本レポートの概要
この回のレポートは全3本に分割している。本ファイルはその1本目、テーマは「ウェーバーの人物背景と東エルベ調査」である。
この回は、前田氏が長らく予告してきたマックス・ウェーバー講義の初回にあたる。冒頭で前田氏自身が断ったとおり、この日は「本人の理論」ではなく「本人の背景」に絞られている。マルクスに入るまでに前提だけで二、三回を費やしたのと同じ考え方で、ウェーバーもまず何を見た人なのかを固めてから中身に入る、という構成である。
講義の軸になったのが東エルベ地域の農業労働者調査だった。ドイツ国内でエルベ川以東から西のライン地方・ルール工業地帯へ人口が流出し、空いた土地にポーランドからの移民が流れ込む。ここまでは当時よく知られた構図だが、調査が示したのは、逃げていたのが困窮層ではなく比較的裕福な農業労働者だったという事実である。前田氏はここを、マルクスの理論では説明がつかない地点として提示した。窮乏が闘争を生むという説明図式では、豊かな側が先に立ち去る現象は読めない。
後半、マイキー氏がこの人口移動を現代の語彙で読み直す。西へ寄れば新聞も書物も情報が早く届く。工業地帯は河川物流に乗り、南にも北にも西にも抜けられる。つまり移動の実質は暗黙知の探索であり、ラストベルトからシリコンバレーへの人口移動と同型だという読み替えである。渡辺氏はさらに、当時のドイツで資本主義的な雇用関係が浸透するにつれ伝統的な家族と地域が壊れていったこと、それが経済学の中心課題に据えられたこと、そしてビスマルク期のプロイセンが農業を放置して工業に資源を寄せた政治的な選択があったことを補った。
始皇帝と習近平、そして雨の渋谷
本題に入る前に、二つの雑談が交わされている。どちらも切り捨てるには惜しい内容なので、そのまま記録しておく。
「習近平は毛沢東ではなく始皇帝と比べたほうがいい」への査読
マイキー氏はこの日の前にYouTubeで、習近平のマネジメントは毛沢東ではなく秦の始皇帝と比較したほうがモデル化しやすい、という趣旨の動画を公開していた。冒頭はその内容に対する渡辺氏のフィードバックである。渡辺氏は「中国の方が字句どおり受け取れば反論はあると思う」と前置きしたうえで、比較そのものには納得できると答えた。
根拠として渡辺氏が挙げたのは、まず焚書坑儒の実像である。書物を焼いたと言われるが実用書はかなり残されており、学問そのものを禁じたのではなく教える人間を選別したのが実態に近い。農業書・医学書、そして国家の成立基盤を示す占いの書は残された。であれば、あれは破壊ではなく相当に合理的な情報統制だった、という読みである。次に、なぜ焚書坑儒が誇張されて伝わったのかについて、漢代に「秦のようになれば民心が離れて滅びる」という教訓を語るために大げさに宣伝された結果だ、という説明を加えた。
さらに渡辺氏は、秦という国が文化的には後発の辺境国であり、紀元前900年頃に馬の繁殖に成功して封じられたという出自を持つことを指摘する。中原の先進国に対して武力以外の手段を持たない立場から見れば、思想統制も法の規制の仕方も、その力関係を作るうえでは最も合理的なシステム設計だったのではないか、と結んだ。ただし渡辺氏は「あれを全部が始皇帝の意図でやったと言うと中国の人には語弊があると思う」という留保も明示している。マイキー氏の側も、自分が言いたかったのは思想の中身ではなく「習近平を中心に中国共産党をどうマネジメントしているか」というマネジメント面の類似だ、と論点を限定した。
裏取り済焚書は紀元前213年、丞相・李斯の建言による「挟書律」で私的な蔵書が禁じられた出来事である。『史記』の記述では医薬・卜筮(占い)・種樹(農事)の実用書は禁令の対象外とされた。翌紀元前212年に約460人の学者が生き埋めにされたとされるのが坑儒にあたる。渡辺氏の「実用書は残された」「勉強そのものを止めたのではない」という説明は、この一次記述と整合している。
裏取り済この逸話が後世に誇張されたという指摘についても、儒家の立場から書かれた後代の記述によって脚色されたという見方が学術的に一般化している。渡辺氏の読みは通説の範囲内にある。
要確認「秦が紀元前900年頃に馬の繁殖に成功して封じられた」という起源譚は、非子が周の孝王に馬の繁殖を認められて秦の地を与えられたという『史記』秦本紀の記述に対応するが、年代は伝承的で確定していない。おおむね紀元前9世紀という理解でよいが、特定の年を引用するのは避けたほうが安全である。
評価の分かれ目習近平と始皇帝を重ねる比較は、統一された官僚機構による制度統治という軸を取れば説明力を持つが、政治的な含意の強い比較であることは押さえておきたい。これはマイキー氏の分析枠組みとしての提案であり、渡辺氏も「マネジメント術が近いという点には反論はない」と限定つきで同意しているにすぎない。革命指導者としての性格を重視する論者は毛沢東との比較を採るし、そもそも近代国家と古代帝国を同じ枠で語ること自体を退ける立場もある。引用の際は「マイキー氏の見立て」として扱うのが正確である。
雨の渋谷を歩くカップルの話
年末で参加者が減っていることに触れたあと、マイキー氏はクリスマス当日の話をした。壊れたパソコンを買いに渋谷へ出たところ、雨の中を手をつないで歩くカップルを見て幸せな気持ちになった、という話である。もっとも、そこに至る観察は身も蓋もない。金を持っている層は六本木や麻布へタクシーで乗りつけて雨に濡れずに済ませる。渋谷まで電車で来て歩いている時点で、そうではない層だろう。それでも雨で化粧が崩れるのを承知で出てきている。「普段だったら絶対出ないでしょう」という日に頑張っている人たちがいるのは平和な国だ、というのがマイキー氏の感想だった。
ここから話は、アメリカ発のイベントが日本に入ると全部「頑張る系」に変わるのが面白い、という論点に移る。アメリカのクリスマスは集まってピザとコーラを頼み、プレゼント交換をして、わちゃわちゃして終わる。リラックスして過ごす日として設計されているものが、日本では勝負日・決戦日になる。参加者からも同意が集まり、気心の知れた者同士でツリーの下に置いたプレゼントを当たり外れ込みで選ぶような過ごし方のほうが面白い、という応答があった。短いやり取りだが、この日の後半で扱われる「同じ制度が別の文化に置かれると別の行動原理を生む」という論点の前触れにはなっている。
13歳の論文から、父との対立まで
前田氏の講義は、この人物を扱う理由の説明から始まった。理論だけを取り出しても、なぜそういう考えに至ったのかが立体的に見えてこない。そして冒頭で自分の話は「僕の一解釈にすぎず、正解ではない」という意識で聞いてほしい、という留保を置いている。この留保自体が、後半で扱われるウェーバーの方法論的態度と重なる。
二人の巨人という置き方
前田氏はまずマルクスとウェーバーを並べた。この二人が対比されるのは、資本主義へのアプローチがイメージとして真逆に捉えられているからである。ただし前田氏は「必ずしも真逆とは言えないかもしれない」と即座に条件をつけた。ウェーバーはマルクスを基本的には認めており、認めるからこそ批判するという関係にある。
社会の科学的理解は可能か
前田氏がこの人物の最大の特徴として挙げたのは、社会の科学的理解とは何かを模索し続けた点だった。そしてその結論は逆説的である。ウェーバーは、絶対的に客観的な理解も絶対的に科学的な理解も不可能だという結論を出している。にもかかわらず、それを極力科学的な手法に近づけることはできるのではないか、という方向に進み、理解社会学と呼ばれる手法を編み出した。前田氏は「これはまた別のタイミングで説明する」として、この日は入口だけを示している。
ここで前田氏はマルクスとの対比を一つ挟んだ。マルクスは自分の方法を科学的だと主張し、弁証法的唯物論を用いることで客観的なフィルターになっていると考えた。しかしそれに対しては、弁証法が正しいという根拠はどこにあるのかという問いが立つ。あなたがそれを使いたいだけではないか、そこに主観がある、というのがウェーバー側の突っ込みどころになる。主観的なフィルターは基本的に切り離せない——ここが出発点になっている。
13歳の論文と、チャニングという影響源
ウェーバーは大学で歴史・経済・哲学を学んでいる。前田氏は、13歳で論文を書いて親にプレゼントしたいわゆる天才型の人物だ、という逸話を添えた。
思想的な影響源として前田氏が挙げたのが「チャニング」という人物である。その主張として紹介されたのが「個人は神以外に束縛されない」という命題だった。前田氏の説明によれば、それまで国家と個人を切り分ける発想はあまり存在しなかった。ところがこの人物の主張から個人重視の発想が出てくる。すると個人と国家が分離しているという発想が可能になり、そこから「個人の行動は国家にどう影響するのか」という問いが立てられるようになる。ウェーバーが後年、いったん個人に焦点を当ててから、それが組織にどう影響するのかを見るという理論の組み立て方を採るのは、こうした思想の影響ではないか、というのが前田氏の見立てである。前田氏はこの人物について、個人の良心・理性・精神生活の重要性に強くスポットを当てた点を挙げた。
裏取り済13歳の論文について。ウェーバーが1876年のクリスマスに両親へ贈ったのは二本の歴史論考で、題名は「皇帝と教皇の位置づけに特に注目したドイツ史の経過について」および「コンスタンティヌスから民族移動期までのローマ帝政期について」とされる。ウェーバーは1864年生まれなので、このとき13歳。前田氏の「13歳で論文を書いて親にプレゼントした」という記述は正確である。
裏取り済「チャニング」はウィリアム・エラリー・チャニング(William Ellery Channing, 1780–1842)、ボストンのフェデラル・ストリート教会牧師で、アメリカのユニテリアン派を代表する神学者である。奴隷制・戦争・労働問題・教育について当時としてきわめて進歩的な文章を残し、エマソンら超越主義者にも影響を与えた。
裏取り済伝達経路まで補足しておくと、より正確になる。チャニングをウェーバーに読ませたのは母ヘレーネではなく、母の姉であるイーダ・バウムガルテン(歴史家ヘルマン・バウムガルテンの妻、ウェーバーの伯母)である。イーダは妹と同じく深いカルヴァン主義的敬虔さを持ちながら、より積極的で支配的な人物だった。ウェーバーはストラスブール時代にこの伯母の家で宗教書を読み込み、その際にイーダが最も好んだ神学者としてチャニングに触れている。したがって前田氏の「この人の影響を受けている」という指摘は裏づけがあるが、経路は母経由ではなく伯母経由である。
もう一点。ウェーバーはチャニングらの説くプロテスタント的徳性に生涯にわたって畏敬を持ち続けたが、その基盤となるキリスト教信仰そのものは共有できなかったとされる。後の講義で扱われる「宗教を行動原理として分析する」という距離の取り方は、この個人史と切り離せない。
政治家の父と、敬虔な母
前田氏が最も時間を割いたのが家庭環境である。父は政治家で、世俗的・現世的な人物だった。母は裕福な家の出で、キリスト教の教義に従って行動し、慈善活動をしっかり行う意識の高い人物だった。この両親からウェーバーは強い影響を受けている。そしてこの二人は思想の方面で対立する軸にあり、噛み合わない。
ウェーバー自身は若い頃どちらかといえば父寄りの考え方だったが、成長するにつれて母寄りに変わっていったという言い方をされる。すると当然、父との対立が始まる。前田氏の説明では、この対立を経てウェーバーは非常に精神的に追い込まれる。6年間ほとんど活動ができない状態が続き、大学を辞職して療養に出るような精神的葛藤を抱え続けた。
ただし前田氏が強調したのはその先である。この葛藤を経てから、この人物の代表作が次々に生み出される。『プロテスタンティズムの倫理』をはじめ、『職業としての学問』『職業としての政治』といった仕事はこれ以降のものだ。つまりこの葛藤こそが、この人が思索をするうえで決定的に重要な活動だったのではないか、というのが前田氏の読みである。
発言と公開情報の差療養期間について。公開されている経緯では、1897年に父との対決の直後に父が急死し、それを機にウェーバーは神経症で倒れた。抑うつ・不安・不眠に苦しみ、講義が不可能になる。その後の約5年間を療養所に出入りしながら過ごし、1903年に正規の教職を退いた。教壇への本格的な復帰は1919年まで待つことになる。前田氏の「6年間ほとんど活動できない」という説明は、おおむねこの空白期を指しているが、公開情報上の記述は5年前後であり、また「大学を辞職して療養に出た」という順序も、正確には倒れてから数年後の1903年に辞職という順になる。数字と順序が一段ずれている点は把握しておきたい。
裏取り済代表作の刊行年。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は1904〜05年に雑誌『社会科学・社会政策論叢』へ分載された。『職業としての学問』の講演は1917年、『職業としての政治』は1919年である。いずれも療養期以降であり、「葛藤の後に代表作が集中する」という前田氏の指摘は年譜と整合する。
要確認ただし「精神的葛藤が創造性の源泉だった」という因果の主張は、伝記的解釈の一つであって検証された事実ではない。療養期に読書と思索の時間が確保されたという環境要因を重く見る解釈もある。前田氏自身も「考えられるんじゃないでしょうか」という留保つきで述べている。
豊かな側から先に逃げた――マルクスでは読めない移動
ここが講義の中核である。前田氏はまず地図を示した。左が西、右が東。東からポーランド、東エルベ、そしてライン地方・ルール工業地帯が並ぶ。この配置の上で、東エルベからライン・ルールへ向かう黄色い矢印が引かれる。
この移動はドイツ国内で起きていることである。そして東エルベの人口が薄くなると、そこへポーランドからの移民が流入するという二重構造が生じる。当時この地域について「スラブ人に支配されている」という言い方までされ、政治問題化していた。
調査が出した、想定外の答え
問題はここからである。どんな人たちが移動しているのかまで確認したところ、東エルベからライン・ルールへ逃れていたのは豊かな土地の農業労働者、つまり比較的に裕福な層だった。生活ができない人々ではない。むしろ困窮している側は逃げていなかった。
前田氏はここで、以前に扱った上部構造・下部構造の枠を持ち出した。下部構造は労働者がやること、上部構造はコンセプトや制度、支配層がやること。労働者が支配層を支えている構造だからこそ、その層が困窮することで物が動く——それがマルクス側の説明である。ところが東エルベの調査結果は、その説明が成り立たなさそうだと告げていた。「マルクスの理論では説明できない」という直面が、ここで発生している。
裏取り済この調査の正体を特定しておく。1892年、ウェーバーは社会政策学会(Verein für Socialpolitik)によるドイツ全土の農業労働者調査のうち、東エルベ地域の資料整理と分析を任された。成果は同学会の農業労働者調査報告の第三巻として刊行され、邦題は『東エルベ・ドイツにおける農業労働者の状態』である。このときウェーバーは28歳だった。低賃金のポーランド人農業労働者の流入がユンカー経営を脅かしていたため、この地域は当時きわめて政治性の高いテーマだった。
裏取り済この調査は単発で終わっていない。1894年に30歳でフライブルク大学の経済学教授に就任し、1895年の就任講演「国民国家と経済政策」で、ウェーバーはこの1892年の報告を土台に、東部ドイツの農業階級の位置、移民問題、ユンカーの経済的利害と政治的立場を論じた。この講演は賛否両方を巻き起こした論争的なものとして知られる。前田氏がこの調査を「若い時の有名な仕事」として起点に置いたのは、年譜上も筋が通っている。
要確認「マルクスの理論では説明できない」という定式化は前田氏による整理であり、ウェーバー自身がこの調査報告の中でその語で書いているわけではない。ウェーバーがこの調査から引き出した論点は、むしろ農業労働者が旧来の家父長的な現物給付関係から解放されることを望んだという「自由への志向」の側にあった。物質的窮乏では説明しきれない動機が働いているという含意は共通するが、前田氏の言い方はマルクスとの対比を際立たせる方向に整理されている。
渡辺氏の補い――壊れていたのは家族と地域だった
渡辺氏は、この講義の締めくくり方こそがウェーバーの問題意識を一言で説明していると評価したうえで、19世紀末ドイツの状況を補った。当時、歴史学・経済学・法学のすべてが論争のただ中にあり、その中でどちらを取るかという選択を、目の前の政治的・経済的状況の中で常に迫られていた。そういう決断を迫られた一人の個人としてまずウェーバーを見る——それが前田さんの提示した視点だ、というのが渡辺氏の受け止めである。
そして渡辺氏は、ウェーバーの問題設定の中身に踏み込んだ。家族の生態である。もともと家族は扶養的な関係、互酬的な関係を中心に成り立っていた。それが資本主義の浸透によって壊れていく。資本主義的な雇用関係へ移行するその浸透度合いに応じて、伝統的な価値観も、伝統的な家族も、地域のあり方すらも壊れている。これを経済の中心的な課題に据えたのがウェーバーだ、というのが渡辺氏の説明だった。渡辺氏はここで参加者に念を押している——分配や富の生成といった従来の論点とは、まったく違う視点になるのが分かるか、と。
さらに渡辺氏は、この時代に他国の情報が当たり前に読めるようになったことがマルクスの時代と大きく違う点だ、と指摘した。だからこそウェーバーはこの後アジアの研究に大きく踏み込む。プロテスタンティズムと資本主義の倫理をめぐる議論も、実はアジアを軸に据えたうえで、それに対してヨーロッパをどう論じられるかという問い返しとして構成されている。そこで初めて地球規模の学問が成立した、というのが渡辺氏の評価である。同時に渡辺氏は「当時としては仕方ないところだが、ある意味すごく偏見に見えてもいる」という留保もはっきり付け加えている。
ビスマルクという政治的変数
参加者から、スラブ人の移動はゲルマン民族の移動やローマ帝国の東西分裂の頃から、さらには紀元前から続いてきた流れの一つの区切りではないか、そして現在のウクライナの分断にもそれが顕在化しているのではないか、という感想に近い問いが出た。ポーランドは緩衝地帯として常に東から攻められ西から攻められてきた、という補足も添えられている。
前田氏はこれを受けて、政治的な変数を一つ足した。ウェーバーの父方の縁でビスマルクとの関わりがあり、影響も強かった。そのビスマルクが何をしたかといえば、当時弱い立場にあったプロイセンを政治的な立ち回りで強くし、工業化を進めることである。そして東エルベとライン・ルールの対比は、農業地帯から工業地帯へという対比でもある。プロイセンは工業に力を入れ、農業は伝統として放置する、という明らかな優劣をつけた政策を採っていた。渡辺氏が言う「伝統が壊れる」現象には、政治が積極的にそうしていた部分がある——これが前田氏の補正だった。
暗黙知を取りに行く移動――ラストベルトからシリコンバレーへ
マイキー氏は、この人口移動を現代の語彙で説明し直した。参加者から「東エルベからラインへの流出は、アメリカのラストベルトからシリコンバレーへ移ったのと同じ理屈ではないか」という指摘が出たことを受け、その線を具体化した形である。
三つの理由
マイキー氏の説明は三本立てになっている。
第一は情報の速度である。当時インターネットはなく、新聞や書籍は西から東へ流れてきた。ドイツの真ん中にいるより、フランス・スイス・イタリアといった国境沿いに寄ったほうが情報が早く入る。地方にいると情報が遅いから東京に出る、というのと同じ構造がドイツでは「真ん中より国境沿い」という形で現れ、その国境ぎりぎりがちょうどライン地方だった。
第二は物流である。ドイツで海に面しているのは北の限られた海域だけで、良港に恵まれない。西へ寄れば海に近づき、南にも北にも西にも抜けられる。川沿いに工業地帯が発展したのは物流条件として合理的だった。農業が国内に分散せざるを得ないのに対し、工業地域はいろいろな場所へアクセスできる。
第三は産業の性格である。マイキー氏は当時の工業を「今で言うITみたいなもの」と表現した。どれだけ大量生産をするか、どれだけ効率のよいものを作るか、という大量生産とイノベーションの時代だった。そこで必要になるのが知の集積である。
15歳から30歳が動いた
マイキー氏は、東エルベからラインへ移った人々の年齢層が15歳から30歳に集中していたと当時言われている、と述べた。最も油が乗る時期の層である。同じ構造として、アメリカで優秀な人たちが西海岸の技術か東海岸のファイナンスかを選んで移動するのも、だいたい18歳前後だと指摘する。形式知を身につけた優秀な層が、次に暗黙知を取りに行く段階で、そういう場所へ集まるのは現代でも説明できる、という結論である。
そしてシリコンバレーの側の説明。今後のITと技術は半導体が中心になると分かっていた人たちが多くいて、半導体の大量生産地は韓国・日本・台湾である。そこに最も近い地域はどこかと考えればサンフランシスコになる——だからシリコンバレーが発展した、という説明を置いた。
整理しておきたい因果の順序「半導体の大量生産地がアジアだから、それに近い西海岸が選ばれた」という説明は、時系列としては逆向きの部分がある。シリコンバレーの半導体産業は1956年のショックレー半導体研究所、1957年のフェアチャイルド・セミコンダクターに始まり、スタンフォード大学の産学連携と国防需要が初期の駆動力だった。日本・韓国・台湾がメモリやファウンドリで大量生産の中心になるのは1980年代以降であり、地理的近接がシリコンバレー成立の原因になったわけではない。ただし、設計を西海岸に置き製造をアジアに置くという分業が定着した後の時代については、太平洋を挟んだ時差と物流の条件が有利に働いたという説明は成り立つ。マイキー氏の言い分は「その後の維持要因」としては妥当だが、「発生の原因」としては公開されている産業史と食い違う。
要確認「東エルベからの移動者は15〜30歳が最多」という数字は、この日の発言では出典が示されていない。ウェーバーの1892年報告には年齢構成に関する記述が含まれるが、この数値レンジがそのまま原典に対応するかは本レポートでは確認できなかった。引用する場合は一次資料での確認を推奨する。
構造としては筋が通る「形式知は移動しなくても手に入るが、暗黙知は場所に貼りついている」という区別自体は、ポランニーの暗黙知概念以降、知識経営論の標準的な前提である。人が集積地へ移動する理由を情報アクセスで説明する枠組みは、経済地理学の集積の経済とも整合する。
地域格差は必然か、それとも作るものか
マイキー氏はこの説明の帰結として、地域格差が生まれるのは必然的に起きることだと述べ、前田氏に振った。前田氏の返しは、その言い方より一段踏み込んだものだった。
親に反発できる子ども
この節の最後に、参加者から視点の異なる指摘が出た。マックス・ウェーバーもマルクスも、親との考え方の違いを抱えていたという共通点があるのが面白い、特に父親との関係において共通するものがあったのではないか、という感想である。
マイキー氏はこれを受けて、「親の言うことを聞かない子どもが一番成長する」と自説につなげた。親が影響を与えるな、締めつけるな、というのが自分がいつも言っていることであり、親に反発できる子どもになるのが一番いい、親を超えていかなければならない、と述べている。前田氏も同意した。二人の思想家の伝記的共通点を、そのまま教育観の主張に接続した形である。
質疑応答
そのうえで、なぜこの人物をこの日出したのかを説明している。今の私たちは「個人を重視する」という言い方を当たり前にするが、それ以前の社会には個人を重視するという発想すら存在しなかった。ウェーバーの理論には個人の考えに焦点を当てる組み立て方が出てくるが、それはこうした思想の影響ではないか。もし後の講義で腑に落ちない箇所があれば、ここに戻ってくるとヒントがある、という位置づけである。
そのうえで前田氏は、今の日本については「基本的にはもう逃げるしかない構造になってしまっている」という見立てを述べ、それでも逃げるという発想ができるだけまだましだ、と続けた。文句は言うが何もしない、そのままい続けるしかないと思わせるような社会の仕組みがある、という認識である。
対比として前田氏が挙げたのが明治期の日本だった。なぜ日本があれだけイノベーションを起こせたのかも、当時の思想背景から見ればこういうものが影響したのではないかという議論がある(論者の名前は当日思い出せず保留)。思想がしっかり根付いていて、それがどう行動原理になっているかを突き止めることが重要であり、そのうえでそういう人たちがどう生活できる社会なのかを見ていく——これがウェーバー全体の言っていることの一つに入っているのではないか、というのが前田氏の答えである。
最後に前田氏は重要な留保を置いた。ウェーバーは結論をどうするという言い方をしているわけではない。前提条件となる社会が違えば行き着く先も違ってくる。だから日本の今の状態をベースにしているわけではない。「これを説明するためにこういうツールを使えばよりクリアになるのではないか、という道具を提供してくれているような感じ」——この言い方が、次回以降の理念型の議論への伏線になっている。
持ち帰るべき課題
- 東エルベ調査の一次資料にあたる。『東エルベ・ドイツにおける農業労働者の状態』(1892年、社会政策学会報告第三巻)と、1895年フライブルク就任講演「国民国家と経済政策」。この日の講義の骨格はここから出ている。年齢層の数値を引用したい場合は、この原典で確認するのが確実である。
- 自分の業界で「豊かな側から先に抜けている」現象を探す。困窮が離脱を生むという直感が外れるケースを一つ挙げ、そこで実際に働いている動機を言語化する。前田氏の講義が示した反転をそのまま自分の観測対象に適用する練習になる。
- チャニングとアメリカ初期の思想史を並行して押さえる。前田氏が「この人の思想とアメリカの初期の歴史は影響が強いので両方並行して見たほうがよい」と述べた箇所。個人と国家を分離して考える発想がどこから来たのかを追う課題である。
- 習近平と始皇帝の比較動画を確認する。マイキー氏が公開済みの長尺動画。来年は中国の話が非常に多くなるという見通しのもとで、キングダムを併読しながら見ることを推奨している。この日の冒頭の渡辺氏のフィードバックはその内容に対するものである。