STUDY REPORT / 2025年12月度 勉強会

知の探索とコンピテンシー・トラップ――実績で人を評価すると、なぜ長期的に組織が死ぬのか

この回で開示された組織設計は、感覚で組まれたものではなく、複数の経営学・組織心理学の理論を実装先として選んだ結果だと説明された。本レポートはその理論の中身を扱う。ダイナミック・ケイパビリティ、コンピテンシー・トラップ、両利きの経営、適応的パフォーマンス、ラーニング・アジリティ、トランザクティブ・メモリー・システム。それぞれの出典と、発言との対応関係を確認していく。

EXECUTIVE SUMMARY

本レポートの概要|知の探索とコンピテンシー・トラップ

中核理論
ダイナミック・
ケイパビリティTeece et al. 1997
環境変化を感知し、資源を再構成して変革する能力。評価軸を実績から適応力へ移す根拠。
回避したい失敗モード
コンピテンシー・
トラップMarch 1991
短期成果の追求が同質化を招き、長期の適応能力を失わせる現象。
3つの段階
感知・捕捉・変革Sensing / Seizing / Transforming
組織全体ではなく「個人」に焦点を当てて実装した、というのがこの設計の独自点。
組み合わせの構図
両利きの経営探索 × 深化
経営者は知の深化のプロ、アカデミックは知の探索のプロ。両者を同居させる。
個人の予測因子
ラーニング・
アジリティIQでも実績でもない
初めての状況で誰が成果を出すか。現在価値ではなく成長率に投資する発想。
集合知の条件
アウトプット暗黙知の形式知化
誰が何を知っているかを共有しない限り、専門性の集合は集合知にならない。

後半の講義で示された設計は、その根拠となる理論が一つずつ名指しされている点に特徴がある。「最先端で最も影響力のある経営学の理論をほとんど入れている」という本人の説明どおり、話は理論名・提唱者・定義・評価指標という順で組み立てられていった。本レポートは、そのそれぞれについて出典を確認し、発言と学術的な定義の対応関係を整理する。

骨格は明快である。まずデイビッド・ティースのダイナミック・ケイパビリティを置き、過去の実績で測る評価(オーディナリー・ケイパビリティ)と、環境変化への対応力で測る評価(ダイナミック・ケイパビリティ)を分離する。次にジェームズ・マーチのコンピテンシー・トラップを置き、短期成果を追うと長期の適応能力を失う構造を示す。そこから知の探索と知の深化の対比に進み、両者を同時に回す「両利きの経営」を、経営者とアカデミックを同居させることで構造的に実現しようとする。

個人レベルの評価軸としては、適応的パフォーマンスの8次元と目標志向性理論が引かれ、成果よりも学習プロセスを志向したほうが能力が伸びるという知見が根拠として使われる。さらに、将来のリーダーシップを最も予測するのはIQでも過去の実績でもなくラーニング・アジリティである、という人材アセスメント領域の知見が接続され、「人の現在価値ではなく成長率(スロープ)に投資する」というベンチャーキャピタル的な発想へ着地する。参照した実例として、実績のない人物をトップに据えたYコンビネーターが挙げられた。

最後に、個人の能力が集合知に変換される条件として、トランザクティブ・メモリー・システムと暗黙知の形式知化が置かれる。参加者はそれぞれ異なる事業を営んでおり、その領域では主宰者より詳しい。だが、それがアウトプットされない限り集合知にはならない。だからアウトプットを徹底させるのだ、という接続である。

このセッションを貫く1本の線
すべての理論が、同じ一つの命題を別の角度から支えている――過去の実績は、未来の環境変化への対応能力を保証しない。過去に1億円を稼いだという事実は、特定の市場環境でオーディナリー・ケイパビリティを持っていたことを証明するが、未来の環境変化に対応できることは証明しない。この非対称性が、評価軸を実績からプロセスへ移す唯一の論拠であり、理論はすべてその補強として選ばれている。
PART 0

「分からない話をしてください」――情報の価値についての前提

理論の解説に入る前に、講義の受け取り方について前提が共有されている。本人が持っている価値観は「いま自分が処理できる情報の価値はゼロだ」というものである。分かる/分からないという感情で情報を判断するのではなく、後々パズルのピースとして嵌まることに価値がある。だから、必要なときに嵌まるピースを事前にどれだけ用意しておくかが問題になる。

この前提から、「私でもついていけますか」という質問への定型的な返答が導かれる。第一に、あなたのことをそこまで知らないので測れない。第二に、あなたが理解できることを勉強して何の価値があるのか分からない。分からないことがどうやって分かるようになるか、そのプロセスこそが重要ではないか――という返しである。したがって講師陣に対しても「難しい話をどんどんしてくれて構わない、置いていっても構わない」という指示が出ている。

「単純化のために、どれだけの理論を犠牲にしているか」
参加者の一人から、この点について重要な観察が示された。一つの講義に社会学や政治学の理論が複数入っている。一言に単純化するために、どれだけの理論を込め、どれだけの取捨選択をしているか。講義とは実は引き算であり、「これを教えるためにこれを教えない」という選択の積み重ねである。単純化された一言だけを追って満足していると、その背後にある構造が見えない。この観察は、以降の理論解説を読むうえでの補助線になる。

実際、この回の講義は理論を一つずつ名指しし、ホワイトボードに図を書きながら進行した。以下では、その順序に沿って、理論ごとに出典を確認していく。

PART 1

ダイナミック・ケイパビリティ――「正しくやる」から「正しいことをやる」へ

最初に置かれた理論が、ダイナミック・ケイパビリティである。本人はこれを「経営学の中でいま最も重視されている」理論と位置づけ、二つのケイパビリティの区別から説明を始めた。

オーディナリー・ケイパビリティとは、既存のビジネスモデルをどれだけ効率よく運営するかに関する能力である。焦点は "doing things right"、すなわち正しく行うことにある。評価指標は売上、利益率、コスト削減、そして過去の実績になる。これに対してダイナミック・ケイパビリティは、環境変化を感知し、資源を再構成して変革する能力である。評価指標は学習速度、ピボットの回数、新結合の創出、環境適応能力へと変わる。

項目オーディナリー・ケイパビリティダイナミック・ケイパビリティ
問いいまのやり方をどれだけ効率よく回せるか環境が変わったときに何をどう組み替えるか
焦点doing things right(正しく行う)doing the right things(正しいことを行う)
評価指標売上・利益率・コスト削減・過去の実績学習速度・ピボット回数・新結合の創出・環境適応能力
対応する評価思想成果主義プロセスと適応能力主義
証明できること特定の市場環境で成果を出せたこと環境が変わっても成果を出せる可能性
📌 Claude補足|ダイナミック・ケイパビリティの出典

ダイナミック・ケイパビリティは、デイビッド・J・ティース、ゲイリー・ピサノ、エイミー・シュエンが1997年に発表した論文 "Dynamic Capabilities and Strategic Management" で定式化された概念である。変化する環境の要求に合わせて、企業内外の組織的スキル・資源・機能的コンピテンスを適応・統合・再構成する能力、と定義されている。裏取り済

三つの構成プロセス——機会と脅威を感知する(sensing)、戦略行動によって機会を捕捉する(seizing)、変化する市場条件に合わせて組織の資産とルーティンを変革する(transforming)——という整理も、学術的な定義と一致している。

また、オーディナリー・ケイパビリティ(ゼロ次/オペレーショナル能力)が「現在の収益活動を遂行する能力」であり、ダイナミック・ケイパビリティがそれを拡張・修正・創造する一次の能力である、という階層関係も文献どおりである。ティースはダイナミック・ケイパビリティを「企業ごとに固有で、その企業の歴史に根ざしている」と述べており、模倣が難しい理由をそこに置いている。

この区別が、評価制度の話に直結する。過去に大きな金額を稼いだという実績は、その時点の特定市場環境においてオーディナリー・ケイパビリティを持っていたことの証明にはなる。しかし、未来の環境変化にそれが対応できるかを説明できるか――と本人は問うた。時代が変化している以上、それは説明できない。だからこの場では、過去の最適化の結果ではなく、変化のある時代に適応するために知識・経験・思考力をどれだけ持っているかを優遇している、という説明になる。

PART 2

センシング・シージング・トランスフォーミング――個人に落とし込む

STEP 1
センシング
環境の変化、機会(オポチュニティ)、脅威を察知する能力。この場では「アンテナ」と言い換えられた。いくら資産を持っていても、市場変化に気づく知識がなければ資産は減っていく。
STEP 2
シージング
機会を捉えた後、資源を動員して価値に変える能力。この場では「行動とアウトプット能力」に対応させた。価値の定義側は知識・経験・発想力が担う。
STEP 3
トランスフォーミング
持続的競争優位のために組織全体を変化させる能力。この設計では個人に焦点を置いた。過去の実績はどうでもよく、重要なのは自己変革の姿勢である。

三段階のうち、この設計の独自性はトランスフォーミングの扱い方にある。理論上は「組織全体をどう変化させるか」を問う段階だが、ここでは個人に焦点を置き換えている。その人自身が変わらなければならない、という位置づけである。だからこそ、講義を担当する講師陣がやっていることは、まさにこのトランスフォーミングの領域なのだ、という説明が加えられた。

センシングの実装についても、具体的な障害が名指しされている。それが「察する文化」である。機会が変化しているのに人が気づいていない。世界中で評価基準が変わり続けている状況で、それを「察しろ」と言われて誰が気づけるのか。だからこの文化を排除する必要がある。代わりに必要なのは、明確な意思決定を促すこと、説得すること、理解してもらうことであり、そこで要求される能力がコミュニケーションとプレゼンテーションである――という接続になる。

アンテナがなければ資産は減っていく
センシングの説明で使われた最も簡潔な論理がこれである。いくら金を持っていても、市場変化に気づく知識——アンテナ——がなければ、資産は減っていく可能性が高まる。この一文は、「金を持っている人を評価しない」という評価制度の設計を、資産防衛の観点から裏返しに正当化している。金額そのものは、それを維持する能力を保証しないからである。
PART 3

コンピテンシー・トラップ――短期成果の追求が同質化を生む

次に置かれたのが、壊したい対象としてのコンピテンシー・トラップである。組織学習理論の枠組みであり、提唱者としてジェームズ・マーチの名が挙げられた。主張は、短期的な成果を求めることが同質化につながる、というものである。そして日本人が同質化している理由は短期目線にある、と接続される。定義としては、長期的な適応能力を失う現象、と説明された。

📌 Claude補足|ジェームズ・マーチ(1991)の原典

出典は、ジェームズ・G・マーチが1991年に Organization Science 誌へ発表した論文 "Exploration and Exploitation in Organizational Learning" である。新しい可能性の探索(exploration)と、既存の確実性の活用(exploitation)の関係を論じたもので、その中核的な主張は――適応プロセスは探索より活用のほうを速く洗練させるため、短期的には有効だが長期的には自己破壊的になりやすい――というものだった。裏取り済

「コンピテンシー・トラップ」は、この構造を指す用語として広く使われている。企業には探索を犠牲にして活用戦略を強調する傾向があり、それが罠になる。なお、マーチの1991年論文は理論モデルとシミュレーションによるものであり、実証データに基づいていない点は、この分野のレビュー論文でも指摘されている。理論の射程を理解するうえで押さえておくべき前提である。

ここで発言と学術用語の対応について、一点だけ確認しておく必要がある。講義中、日本語の「知の探索」と「知の深化」に英語を当てる場面で、両者の対応が入れ替わって発話された箇所がある。標準的な対応は、知の探索=exploration、知の深化=exploitation である。日本語での議論の内容——「日本人は知の深化しかしていない」「必要なのは知の探索だ」——は一貫して正しく、英語の当て方が口頭で入れ替わっただけと読める。本レポートでは以降、標準的な対応で表記する。

知の深化(exploitation)
短期的に成功確率が高い。既存の勝ちパターンを磨き込むため、成果が見えやすく、収益に直結する。ただし、これだけを続けると環境変化への対応が難しくなる。日本人はこれしかやっていない、という診断が示された。
知の探索(exploration)
短期的には成果が見えず、コストがかかる。時間というコストを支払い続ける必要がある。しかし長期的にはイノベーションと生存をもたらす。この設計が最も評価したい能力として指名された。
知の探索と知の深化の成果曲線(概念図)
単位:相対値/出典:Claude作図。マーチ(1991)の主張および本セッションでの説明を概念的に図示したもので、実測値ではない。深化は初期に立ち上がるが環境変化で頭打ちになり、探索は初期の停滞を経て長期に伸びる、という構造を示す。

この対比が、コミュニティの構造設計に直結する。コンピテンシー・トラップを構造的に回避する方法として提示されたのが、経営者は知の深化のプロであり、アカデミックは知の探索のプロである。この二つを融合させればよいという組み合わせだった。個人の意志で両方をやろうとするのではなく、異なる専門性を持つ人材を同じ場に同居させることで、構造として両方が回るようにする、という発想である。

PART 4

両利きの経営――探索と深化を同時に回すという構造

この構造には名前がある。両利きの経営、英語では ambidextrous organization である。講義では、この概念を日本で広めた研究者の名を挙げながら、探索と深化を同時に行うことが重要である、と説明された。だからこそ経営者も大量に入れるし、学術的な背景を持つ人も入れる。とりわけアカデミックに重点を置くのは、日本人が知の探索を苦手としているからであり、それはリサーチ能力の欠如として現れる――という接続である。

📌 Claude補足|「両利きの経営」「知の探索」「知の深化」という訳語

「両利きの経営」は organizational ambidexterity の訳語で、探索(exploration)と深化(exploitation)を同時に追求する経営を指す。日本では早稲田大学の入山章栄氏が「知の探索」「知の深化」という日本語を当て、著書で広く紹介したことで定着した。氏自身がこの日本語表現を最初に用いたと述べている。裏取り済

知の深化とは、事業の基盤となりうる知を徹底的に深め、繰り返し活用・洗練させて収益化することを指す。知の探索とは、すでに獲得した認知の範囲外にある知を探し、既存の知と新しく組み合わせることを指す。企業が長期にわたって発展するには両方が必要である、という点も本セッションの説明と一致する。

なお、両利きの経営の理論的な整備は、チャールズ・オライリーとマイケル・タッシュマンによる研究が中心であり、マーチ(1991)を出発点として発展してきた系譜にある。日本語の「知の探索/知の深化」は、この系譜を一般向けに翻訳したものと理解すると位置づけが正確になる。

両利きは「口で言うのは簡単」――実行の困難さ

この理論について、参加者から最も実感のこもった反論が出た。両利きの経営は口で言うのは簡単だが、実際にやろうとすると極めて大変である。自分が最もできなかったのがここだった、全部一人でやっていた、という告白である。

これに対する応答が、この回で最も実務的なやり取りになった。だから仲間が必要である。ただし、仲間がいても「収益を上げていないじゃないか」「お前のせいで収益が上がらなくなった」と、あちこちの部署から批判されることになる。それがイノベーションを起こす際の最初の入り口の問題である。そこで参照されたのがスタートアップの構造だった――スタートアップはなぜ収益が上がらなくてよいのか。5年でも10年でも資金調達を続ければよいからであり、そうやって変化を起こすために知の探索を続けている。いまのAI業界がまさにそうだ、という整理である。

継続費用を下げる理由は、ここにある
「日本人は結局、短期的思考のところに行きがちだ」という診断のあと、コミュニティの継続費用を低く抑えている理由が説明された。長期的な目線を持ってもらうためであり、長期的に勉強してもらうためにコストを落としている。知の探索には時間というコストがかかる以上、参加者のキャッシュフローを圧迫すれば探索は続かない。理論と運営条件が、ここで直接つながっている。
PART 5

適応的パフォーマンスと目標志向性――個人の側の評価軸

ここまでは組織レベルの理論だった。次に、個人をどう評価するかという水準に話が移る。参照されたのは、心理学における適応的パフォーマンス(adaptive performance)の研究と、目標志向性理論である。

従来の評価制度は数字で見えるものを対象にしている。これに対して、この場が評価したいのは数値化しにくいものである。では数値化しにくいものをどう評価するのかというと、突き詰めれば「面白いかどうか」になる、という率直な説明がなされた。そのうえで、適応的パフォーマンスの構成要素が8次元として列挙された。緊急事態と危機への対処、ストレスへの対処、そして対人関係の適応能力(コミュニケーション能力)、文化的適応(新しい環境での適応)、物理的適応、といった項目である。

📌 Claude補足|適応的パフォーマンスの8次元(Pulakos et al., 2000)

講義中に言及された研究者名は、Elaine D. Pulakos らを指すものと考えられる。2000年に発表された "Adaptability in the workplace: development of a taxonomy of adaptive performance" が原典で、21職種から1,000件以上のクリティカル・インシデントを分析して8次元を抽出し、Job Adaptability Inventory(JAI)という測定尺度を開発、24職種・1,619名の回答による探索的因子分析で8次元構造を支持した。裏取り済

8次元は以下のとおりである:①緊急事態・危機への対処、②仕事上のストレスへの対処、③創造的な問題解決、④不確実で予測困難な状況への対処、⑤仕事・技術・手順の学習、⑥対人関係における適応性、⑦文化的適応性、⑧身体的適応性。

講義中に読み上げられた項目(緊急事態と危機の対処/ストレスへの対処/対人関係の適応能力/文化的対応/物理的対応)は、この8次元と一致している。音声が一時的に途切れた区間があり中間の次元は聞き取れなかったが、番号と項目の対応から同一の分類を参照していることが確認できる。

もう一つ引かれたのが目標志向性理論である。成果よりも学習プロセスを目指すほうが能力が伸びる、という知見が根拠として提示された。講義中は提唱者名を思い出せないと述べられていたが、これは教育心理学・組織心理学で確立した領域である。

📌 Claude補足|目標志向性理論の系譜

目標志向性(goal orientation)の研究は、キャロル・ドゥエックによる学習目標志向(learning goal orientation)と遂行目標志向(performance goal orientation)の二分法が出発点になっている。学習志向の人は能力の可塑性を信じ、努力によって能力を変えられると考える。遂行志向の人は、否定的な評価を避けつつ自分の能力の十分さを示し、賞賛を得ようとする。裏取り済

その後、1995年の Elliot、1996年の VandeWalle の博士論文により、二因子モデルから三因子モデル(学習/遂行証明/遂行回避)へ拡張された。VandeWalle と Cummings (1997) はさらに、学習志向の従業員はフィードバックを有用な情報として積極的に求め、遂行回避志向の従業員は自己像への脅威と捉えて避ける、という違いを示している。

この最後の知見は、本セッションの運営方針と正確に対応する。「間違ってもいいから壁打ちしに来い」というプロセス主義は、参加者を学習志向側に置くための仕掛けとして機能する。逆に、成果で評価する運営は参加者を遂行回避側に押しやり、フィードバックを避けさせる。

PART 6

ラーニング・アジリティ――現在価値ではなく成長率に投資する

個人の評価軸として最後に置かれたのが、ラーニング・アジリティである。過去の実績でも IQ でもなく、将来のリーダーシップを最も予測するのはこれだ、という研究知見が紹介された。定義は、経験から学び、新しい状況に対応する能力である。固定された理論を持たないという点でアントレプレナーシップの議論と同じことを言っている、という補足も加えられた。

📌 Claude補足|ラーニング・アジリティの出典と、発言との食い違い

ラーニング・アジリティは、マイケル・ロンバルドとロバート・アイチンガーがリーダーシップ・ポテンシャルの指標として提唱した概念で、経営幹部の成功と失脚(derailment)に関する広範な研究に基づいている。2006年以降はコーン・フェリー社がこの研究を引き継いでいる。裏取り済

ここで発言と公開情報に食い違いがある。講義中は「コーン・フェリーという会社があって、ロミンガーという人がいる」という説明がなされたが、Lominger は人名ではなく会社名である。創業者2名の姓、LOMbardo と eichINGER を組み合わせた造語で、同社は後にコーン・フェリーに買収された。したがって「コーン・フェリー社(旧 Lominger 社)のロンバルドとアイチンガーが提唱した」が正確な表現になる。発言を書き換えず、食い違いとして記録しておく。

モデルの中身は、Lominger の4因子(mental agility/people agility/change agility/results agility)に、コーン・フェリーが self-awareness を第5因子として加えた構成になっている。予測力については、初めて経験する状況で誰が成果を出せるかを予測し、長期的な昇進ポテンシャルと有意に相関する、とされる。

この理論から導かれた実装が、「人の現在価値はどうでもよい。重要なのは成長率、スロープに投資することだ」という方針である。これはベンチャーキャピタル的な考え方を人材評価に持ち込むものだ、と本人は説明した。企業を評価するときと同じように、人に対しても現在の水準ではなく傾きを見る、ということである。

参照した実例――Yコンビネーター

この発想を参考にしたベンチャーキャピタルとして、Yコンビネーターの名が挙げられた。実績のない人物をトップに据えた、という点が具体的な参照ポイントである。

📌 Claude補足|Yコンビネーターの後継者指名(2014年)

2014年2月、ポール・グレアムはサム・アルトマンをYコンビネーターのプレジデントに指名した。アルトマンは2005年のYC第1期生であり、2011年からパートタイム・パートナーを務めていた。裏取り済

ただし「実績がなかった」という表現には留保が必要である。アルトマンは2005年にYC第1期で Loopt を創業し、同社は2012年に Green Dot へ約4,340万ドルの現金で買収されている。買収後はベンチャーファンド Hydrazine Capital を立ち上げ、Zenefits などへ投資していた。またグレアムは2009年のエッセイで、アルトマンをスティーブ・ジョブズやGoogle創業者らと並べて「最も興味深い創業者5人」の一人に挙げている。

つまり、大企業の経営実績や運営実績はなかったが、創業・売却・投資の実績は存在した。グレアムが後継指名の理由として挙げたのは「YCは成長する必要があり、自分はそれに最適な人物ではない。サムはこの段階のYCが必要としているものだ」という趣旨であり、実績の有無ではなく次の局面への適合性で選んだ、という構図である。この構図自体は、本セッションの「実績ではなく適応能力で選ぶ」という主張とよく合致している。

この実例が、講師陣の人選にそのまま適用されている。講師として立っている人物たちにプレゼンテーションの実績はない、と本人は率直に述べた。実績ベースで考えるなら、著名な講演者に金を払って呼べばよい。しかしそれでは他のコミュニティと何の差もなくなる。求めているのは実績ではなく、一つの物事を多角的に語れること、違う目線からアウトプットできることである、という結論になる。

求めているのは「成果」ではなく「気づき」
プレゼンテーションの合宿について、本人は明確に述べた。求めているのは会員の成果ではなく気づきである。成果を出させることも大事だが、その前に必要なのは気づきだと思っている。もし成果だけを求めるのであれば、成果を出している人に聞けばよく、この場である必要はない。欲しいのは探索のきっかけである――という優先順位が示された。環境に適応するために必要なものは何かと考えたとき、それは間違いなく気づきであり、危険を察知して行動しトランスフォーミングする、その一連は探索しないとできない、という論理でダイナミック・ケイパビリティに接続されている。
PART 7

集合知の条件――トランザクティブ・メモリー・システムと暗黙知の形式知化

理論編の最後に置かれたのが、個人の能力が集合知に変換される条件である。組織とはTMS、トランザクティブ・メモリー・システムである、という定義から入った。

参加者はそれぞれ異なる事業を営んでおり、その領域では主宰者本人より詳しい。太陽光に詳しい人、脳に詳しい人、データセンターに詳しい人。したがって、この場は知の集積場所として極めて強い。ただし条件がある――アウトプットしなければ、それは集合知にならない。だからアウトプットが必要なのだ、という接続である。経験という形で言語化されていないものを、言語化することによってコミュニティの基盤が強くなる。

📌 Claude補足|TMSと暗黙知・形式知の出典

トランザクティブ・メモリー・システム(TMS)は、ダニエル・ウェグナーが1987年に概念化したもので、社会システムにおいて情報を符号化・保存・検索する集合的なシステムを指す。「誰が何を知っているか(who knows what)」のシステムとして知られ、個人が自分の持つ以上の情報にアクセスできるようにする。構成要素は二つ――個人の頭の中にある専門知識と、個人同士を結びつけて専門知識・スキルを協調させる相互作用プロセスである。裏取り済

ここで重要なのは、TMSの本質が「全員が全部を知ること」ではなく認知的分業だという点である。メンバーが異なる領域を分担して記憶し、課題を最も適任のメンバーに割り当て、どの分野で誰に相談すべきかを知る。本セッションの説明——「各自が自分の事業では自分が一番詳しい、だから集積場所として強い」——は、TMSの定義そのものである。

暗黙知の形式知化については、野中郁次郎・竹内弘高『知識創造企業』(1995年)のSECIモデルが該当する。社会化(Socialization)・表出化(Externalization)・連結化(Combination)・内面化(Internalization)の4プロセスで、暗黙知と形式知を相互変換しながら組織が新しい知識を生み出す、という理論である。講義中の「暗黙知をどうやって形式知化させるのか、それがアウトプット能力だ」という説明は、SECIモデルの表出化のプロセスにあたる。

この文脈で、日本の課題があらためて指摘された。日本では暗黙の了解を作り上げて形式知化させないという文化が強く、むしろ察する文化のほうが優位にある。だから形式知化させるという文化がない。したがって、この場では察する文化そのものを排除していかなければならない――という接続である。

そしてもう一つ、成功体験の扱いについての厳しい問いが投げられた。あなたの成功体験は、ビジネスとして再現できる、あるいは学習可能な理論に形式知化できますか――という問いである。そもそもやっていることは運ではないのか、タイミングではないのか、実力ではないのではないか。だからこそ形式知化されなければならない、という論旨だった。この問いは、コミュニティの外にいる読者にとっても、そのまま自己点検の道具になる。

この回で参照された主要理論の発表年
単位:西暦/出典:Claude が各理論の原典をWeb検索で確認して作図。VUCAは米陸軍戦略大学の資料の初出年、ラーニング・アジリティは Lombardo & Eichinger の構成概念が学術文献で整理された年代の目安を示す。
理論の年代から読めること
参照された理論の大半は1987年から2000年の間に発表されている。つまり、これらは新しい理論ではない。にもかかわらず「最先端で最も影響力のある理論を入れている」と表現されるのは、理論の新しさではなく実装されている場所の少なさを指していると読むのが妥当である。理論としては30年前から存在しているが、日本の組織運営に評価制度として実装されている例は稀である――という主張の構造になっている。
Q&A

質疑応答|理論と実装に関する全記録

Q両利きの経営は口で言うのは簡単だが、実際にやろうとすると極めて大変である。自分が最もできなかったのがここで、全部一人でやっていた。
Aだから仲間が必要である、という応答。ただし仲間がいても「収益を上げていない」「お前のせいで収益が上がらなくなった」と各部署から批判される。それがイノベーションの最初の入口の問題になる。参照されたのがスタートアップの構造で、5年でも10年でも資金調達を続ければよいという前提があるからこそ知の探索を続けられる。いまのAI業界がまさにそうだ、という整理が示された。そのうえで、日本人は短期的思考に行きがちだから、コミュニティの継続費用を下げて長期目線を持てるようにしている、という運営条件へ接続された。
Q「動的評価」は言葉で言うと簡単だが、評価者の負担が極めて大きいのではないか。
A負担は大きい、と率直に認めたうえで、時間の都合で簡単に説明していると断りが入った。要点は「とにかく好奇心を持って行動しまくり、知識を入れまくってアウトプットしろ」であり、それがメインである。これに対して質問者から、評価者自身にある程度の信用性を作らなければならず、そこにも一貫性が必要になる、という補足があり、主宰者も同意した。動的評価は評価される側の問題であると同時に、評価者の信用の問題でもある、という論点が確認された。
Qアウトプットやアイデアは、間違っていてもとりあえずぶつけていいのか。それとももう少し考えてから言うべきか。
Aプロセス主義なので間違ってもよい、という明確な回答。正解を言うことが正しいのではなく、プロセスが極めて重要である。だからどんどん壁打ちに来てよい、間違っていればこちらで修正する、という運用が示された。これは目標志向性理論の学習志向側に参加者を置くための設計として読める。
Qスタートアップに入ったときも、マイキークラブを作ったときと同じように、あらかじめ設計を考えてから作ったのか。
A財務責任者として最近転じた参加者からの質問。サービスまでの流れを含め、その会社の良いところ・悪いところを全部見たうえで設計したが、自分もゼロから立ち上げたわけではなく途中から入っている、という前提が示された。そのうえで、変革はプレゼンテーションで何度もやって進めた、という回答である。ただしコミュニティと違い、既存組織では組織構成を変えるまでに1〜2年かかった。「煙たがられても構わない」という感覚で、辛抱強く言い続けるしかない、と述べている。
Qいま社内で変えようとしているが、変えられない部分・自分が届かない部分が多い。どうすればよいか。
A同じ質問者との続きのやり取り。最初は「何を言っているんだこいつは」という反応でも、1か月後に「言った通りになった」という事例が出てくると、少しずつ信頼が生まれる。ずっと嫌われていても、やはり言った通りだったとなった時点で一気に回転し始める。彼らは自分たちのやり方が最善だと思っている中で横から刺されるので納得がいかない。それをどうデータで示すか、プレゼンテーションで示すか、という勝負になる。そして本当に変わる気がないと判断したら自分は辞める、と付け加えられた。質問者側も、辞めるという選択肢を持てるのは今までの経験と知識のおかげだと応じている。
Q今日の話には、以前扱ったイノベーター理論なども入っているのか。
A「もちろんある」という即答。有用な経営学の理論は大体詰め込んでいる、という説明である。あとは環境に馴染むか適応するかしないかだけの話であり、ここで適応できないのであれば、資本主義という枠組みの中の現行の評価制度にしか嵌まらない人だということになる。しかもそこで儲かっていないのであれば、という厳しい言い方が続いた。
Qこれだけの設計をなぜ実行できるのか。他の運営者と何が違うのか。
A圧倒的に違うのは二つだけだ、という回答。第一に探索能力、第二に言語化能力(プレゼンテーション)である。この二つしかない、といつも言っていることだと述べた。そして、なぜそれが可能かといえば「学問と融合しているから」であり、コミュニティを運営している人の多くは経営学も経済学も行動経済学も学んでいないが、自分は全分野をやってきてそれを全部合わせている、という説明である。学問と実業を全部融合させているから勝てる、という主張で締められた。
ACTION

宿題・アクションアイテム

  1. 自社の評価指標を、オーディナリー/ダイナミックに仕分ける。 いま使っている評価指標を全部書き出し、売上・利益率・コスト削減・過去実績(オーディナリー側)と、学習速度・ピボット回数・新結合の創出・環境適応(ダイナミック側)に分類する。ダイナミック側がゼロなら、環境変化への対応力を測る手段を組織が持っていないことになる。
  2. 「過去の実績は未来の環境変化への対応を証明するか」を自分に問う。 過去の成果を挙げたうえで、それが特定市場環境での最適化の結果ではないと説明できるかを書いてみる。説明できないなら、その実績は評価根拠としては弱い。
  3. 自分の成功体験を、再現可能な理論に形式知化する。 講義中に投げられた問いをそのまま実行する。運とタイミングを差し引いたあとに、学習可能な形で残るものは何か。書けなければ、それは形式知化されていない。
  4. 知の探索に使っている時間を計測する。 1週間の稼働時間のうち、既存事業の深化に使った時間と、範囲外の知に触れた時間を分けて記録する。探索が0%に近ければ、コンピテンシー・トラップの入口にいる。
  5. アウトプットを「メモ」から「形式知」に変える。 講義や会議の記録をそのまま出すのをやめ、自分の暗黙知(経験・判断基準)を最低一つ明示的に言語化して加える。TMSの観点では、これがなければ集積されない。
  6. チーム内で「誰が何を知っているか」の一覧を作る。 TMSは自然発生しない。メンバーごとの専門領域を明示的にリスト化し、どの論点で誰に相談するかを決めておく。
  7. 本レポートの各理論の原典に1本だけ当たる。 特にマーチ(1991)は短く、探索と深化のトレードオフを最も簡潔に示している。二次情報だけで扱わない。
GLOSSARY

用語集

ダイナミック・ケイパビリティ
Teece, Pisano & Shuen (1997)。変化する環境に合わせて、企業内外の資源・スキル・機能を適応・統合・再構成する能力。
オーディナリー・ケイパビリティ
現在の収益活動を遂行する能力。ゼロ次/オペレーショナル能力とも。焦点は "doing things right"。
センシング
ダイナミック・ケイパビリティの第1段階。環境変化・機会・脅威を察知する能力。この場では「アンテナ」と表現された。
シージング
第2段階。捉えた機会に対して資源を動員し、価値に変える能力。行動とアウトプット能力に対応づけられた。
トランスフォーミング
第3段階。持続的競争優位のために組織全体を変化させる能力。この設計では組織ではなく個人に焦点を移して実装された。
コンピテンシー・トラップ
March (1991) の枠組み。短期成果を追って既存知の活用に偏り、長期的な適応能力を失う現象。
知の探索(exploration)
獲得済みの認知範囲の外にある知を探し、既存知と新しく組み合わせること。短期の成果は見えず、コストがかかる。
知の深化(exploitation)
事業基盤となる知を深め、繰り返し活用・洗練して収益化すること。短期の成功確率は高いが、環境変化に弱い。
両利きの経営
organizational ambidexterity。探索と深化を同時に追求する経営。日本語表現は入山章栄氏が広めた。
適応的パフォーマンス
Pulakos et al. (2000) の8次元分類。緊急事態対処、ストレス対処、創造的問題解決、不確実性への対処、学習、対人・文化・身体の適応性。
目標志向性理論
Dweck に始まり VandeWalle らが拡張。学習目標志向と遂行目標志向を区別し、学習志向のほうがフィードバックを積極的に求めることを示す。
ラーニング・アジリティ
経験から学び新しい状況に対応する能力。Lombardo & Eichinger が提唱、Lominger 社(現コーン・フェリー)が測定尺度を展開。
TMS
トランザクティブ・メモリー・システム。Wegner (1987)。「誰が何を知っているか」を共有することで集団が個人の知識量を超える仕組み。
暗黙知の形式知化
野中郁次郎・竹内弘高『知識創造企業』(1995) のSECIモデルにおける表出化。言語化されていない経験知を明示知に変換するプロセス。