この回は、教科書がマーシャルを紹介するときの順序を意図的に逆にしたところから始まった。普通は部分均衡、価格弾力性、消費者余剰といった道具立てが先に並ぶ。前田氏はそれを「バラバラに見るとなぜこれが繋がっているのか分からなくなる」として退け、まず人物の基盤――育った時代、受けた教育、影響を与えた思想――から入った。森を見てから木を見る、という参加者の言い換えに講師が同意した通りの構成である。
そこで浮かび上がるマーシャル像は、教科書の「部分均衡の人」とはかなり違う。数学でケンブリッジのトップクラスに入りながら途中から倫理学へ関心を移し、プロテスタントの家庭で聖職者になれと言われて育ち、若い頃には人間の精神を機械として記述する論文まで書いていた。この人物にとって経済学は、富の研究ではなく人間の研究だった。渡辺氏が引いた通り、マーシャル自身が『経済学原理』の冒頭で経済学を「日常の生業における人間の研究」と定義している。
そしてこの「人間の研究」という定義が、彼の理論設計をそのまま規定する。人間は成長するものだから、経済も生命体として進化するものとして扱われる。人間は矛盾を抱えるものだから、理論も矛盾を排除せず抱え込む形で設計される。倫理も制度も文化も、経済を語る以上は切り離せない。この回で繰り返し強調されたのは、マーシャルにとって経済学は目的ではなく、人間の幸福度を測って実際に向上させるための「道具」でしかなかった、という一点だった。
もう一つ、この回で初めて名前が出た人物がいる。ヘンリー・シジウィックである。ベンサムとJ.S.ミルの功利主義を一度完成させたと言われる人物で、マーシャルのケンブリッジにおける師にあたる。個人の幸福と社会全体の幸福が一致しないという矛盾を正面から扱ったこの人物の姿勢が、マーシャルの理論設計の骨格に流れ込んでいる。この系譜を押さえないと、後半で扱われる「ハサミ」の比喩も、時間軸による論争の決着も、単なる比喩として通り過ぎてしまう。
マーシャルは「主張の強い人」ではない。彼がやったのは、対立している二つの主張のどちらかを選ぶことではなく、両方が正しくなる条件を設計することだった。磁石のN極とS極は本来反発するが、留め具があれば一つの器具になる。マーシャルはその留め具の位置にいた人物であり、だからこそ現代経済学の共通言語を作れた――というのが、この回を貫く読み筋である。
講義に入る前の雑談は、決算シーズンの整理から始まった。マイキー氏の見立てでは、この四半期はマイクロソフトが「大丈夫かというぐらい」下落した一方、メタは優秀で、アップルはiPhoneが絶好調に加えて久しぶりに中国市場が伸びた。ただしアップルについては「AIをどうするのか」という問いが残っており、買いに行く気持ちにはなかなかならない、とも述べている。アルファベットとアマゾンの決算が残っているので、5本まとめて解説を出す予定。NVIDIAは2月末とのことだった。
マイクロソフトの不調の中身については、設備投資が上がっているのにクラウドの収益がそれに見合わなかった、要するにクラウド成長の鈍化だ、という説明があった。参加者からCopilotへの不満(「Geminiの方が優秀」「OSに乗せてくるのが厄介」)が出て、AI PCを買ったがCopilotは使っていない、という体験談も出た。もっともマイキー氏は、マイクロソフトは歴史的に黙っていない会社なので一発逆転を持ってくるだろう、と見ている。Windows XP以降、二世代ごとに良いOSが出るという参加者の指摘に対しても、マイクロソフト製品は最初は荒く、そこから徐々に改善していく流れだと応じていた。
2026年1月28日発表のマイクロソフトFY2026第2四半期は、売上812.7億ドル(予想802.7億ドル)、調整後EPS 4.14ドル(予想3.97ドル)で、売上・EPSともに市場予想を上回っている。それでも時間外で株価が7%下落し、時価総額3,570億ドルが吹き飛んだ。要因はAzureの成長率が第1四半期の40%から第2四半期39%へ鈍化し、次四半期ガイダンスが37〜38%(為替一定ベース)にとどまったこと、および四半期の設備投資が375億ドル(前年同期比+66%、予想比+32億ドル)に膨らんだことだった。
つまり発言の「思ったより収益が良くなかった」は、絶対水準としては正確ではない。崩れたのは収益そのものではなく、成長率とマージンのガイダンスである。設備投資が上がっているのにクラウドが見合っていない、という発言の骨格自体は公開データと整合する。
アップルの2026年度第1四半期(2026年1月29日発表)は売上が前年比16%増、うち中華圏が38%増の255.3億ドルで、2021年終盤以来の中国での最高水準となった。iPhone売上は23%増の852.7億ドルで、9月発売のiPhone 17が牽引したとされる。発言中の「安売りはしている」という補足はあったが、公開データ上の主因は新型機の販売であり、値下げが増加の主因とする根拠は確認できなかった。要確認
メタの2025年第4四半期(2026年1月28日発表)はEPS 8.88ドル(予想8.16ドル)、売上599億ドル(予想584億ドル)で予想超え。2026年の設備投資ガイダンスを1,150〜1,350億ドルに引き上げた(2025年実績722.2億ドル)。発言の「メタは優秀だった」は決算内容として裏付けられる。
次に貴金属の急落が話題になった。参加者から「金・銀・プラチナはどこまで下がるのか」という質問が出て、マイキー氏は一時的なものと見ていると答えている。理由として中国の中央銀行に加え、いま企業が買い入れに動いていることを挙げた。数字としては、三菱UFJ系/三菱マテリアルから毎日届くゴールドレポートで、その日一日だけで金が1グラムあたり3,708円、プラチナが2,755円、銀が182円下がったこと、先物では5,500ドルまで行った金が4,766ドル前後まで落ちたことが読み上げられた。「10%弱下がった」という理解である。
公開データでは、COMEXの2月限金先物は1日で11.37%安の4,713.90ドルで引け、1980年1月22日以来の下落率となった。同日の銀先物は31.35%安の78.29ドルで、1980年3月27日以来の下落幅。金は最高値から21%、銀は週間で最大43%下げた局面もあった。
発言の金「10%弱」は概ね合うが、銀については発言の把握(1グラム182円の下落)と、先物市場で起きた30%超の急落との間に大きな差がある。国内小売価格と海外先物では単位も値動きの伝わり方も異なるため単純比較はできないが、市場でのショックの規模は発言の印象よりはるかに大きい。
また、下落の直接の引き金として報じられたのは、トランプ大統領がFRB議長にウォルシュ氏を指名するという報道である。発言では中国の中央銀行や企業の買い入れという需要側の要因が語られ、この金融政策側のトリガーには触れられていない。「一時的な調整」という見立て自体は講師の相場観として明示的に受け取るべきで、本レポートはその当否を判定しない。
関連して、通貨の不安定さが続く限り貴金属の需要は続くという話から、マイキー氏は「いま世界一の通貨不安定要因は日本円だ」と述べた。日銀が買えるから問題ないという説はもう崩れており、買い入れすぎて流動する債券がなくなっている、と。1日の取引が60兆円規模で動く中で、150億円程度の売買でこれだけボラティリティが出ている、という指摘に対し、「もしかしたら僕の資産だけで行けるかもしれない」と冗談めかしつつ、コミュニティ内でインサイダーになりかねないので触れない、と話を切り上げている。
もう一つ、本人が明らかに苛立っていた話題がある。この日公開した里前氏とのコラボ動画で、里前氏側からの登録者流入は非常に多いのに、自分のチャンネルの過去10日間10動画中で10位という結果になった。マイキー氏はこれを「完全にサムネイルとタイトルのミス」と自己分析しつつ、YouTube側の担当者に「君たち大丈夫かい」というメッセージを送ったと述べている。もう一つ、前回1,000人規模のプレゼンテーションが好評だったため別の会社から再登壇の依頼が来たが断った、という報告もあった。理由は明快で、「次でいいや」と思われるのが面倒だから当分登壇しない、来なかった人が悪い、という立場である。
前田氏は冒頭で、この回が孤立した回ではないことを断っている。直近の講義で繰り返されてきたマクロ/ミクロ、抽象/具体という視点の切り替えは、そのままマーシャルへの助走だった。そして今回扱うのは、なぜその視点を使い続けてきたのかという基盤的な理由である。
マーシャルという名前の重みは、ケインズとの関係で示された。ケインズはマーシャルの弟子である。そしてマーシャルは、現代の経済学の体系と用語につながる基盤をかなりの部分作った人物であり、この人が理解できなければ現代経済学は理解できない、というのが前田氏の評価だった。
ただし前田氏は同時に、通常の説明の仕方を明確に拒否している。マーシャルといえば部分均衡、と紹介するやり方では、この人が言いたかったことと実際に言っていることが大きくずれる。だから今回は教科書と違うことを言う、という予告があった。この宣言は、後の内容を読むうえで無視できない。以下に整理される4視点の分類も、前田氏自身が「これはあくまで僕の主観であり、僕の捉え方です」と明言している。
科学的に厳密な理論ではなく、いま現実にどう使えるかという基準で組み立てられた経済学の体系。理論は現実に落とし込むために存在する。理論が抽象なら、実践は具体である。この往復を意識し続けたのがマーシャルだ、というのが前田氏の読み方である。
思想史上の位置づけとして、前田氏は古典派と新古典派の間を繋いだのがマーシャルだと置いた。古典派の代表として挙げるのに最も適切なのはジョン・スチュアート・ミル、新古典派の代表として最も理解しやすいのはケインズ。ピグーなども挙げられるが、系統を辿る上ではこの二人を両端に置くのが分かりやすい、という整理である。
| 古典派(ミルなど) | マーシャル | ケインズ | |
|---|---|---|---|
| 経済の捉え方 | 経済は社会の一部 | 社会の一部であり、なおかつ生命体として常に進化し動く | 動くうえに、そもそも不確実 |
| 重視するもの | 倫理・制度 | 成長、および短期と長期の調整 | 人間の心理・期待 |
| 語り口 | 叙述的・ストーリーテリング | 両方を兼ね備える | 数学的・科学的 |
| 時代状況 | ― | ヴィクトリア朝の好調期。この状態を次世代へどう引き継ぐか | 経済状況が悪い。即効性のある処方箋が要る |
この表の右端と中央の差は重要である。マーシャルは「良い状態をどう把握し、どう次の世代へ繋ぐか」という問いから経済学を組み立てた。ケインズは逆で、悪い状態に対する即効薬を必要としていた。だから両者は、持っている視点も観点もそもそも違う。前田氏はここから、マーシャルには研究・分析したものを特定の誰かではなく広く伝達する、という意識があったと読む。現状を正しく理解し、それを継続していくためのツールを作る、という発想である。
マーシャルにとって視点は常に流動的である。「一点だけから物を見ている」「これが正しい」という読み方をした瞬間に、彼の理論的な考え方は理解できなくなる。なぜなら彼が前提として嫌ったのが、まさにその固定だからだ。
時代背景は産業革命の最中、ヴィクトリア朝でイギリスが好調だった頃。家庭は銀行家の父を持つプロテスタントの家計で、父からは聖職者になるよう言われ続けていた。本人は数学に優れた才能を示し、県(原文ママ。実際にはケンブリッジでの成績を指すと解される)でトップクラスの成績を収めているが、途中から関心が倫理学へ移っていく。宗教的な影響、科学的な素養、倫理、人間の心理――そのすべてに関心があった人物であり、彼の経済学はそれらを全部ミックスしたものだ、というのが前田氏の見立てである。
最も影響が強い恩師として名前が挙がったのがヘンリー・シジウィックである。この勉強会ではすでにベンサムとJ.S.ミルを功利主義の文脈で扱ってきたが、その二人の影響を受けて功利主義を一度完成させたと言われるのがシジウィックだ、という位置づけだった。押さえるべきは二点。第一に功利主義そのもの――社会的に幸せな人をどれだけ増やせるか、という枠組み。第二に矛盾の扱いである。
シジウィックが正面から扱ったのは、個人が満足する地点と社会が満足する地点は基本的に一致しない、という矛盾だった。前田氏の説明では、彼らは矛盾を避けない。あえて矛盾する二つの命題を並べ、それをどう解消するかを考える。弁証法でいうテーゼとアンチテーゼを立て、その解消を通じて新しい段階へ進む、というアプローチである。
ヘンリー・シジウィック(1838–1900)は主著『倫理学の方法』(The Methods of Ethics, 1874)で知られ、ケンブリッジのトリニティ・カレッジに在籍、1869年に道徳哲学の講師となった。マーシャル(1842–1924)は形而上学から哲学へ転じ、シジウィック版の功利主義を経由して経済学に進み、1868年に道徳科学の講師となっている。「恩師」という位置づけは妥当である。
ただし一点、注意が必要な食い違いがある。セッション中、渡辺氏は「科学と倫理の境界線を、シジウィックという先生からは分けなさいと言われた」と述べた。研究文献で確認できるのはむしろ逆方向の対立で、シジウィックは経済学を哲学的課題から切り離すことに否定的であり、マーシャルが目指した教育制度上の経済学の独立・専門化に強く反対したとされる。マーシャルの悲願は死後ではなく1903年の経済学トライポス創設で実現している。
ただしセッション後半では渡辺氏自身が「シジウィックは科学としての純粋性を保つために両者をすごく慎重に扱った」とも述べており、こちらは公開されている評価と整合する。「分けなさいと指導された」という因果の向きだけが、確認できる資料と合わない。ここは受講者側で原典に当たって確認すべき箇所である。
渡辺氏からは、マーシャルが若い頃に「機械論」の論文を書いていたという指摘があった。人間の社会や人間そのものが機械のように一つの原子として、どのような衝突やどのような連合を通じて人格を成長させるか、どうすれば豊かになるか、方法論は拡大できるか、を書いたものである。これはまず「低次の自己」を説明するために使われた原子論であり、そこから宇宙論へ移ることで「高次の自己」の説明理論になっていく、という読み筋が示された。
1867年、若きマーシャルはケンブリッジの知的討論会「グロート・クラブ」での発表をもとに4本の論考を書いている。その第3稿が Ye Machine で、人間の精神活動をどこまで物理的に説明できるかを主題とし、センサーとアクチュエータと回路を備え、世界との相互作用から次第に高度な観念と推論を発達させる機械のモデルを提示した。この機械の「脳」は無数の大小の歯車がバンドで結ばれ、二つの歯車が同時に動くたびにバンドが自動的に締まる構造で、現在でいう連合学習にあたる。マーシャルはさらに、そうした機械が子孫を作り自然選択が働く可能性にまで言及している。渡辺氏の要約は正確である。
渡辺氏はマーシャルの構図をこう説明した。人間は金回りや生活、労働という問題から逃れられず、それに従わざるを得ず、やがて支配されていく。このサイクルが「低次の自己」である。もう一方に、人間の完成や社会的な方向づけ、国家が尊敬されるに足る完成度を持つという「高次の自己」がある。マーシャルの理論は、この両方を同時に完成させようとしたものだった。
これは従来の経済学者との断絶を意味する。それまでの経済学が描いていたのは、金利や分配に支配される人間――マーシャルから見れば翻弄される側の人間である。マーシャルはそこから、統合を通じて人格や精神性を完成させる「紳士」を立てた。紳士になることで、賃金や経済指標に影響されるだけの受け身の存在ではなく、能動的に価値を生み、効率を上げ、生産性を高め、貧困のサイクルから抜けられる社会を作る。この構図が、後の人的資本の考え方に直結する。
労働・土地・資本に加えて、人間の才能や人間そのものが持つ価値を重視するようになったのはマーシャルからだ、というのが渡辺氏の評価である。歯車の一つとして翻弄される人間から、計画を立て、ビジョンを作り、その人がいることで会社の経営が一変してしまうほどの影響力を持つ人間へ。産業主義のただ中で、人間の位置づけを根本から変える設計が、彼の経済学のキャパシティには入っていた。
前田氏は、マーシャルの考え方の基盤を大きく4つに分けて見るのが分かりやすいとした。倫理、科学、社会の制度、進化論である。時代としても、ニュートンに代表される物理の考え方と、ダーウィンの進化論に代表される生体学の考え方が並走していた時期で、マーシャルはその両方を取り込もうとした。そしてそれが何をしていることになるかというと、ミクロで具体的な考えからマクロで抽象的な考え方へどう移行させるか、を延々とやり続けていることになる。確実なものから不確実なものへ理論を運ぶ、という言い方もされた。
イギリス的道徳観からは、自分たちが社会的責任をどう果たすかという視点が来る。前田氏は「代表的企業」といった概念もここに影響されていると見る。プロテスタントの発想からは、救済というより自助と教育――自分が助かるように教育され訓練されていく、そのためにどう教育するかが重要だ、という主題が来る。
そして最後に、経済は社会の一部である、という前提。現代の感覚では経済は社会から独立したもののように扱われるが、マーシャルの視点はそうではない。だから制度も倫理も文化も考えなければならない。この面から見ないと、彼の経済学は単にグラフと数字で語られ、バラバラで繋がらないものになってしまう、というのが前田氏の警告だった。
ここから渡辺氏が引き継いだ。マーシャル自身の言葉として、経済学は富の研究というよりも人間の研究である、というものがある。それまでの経済学が扱ってきたのは、貿易、分配、生産、価値をどう分けるかといった富の問題、あるいは国家の政策としての経済だった。マーシャルに至って、経済学は社会において人を幸せにすることもでき、社会の進歩を誘導しなければならないという、重い責任を背負うようになった。
この責任範囲の広さこそが、逆にいろいろな理論をまとめられた理由だ、というのが渡辺氏の読みである。単にお金のことだけではなく、国全体の国民の成長、人間的な成熟、国家としての完成度――そこまで経済学が責任を持つ、という射程の広さ。銀行家の父から聖職者になれと言われ、若い頃に学問を修めた時期に得た着想も、これに近い。経済合理性やお金に従って動く人間を作るのではなく、経済を通して人間が成長し、社会をより良いものにしていく。弱者に対しても向けられた理論だった。渡辺氏は、マーシャルはキリスト教的な理想を経済学という形で実現しようとしたのではないか、と述べている。
『経済学原理』第1編第1章の冒頭で、マーシャルは経済学を「日常の生業における人間の研究(a study of mankind in the ordinary business of life)」と定義し、「個人的および社会的行動のうち、福祉の物質的条件の獲得と使用に最も密接に関係する部分を検討する」と続けている。さらに「一方では富の研究であるが、他方の、より重要な側面においては人間研究の一部である。人間の性格は、宗教的理想を除けば、他の何よりも日々の仕事とそれによって得る物質的資源によって形作られてきたからだ」とも書いている。渡辺氏の引用は原典に忠実である。
この立場を取ると、先行する学説の扱い方が変わる。リカードもマルサスも、何が正しくて何が間違っているかを判定する対象ではなくなる。渡辺氏の説明では、マーシャルは人間の歴史の完成という大きな枠から見て、すべてが必要なパーツだと考えた。新古典派も古典派も、人間完成・社会完成のためのパーツとして見る。だから「これが正しい、あれが正しい」ではなく、すべて正しいという段階で、社会発展のために使える理論として使う。これが基本スタンスになる。
マイキー氏は後に、この発想の背景としてヘーゲルの歴史観を挙げている。歴史に一つの目的や完成があるならば、これまで出てきた必要とされたものはすべて必要だった、という考え方である。個別に見れば「これが必要、あれは不要」という判断は何かを動かす場面では成立するが、人類という大きな枠や、歴史という長い時間軸で見れば、すべてが完成のための必要なパーツになる。それを経済学に応用したのがマーシャルだ、という接続だった。渡辺氏はこれを受けて、「条件が違い、乗り越えようとした問題も違う。だがアウフヘーベンしてきたのだから、それも別の形でのアウフヘーベンの材料になる。そう見ることで否定は存在しなくなる」とまとめている。
渡辺氏は、マーシャルが持っていた複雑な知識背景が、科学と倫理の境界を越えるという選択に効いたと見る。低次の自己と高次の自己という二つのスタンス。利己心――自分の利益だけを図ること――だけで説明する従来の経済学に対して、高次の自己の追求も経済学が果たすべき責任だ、と置く。この二つは一見矛盾する概念だが、時間という概念を使うことで矛盾させずに説明してしまう。それが需給という枠組みになる、という説明だった。この論点は本回のもう一つの主題であり、別レポート(テーマ:矛盾は時間で解ける)で詳述する。
関連して、マーシャルの有名な言葉として「クールヘッド・バット・ウォームハート」が挙げられた。科学的な頭脳と、社会に対する温かい気持ち。この両立を学生に語りかけた言葉である。ケインズがマーシャルを評して「半分は科学者、半分は聖職者」と言ったことも紹介された。渡辺氏は、その分だけ啓蒙思想的あるいは道徳的進歩への志向が経済学そのものに向かっていたと見る一方で、それは恐慌をまだ経験していないゆえの楽観でもあり、後にケインズが批判することになる、と付け加えている。
前田氏からは、シジウィック的な宇宙的観点に加えて、マーシャルは原子的な観点――アトムの視点――も持っていたのではないか、という提起があった。渡辺氏はこれを、ジェームズ・ミルからJ.S.ミルへ引き継がれた唯物論的な視点だと応じている。そこにマーシャルは連合心理学などを駆使して、一つの人格やシステムの機械論を重ねた。前述の Ye Machine がその産物である。
渡辺氏はさらに、ミクロ論とマクロ論が総合される場所が宇宙論なのではないか、と展開した。自然の必然性と、人間の意志における改善の可能性は一見矛盾するが、宇宙とはその両方を統合したものである。自然の必然性でありながら、改善の可能性の最たるものであり、人間の観測において最も豊かな多様性を持つもの。前田氏はここから、マーシャルは宗教と科学の融合をやったのではないか、と結論づけ、渡辺氏も同意している。渡辺氏はマーシャルが実現しようとしたものを「経済学における騎士道」と呼んだ。欲望よりも活動が重視される、という言い換えも出た。究極の目的が、ミル的な定常状態における人格やスキルの向上に置かれていた、という指摘である。
前田氏がわざわざJ.S.ミルの名を出した理由が、ここで明かされる。マーシャルの主著は『経済学原理』。そしてJ.S.ミルが書いたものも、日本語では全く同じ『経済学原理』になる。ただし英語で書くと、1単語だけ違っている。なぜそこが違うのかが分かると、ミルとマーシャルのアプローチと考え方の違いが分かる――だからタイトルも非常に重要になることがある、というのが前田氏の投げかけだった。
J.S.ミルの主著は Principles of Political Economy(1848年)、マーシャルの主著は Principles of Economics(1890年)。違いは political の有無である。ミルの『政治経済学原理』は19世紀を通じて英米の標準教科書であり続け、1900年代に入ってマーシャルの『経済学原理』に取って代わられた。
この語の脱落は、単なる短縮ではない。政治経済学(political economy)から経済学(economics)への呼称の移行は、この分野が国家の政策論の一部門から独立した学問領域へ移っていく19世紀後半の変化そのものを映している。前田氏が「タイトルも非常に重要」と言った通りである。
ただし補足として、この改称はマーシャル一人の発案ではない。同時期にジェヴォンズらも economics という語の採用を主張しており、マーシャルの主著がその呼称を定着させた、という位置づけが正確である。
ここで前田氏は重要な注意を挟んだ。マーシャルはミルを尊敬し継承している。しかし理論の面ではミルからどんどん離れ、むしろ批判的な展開をしていく。尊敬しているから同じ方向に行くわけではない、ということである。前田氏はこれを、この勉強会ですでに扱ったマルクスとマックス・ウェーバーの関係になぞらえた。ウェーバーはマルクスを尊敬しつつ批判的に見る。理論的にはある意味対立しているように見える。マーシャルとミルの関係も、それに近いのではないか、と。マルクス、ウェーバーと来て、今マーシャルに来ている、という講義の設計もここで明かされている。
磁石のN極とS極は本来反発する。だがそこがくっついているということは、その矛盾する二つを繋いでいるということだ。だからマーシャルは、ある意味で主張が強くない。具体と抽象を行き来する。常に流動的で、常に動く。――前田氏の比喩
前田氏はマーシャルが重視したことを3つの語で示した。直感的に分かること、実用的であること、汎用的であること。需要と供給のグラフで価格が調整される、という説明は普通アダム・スミスの「神の見えざる手」とセットで語られるが、それを汎用的に使えるアイデアの形にしたのはアダム・スミスではなくマーシャルである、という指摘があった。
実用的とは、難しい理論は理解にも使用にも時間がかかるから、難しい部分を取り除き、簡単に使えて今の状況に当てはまるものをピックアップする、という意味である。だから厳密性にこだわっていない。汎用的とは、長い間広く使えるようにするということで、短期と長期、ミクロとマクロといった区分けがそのための道具になる。結果として広い範囲をカバーすることになった。