債券市場と株式市場を並べるのはナンセンスだ、と研究者に言われた。無形資産と有形資産も、広告宣伝費とR&Dも、比べるものではないとされる。だがそれらを並べたときにだけ見える体質がある。この回の後半は、比較不能とされる二項をどう分析軸に変えるかという方法論の実演だった。
この回の後半は、前日にマイキー氏が交わした一つの会話の再現から始まっている。データを扱う大学関係者に対して、日本の債券市場が約1000兆円、日本の株式市場も約1000兆円で、両者がほぼ拮抗している、という話をしたところ、「それはナンセンスです」と返された。りんごとゴリラを比べるようなもので、レイヤーが違いすぎる、と。
相手方の論拠は三つあった。第一に法的性質。株式は所有権であり、利益の成長は上限がない。債券は貸付の証明であり、受け取る金額は最初から決まっている。第二にリスクの順位。倒産時、債権者は優先的に返済され、株主は最後になる。第三にレイヤー。国債市場の7割は政府の借金であり、株式市場は民間企業の価値である。国の借金と企業の価値を並べるのは筋が違う。
マイキー氏の反論は、この三点をすべて認めたうえで組み立てられている。理論上は確かに比較不能である。しかし実際にその国の資金がどこへ流れ、どれだけのリターンを生んでいるかを見る指標としては、この比率ほど分かりやすいものはない。なぜなら債券市場と株式市場の相対的な大きさは、その国が銀行型金融の国なのか市場型金融の国なのかを、そのまま表しているからである。「これがどこがナンセンスなのか、逆に説明してください」というのが彼の返答だった。
この論法はその後、無形資産と有形資産、広告宣伝費とR&D、内部留保と設備投資、電力消費量とGDP成長率、といった別の二項に次々と適用されていく。共通する手つきは一つで、比べられないと言われた二項を、それが載る一段上の軸に置き直すという操作である。上の軸が見つかれば比較は成立し、比率は体質の指標になる。
マイキー氏が比較を成立させるために持ち出したのが、金融論の標準的な区分である銀行型金融(間接金融)と市場型金融(直接金融)の対比だった。彼は中学生にも分かるようにと断って、部活の比喩で説明している。
この区分から導かれる帰結が、マイキー氏の主張の核である。銀行が資金配分を担う国では、貸し手は自分が損をしないことを優先するため、堅いところに配分し、挑戦的な投資には向かわない。結果として資金は満遍なく配られ、株式市場は広がらない。対して市場型の国では、投資家が自分の判断で最も合理的だと思うところに直接お金を入れるため、資金の集中が起きる。マイキー氏はこれを「市場型の金融とは差別することだ」と表現した。資金配分において意図的に差をつけることが成長を生む、という趣旨である。
図:国債市場と株式市場の規模(講義中に挙げられた数値。単位:兆ドル。ユーロ圏・英国は比率のみの言及のため図から除外)
日本については、普通国債残高が2026年度末で約1,145兆円に達する見込みであり、講義で語られた「7兆ドル=約1000兆円」という水準は概ね合致する(やや控えめ)。東証の時価総額も1000兆円台に乗っており、両者がほぼ拮抗しているという構図自体は成り立つ。
ただし比較を厳密にやるなら、「債券市場」を国債だけで数えるのか、社債・地方債・証券化商品を含めた全体で数えるのかを固定する必要がある。米国について挙げられた「約28兆ドル」は市場性のある米国債の残高に近い水準であり、社債やMBSを含む米国債券市場全体はこれよりはるかに大きい。国債だけを取れば米国は株式市場のほうが大きく見えるが、債券市場全体を取れば結論は変わりうる。要確認中国・ユーロ圏・英国について挙げられた個別の数値は今回特定できなかった。
もっとも、この定義問題はマイキー氏の論旨そのものを崩さない。彼が主張しているのは「国債という官の資金調達と、株式という民の資本形成の相対的な大きさが、その国の資金配分の型を映す」ということであり、その場合むしろ国債で数えるほうが筋が通る。反論する側は、この定義の明示を求めるのが正しい応答だったことになる。
マイキー氏はこの手法を三つの二項に横展開した。いずれも「比べるのは筋違い」とされてきた組み合わせである。
| 二項 | 「比較不能」とされる理由 | 置き直された軸 |
|---|---|---|
| 内部留保 と 設備投資 | 片方は貯金、片方は買い物。家計で言えば貯金と車の購入のどちらが偉いかを論じるようなもの | 資金調達の順序(ペッキングオーダー理論)。内部資金→負債→新株発行という序列のどこに立っているか |
| 無形資産 と 有形資産 | 実体があるものとないもの。不確かなものと確かなもので性質が違う | 資産に占める構成比。無形資産の比率が高い企業ほど企業価値が上がっている、という関係が読める |
| 広告宣伝費 と R&D | いま売るための金と、未来を作るための金。時間軸が違う | 知の探索と知の深化。企業はこの配分比率を実際に意思決定している |
資金調達の序列を扱うペッキングオーダー理論は、ドナルドソンが1961年に提示し、マイヤーズとマジュラフが1984年に定式化したものである。企業は内部資金(内部留保)を最も好み、外部資金が必要になれば情報コストの低い負債を選び、株式発行は最後の手段とする、という序列を予測する。理由は経営者と投資家の間の情報の非対称性にある。つまり内部留保と設備投資は「貯金と買い物」ではなく、同じ資金調達・配分の連鎖の別の位置にある――という置き直しは、この理論に沿っている。
講義では「広告宣伝費はフィードバックが得られるので知の探索、研究開発はエクスプロイテーションなので知の深化」と語られた。しかしジェームズ・マーチが1991年に提示した原義では、exploration(探索)は新しい知識・機会・能力の追求であり、実験・発見・リスクテイク・イノベーションを含む。exploitation(深化)は既存の資源・知識・能力を活用して効率を高める活動で、現行の製品・サービス・プロセスの改良や拡張を指す。この定義に従えば、研究開発は通常 exploration 側に、既存商品を売るための広告宣伝は exploitation 側に分類される。マーチ自身が経営者の探索行動をこの連続体の上で分類しており、R&Dを exploration と扱う実証研究も多い。
発言を書き換えず、食い違いとして記録する。ただし、広告宣伝費が市場からのフィードバックを取りに行く支出であること、企業のR&Dの多くが実際には既存製品の漸進的改良(開発)に費やされていることを踏まえれば、マイキー氏の対応づけにも読み筋はある。重要なのは、この対応づけが標準と逆であることを自覚したうえで使うことである。
「無形資産の比率が高い企業のほうが企業価値が上がっている」という観察自体は、多くの研究や実務データが支持している。ただしこの関係は因果ではなく相関である点に注意が要る。無形資産が企業価値を押し上げているのか、それとも高収益で高成長の企業ほど研究開発やブランドに投資できるという逆向きの関係なのか、あるいは会計上の無形資産の計上ルール(自社開発分は資産計上されないことが多い)が数字を歪めているのか。比率が体質を映すという主張は成立するが、比率を上げれば価値が上がるという逆算はできない。
渡辺氏がこの手法を「メタファーの否定」という言葉で受けた。比較不能だと言い切る態度は、比喩そのものを否定する態度であり、そこから世界観は広がらない、と。マイキー氏はこれに応じて、さらに離れた二項を挙げた。
電力消費量とGDP成長率。一見まったく関係ないように見えるが、並べれば経済の体質が見える。GDPが成長しているのに電力消費が伸びていなければおかしい。実際、夜間の都市部の灯りを衛星で見ればGDPの水増しが分かる、という研究があった、と。社会主義国ほどGDPを割り増しする傾向があり、夜に見ると電気がついていないので計算し直すとずれていた、という話である。
夜間光でGDPを検証する枠組みは、ヘンダーソン、ストーリーガード、ワイルによる2012年の論文「Measuring Economic Growth from Outer Space」(American Economic Review)が代表的である。国民経済計算の質が低い国では、公式統計の成長率と夜間光から予測した成長率をほぼ等分の重みで合成するのが最適であり、両者の差は年最大3パーセントポイントに達するとされる。
マイキー氏が触れた「社会主義国ほど水増しする」という点は、ルイス・マルティネスによる続編研究(Journal of Political Economy, 2022)が扱っている。夜間光に対するGDPの弾力性は権威主義的な体制ほど系統的に大きく、独裁体制は年間GDP成長率をおよそ35%過大に報告していると推計された。真の成長率が1%なら1.3%と報告される計算になる。誇張の誘因が強いとき、あるいは誇張への制約が弱いときほど、この傾向は強まる。発言の趣旨は公開研究とよく一致している。
もう一つ、以前の回で挙げられた例が再登場した。中国の不動産建設量のデータが疑わしいなら、トイレの生産量を見れば分かる、というものである。建物が実際に建ち、人が住んでいるならば、衛生陶器の需要はそれに連動しなければならない。統計そのものではなく、統計が本当なら必ず動くはずの別の系列を見る。夜間光と同じ発想である。
ではなぜ人は「比較はナンセンス」と言ってしまうのか。マイキー氏の診断はカテゴリの問題である。債券市場と株式市場を別々のカテゴリに入れた瞬間、両者は別物として固定される。以前の回で扱われた「カテゴリー化は曖昧さを生む」という論点の再登場であり、渡辺氏の「カテゴリーとは整理することである」という定義が引かれた。整理してしまったから、これはこういうものだと決まってしまう。
マイキー氏は自分の例を挙げた。自分が本を出したとして、書店でスピリチュアルの棚に置かれたら、それはスピリチュアルの本だと決めつけられる。カテゴライズはあくまで整理であって、条件が変われば分類も変わってよい。分類が変わることは悪ではない。
参加者から「いまの時代ならカテゴリよりタグ付けのほうがふさわしいのでは」という提案が出た。マイキー氏の応答が鋭い。タグ付けだとしても、人は自分の得意・苦手・好き・嫌いでタグを付ける。そのバイアスが大きいから、タグ付けだと思っていても実際にはカテゴライズしている。渡辺氏が「むしろオントロジーですね」と受け、どこに創造性があるのか、どこに相性があるのかという観点で見るべきだ、と整理した。
この節でマイキー氏の語気はかなり強くなる。相手の研究者に対し「それはただの理論づけだ」と返されたことを挙げ、市場型金融と銀行型金融という学術上の枠組みをベースに話しているのに、それを知らないから理論づけ扱いされるのだ、と述べた。「経済しかやってこなかった」「もう少し幅広く学問を勉強されたら分かる」という評が続き、教育者を名乗っているなら教育してあげなければ生徒がかわいそうだ、という言い方で締めくくられている。
参加者からは「新任の教師が社会を教えるのはどうなのか」という論点が出され、マイキー氏は小学生のときに教師へ「社会に出ていない人間から何を学べばいいのですか」と聞いたことがある、と応じた。
マイキー氏がこの一連の話から引き出したメッセージは、最後に本人の口で明示されている。自分にとってメリットがあるか、必要か、得意か――そういう判断で対象を切り捨てるのをやめること。「ない頭で考えてもしょうがないので、全部やってみるということから始めたほうがいい」。自分の知識の内側だけで価値判断して「ナンセンス」と言うこと自体がナンセンスだ、というのがこの回の結論である。
講義の最後に、今週土曜日のプレゼン合宿の告知が入った。受付はこの日が最終日である。マイキー氏はここでも同じ論法を使い、「得意・苦手・必要じゃない、はどうでもいい。必要じゃないと思っている人は、ない頭で必要じゃないと思っているだけなので、必要だということを僕が教えます」と述べている。参加を検討している人からは「今回は牢獄(罰ゲーム枠)がないから行きます」という連絡が複数来たとのことで、マイキー氏は「牢獄がないわけではない。ありますが、言われた通り全部やっていれば入ることはない」と補足した。
登壇予定者の一人に対しては、直前のやりとりで「あの質問だけで(相手を)動かせると分かったでしょう」という確認が入り、できなければ目の前でシミュレーションして見せるので真似すればよい、という指示が出ている。前半の講義でいえば、これは正当性ではなく設計された強制力の側の運用である。