STUDY REPORT / 2026年1月度 勉強会

禁欲ではなく識字率だった――プロテスタンティズムを制度経済学と人的資本で読み直す

同じ「プロテスタンティズムと資本主義」でも、この回の焦点は倫理そのものではなく、宗教改革が何のコストを削ったのか、そしてその削減分が何に使われたのかに移った。答えは寄付でも禁欲でもなく、聖書を自分で読むための識字投資だった、という近年の実証研究が軸になる。

EXECUTIVE SUMMARY

宗教改革を「独占の解体」として見ると、資本主義の起点が変わる

2つの車輪
マルクス=物質・構造/ウェーバー=精神・倫理
2009
ベッカー&ヴェスマン論文が禁欲説に人的資本説を対置
仲介者の排除
教会という中間業者を外す=取引コスト削減
3
講師が示した300年間の一人当たりGDP格差(要検証)
不確実
対戦相手が分からないほど人は練習する、という比喩
制度設計
次回以降に接続される制度理論・マーシャル

この回は二人の講師が同じ題材を別々の角度から扱う構成になった。前半を担当した講師は、ウェーバーの理念型を「入試と模試」に置き換えて、合理性とは不確実なものを少しずつ確実に近づけていくプロセスであり、決して確実には到達しないからこそ継続を生むという骨格を示した。二重予定説も天職も、この「不安を軽減はできるが解消はできない」という構造を作動させる部品として説明される。

後半を引き取ったもう一人の講師は、同じ話を制度経済学の語彙に翻訳した。カトリック教会は救済という財を独占供給する事業者であり、贖宥状や巡礼要求は消費者から価値を回収する仕組みだった。ルターとカルヴァンは、その品質に対して価格が高すぎると指摘し、聖書のみ・信仰のみという低コストの代替モデルを提示した宗教企業家である――という読み替えである。仲介者を外して個人が直接神と向き合う形にすれば、教会に吸い上げられていた資金が市場に残る。

そして最も新しい論点がここに接続する。残った資金は何に使われたのか。従来の答えは「禁欲したから貯まり、再投資された」だった。しかし2009年のベッカー&ヴェスマン論文は、プロテスタント地域の経済的優位は禁欲ではなく識字率でほぼ説明しきれると結論づけている。説教してくれる人がいなくなった以上、自分で聖書を読めるようにならざるを得ず、その教育投資が人的資本として生産性に効いた、という筋である。講師はこれを「コストを削減して利益を出し、自己投資と設備投資とR&Dに回して成長する」という現代企業の姿とそのまま重ねた。

セッションを貫く1本の線:宗教の話に見えて、実際に扱われているのは「逃げ場をなくす制度をどう設計すると、人と組織は動き続けるのか」である。予定説は救済の保証を取り上げることで恐怖を作り、その恐怖が労働と自己投資を駆動した。講師はこの構造をそのまま現代日本のセーフティネット論に持ち込み、価値判断の分かれる主張として提示している。
PART 1 / 理念型

合理性は「確実になる」ことではなく「確実に近づき続ける」ことである

前半の講義は、ウェーバーが用いた理念型という方法から始まった。まず現実には存在しないかもしれない理想的なモデルを立て、そこから現実がどれだけずれているかを測る。今回はこの手続きを厳密に踏むのではなく、伝わりやすさを優先して一部を組み替えて提示する、と講師は最初に断っている。

講義の中心に置かれた概念は二つだけだった。不安の回避継続性である。どちらか一方では強い組織も社会も生まれない。両方が揃ってはじめて駆動力になる。ではその二つはどこから出てくるのか。ここで合理性という語が登場する。合理性とは、自分たちが理解でき、次に何が起きるかを予測できる範囲に物事を置くことであり、それによって確実性が高まる。つまり合理性は不安から逃れるためのシステムである。

重要なのは、合理性が確実性そのものではないという点だ。確実に近づくことはできるが、確実にはならない。だからこそ「もう少し確実に」を繰り返さざるを得ず、その反復が継続を生む。不安の回避と継続性は別々の要請ではなく、同じ一つのプロセスの裏表だ、という整理である。

二重予定説と天職──思い込みを合理的に高める装置

この枠組みに、二重予定説と天職という二つの教義が差し込まれる。二重予定説では、天国に行くか地獄に行くかは事前に決まっており、しかも本人には知らされない。死んだ後でなければ結果は分からない。ここで強烈な不安が発生する。天職の方は、日本語の語感とは違って「神から与えられた職業」を指す。能力があるから発揮せよという話ではなく、パーツとして与えられた役割をきちんと果たせ、理屈は問わない、という命令に近い。

この二つが噛み合うと何が起きるか。仕事で成果を出すことは、神に言われたことをこなせているという証になる。つまり利益の追求が神の意向に適う行為になり、仕事で失敗することの方が悪いことになる。講師はここを何度も念を押した。これは事実ではなく思い込みである。天国に行けるという保証にはならず、あくまで確証が少し高まるだけだ。しかしその思い込みが行動を生む。

入試のたとえ:合格発表まで結果は分からない。それでも人は模試を受け、判定を見て一喜一憂し、判定が良ければ「受かりそうだ」と勝手に思い込み、その上でさらに勉強する。模試に予知能力があるわけではない。それでも人は不安を少しでも減らすために反復する。予定説の下で人が働き続ける構造はこれと同じだ、というのが講師の説明だった。

ここで講師は行動経済学的な補足を挟んでいる。人は何かを得ようとするときよりも、失いそうなものから逃げるときの方が強い力を出す。100万円を取りに行くより、100万円を失わない方に全力を注ぐ。だから「安心の追求」より「不安の解消」の方が駆動力として強い。ただし生きている間は結果が分からない以上、不安は軽くはなっても消えることはない。

資本主義の精神は、資本主義ができると消える

もう一つ、この回で明示的に置かれた注意点がある。資本主義の精神と資本主義そのものの間には時間差があるという指摘だ。精神が先に生まれ、そこから資本主義が立ち上がる。しかし資本主義が確立すると、今度は精神の方が消えていく。参加者の一人が「学習意欲の高い受験生という前提から外れて、意欲のない人まで模試を受け続ける状態になるということか」と確認したのに対し、講師は方向性を認めつつ、より正確にはお金を稼ぐこと自体が目的化する局面に入るのだと補足した。確証を得たくて稼いでいたはずが、稼ぐことが目的になる。ここから先は別の回で扱う、として一旦切られている。

📌 Claude補足
マックス・ウェーバー(1864–1920)の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は1904–05年に論文として発表され、1920年に改訂版が『宗教社会学論集』第1巻に収録された。講義中に生没年が「18〜19世紀中旬に生まれて20世紀初頭に死んだ」という言い方で語られた箇所があるが、正しくは1864年生・1920年没である。なお、講義で言及されている「精神が先で資本主義が後」「資本主義が完成すると精神は不要になる」という論点は、ウェーバー本人が同書終章で「鉄の檻(stahlhartes Gehäuse)」として述べたものと対応する。
PART 2 / 制度経済学

カトリック教会は独占企業であり、宗教改革は取引コスト削減だった

後半の講師はまず、なぜこの順序で講義が進んでいるのかを整理した。前にマルクスをやり、いまウェーバーをやっている。この二人は経済という自転車の左右の車輪であり、対称的なアプローチをとっている。技術・生産力・資源分配といった物質的条件が人間の意識をつくり、それが宗教を決めたと考えたのがマルクス。逆に、人間の意識や信仰が社会の仕組みをつくったと考えたのがウェーバー。卵が先か鶏が先かの構造である。

その上で、宗教が本来担っていた機能を現代語に置き換える。なぜ働かなければならないのか、社会にどう貢献すべきか――これを説いていたのが宗教だった。企業でいえばミッション・ビジョン・バリューであり、パーパスである。宗教の中にミッションがあり、ビジョンがあり、そのために生きる理由がある。それを資本の側に翻訳したものが会社だ、という接続がここで行われた。

労働観と資金の行き先が正反対になる

カトリック(伝統主義)

アダムとイヴの原罪に対する罰として労働を捉える。生活を維持するのに必要な分だけ働けばよく、貪欲は罪。中世には利子を取ること自体が罪とされた時期もある。余った富は教会に寄付し、贖宥状や巡礼で罪はリセットできる。告解(コンフェッション)という心理的な逃げ道があるため、強烈な不安は生じない。

プロテスタント(カルヴァン派)

天職(ベルーフ=ドイツ語で使命)として労働を捉える。世界は神から与えられたものであり、そこで成功することが神の栄光を増す手段になる。祈りや儀式で救済は変わらないため逃げ道がない。世俗内禁欲により消費を抑え、資本を蓄積して再投資する。プロテスタントは禁じられていた利子を容認した。

講師が最も力を込めたのは、この違いが努力の質を決めるという点だった。3年後にバスケットボールの試合をする。負けたら死ぬ。相手が小学1年生だと分かっていれば、大人はまともに練習しない。しかし相手が誰か分からないと言われたら、あらゆる備えをして必死に練習する。不確実性が高いほど人は本気になる。カトリックは前者、プロテスタントは後者だ、という比喩である。

教会という中間業者を外す

ここから制度経済学の語彙に入る。カトリック教会は救済という財の独占供給者であり、参入障壁を高く保つことで反対意見を排除してきた。異端審問や破門は競合排除の手段であり、富裕層には贖宥状を売り、資産家には巡礼と労働奉仕を要求した。要するに消費者から価値を巻き上げる仕組みだった。だから教会は豪華になり、プロテスタントの教会はいつまでも質素なままだった。

ルターとカルヴァンがやったのは、その品質と価格の乖離を突くことだった。「教会を通さず、聖書だけ・信仰だけの方が低コストではないか」――講師はこれを宗教企業家による取引コスト削減と表現した。プロテスタンティズムの核心は、仲介者を排除して個人が直接神と対話するモデルを採用した点にある。教会に吸い上げられていた資金が市場に残れば、経済は発展する。参加者からは「生産者と小売が直接取引して中間コストを下げるのと同じ構造だ」という言い換えが出た。

📌 Claude補足
マルティン・ルターは1483–1546年、ジャン・カルヴァンは1509–1564年。講義の中で参加者が「1500年代から1600年ちょっと」と述べた箇所があるが、ルターの活動は1517年の九十五箇条の提題を起点とする16世紀前半で、カルヴァンの『キリスト教綱要』初版は1536年である。カルヴァンがフランスを追われジュネーヴで活動したこと、ルターが選帝侯フリードリヒ賢明公の庇護を受けたことも参加者の発言どおりで、史実と整合する。なお「ベルーフ(Beruf)」はドイツ語で職業と召命の両義を持ち、ウェーバーはルターによる聖書翻訳がこの語に召命の意味を持ち込んだ点を重視している。
PART 3 / 人的資本

2009年の実証研究は「ウェーバーは間違っていたのか」と問い直した

この回でいちばん新しい論点がここである。プロテスタント地域が豊かになった理由は、長らく禁欲的だったからだと説明されてきた。しかし実際には違ったことが分かった、と講師は切り出した。挙げられたのは教育経済学の研究者ルドガー・ヴェスマンと、データ分析で宗教改革を扱った研究者の名前である。

彼らの主張はこうだ。プロテスタントには再投資できる資金があった。その資金の使い道が決定的で、カトリックとの圧倒的な違いは字が読めたことにあった。カトリックでは教会に行けば説教してもらえるので、本人が読める必要がない。しかしプロテスタントには説教してくれる仲介者がいなくなったので、神とつながるには自分で聖書を読めるようにならなければならない。だから金を使って読み書きを学んだ。その識字率の高さが人的資本への投資となり、一人当たりGDPを押し上げた。

📌 Claude補足
講師が言及した研究は、Sascha O. Becker & Ludger Woessmann, "Was Weber Wrong? A Human Capital Theory of Protestant Economic History", The Quarterly Journal of Economics, Vol.124, No.2, pp.531–596(2009年)で、発表年は講義の説明どおりである。19世紀後半プロイセンの郡別データを用い、宗教改革が同心円状に広がった事実を利用してヴィッテンベルクからの距離をプロテスタント比率の操作変数とした分析で、「プロテスタントの高い識字率が経済的繁栄の格差をまるごと説明しうる」と結論している。ヴェスマンは教育経済学の代表的研究者で、共著者はベッカー。講義中に別の経済学者名と混同されうる音が入っていたため、ここで正式名を補っておく。

講師はここから現代企業の話に一気に折り返した。コストを削減して利益を出し、その利益を自己投資・設備投資・R&Dに回して成長する。プロテスタントがやったことと構造がまったく同じではないか、という指摘である。宗教史の話が、そのまま企業の資本配分の話として読めるようになる。

マディソン・プロジェクトのデータを見よ

実証の根拠として、講師は参加者にマディソン・プロジェクトのデータベースを自分で確認するよう促した。ヨーロッパの一人当たりGDPが300年間でどう推移したかを推計した研究群である。講師の説明では、イタリアやスペインといったカトリック圏は300年間ほぼ生産性が上がっていない一方、オランダ(カルヴァン派)やイギリス(国教会・ピューリタン)では、技術革新のない時代にもかかわらず一人当たりGDPが3倍になっている、とされた。

Claude作図。Maddison Project 系推計(1990年国際ドル基準)に基づく代表値。1300年頃に約900ドルだった英・蘭が1800年に英2,100ドル・蘭2,600ドル前後へ到達したという推計を図示した。棒は水準、パーセンテージは期間中の倍率。

📌 Claude補足一部要確認
マディソン・プロジェクトは、故アンガス・マディソンの長期GDP推計を引き継ぐフローニンゲン大学(GGDC)のデータベースで、2020年版・2023年版が公開されている。発言と公開推計の食い違いを2点、書き換えずに残す。

期間:講師は「300年間で3倍」と述べたが、公開推計で英・蘭が約900ドルから2,100〜2,600ドルへ(約2.3〜2.9倍)伸びたのは1300年頃から1800年頃までの約500年である。倍率はほぼ講師の言うとおりだが、期間は300年ではなく500年に近い。
南欧が「まったく伸びていない」か:推計では1500年時点の北イタリアは西欧で最も豊かで、スペイン・ポルトガルの2倍以上、フランス・イングランドの1.6倍程度あったとされる。したがって南欧は絶対水準が停滞したというより、出発点が高いまま北海地域に追い抜かれた「運命の逆転」として記述されることが多い。またこの逆転の相当部分は大西洋貿易の勃興に帰属させる説明も有力で、宗教だけで説明する立場は学界の合意ではない。この差の理由は各自データで確認すべき論点として残しておく。

日本の識字率をめぐる発言

参加者から「江戸から明治への移行時に国民の識字率が高かったことが急速な経済発展につながったのも似ている」という指摘が出た。これを受けて講師は「第二次世界大戦後の日本の識字率は60%を超えていたのに、外国は20%も行っていなかった」と述べ、字が読めるとマニュアルを構成できるから製造業に向いていた、と続けた。

📌 Claude補足発言と食い違い
公開データとの差が大きいため明記する。1948年8月にGHQの勧告を受けて実施された文部省「日本人の読み書き能力調査」は、全国270地点・405会場で15〜64歳の16,820人を対象としたもので、全問正解者を識字者とした場合の識字率は97.9%と報告された(非識字率は約2%台)。講師の「60%超」という数字とは大きく異なる。

ただし近年、国立国語研究所の再検証によって、この97.9%という数字はテスト設計上の問題を含み「日本人の識字率は極めて高かった」という通説の根拠としては慎重に扱うべきだとする研究も出ている。したがって「戦後日本の識字率は極めて高かった」という方向性自体は誤りではないが、講師の挙げた60%という水準は公表値と一致しない。「外国は20%未満」という比較についても、対象国・年次・定義が不明で裏付けが取れなかった。この差の理由は自分で確認すべき論点として残す。なお「識字がマニュアル運用能力に直結し製造業と親和的だった」という因果の主張自体は、講師の見解として受け止めるべきものである。
PART 4 / 応用と論争

セーフティネットをめぐる講師の主張と、その場で出た反論

ここから講義は現代日本の話に踏み込む。講師は「この理論で言えば、セーフティネットがない方が人間は成長する」と述べた。救済されると分かっていれば頑張らない。国が守ってくれる、生活保護が出る、保険がある――そう分かっていれば力を出す理由がなくなる。逆に、明日から補助金も保険も生活保護も止まると言われれば、頑張るしかない。予定説がやったのはこれと同じことだ、という論法である。

この主張の扱いについて。これは価値判断が分かれる政策論であり、講師個人の見解として明示的に受け止める必要がある。実際にその場でも複数の反論が出ており、講師自身も一部を認めている。本レポートはどちらが正しいかを判定しない。以下、出た論点を両論併記する。

講師の立場

アメリカのスタートアップは誰も救ってくれない。日本には自己破産制度があるのだから、振り切って失敗したら自己破産すればいいというくらい振り切る人がどれだけいるかが大事だ。しかし現実には、挑戦して自己破産する人より私利私欲で自己破産する人の方が圧倒的に多い。それなら制度が機能していないのだから、セーフティネットを外した方が合理的ではないか。

その場で出た反論

「守られているから無茶ができる」という選択肢はないのか。落ちても死なないなら思い切っていけるが、落ちたら死ぬと言われると足がすくむ。イノベーションはむしろ安全な環境から出るのではないか。また別の参加者からは、健康問題という自己責任と言い切れない理由で商店を畳んだ友人の例が挙げられ、努力してきた人まで切り捨てられることになるのではないか、という問いが出た。

後者の問いに対して、講師は「資本主義は切り捨てます、以上」と答えている。弱肉強食であり、強ければ生き、弱ければ死ぬ、と。ただし同じ流れの中で講師は、守られているなら自分は思い切り振り切る、明日死ぬかもしれない状況では絶対に冒険できない、という趣旨の発言もしており、両方の力学を認めた上でなお制度としては外す方に合理性があると考える、という立場だと読める。

悩みの位置が入れ替わっているだけではないか

議論が煮詰まったところで講師が出した整理が、この回でもっとも実用的な一節だった。カトリックの側では、天国に行けるという悩みは解消されている代わりに、生活が苦しい・無能であるという悩みが残る。プロテスタントの側では、天国に行けないかもしれないという不安がある代わりに、経済的には潤う。どちらも不安がゼロではなく、ボトルネックの位置が入れ替わっているだけである。だとすれば問いは「どちらが幸福か」ではなく「どちらの悩みを引き受けるか」になる。

家族は理由か、言い訳か

もう一つ、参加者との間で長く続いたやりとりがある。「守るものができれば頑張れる」という言い方に対して、講師は反対の見立てを示した。家族がいるから頑張れる人は、家族がいなくても頑張る。逆に、守るものがないと頑張れない人は、守るものができても頑張れないことの方が多い。家族を養うために働くと言いながらサボる人がいるのは、その人の価値観において家族より自分の感情の方が優先されているからだ、という論理である。

「家族ができると振り切れなくなるパターンもある」という指摘に対しても、講師は「自分にはそれが全部言い訳に聞こえる」と応じた。ただし振り切るとは何をしてもよいという意味ではなく、他人を傷つけるような行為は家族が許さないだろうし、真剣な挑戦の失敗であれば家族は支えようとするはずだ、と条件を付けている。そして失敗したときに家族を言い訳にしないこと、自分が悪かったと言い切って次の取り返し方を考えるルーティンに入ること、そこが分かれ目だと述べた。自身が結婚しないのも、言い訳になるものを排除するためだ、と付け加えている。

推し活についての応答。「平和で何を信仰していいか分からないから推し活が流行っているのか」という問いに対し、講師は「推し活は心理だ」と応じつつ、小さなコミュニティで役割があれば幸せだという人がいることは否定していない。ただし、本当に家族がいて幸せなのであれば金がないとは言わないはずで、それでも不幸だと言うなら、家族がいるから幸せなのではなく金がないから不幸なのだ、という切り分けを提示した。これも価値判断を含む講師の見解である。

日本の「勤勉」は宗教ではなく監視から来たのではないか

参加者から、ヨーロッパはキリスト教だったが、日本は村文化で家や墓を継続させることの恐怖が同じ役割を果たしたのではないか、という問いが出た。講師はまず「ヨーロッパの経済と歴史は人が移動することで成り立っているので、移住したから弱くなるということはない。日本で外に出られる人はむしろ優秀な人たちだ」と応じている。

これに続けて別の参加者が、より整理された仮説を提示した。ルターとカルヴァンの時代は日本では室町期にあたるが、日本の勤勉さは宗教由来ではなく、武家社会の戒律と村社会の相互監視、江戸期の五人組のような制度から来ているのではないか。同調圧力が強くなり、互いに勤勉さを監視し合う構造が生まれた、という見方である。講師はこれを受けて、いまの日本ではその同調圧力が逆方向に働いており、「自分もサボるからお前もサボっていい」という形になっている、と応じた。

Q&A

質疑応答

資本主義の出現前と出現後の違いは、学習意欲の高い受験生という前提から外れて、意欲のない人まで模試を受け続ける状態になるということか。
方向としてはそうだが、より正確には、確証を得たくて稼いでいたはずが、稼ぐこと自体が目的化する。それによって資本主義の内容が変質する。この論点は別途扱う。
プロテスタントとカトリックの違いは理解しているか。
(参加者から)カトリックは神父が聖書を読んで教えを伝え、教会に集まって善行を積む。免罪符もその流れ。プロテスタントは聖書そのものを一般市民が読めるようにし、聖書に立ち返って信仰を求める流れ。講師はこれを認めた上で、罪の定義や救済のあり方が根本から違う点を補足した。
守られているから無茶をする、という選択肢はないのか。
それが一番重要な論点だと講師も認めた。守られているなら自分は思い切り振り切る。逆に落ちたら死ぬと言われると足がすくむ。ただし頑張り方が違うだけで、制度としてはセーフティネットを外した方が合理的だと考える、というのが講師の結論だった。
いまの時代は何を信仰していいか分からないから推し活のようなものが流行っているのか。
推し活は心理の問題。小さなコミュニティで役割があれば幸せという人がいるのは構わない。ただし本当に家族がいて幸せなら金がないとは言わないはずで、そう言うなら金がないから不幸なのだと切り分けるべき。
家族がいると振り切れなくなるパターンもあるのではないか。
あると認めた上で、講師にはそれが言い訳に聞こえる、と応答。家族がいても振り切り続ける人はいる。失敗したときに家族を言い訳にせず、自分が悪かったと言い切って取り返し方を考えるかどうかが分かれ目。
ウェーバーはドイツ人でルター派ではないのか。なぜカルヴァン派を分析できたのか。
講師は「ウェーバー本人はどちらでもないと言っている。ただし文章を見るとカルヴァン派寄りの記述が多い。外部からはどちらでもないはずがないという意見が多いが、本人の主張はどちらでもない」と回答。加えて、日本人でも中国を精緻に分析できる人がいるのと同じで、当事者でないから分析できないという理屈にはならない、と述べた。別の参加者からは、ルターは戒律に緩く、カルヴァンは正反対に厳格だったという人物像の補足があった。
友人が健康問題で自己破産した。セーフティネットがなくなると、努力してきた人まで切り捨てられるのではないか。
「資本主義は切り捨てます、以上」というのが講師の回答だった。弱肉強食であり、強ければ生き、弱ければ死ぬ、と。
(陸上部の学生から)不安への対処法はあるか。日本記録を塗り替えたい。
努力したから報われるということはまずない。ただし報われている人間は努力しないと報われない。失敗したときに「頑張ったね」という言葉には意味がない。結果を出したかどうかがすべて、というのがプロテスタンティズム的な立て方であり、それが資本主義でもある。悩みをどこに置くかの選択でしかない。
日本の村文化や先祖代々の家を失うことへの恐怖が、ヨーロッパの宗教と同じ役割を果たしていたのではないか。
恐怖はあっただろうと認めつつ、ヨーロッパの経済と歴史は人の移動によって成り立っており、移住が弱体化の原因になるという構図はない、と回答。日本で外に出られる人はむしろ優秀だ、と付け加えた。
日本の勤勉さは宗教ではなく、武家の戒律と村社会・五人組の相互監視から来たのではないか。
講師は同意した上で、その相互監視は現在では逆向きに作動しており、勤勉さではなく怠慢を許し合う同調圧力になっている、と応じた。
HOMEWORK

宿題・アクションアイテム

  1. マディソン・プロジェクトのデータベースを自分で確認する。ヨーロッパ各国の一人当たりGDPの長期推移を見て、カトリック圏とプロテスタント圏の生産性の差が実際にどの期間・どの水準で開いたのかを、自分の目で確かめる。本レポートの補足で指摘した期間のずれも合わせて検証すること。
  2. ベッカー&ヴェスマン(2009)の人的資本仮説を確認する。禁欲説と識字説のどちらがデータに支持されているのか、また識字率が経済成長に効く経路が現代のどの投資項目に対応するのかを整理する。
  3. 制度経済学・制度理論を復習する。講師は「制度設計をやらない限り勝てる仕組みにはならない」「いかに政府に入り込むか、組織に入り込むかを考えないと、継続的に物が売れるシステムにならない」と述べ、ウェーバー編の後に制度理論を挟む予定を示した。
  4. 次に扱う経済学者としてマーシャルが予告された。講師はウェーバーとマーシャルが自分には非常に似て見えると述べており、今回の考え方がそちらにも転用できるという見通しを示している。
GLOSSARY

用語集

理念型(Idealtypus)現実には存在しないかもしれない理想的モデルを構成し、現実がそこからどれだけ乖離しているかを測るウェーバーの方法概念。
二重予定説救われる者と滅びる者があらかじめ神によって定められており、本人には知らされないとするカルヴァン派の教義。逃げ道がないため強い不安を生む。
天職(ベルーフ/Beruf)ドイツ語で職業と召命の両義を持つ語。神から与えられた役割として世俗の職業を捉える考え方。
世俗内禁欲修道院に籠るのではなく、世俗の職業生活の中で消費を抑え労働に打ち込む態度。資本蓄積と再投資の前提になる。
取引コスト取引を成立させるために必要な探索・交渉・履行監視のコスト。講師は教会という仲介者の排除をこの削減として説明した。
人的資本教育や訓練によって個人に蓄積される生産能力。ベッカー&ヴェスマンは識字をこの経路として位置づけた。
マディソン・プロジェクトアンガス・マディソンの長期GDP推計を継承するデータベース。フローニンゲン大学(GGDC)が公開。
贖宥状(免罪符)罪の償いを軽減するとして販売された証書。ルターが批判の対象とし、宗教改革の直接の引き金になった。
制度理論組織が効率性だけでなく、環境から正当性を得るために制度化された規範に同型化していくことを扱う理論。次回以降に接続予定。
合理性と正当性講師が今回のキーワードとして提示した対概念。前者は予測可能性の確保、後者は社会からの承認。強い企業はこの両方を設計しているという見立て。