この回の前半は、手元に資料がない状態から始まった。登壇者が「いつも海外の話ばかりなので、一度国内で、先人がどういう苦労をしてきたかを見てみたい」と切り出したところから、東京・白金台に残る旧公衆衛生院――現在の港区立郷土歴史館――の話が始まる。テーマは建築鑑賞ではない。知をどう保存するか、そしてその意志をどうやって物体に埋め込むかという、きわめて実務的な問いである。
関東大震災は二つの課題を同時に突きつけた。市街地に火が回ったこと(防火性)と、建物そのものが倒れたこと(耐震性)である。設計者の内田祥三はコンクリート構造の専門家であり、鉄骨・鉄筋コンクリートでこの二つを同時にカバーした。さらに公衆衛生を司る施設という性格上、採光――光をどれだけ取り込めるか――が要件に加わり、国家の威信を背負う建物であるがゆえに美しさと権威まで求められた。四つの相反する条件を、限られた時間と予算のなかで同時に満たしている。
だが本当に語られたかったのは、その先にある。内田は戦時中に東京帝国大学を軍部に接収されそうになったとき、教育機関だからという理由でこれを拒み、戦後にはGHQによる接収に対して署名運動を起こして取り返している。当時それは命がけの行為だった。この執念の源として語られたのが、関東大震災で大学の蔵書が焼けたときに彼が受けた衝撃である。建物が壊れたことではなく、本が燃えて「知が消えた」ことにショックを受けた――そこから、書庫の窓一つひとつに個別開閉できる防火扉を付けるという常軌を逸した徹底が生まれる。
後半は視点が変わり、建物が発するメッセージの話になる。シンメトリー(左右対称)は完璧な均衡と秩序を視覚的に宣言する装置であり、だからこそ国家の重要建築はシンメトリーで作られ、少しでも崩れると異常な速度で補修される。逆に、老朽化したまま放置された建物は国家の権威の衰えを外部に発信してしまう。港区が旧公衆衛生院を買い戻して補修し、補修前の記録まで残して一般公開しているという事実は、この文脈で読むと単なる文化財保護以上の意味を帯びる。
最後に、勉強会の10日前に96歳で亡くなったフランク・ゲーリーが引かれる。建築プロジェクトのほぼすべてが予算を超過するなかで、彼だけは予算内に収めた。その唯一の秘訣として本人が挙げていたのが、徹底的なコミュニケーション、仮説とシミュレーション、そして素早く動くことの三つだった。内田もゲーリーも、図面の前ではなく現場に立ち続けた人間である――ここでこの回の二つの話が一本につながる。
「知を守る」も「予算を守る」も、抽象的な理念では達成されない。窓一枚ごとに扉を付けるか、現場に何度足を運ぶか――徹底の総量が、物として残るかどうかを決める。設計者と施工者、思想と施工の間に落ちる情報を拾い切った人だけが、80年後に残る建物と、予算内に収まった建築を残している。
開始前の時間は、いつも通り雑談から始まっている。デリバリーの配達員に「優秀な人とそうでない人がはっきり分かれている」という話、温かいものの上にアイスを置かれた話、コーヒーが全部こぼれていた話。以前は補償が手厚かったが最近はそうでもない、というやり取りが続く。低カロリーの食べ方の話や、東京と沖縄でコンビニの価格がほぼ同じことへの違和感も、この時間に出ている(後者の論点は別テーマのレポートで扱う)。
そのなかで一つだけ、この回の本題と響き合う話題があった。年内の面談枠が全部埋まり、今回のハウス開催で200本以上の申し込みが来たという報告である。注目すべきはその中身で、プレゼンテーションを一切していないという点だった。勉強会をやって、そのあとに「興味ある方どうぞ」と言っただけで200本が来た。成約も別途かけていない。「日本中のセミナー講師が聞いたら泣く」という反応が返っている。
このあと登壇者の一人が旧公衆衛生院を紹介しながら、「これってプレゼンテーションに似ていませんか」「建物自体にすごく訴えかける強いものがないですか」と問いかける。語らずに伝わるものが最も強いという主張が、開始前の雑談と本編で二度、形を変えて出てくる構造になっている。
なお、この日のテーマ選定自体も偶然の産物だった。前夜に3時間ほど雑談していたなかでイーロン・マスクの話に食いつきがよく、「これはYouTubeのネタにしようと思っていたが、今日ここで話してもいいかもしれない」という流れで後半のテーマが決まっている。前半の建築の話も「今日は全然手元に資料がないので、全く別のことをやろうと思って」という前置きから始まった。資料のない回のほうが密度が上がるという、この種の会でよく起きる現象がここでも起きている。
取り上げられたのは、東京都港区白金台に建つ旧公衆衛生院である。大正12年(1923年)の関東大震災をきっかけに、罹災者の救護と復興、傷病者の医療、防疫、上下水道といった環境衛生施設の整備計画を担う機関として国が設立した施設だ。設計は内田祥三。企画は大正末から進み、着工と竣工を経て、平成14年(2002年)に公衆衛生院としての役目を終えるまで実際に使われ続けた。
この建物が背負った条件は、講義の整理に従えば四つある。第一に防火性。関東大震災では市街地に火が回り、それが最大の被害要因になった。第二に耐震性。地震そのものへの備えである。設計者がコンクリート構造学の専門家であったため、鉄骨・鉄筋コンクリート造という解でこの二つを同時に満たすことができた。
第三が採光である。ここが公衆衛生院という用途に固有の要件だった。衛生を司る施設であり、かつ教育と研究の両方を行う場である以上、十分な光を取り入れられるほうがいい。清潔感を保つという意味でも、学ぶことに集中させるという意味でも、光の入り方が設計の中心に置かれた。講義では、教室が「舞台のように」作られていることが指摘されている。
第四が美しさと権威である。国家の威信をかけた建物である以上、美しくなければならず、権威を示さなければならない。ここで採用されたのがゴシック様式だった。ゴシックには尖塔・フライング・バットレス(飛梁)・リブヴォールト(肋骨状の穹窿)という三つの構造的特徴があり、宗教的意味と構造上の合理性を兼ねている。加えて光の取り入れ方に優れているという性質が、採光の要件と噛み合った。
講義で繰り返し強調されたのは、ゴシックをそのまま輸入したのではないという点である。日本の技術で自分たちがどこまでできるかを踏まえ、アレンジしたうえで建物に落とし込んでいる。実際、内部には格天井など日本建築の意匠が随所に現れる。様式の模倣ではなく、様式の翻訳が行われている。
港区立郷土歴史館の公式情報によれば、旧公衆衛生院は昭和13年(1938年)10月に竣工している。設計は内田祥三、施工は大倉土木。建設資金には米国ロックフェラー財団の援助が入っている。構造は鉄骨・鉄筋コンクリート造で、外観はスクラッチタイルで覆われたゴシック調――いわゆる「内田ゴシック」である。
講義中は「昭和9年に着工」「昭和9年に竣工」「昭和9年に進行された」という言い方が混在していた。昭和9年(1934年)は着工年であり、竣工は昭和13年(1938年)と整理するのが公開情報と整合する。また「平成14年、12年まで使われた」という発言も揺れていたが、公衆衛生院としての役目を終えたのは平成14年(2002年)で、その後港区が取得・改修し、平成30年(2018年)に港区立郷土歴史館として開館している。
竣工が戦中に入ってからだった、という講義中の指摘については、1938年は日中戦争開戦の翌年にあたり、時期の把握としては妥当である。
四つの条件を同時に満たすというミッションを、内田は限られた時間のなかでこなしている。関東大震災の後、彼は東京帝大の復興も同時に手掛けていた。時間的な制約のなかで、構造的に長持ちする計算をしたうえで、美術的な価値まで高い状態で、恒久性を持たせて作る。講義ではここで「普通なら不可能だと言いたくなりませんか」という問いが投げられている。
この建物を語るうえで、設計者の人物像が本題として扱われた。内田祥三は東京大学本郷キャンパスの建物のほとんどを設計しており、代表作である安田講堂もその一つである。だが講義が強調したのは作品ではなく、彼が取った二つの行動だった。
戦争中、東京帝国大学が軍部に接収されそうになった。内田はこれを拒み、大学は教育機関だから貸せないと主張した。当時の状況を考えれば、これは命がけの行為である。講義では「普通ならできない」という前提のもとで、それでもやった人としてこの逸話が置かれた。
戦後は今度はGHQに接収された。内田は署名運動を起こし、広く署名を集めてGHQに直接交渉に行き、取り返している。まだ日本が独立を回復していない時期の行動であり、講義では「かなり命がけでやっていたと思う」と評された。
この二つの行動の背景として提示されたのが、関東大震災のときの体験である。震災で東京帝大の建物が焼け、保管されていた蔵書が燃えた。内田がショックを受けたのは建物が消失したことではなく、本が燃えてなくなったことで「知が消えた」ということだった。ここから彼は、知を保存し、知を育てるという主題を生涯にわたって追求していく。東大の復興にも、公衆衛生院にも、その情熱が注がれているという読み筋である。
内田祥三(1885–1972)は建築構造の専門家で、1907年に東京帝国大学建築学科を卒業、1921年から同大教授。1943年、前任の平賀譲が在任中に死去したことを受けて東京帝国大学総長に就任している。終戦前に軍部が大学を帝都防衛司令部として使用しようとした要求を拒絶したこと、占領初期に連合国軍総司令部および第8軍司令部としての接収要求を各方面と協力して回避したことは、東京大学附属図書館の公式記述でも確認できる。講義の語りは公開情報と整合している。
関東大震災による蔵書焼失については、講義では「全て燃えた」とされたが、数字には諸説ある。『東京帝国大学五十年史』は約76万冊、『東京大学百年史』は75万冊、復興に携わった古在由直は70万巻としている。いずれにせよ数十万冊規模の消失である。
なお、この焼失からの再建にもロックフェラーが関わっている。大正13年(1924年)にジョン・D・ロックフェラー・ジュニアから図書館再建のため400万円の寄付の申し出があり、新図書館は昭和3年(1928年)11月末に完成した。旧公衆衛生院への財団援助と合わせて、戦間期の日本の「知のインフラ」に米国の民間資金が二度入っていることになる。
講義で語られた「知を軽視していませんか」という問いは、この文脈から出ている。インターネットで取れるという感覚で知に接していないか。本はもっと貴重で重いものではないか。本だけでなく、会話も同じように重視すべきではないか――80年前の日本人がここまでやったのだから、今の自分たちはどうだろうか、と。
この回で最も具体的な話が、書庫の構造である。旧公衆衛生院の書庫は「三層式」――本棚が縦に三段並ぶ構造で、昭和期に作られたものが今なお現役で使われている。丈夫であるだけでなく、長く保つことを前提に設計されている。
そして、燃えないようにするために何をしたか。書庫の窓すべてに防火扉を付けている。しかも一斉に閉じられるだけでなく、一つひとつ個別に開閉できるようになっている。学芸員の説明によれば、現時点で分かっている範囲でこの仕様はここだけらしい、とのことだった。
窓の数は「一個一個こんなの閉められるか」というほど多い。それでも全部に付けている。一斉閉鎖の機構だけなら手間はずっと少ない。個別開閉にした瞬間、製作も施工も維持も跳ね上がる。それでもやったという事実が、守りたかったものの優先順位を語っている――これが講義の核心である。
この徹底は、建物が役目を終えたあとの扱いにも表れている。平成14年に公衆衛生院としての役目を終えたにもかかわらず、港区が買い直して改修し、現在は一般公開されている。しかも改修前の状態の記録もきちんと残されている。どういう位置づけでこの建物を見ているのかが、その記録から読み取れる、というのが訪問者の感想だった。
さらに印象的だったのは、そこで働く学芸員の熱量である。内田祥三が残した建物であるということを見たり調べたりしていくなかで、その熱が伝わってくる。だから保存にもつながり、学芸員が今も熱を持って語る。物としての建物が、人の熱量を再生産しているという構造がここで観察されている。
建物は現在、港区立郷土歴史館(通称「ゆかしの杜」)として運営されている。港区で出土した縄文・弥生期の遺物、クジラの骨の模型なども展示され、一部は手で触れられる形になっている。講義では「区に関する歴史的な展示が中心の場所として使われている」と説明された。建物単体の見学は無料エリアがあり、それでも一日では見切れないという感想が述べられている。
建築費については、講義でも「金額が公表されていない」「ロックフェラー財団から資金提供を受け、それで足りず調整したという記述しか見当たらない」と述べられた。Claude側の調査でも総工費の公式な数字は確認できなかった要確認。訪問者の所感として「今ならかけられないぐらいの金額をかけているのではないか」という推測が語られている。
後半、話は建物の見方そのものに移る。出発点は、東大本郷キャンパスを上から見ると左右対称になっているという学芸員の指摘だった。安田講堂も含め、内田の建物はシンメトリーを極端に重視している。
新古典主義建築におけるシンメトリーは、単なる好みではなくメッセージの装置として機能する。威厳と権威、安定と秩序、理性と民主主義、普遍的な美――こうした複数の含意が同時に載る。分かりやすい例として挙げられたのが、アメリカのホワイトハウスや裁判所がすべてシンメトリーで作られていることだった。
シンメトリーは「完璧な均衡と秩序」を視覚的に宣言している。したがって何かが壊れたりアンバランスになることは、その国・その地域のアンバランスを象徴してしまう。だから国家の重要建築では補修のスピードが建築のなかでも圧倒的に速い。逆に、老朽化して手入れが行き届いていない状態は、国家の権威が衰えているというネガティブな印象を外部に与える。昔のままの形を絶対にキープしなければならない、という発想はここから来る。
この視点を持つと、港区が旧公衆衛生院を買い戻して補修し、記録まで残して公開しているという事実の意味が変わる。文化財保護であると同時に、秩序が保たれていることの表明でもある、という読み方が提示された。
対比として挙げられたのが中国の現代建築である。巨大なビルを建てるが、非対称のものが非常に多い。一方で、かつて中国が建てていた建物は対称性がしっかりできている。威厳と安定性を国民に対するメッセージとして送り、外部に対しても「うちらにはこういうものがある」と示す機能を、シンメトリーが担っていたという整理である。
ここから講義は、複雑なデザインがかっこいいという価値観と、シンプルなデザインの良さという価値観を並べたうえで、建物は一つの芸術品であり、作った側の意図がメッセージとして埋め込まれているという見方を提示する。シンメトリーのメッセージ性は何なのかを問いながら見ると、建物の見方が面白くなる、というのが結論だった。
講義中の質疑では、内田祥三の系譜が「ジョサイア・コンドル → 辰野金吾 → 佐野利器 → 内田祥三」という流れで説明された。日本近代建築の教育系譜としては妥当な整理である。参加者からは「ドイツ式か」という指摘があり、ヴィルヘルム期のドイツにおける学問的雰囲気、科学技術における体系化の時代とのリンクが論じられた。安藤忠雄がル・コルビュジエの影響下で無機質な方向に行ったのとは対照的に、内田は西洋と日本をどう融合するか、そして実用性をどう高めるかを徹底的に追求した人物ではないか、という見立てが示されている。ギリシャ建築を大学=知識の中心に据えた19世紀ヨーロッパの伝統との接続も指摘された。
なお、内田祥三の息子である内田祥哉も建築家で、建築生産・構法の研究で知られる。参加者の一人(建築学科卒)が「息子さんの名前は学んだことがあり、これがお父さんなのかと思った」と述べたのはこの点である。
講義はここで、建築のもう一つの現実に触れる。ビルや建物を建てるとき、99.9%のプロジェクトは予算を超過するという前提である。どんなに建築のプロが集まっても超えてしまう。そのなかで、ほぼ予算内に収めてしまう例外として名前が挙がったのが、フランク・ゲーリーだった。
そしてこの日、勉強会の10日前にゲーリーが亡くなったという情報が参加者から共有される。1929年生まれ、96歳。「建築界の変人」と呼ばれ、奇妙な形の建物を作り、シンメトリーとはまったく無縁でありながら、予算面ではしっかり押さえ込んで作る――そういう建築家だった、という評が語られた。
フランク・ゲーリーは2025年12月5日、カリフォルニア州サンタモニカの自宅で96歳で死去している。短期間の呼吸器疾患が原因と報じられた。この勉強会は2025年12月15日開催であり、「10日前に亡くなった」という発言は日付として正確である。1929年2月28日カナダ・トロント生まれ、南カリフォルニア大学で建築を学び、ハーバードで都市計画を学んだのち、1962年にロサンゼルスで事務所を開いた。
ゲーリーが語っていたという予算管理の秘訣は、拍子抜けするほど単純である。徹底的なコミュニケーション。これが第一。そして仮説とシミュレーションの徹底、素早く動くこと。この三つだけだった。
講義はここで反転を行う。ゲーリーがこの三つで予算内に収まるということは、予算を超過している側は、余計なことをしていて、どこかでコミュニケーションが不足していて、動くのが遅く、仮説とシミュレーションが機能していないということになる。原因は技術ではなく運用にある、という主張である。
ゲーリーの強さの源泉として指摘されたのが、直前に語られていた内田祥三と同じ性質――現場に足を運びまくる人だったことである。設計しかしない人と、現場を見に行く人は全然違う。図面だけでどうこうするのではなく、現場でどれだけコミュニケーションを取り、職人と分かち合ってやりきるか。それがなければ成立しないものがある。ここで前半の内田の話と後半のゲーリーの話が完全につながる。
講義では「ロサンゼルスにディズニー美術館みたいなのがあるが、それを作ったときに『お前は無名だろう』と外され、7年間できなかった。ゲーリーが入ってから2年で完成した」と語られた。公開情報とはかなり異なるため、そのまま書き換えずに差分として記録する。
正しくはウォルト・ディズニー・コンサートホール(美術館ではなくコンサートホール)である。1987年にリリアン・ディズニーが5,000万ドルを寄付してプロジェクトが始動し、ゲーリーは1991年に設計を完成させている。その後、政治・計画・運営・入札の問題が重なって1994年にプロジェクトが停止し、着工は1999年まで遅れ、開館は2003年10月24日だった。ゲーリーが外されたという事実は確認できず要確認、中断の原因は資金と運営側にあったとされる。
また、ビルバオ・グッゲンハイム美術館(1997年完成、着工から4年)はディズニーホールより後に発注されながら先に完成しており、その評判を見た結果、ディズニーホールの外装がチタンではなくステンレススチールに変更されたという経緯がある。「ビルバオ効果」――一つの建築が都市そのものの経済を再生させる現象――という語も、この建物から生まれた。
「建築家なのにシステム会社を作った人」という指摘については、ゲーリーが設立したGehry Technologiesと、航空機設計ソフトCATIAを基にした建築向けソフトDigital Projectを指していると思われるが、本レポートでは裏取りが取れていないため断定を避ける要確認。
ゲーリーが長く軽視されていたという指摘も語られた。大型建築の世界にいながら、大きなビルを作る気がなく、小さい建物をどうやって安く作るかしか考えてこなかったタイプだったため、評価されない時期が続いた。この「安く作る」への執着が、後年の予算管理能力につながっていると読める。
参加者からの指摘で、この建物の先進性が具体的な形で言語化された場面がある。関東大震災の死亡原因はほぼ焼死である。一方、その後に起きた阪神・淡路大震災は圧死だった。建物の崩壊によるものである。そして圧死を防ぐために必要なのが鉄筋・鉄骨だった。旧公衆衛生院は、その時代からすでにそこに入っている。
目の前の被害(焼死)だけに対応するなら、防火だけで足りる。次の災害では圧死が問題になるという予測を、当時の技術で前倒しして構造に入れたという点が、この建物を「時代を先取りしている」と言わせている。考えの強さ、思いの強さが時代を超えてくる、という感想がここから出ている。
もっとも、講義は無批判な礼賛では終わらない。現在の耐震基準と比べると問題がある箇所は複数あり、避難経路が確保できない、一室あたりの収容人数が明らかに超過している、といった課題が挙げられた。竣工後に補修工事や耐震補強が実施されているという。当時考えられる最高のものを使って、おそらく100年後くらいまでを見据えて作ったが、当初目指した水準には予算面も含めて届かなかった――そう説明された。目指したこと自体は確かである、という留保つきの評価である。
それでも、と講義は続く。窮屈であっても、この教室でこうやって過ごしたいと思わせるものがある。学ぶことにいかに集中させるかを意識して、舞台のように作られている。機能が思想を運んでいるという感覚が、訪問者の言葉として残された。
最後にまとめられたのは、80年前の日本人がここまでやっているという事実と、では今の自分たちはどうかという問いだった。明治期の後藤新平の話にも触れつつ、「自分たちの足元にもそういうところがある」ということを分かってもらえればいい、という締めくくりになっている。