか、普遍的たりうるものとして説明できるのかが中心的な課題になる、と。
渡辺氏はさらに、個人主義には連続性がないという難点を指摘した。個人主義は歴史的な基盤の一つの形成ではあるが、それ自体には連続性がない。その連続性のないところに歴史をどう絡ませていくのか、そこが合理的かつ倫理的でありうる理想形になるのか——それがある意味でウェーバーの客観性ではないか、という読みである。
そしてAIを論じるうえでの最大のテーマを、渡辺氏はこう定式化した。対話的に可能な範囲をどこに設定するか。つまりAIを理念型の中に入れたとき、それが破綻するのか、それとも時間的に永続するのかという問題ではないか、と。
マイキー氏はこれを受けて、そもそも社会が成り立つのかどうかから論じなければならなくなる、と応じ、こう付け加えた。「一学問で言ってしまうと、それは見落としのデータが多すぎるから説明がつかないよね」。この一言が、後半のワールドプロトコル理論への橋渡しになっている。
裏取り済「神々の争い」は『職業としての学問』(1917年講演)に由来する。ウェーバーはそこで、世界の各価値領域は互いに和解不能な対立にあり、科学的な弁護は原理的に無意味だと述べた。ミルを引いて「純粋な経験から出発すれば多神論に到達する」という言い方をしている。この価値の多神教(polytheism of values)は、官僚制の「鉄の檻」と対をなす近代の二つの帰結として理解されている。小澤氏の言う「目的は一つではないという多神的な話」は、この概念を正確に指している。
訳語についての注記「鉄の檻」という語自体は訳語である。原語は stahlhartes Gehäuse(鋼鉄のように硬い殻)で、タルコット・パーソンズが1930年の英訳で "iron cage" と訳して定着した。檻は人を閉じ込めるが行為主体の能力は損なわない。これに対し「殻」は、官僚制的資本主義のもとで人間の主体そのものが作り替えられるという、より強い含意を持つ。ウェーバーが喚起しようとしたのは後者だという指摘があり、この違いは小澤氏の「AI=究極の官僚」という論点を考えるときに効いてくる。檻なら出られるが、殻なら出るという発想自体が成立しないからである。
要確認「ウェーバーは民主主義を守ろうとして官僚制を生み出した」という小澤氏の定式は、比喩としては鋭いが、字義どおりには成立しない。ウェーバーは官僚制を生み出したのではなく分析した。ただし、ウェーバーが晩年のドイツ憲法論議で、官僚制の支配を政治的に抑制する装置として国民投票による大統領制(人民投票的指導者民主制)を主張し、それがワイマール憲法の大統領権限に影響を与え、後の権威主義的統治への道を開いたと批判される、という論争が存在する。小澤氏の「皮肉」がこの論点を指しているのであれば、それは実在する学説上の争点である。この日は詳述されなかったため、ここでは可能性の指摘にとどめる。
質疑応答
そして渡辺氏はこう続けた。私たちがウェーバー以前の時代を想像することは、勉強しないと無理である。なぜなら私たちの常識はすでに近代国家システムの中で作られているから。それ以前の国家を体験していない人が、それより前を論じるのは無駄のような気がする、とまで述べている。
参加者が「個人の考えというものがそもそも存在しなかったということか」と確認したのに対し、渡辺氏は「それは学問史上、記述にならなかったという話です」と訂正した。存在しなかったのではなく、対象として見られなかった、という区別である。
この結果、前田氏とマイキー氏の間で「宗教改革の話を一回挟んだほうがいいかもしれない」という方針調整が入った。マイキー氏は、アメリカまで持っていくならピューリタンがどうやって東海岸にたどり着いたかもやっておいたほうが分かりやすい、と提案している。齋藤氏の側は、自分が持っている世界史の知識はフランス革命くらいで、宗教改革はうろ覚えだと述べた。
質問者が「ルイ14世の流れを話した最後に、その視点が抜けていたのがウェーバーだと言ったように聞こえた」と重ねたのに対し、前田氏は改めて「一つだけ抜けているのではなく、全体を見ようとしているのがウェーバーだ」と言い直した。そしてフランス革命をバスティーユやロベスピエールから語ることの不十分さを例示し、戦争の流れ、支配体制、ルイ14世期の戦争国債とその返済不能、マリー・アントワネットをめぐる関係まで全部を組み合わせて見るのがウェーバーの視点ではないか、と説明を閉じた。質問者は「流れが大事ということですね」と受け止めている。
質問者は「では仕掛けたい議論は今日ではなく次回にします。そちらを話してからのほうが話したいことがある」と応じ、この日は控えた。前田氏自身も「どこまでどう出していくか、自分の中でもまだ迷い中ではある」と述べている。
したがって課題は「人間がどうやって評価軸を作るか」に移る。結果そのものではなく、その結果を時間的な概念を交えてどういう評価軸で価値づけられるか、普遍的たりうるものとして説明できるかが中心的な課題になる。そして渡辺氏はAI論の最大のテーマをこう定式化した——AIを理念型の中に入れたとき、それが破綻するのか、それとも時間的に永続するのか。
マイキー氏は、そもそも社会が成り立つのかどうかから論じなければならなくなる、と応じ、「一学問で言ってしまうと、見落としのデータが多すぎるから説明がつかない」と締めた。
持ち帰るべき課題
- 予定説におけるカルヴァン派とルター派の違いを説明できるようにする。マイキー氏が齋藤氏に投げ、答えが出なかった問い。ウェーバーの因果連関はカルヴァン派の二重予定説を経由してはじめて成立するため、ここが分からないと『プロテスタンティズムの倫理』の論証が追えない。次回以降の前提知識になる。
- 16世紀の宗教改革以降200年のヨーロッパを「カトリックの権威性 対 プロテスタントの倫理性」の軸で通してみる。マイキー氏が示した読み筋。アメリカまで接続するならピューリタンが東海岸にたどり着いた経緯まで押さえる、という提案も出ている。
- フランス革命を、財政と戦争の流れから読み直す。バスティーユとロベスピエールから語らない。前の戦争の流れ、支配体制、ルイ14世期の戦争国債とルイ16世期の返済不能、そこに関わる人的関係まで組み合わせる。ただしアメリカ独立戦争の戦費が臨界点を作ったという経済史の記述との差は各自で確認する。
- 自分の専門領域で、意図的に排除している変数を一つ書き出す。マイキー氏のパンの喩えの実践。議論を成立させるために何を切り捨てているのか、その切り捨てが結論をどう変えているのかを言語化する。
- 次回テーマの予習範囲を確認する。脱魔術化、鉄の檻、理念型、官僚制の類型。前田氏は単著の読解ではなく著作群からのポイント抽出という構成を取ると明言した。