この回の主題は理念型ひとつである。前田氏はまず、マックス・ウェーバーをこれだけしつこく扱っている理由から入った。重農主義や重商主義、アダム・スミスといったこれまでの経済思想は、いずれも全体を先に考えてから個別へ降りていく思考法が中心だった。ジョン・スチュアート・ミルにやや個別寄りの部分はあるものの、大枠はそうである。ところがウェーバーは逆で、個別の事例を先に考え、それを集合させて全体を考える。思考の向きが反転している。だからこの人の考え方が分かると、他の分野が立体的に見えてくる――というのが、経済思想史では通常あまり登場しないウェーバーをここまで扱う理由だった。
理念型という語は、前田氏の分解によれば二つの部分からなる。ひとつは「アイデアル」で、実際には存在しないが頭の中だけで理想化されている状態を指す。もうひとつが「ティプス(タイプ)」で、いろいろなものの共通点を見つけて括ったものを指す。頭の中にしかないものと、複数の実例から取り出した共通点。この二つは一見すると矛盾している。なぜウェーバーがあえてこの矛盾した組み合わせを使ったのか、というのがこの回の入り口だった。
前田氏の答えは明快である。理念型は、現実そのものを写し取るためのものではない。現実に起きている事象を理解するための「比較材」なのだ。何かを見るときに基準がないと、判断はどこまでも曖昧で感覚的なものになってしまう。だから基準を設けることである程度の客観性を保ち、その基準からどれだけズレているか、なぜそこまでズレるのかを見ることで、原因や問題点を特定する。理念型そのものが結論なのではなく、理念型と現実の距離が結論を運んでくる。
そしてこの道具には決定的な弱点が組み込まれている。理念型を作るときには、必ず主観が入るという点だ。何が重要なポイントかを選ぶ作業は、結局その人の理解にすぎない。前田氏はこの点を「ここのポイントが一番重要です」と強調した。完璧なものは作れない。だからこそ、どこにどれだけ主観が影響しているかを分かったうえで道具を使いこなす視点が要る、という話になる。
理念型は「あるべき姿」ではなく「測るための定規」である。定規は現実には存在しない完全な直線でよい――むしろ完全な直線でなければ定規にならない。摩擦のない力学、熱の逃げない系。科学が現実には起こらない条件をあえて設定するのと同じことを、社会科学でやろうとしたのがウェーバーだった。そして定規を当てられた側が「いや俺のやり方はこれだ」と言い出した瞬間、この道具はまったく機能しなくなる。前半が方法論の話で、後半が「では現実を突きつけられた人間はどう振る舞うか」という話へ流れたのは、この一本の線でつながっている。
9時の開始前、話題は世界の分断に向いていた。マイキー氏が指摘したのは、市場そのものがすでにカオスになっているという状態である。アメリカ経済が良くなるか悪くなるか、中国経済が良くなるか悪くなるか、どの論点でも意見が真っ二つに割れていて、しかも割れた両側がそれぞれ頑固になっている。マイキー氏はこれを期待効用理論の限界値がマックスに達している状態だと表現した。どちらがどちらだと言えるだけの根拠が、どちらの側にも足りていない。だから中立的な人ほど右に寄ったり左に寄ったりを繰り返す。
日本でも同じことが起きている、とマイキー氏は続けた。ある党を支持する人は絶対に別の党を支持しないし、その逆もまた然りである。「何々派だ」と分類された瞬間に、何を説明しようとも相手はもう聞かない。同じ構造がメディアにもあり、そして民主党と共和党のあいだにも同じようにある。
ここで参加者から、直前にイギリスの人と話した内容が共有された。次の選挙は右派が勝つだろうという見立てで、その理由のひとつとして挙げられたのが、若い人がどんどん移民として国外へ出ているという現象だった。話し相手本人もそれなりの資産家でありながら、子どもの学校が終わったら来年あたりどこかへ行こうかと言っている。行き先の第一条件は英語が通じることで、オーストラリアかカナダか。アメリカだけは絶対に行きたくないと言い、中東も嫌だと言う。ブレグジット以降ヨーロッパの国にも行きにくくなった。日本も候補のひとつではあり、言葉は通じないが住みやすさは抜群で、生活は安く安全だ、という評価だった。
参加者はこれを、どの国も同じような分断が起こりつつあり、宗教観で結ばれていたものさえ完全に分断され、そこに移民の増加と金利上昇による住宅の取得難が重なっている、という構図として整理した。だから5年後10年後のシナリオが非常に読みにくい、と。
マイキー氏の応答は、中間選挙の帰趨は6月・7月から出てくる政策の中身で決まるのではないか、というものだった。経済がこれで良くなったとなればトランプ側に票が動くし、悪いとなれば民主党側に動く。理由は単純で、人は感情で判断するからである。自分に都合のいいことを言ってくれている、自分の望む世界を作ろうとしてくれている――そう感じられる方へ票が流れる。マイキー氏はこれを「むちゃくちゃ危険な仕組み」と呼んだ。人は合理的ではないから、というのがその理由である。
この一節は、この日の後半で扱われる「人は自分に都合のいい情報だけを取り入れて理想を作り上げる」という指摘と、そのまま同じことを言っている。分断とは、それぞれが自分専用の理念型を持ち、現実の側を見ないまま互いに定規を振り回している状態だ、と読み替えることができる。
マイキー氏はここで、自分はどちらに行こうが関係ないと述べた。今いちばん不安を持っているのは、自分の方向性がうまくいっていない人である。どちらにでも行けるという状態を作れているなら、どちらに転んでも勝てる。日本がアメリカの下になろうが中国の下になろうが勝てるという人は、不安がることなく淡々と生産性の高いことをやっている。逆に不安を煽る人がYouTubeを伸ばし、それに対する対応策があると言う人が少し稼ぐ。ただし稼げる人は必ず二極化していく社会の側にいる。考え方が二極化するということは収入も二極化するということであり、必要なスキルも二極化して分かれていく。「今求められているスキルをただ手に入れれば勝てる」という市場でしかない、というのがマイキー氏の結論だった。
期待効用理論の限界――マイキー氏が言及した「期待効用理論の限界値」は、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンが定式化した意思決定理論が現実の人間行動を説明しきれない、という論点を指している。1953年にモーリス・アレが提示したアレのパラドックス、1979年のカーネマン=トヴェルスキーによるプロスペクト理論が代表的な反証で、後者は参照点依存と損失回避によって、人が期待効用の最大化からどう系統的に外れるかを説明した。マイキー氏が言う「感情で判断する」という指摘は、この系譜と整合的である。
なお、この日の議論の枠組みで言えば、期待効用理論そのものが一個の理念型である。完全に合理的な意思決定主体という、現実には存在しない純粋型を構成し、現実の人間がそこからどれだけズレるかを測ることで人間の判断の癖を発見してきた。理念型が現実と食い違うことは失敗ではなく、そのズレこそが発見を生むという、この日の講義の主張をそのまま体現している事例と言える。
前田氏は理念型の定義を三つの角度から提示した。第一に、理論的な究極像であること。第二に、他のものを見るときに、それがどのくらいズレているかを測る物差しになること。第三に、あくまで他のものを理解するための手段であること。この三つ目が繰り返し強調された。理念型それ自体を説明したいのではなく、現実に起こっていることを説明するために作る。だから理念型は結論ではなく、比較材である。
ここで前田氏が最も念入りに否定したのが、「アイデアル」という語から連想される望ましさの含意だった。理念型と聞くと、どうしても望ましい状態、理想的な状態として捉えてしまう人が多い。しかしそうではなく、理想的とか望ましいというよりは、あくまで論理として純粋な状態、いちばん分かりやすい状態に持っていったものである。評価の軸ではなく、論理の軸の話なのだ。
前田氏がこの構造を説明するために持ち出したのが、自然科学のモデルだった。力学を考えるときには、まず摩擦のない状態を考える。熱の移動を考えるときには、エネルギーが外へ拡散せず系の内部だけで移動するモデルを考える。こうした状態は、現実には起こらない。それでも科学がこれをやるのは、そういう状態をまず考えてから他の状態を考えることで、理論的な幅が出て、現実がかえって理解しやすくなるからである。「やっていることはこれと同じようなことをやろうということです」というのが前田氏の説明だった。
この比喩は理念型の性質を非常に正確に伝えている。摩擦のない斜面は「望ましい斜面」ではない。実在しない純化された条件であり、そこから摩擦係数を足し戻していくことで現実の斜面が計算可能になる。同じように理念型も、現実から一面だけを抜き出して極端に純化した構成物であり、その純度こそが道具としての価値を生む。
前田氏は理念型の性質を三つに整理した。第一が一面的な強調であり、事実の切り取りである。どこかのポイントをピックアップしてきて、そのポイントだけを強調するのだから、必然的に切り取りになる。自分が主張したいポイント、ここが重要ではないかというポイントを選ぶ以上、他の面は落ちる。第二が論理的な整合性である。頭の中で理論を組んだときにしっかりしたものになっていることが重要になる。ただしそれが現実通りかというと、そういうわけではない。第三が分析道具であること。比較の対象になるので、ズレを見ることによって、なぜそんなにズレが生じるのかを問い、その理由から原因や問題点を特定できる。
| 性質 | 前田氏の説明 | 意味するところ |
|---|---|---|
| 一面的強調/事実の切り取り | 自分が重要だと思うポイントだけをピックアップして強調するので、必ず切り取りになる | 網羅性を捨てることが目的にかなっている。全部入れると定規にならない |
| 論理的整合性 | 頭の中で組んだ理論としてしっかりしていることが重要。ただし現実通りではない | 整合性の担保先が「現実との一致」ではなく「論理の内部」にある |
| 分析道具 | 比較の対象として使い、ズレの理由から原因や問題点を特定する | 理念型が当たっているかではなく、外れ方が何を語るかが成果物 |
前田氏が「ここのポイントが一番重要です」と念を押したのが、理念型を構成するときには必ず主観が存在するという点である。どのポイントをピックアップするか選ぶ瞬間に、必ず主観が入る。なぜなら重要かどうかは、あくまでその人の考え、その人の理解にすぎないからだ。だから完璧な理念型というものは存在しない。この弱点は取り除けるものではなく、取り除けないものとして自覚したうえで扱うしかない。前田氏の言い方では、「どこにどういう影響があることによってどうやってものを理解するか、どうやってこのツールを使いこなすか、その視点が重要」ということになる。
原典と刊行年――理念型(Idealtypus)の概念が初めてまとまった形で提示されたのは、1904年発表の論文『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(Die "Objektivität" sozialwissenschaftlicher und sozialpolitischer Erkenntnis)である。ウェーバーが『社会科学・社会政策アルヒーフ』誌の編集に加わった年に、その方法論的な綱領として書かれた。
ウェーバー自身の定義――同論文における理念型の定義は「一つないし複数の観点の一面的な上昇(einseitige Steigerung/英訳では one-sided accentuation)によって形成され、個々の具体的な現象がその観点に従って統一的な思考像へと配列されたもの」であり、ウェーバーはこれを明確に「ユートピア(Utopie)」と呼んでいる。その概念的な純粋さにおいて、この思考像は現実のどこにも経験的に見出されない、と書かれている。
講師の説明との差――前田氏の「一面的強調」「論理的に純粋な状態」「現実には存在しない」という三点は、原典の定義とほぼ正確に対応している。用語の水準でも意味の水準でも食い違いは見当たらない。ただし一点だけ補足すると、ウェーバーは「一面性(Einseitigkeit)」を欠点として弁解しているのではなく、研究者に対して自覚的に主観的であれと要求している。前田氏が「主観が必ず入るので、それを理解したうえで使え」と言ったのは、この要求のことである。
よくある誤解――日本語の「理念型」および英語の ideal type という訳語は、いずれも「理想的な型」という誤読を招きやすい。原語の Ideal は「理想」ではなく「観念上の・思考上の」という意味に近く、Idee(イデー、観念)に由来する。この訳語問題そのものが、前田氏がこの日いちばん時間を割いて否定した誤解の温床になっている。
前田氏が示した理念型の作り方は三段階である。まず複雑な状況、つまり事実をきちんと把握し認識する。次に、その事実の中から共通点を見出し、重要だと思われるポイントをピックアップしてくる。最後に、そのポイントを分かりやすい形で強調する。強調することによって理論を整理し、分かりやすくする。二段階目のピックアップの時点で必ず主観が入る、というのが先述の注意点だった。
そして前田氏は、前回に扱った「価値」の議論と理念型を接続した。順序としては、まず価値関連性が入り口にあり、次に理念型が来て、最後に価値自由が来る。価値関連性の段階で問題設定をしたり仮説を作ったりする。仮説を作ったら、その問題をどう考えられるかというモデルを一度作る。そのモデルを作ってから、最後に比較して、どう違うのかを見て理解する。
ここで前田氏が付け加えた区別が重要である。価値関連性と価値自由は、現実の事象との関連性がある。これに対して理念型は現実のところとは直接は関係しない。入り口と出口は現実に接しているが、真ん中に置かれるモデルだけが現実から切り離されている。この構造がなければ、モデルは現実の平均値や近似にすぎなくなり、定規としての機能を失う。
| 段階 | やること | 現実との関係 | 陶芸のたとえ(前田氏) |
|---|---|---|---|
| 価値関連性 | 問題設定・仮説の設定。何を対象に選ぶか | 現実の事象と直接関係する | 自分が作りたいものに対してどの土がいいかを調べ、見定めて掘り出す作業 |
| 理念型 | 比較の基準となるモデルを構成する | 直接は関係しない | 自分がこういう器が欲しいという理想的なものを、自分で作る |
| 価値自由 | 事実と自分の判断を分けて比較・理解する | 現実の事象と直接関係する | 自分が作った理想的な作品と他を比べ、なぜ違うのか、なぜ欠点があるのかを見る |
前田氏は最後に、社会科学において現実の現象を「自分はこう感じました」と述べるだけでは説得力を持たないと述べた。説得力を持たせるには、基準となる物差しとなる考え方、アイデアが必要になる。ただしその物差しを作成するためには主観の介入が必ずある。だから完璧なものはない。この考え方自体が、自然科学の考え方に社会科学を近づけようという発想から出ているのではないか、というのが前田氏の見立てだった。主観を完全に取り除くことはできないが、こういうステップを取れば比較的に客観性の高い判断や理解ができるのではないか、という提案である。
前田氏の締めくくりは、「前にあった価値というのと、この理念型というのはセットで把握していないと、どちらかだけではどちらも実は把握できないことになってしまう」というものだった。価値関連性と価値自由だけでは、比較すべき相手がいない。理念型だけでは、それをどう選びどう使うかの作法がない。三点セットで一つの方法論をなしている。
講義が終わったところで、マイキー氏が参加者全員の顔を見ながら「すげえ難しく考えてんじゃねえかな」と切り出した。そして最初に指摘したのが、「理想」という語の定義自体が全員で違っているのではないかという点だった。ここから認識を合わせなければならない、というのがマイキー氏の判断である。
マイキー氏は理想を三つに分けた。第一に、現実の世界で純粋な形の、矛盾もない世界、摩擦のない市場のような完全なユートピアを描くタイプの理念。これは普通に考えれば現実に存在するわけがない。第二に、望ましいとか善であるといった「いいことの理想」がある一方で、完璧な犯罪者、理想的な不倫の仕方といったものも同じく理念である。つまり理念にはユートピアもあればディストピアもあってよい。第三に、マックス・ウェーバーが言う理念とは何かという層である。理想の世界を頭の中で描き、そのうえでタイプス(現実)とのギャップを埋めるにはどうしたらいいかを考えなければならない、という話をしているのだ、と。
マイキー氏のこの一言は、実は前田氏の講義の核心を最も鋭く言い当てている。理念型が「望ましさ」から独立しているということは、犯罪組織の理念型も、腐敗した官僚制の理念型も、同じ手続きで構成できるということを意味する。実際この日の後半で扱われたベネズエラの「太陽のカルテル」は、国家インフラを密輸に転用する統治形態を一面的に強調した、まさにディストピア側の理念型として機能している。理念型を善悪の軸から切り離すことが、社会科学の分析対象をどこまでも広げる。
マイキー氏の具体例は徹底して即物的だった。男性がモテたいと考え、理想は「本間さんみたいにかっこよくなりたい」だとする。これが自分で考える主観である。ところが出来上がったのがゴキブリ先生だったとする。身長が違う、声のトーンが違う、目の大きさが違う、スタイルが違う。これが現実である。この理想と現実のギャップを埋めるためのツールが理念型だ、と。
会社の話に置き換えても同じである。最初にミッション・ビジョン・バリューを作る。これが理想であり理念でありアイデアルである。では今のあなたの会社は現実的にこうなっている。何が必要なのか。人材か、設備投資か、システム投資か、それともそもそも場所を変えなければならないのか。マイキー氏の例示は容赦がない。世界一の会社になりたいと言っているが、会社は山口県の田舎にあり、人材は一人しかいない、しかもそれは自分の母親である。これでは絶対に無理である。こういう世界を作ろうとしているが、今使っているのはWindows 2000である。これも絶対に無理で、まず最低でも新しいパソコンを買おうぜ、というところから始まる。
年商1000万円の会社が10億円まで成長したいというのも同じ構造である。1000万円しかない状態には何かしら問題があるから1000万円なのであって、では何を入れれば10億円になるのかを考える。ギャップを埋めるのに必要なものが、まさに経営リソース――人であり金である、というのがマイキー氏の整理だった。
ではどうすればこの理論を使えるのか。マイキー氏の答えは「素直さだけです」だった。正確には想像性と素直さの二つである。自分はこういう人間になりたい。しかし現実にはこうだと言われたとき、それを直すためにギャップを何にするか、それを測るための物差しのツールだと思ってほしい――そういう構造なのだから、素直さがないのであればそもそも論として成立しない。
マイキー氏はこれを勉強会の現場の話へ引き戻した。前田氏が理想的な議論を語る。それに対して指摘が入る。そのとき指摘された側が素直なら「分かりました、ではそのギャップをどう埋めるかを考えます」となる。ところが「いや、それじゃないです、俺のやり方はこれです」と返した瞬間、その時点で客観性がなくなる。理念のほうは主観で考えていい。しかしリアリティのほうは、客観的に見て自分がどこにいるのかを確認しなければならない。ズレを埋めるための物差しは何か、その物差しに対してどういう活動をするのか、を見える化する。それがこの概念の使い方だ、というのがマイキー氏の翻訳だった。
久保田氏との対話の中で、マイキー氏はさらに踏み込んだ論を展開した。人が理想を想像するとき、必ず外部からの影響を受けている。コミュニケーションによって理想はどんどん大きくなっていく。人は主観だけでは生きていけず、客観的な外部要因の影響を受けながら自分の理想が変わっていく。ということは、理想を描く行為の中にはすでに客観性が入っている。
ところが、その同じ人が「今のあなたの現実はこうです」という客観的な意見を受け入れない、というパラドックスが人間には生まれる。マイキー氏はここから、行動できない人間とは何かという定義を導いた。理想は唱えるくせに現実を受け止められない人、すなわちわがままな人である。理想を語るのであれば、それは客観的な外部要因が入って形成されたものなのだから、現実的な客観性も同じように取り入れればいいだけの話になる。ところが人間においては、この二つが等号で結ばれない。
マイキー氏はこの非対称の理由も説明した。理想を描く人は、自分に都合のいい情報だけを取り入れて理想を作り上げる傾向がある。都合の悪い情報を排除したものが人の理想である。一方で現実に戻ったときも、自分の感情で判断する。つまり理想も現実も、どちらも感情で処理されている。だからこそ、理想を描くのであれば現実もちゃんと見て、そのギャップをどう埋めるのかを考える段になったときに、素直さが決定的に重要になる。
マイキー氏はさらに一般化して、人は基本的にわがままでなければ成り立たない、と述べた。あらゆる考え、思想、理想、行動のすべてがそうである。ただし理想は現実を変えてくれない。現実を変えてくれるのは行動だけである。この線を引いたうえで、質問しない人・コメントしない人はわがままではないか、という問いが出された。売上を上げたいという理想があるのに、そのプロセスとして絶対に必要なことをやらないなら、それはわがままだ、という論法である。
ただしマイキー氏は同時に、残酷な現実も付け加えている。プレゼンテーションにも才能が必要であり、ここにいる9割の人が100年練習しても、ある特定の人物の1日には勝てない。それでも上手い下手ではなく、それを高めるための活動をしているかという姿勢のほうが大事だ、というのがマイキー氏の立場だった。理想と現実の差が才能によって埋まらない領域があることを認めたうえで、なお行動の側に価値を置く。
もうひとつマイキー氏が提示したのが「理想のサイズ」という概念である。人の理想は基本的に外部的要因によって作られている。ということは、すごく小さい世界で過ごしている人の理想は、たかが知れた小ぢんまりしたものになる。逆に世界190か国に友達がいる人の理想は、広がりが大きく中身の詰まったものになる。つまり人間関係の幅が広いほど、理想と現実のギャップは大きく開く。
そしてマイキー氏は、そこにこそ危機感が生まれるのだと述べた。日本人は日本人としか接していないから、理想と現実のギャップが小さい。だから危機感がない。理想に向けての距離が短いので「なんとかなるでしょう」になってしまう、という診断である。
「理念にはディストピアもあってよい」は正しい――ウェーバーの理念型は価値中立的な構成物であり、望ましい社会像に限定されない。事実ウェーバー自身が理念型として構成したものには、支配の三類型(合法的支配・伝統的支配・カリスマ的支配)や官僚制があり、これらは「よい統治」を意味していない。官僚制の理念型はむしろ、後に「鉄の檻」と呼ばれる合理化の帰結を分析するために構成されたものである。
ただし「ギャップを埋めるためのツール」という読み替えには注意が要る――ウェーバーの理念型は理解・説明のための道具であって、規範的な目標設定の道具ではない。理念型と現実の距離を測るのは「なぜこの社会はこう動いたのか」を説明するためであり、「理想に近づくために何をすべきか」を導くためではない。マイキー氏の読み替えは経営における目標管理として実用的だが、ウェーバー本人が理念型を目標に転用することを戒めていた点は押さえておく必要がある。前田氏が「理想とか規範とかそういうものとはまた別です」と冒頭で釘を刺したのは、まさにこの転用のリスクを指している。講義の中で二人が異なる水準の話をしているのは食い違いではなく、方法論と実務適用という役割分担だと理解するのが妥当である。
前田氏がここで持ち出したのが、マイケル・ポーター教授とJ・B・バーニーの対立である。ポジショニングなのかリソース・ベースト・ビューなのかという論争は、最終的には両方とも必要だという結論になっている。ではなぜ両方必要なのか。前田氏の説明では、ポーターは理想的な状態を考えましょうという人であり、バーニーのRBVは現実からものを考える立場である。理念型が理想側からの構成であり、その比較対象として現実側の記述が必要になるという、この日の枠組みがそのまま企業戦略論の対立構造に重なる。前田氏は、次回に扱う「理解」の概念において、現実から考えるのと理想の状態から考えるのを両方やる必要がある、と予告している。
山内氏から出された問いが、理念型は暗黙知に近いのか、というものだった。マイキー氏は「そうとも捉えますね」と応じ、さらに踏み込んだ。この言葉自体がある意味でSECIモデルだと思っている、と。アイデアルタイプスという言葉のうち、理念(アイデアル)が暗黙知にあたり、タイプスが形式知にあたる、という捉え方である。そしてマイキー氏はここから、日本人は暗黙知だらけで形式知化するのが下手だ、という日本論へ接続した。物理学の研究者である久保田氏は、これを「美しい方程式ですね、人類が共有すべき法則だと思います」と評している。
参加者から、ポーターの考え方が理念型だというなら、コンサルが使っているフレームワークはほぼ全部が理念型ということになるのではないか、という指摘が出た。そしてそこから、実行が弱いというコンサルの問題(PART 0で触れられたコンサルとプライベート・エクイティの逆転)にもつながるのではないか、フレームワークを現実に合わせて変化させていかなければならないのではないか、と。
マイキー氏はこれに対して、フレームワークについては違う見方を持っていると答えた。フレームワークは使う前提が何なのかによって意味が全部変わる、というのがその主張である。SWOT分析を例にとると、今ある現実をきちんと見える化させるためにも使えるし、理想とどう比較するかという距離感の測定にも使える。フレームワークは基本的に数値化できないものが多いので、前提条件によってアイデアル側にもなるしタイプ側にもなる。
マイキー氏がここで出した具体案が、フレームワークを二段階で作ればいい、というものだった。まずアイデアルになったときのフレームワークを作る。自分が想像している理想的な会社はこういうフレームワークになっているはずだ、という一枚目である。そのうえで、今ある自分の会社のフレームワークを同じ形式で埋める。二枚を並べてどれくらい差があるかを見える化する。差を見極めるという用途なら、フレームワークはタイプ側としても機能する。
ただしマイキー氏は、そういう分析はたまにあるがあまり多くはない、と付け加えている。理由は理想(アイデアル)のほうが曖昧性が強いからである。「自分がこういう会社になりたい」と言ったときに、そのときのキャッシュフローとバランスシートを考えて作ってごらんなさいと言われて、実際に作れる人がどれだけいるか。理想を数値の形式知に落とせないから、二枚目との比較ができない。ここでも問題は暗黙知と形式知の変換能力に帰着している。
ポーターとバーニー――マイケル・E・ポーターの『競争の戦略』(Competitive Strategy)は1980年刊。ファイブフォース分析に代表される、産業構造の中でどの位置を取るかを問うポジショニング・ビューを確立した。これに対しジェイ・B・バーニーが1991年に Journal of Management に発表した論文 "Firm Resources and Sustained Competitive Advantage" が、リソース・ベースト・ビュー(RBV)の基礎文献にあたる。バーニーはここで持続的競争優位の条件としてVRIN(価値・希少性・模倣困難性・代替不可能性)を定式化し、後にVRIO(価値・希少性・模倣困難性・組織)へ整理し直した。「ポーターは外側から、バーニーは内側から」という前田氏の対比は、通説と一致している。
SECIモデル――野中郁次郎・竹内弘高『知識創造企業』(The Knowledge-Creating Company, 1995)で提示された知識変換の枠組み。共同化(Socialization)・表出化(Externalization)・連結化(Combination)・内面化(Internalization)の頭文字からSECIと呼ばれる。暗黙知と形式知の相互変換によって組織の知識が創造されるとする理論で、ウェーバーとは直接の系譜関係にない。「アイデアル=暗黙知、ティプス=形式知」という対応づけは、この日の参加者とマイキー氏による類推であって、ウェーバー研究上の定説ではない。ただし理念型の構成が「複数の事例に共通する重要点を言語化して純粋な型に固める」作業である以上、表出化(Externalization)の構造と機能的に似ているという指摘には一定の説得力がある。
数値化できないフレームワーク――マイキー氏が挙げたSWOT分析は1960年代にスタンフォード研究所のアルバート・ハンフリーらが原型を作ったとされる(起源には複数説がある)。定量指標を持たない枠組みであるため、前提の置き方次第で現状記述にも目標設定にもなるという指摘は、実務上も広く共有されている論点である。