権力の裏付けは強制力であり、支配の裏付けは正当性である。この二つを「回避すべきもの」と「望ましいもの」に分けて語ってきたことこそが、組織論の躓きだった。前田氏の講義は、暴力と正当性を料理人の道具として並べ、それぞれに値札とねばり強さを付けていく作業だった。
この回の前半は、社会学の講義でありながら、実質的には原価計算の話だった。前田氏が黒板に置いたのは「権力」「支配力」という二つの言葉と、その裏側にある「強制力(暴力)」「正当性」という二つの裏付けである。ここまでは教科書の整理に見える。ところが講義が進むにつれ、この四語は倫理の話から離れ、いくらかかるか・どれだけ続くかという二軸の上に置き直されていく。暴力は高い。しかし折れない。正当性は安い。しかし続かない。組織を維持するとは、この二つをどう配合してコストを最適化するかという実務問題である――というのが講義の結論だった。
この整理が効くのは、「暴力は回避すべきもの」という前提を最初に外しているからである。前田氏ははっきり「組織を維持する上で暴力は不可欠なものです」「そういうものではありません」と述べた。ここでいう暴力は殴る蹴るではない。法律もペナルティも人事も報酬も、外から圧力をかけて行動を変えさせるものはすべて強制力の側に入る。逆に正当性の側には伝統・慣習・宗教・文化が入り、ミッション・ビジョン・バリューやブランディングもそこに属する。参加者からこの対応づけの確認が入り、前田氏は肯定したうえで「ヨーロッパ企業がブランディングでうまく見えるのは宗教的理解と繋がっているからではないか」と付け加えている。
講義の前に置かれた渡辺氏とマイキー氏の対話も、実は同じ主題を別の入口から扱っていた。渡辺氏はマックス・ウェーバーの視野の広さを「第一原因を探る学問だから」と説明し、そこからアルフレッド・マーシャルとの対比に入る。マーシャルは人間の調和した世界を作ろうとした。対してウェーバーの側には、経済とは人間にとって暴力的なものだ、という出発点がある。この差は目的の差であって優劣ではないが、扱える問題の範囲が変わる。マイキー氏はここに乗って、そもそも自然界に調和などなく、弱肉強食こそが食物連鎖の調和ではないか、と踏み込んだ。人間だけが特別だという前提で組み立てられた「調和」は、自然から離れる方向にしか進まない、と。
したがってこの日の前半を貫くのは、暴力という語をいったん道徳の外へ持ち出す、という一貫した操作である。持ち出したうえで、それを費用とねばり強さで測る。測れるようになれば、配合を設計できる。設計できれば、組織は維持できる。前田氏の言い方では「切り事でやるものではない」。
開始前の雑談は、マイキークラブに入ってきた新規参加者の紹介から始まった。ベトナムでベンチャーキャピタルの仲介をするコンサル会社を営む30代半ばの人物で、テラドローンの創業メンバーの一人だという。従業員600名規模まで拡大しているという話が出て、「若いのにすごい」「年商100億まで持っていくと言っていた」というやりとりが続いた。マイキー氏は「マイキークラブの構造が変わってきている」「このクラブから上場企業を立ち上げる人が出そうな感じがしてきた」と評している。
その流れで、面談時に使っている「意地悪な質問」の話が出た。「僕のYouTubeで一番つまらないネタは何ですか」と聞いても、大抵は「全部面白いです」としか返ってこない。全部面白いわけがないし、面白かったとしても優劣は必ずある。そこで質問を変え、「コラボした中で誰が一番面白くなかったですか」と聞くと、今度はちゃんと答えが返ってくる。しかも回答の七割ほどが同じ一人に集中する、という。ここで語られているのは芸能人の品定めではなく、答えられない質問を、答えられる質問に置き換える技術である。この後の講義でも、抽象的な「暴力」を「コストとレジリエンス」に置き換えるという同じ操作が起きる。
また、参加者の理解度についてマイキー氏から確認が入り、前田氏が「用語を普通に使っているが違う意味で使っていることも多い」と応じた。前回マイキー氏がマックス・ウェーバーの文脈で余剰と価格弾力性の話をしたが、通常の流れではウェーバーからそこへ繋がる余地はない。にもかかわらず言及するのは、そこに繋がる筋道があるからで、繋げると解釈が全く変わる――だから今日はその前提を話す、と講義の位置づけが示された。
マイキー氏の「ウェーバーはなぜここまで視野を広げられたのか」という問いに、渡辺氏は学問の二分法から答えた。トマス・アクィナスは学問を二種類に分けている。ひとつは経験則から組み立てる学問で、二点を通る直線は一本である、というような性質のもの。もうひとつは、一つ上位の学問から理論を借りてくる学問である。神学や哲学がそれにあたり、自分たちの経験からは説明のつかないものを説明するときに適用される。
それまでの経済学や社会学は、あくまで人間視点の合理性と経験の延長にあった。どう機能し、その機能をどう観測するか。ところがウェーバーの視点は、その行為や現象の動力がどこにあるのかを問う。つまり第一原因の発見であり、アリストテレス由来の系譜から理論を借りてこなければならない。人間の社会や経験の世界は「動因のあとの世界」であり、感情は原因になりえず単なる反応・反射でしかない。反射を追っていた学問から動因を探る学問へ移れば、社会が複雑になるほど探索範囲は広く取らざるをえない――これが渡辺氏の説明である。
渡辺氏はここで、われわれが自然にやっている行為は何ひとつ説明できていない、と参加者に問いを投げた。親がやっていたから、周りがやるのが当たり前だから、というのは説明ではない。妥当性の説明は解剖学のように人間の内部を見れば出てくるが、第一原因はそこからは出てこない。
講義で扱われた枠組みは、ウェーバー自身の術語では次のように対応する。権力(Macht)は「抵抗を排してでも自己の意志を貫徹する可能性」、支配(Herrschaft)は「特定の命令が特定の集団に服従される可能性」であり、支配は正当性の信念に支えられて成立する。そして国家については、1919年に刊行された講演録『職業としての政治』(Politik als Beruf、1918年ミュンヘン大学での講演)で「一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」と定義されている。前田氏が「正当性+暴力=支配=国家」と板書した整理は、この定義とそのまま重なる。
なお定義の要点は「実効的に(successfully)」の一語にあり、正当な暴力の独占は法的な理想ではなく、実際に維持できているかどうかという経験的な主張として置かれている点も押さえておきたい。
渡辺氏はマーシャルとウェーバーの差を、経済をどこで捉えているかの差だと整理した。マーシャルは人間の調和のとれた世界を作ろうとしていた。対してウェーバーの側には、経済とは人間に対して破壊的な力を持つものだ、という前提がある。ジェヴォンズがプリンキピアのような体系を作りたかったのも同じ系譜で、彼はそれをリカードに見た。分配が行われるとき、人間の思惑や予測を超え、平等性を突き抜けていく自然法則的な苛烈さがある――そこに経済を見ていた、と。両者を哲学的に繋いだのがジョン・スチュアート・ミルであり、ミルを通さずにマーシャルを読むと限界が出る、という補足も入った。
ここにマイキー氏が入り、話を生物の側へ引き戻した。調和的に資源を分配していくというのは動物界・生物界ではありえない行為である。強い個体が食い、弱い個体が食われる。それが自然界の基本的な流れであり、食物連鎖の調和である。そこから離れる方向に理論が発展していくこと自体が、人間を特別な生き物とみなす前提から来ているのではないか、と。「僕の中だと人間も猫も価値としては変わらない」「一つの生き物だというポイントでしか見ていない」という言い方がされている。
渡辺氏の応答は、この対立を歴史のなかに置き直すものだった。18世紀以降に人間が行った自然の単純化、すなわち資源を単純化して観察をコントロール可能にする手法は、啓蒙主義の産物である。啓蒙主義的な政府の正統性を作るには自然権という根拠が要り、自然権を保障する政府という社会契約論を成り立たせるには、自然を単純化する必要があった。つまりわれわれが自然と呼んでいるものの観察様式そのものが、政治的な欲求から来ている。動物世界の暴力性と人間世界の暴力性が乖離したのは、そこに理由がある、と。
この文脈で、渡辺氏から評価制度についての具体案が出ている。アメリカの体育の授業では成果ではなく心拍数で測ると聞いた、走るのが速くなかったとしても心拍数が上がったことで評価される、日本のようにタイムという成果で測るのではなく、何をどれだけ費やしたかを測る指標があってよいのではないか――という提案である。要確認この評価方式が米国で標準的に採用されているかどうかは裏取りできていない。ここでは提案の中身として記録する。
前田氏の講義はまず、力の種類の分解から始まった。われわれが組織について語るとき出てくるのは「権力」と「支配力」である。この二つを裏付けているものが違う。権力の裏付けは強制力であり、支配力の裏付けは正当性である。そしてこの強制力を生み出すものが暴力であり、正当性に意味と保証を与えるのが伝統・慣習・宗教・文化である。
ここで前田氏は比喩を置いた。料理人と料理道具の関係である。料理人にあたるのが権力と支配力、道具にあたるのが暴力と正当性、そして食材にあたるのが人員・人材である。料理人がいるだけでも、道具があるだけでも料理はできない。両方揃って初めて成立する。だから暴力と正当性はあくまで道具であって、どういうものでどう使うかが分かっていなければ使えない。組織を維持するには必ず人が要るのだから、この人員をどう料理するかという視点で見なければ適正なコントロールはできない――という順序で整理された。
次に、権力と支配力の面積関係が示された。支配力のほとんどは権力の内側に埋め込まれている。一部だけ外に出る余白があるが、それは小さい。特に国家のような単位になると、正当性だけで成立を維持するのは非常に難しいからである。かといって暴力だけでは暴走する。片方だけでは維持できないので両方を組み合わせる、そこで初めて「支配」という考え方が出てくる。
| 組み合わせ | 名称 | 具体例 | 作用の向き |
|---|---|---|---|
| 正当性+暴力 | 支配 | 国家 | 内的動機と外的圧力の両方 |
| 正当性のみ | 権威 | 宗教、学問 | 自発性を生む(内側から動く) |
| 暴力のみ | 強制 | 暴力団、テロ | 強制力を生む(外側から動かす) |
正当性が自発性を生む例として挙げられたのが、キリスト教徒が日曜に教会へ行き礼拝することである。強制されてやるものではなく、自分で選択して継続する。これが自発性を生み出すシステムだ、と。一方の暴力は、殴る蹴るに限らない。法律もここに入る。こういうことをやったらこういうペナルティを課す、というペナルティの賦課は基本的に暴力に入る。われわれが日常語で暴力と呼んでいるのは、そのうち物理的に暴走したものだけである。
講義の核心はここである。正当性も暴力も、組織や社会を維持するための機能であり、機能には必ずコストがかかる。そこで前田氏はコストとレジリエンス(柔軟性・持続性)という二軸を導入した。
図:正当性と暴力のコスト/レジリエンス比較(講義内容にもとづくClaude作図・概念図。数値は相対的な高低を示すための便宜的なもので、実測値ではない)
正当性はコストが安い。人が自分から動くからである。しかしレジリエンスは低くなりやすい。ダイエットの例で説明された。運動したほうがよい、食事を制限したほうがよいと本人は分かっている。分かっているのが正当性である。しかしそれを継続できる人は多くない。ここが正当性のレジリエンスの低さである。
対して暴力はコストが高いがレジリエンスも高い。参加者からの「なぜ暴力のレジリエンスが高いのか、強制力があるからか」という確認に対し、前田氏はこう返した。「一週間後に5キロ減っていなかったら100万円払ってもらいます、と言われたらどうですか」。質問者は「本気で取り組むと思います」と答えた。コントロールするうえで暴力は不可欠だ、という結論である。
コストの定義について質問が出た。前田氏の回答は、時間・手間・能力といった社会資源全体を指す、というものである。そして「三大コストのうち最も重要なのは時間だ」と付け加えた。ここが忘れられがちになる、と。
マイキー氏が「時間的サンクコストの話をしたら日本人全員が絶望的になる」と混ぜ返し、渡辺氏がそれを受けた。日本人の場合、時間がそもそもコストのうちに含まれていないのではないか。人生における自己実現や調和といった自分の世界観の問題と、ビジネスライクな自分としての時間との線引きがない。それが価値観の土台にある。一つの就業モデルとして考えれば、たしかにサンクコストと言える――という整理である。
渡辺氏から、支配を成立させる権力に対して、価格弾力性の話がどう繋がるのかを深めてほしいという要請が出た。前田氏の答えは「例外状態とそうでない状態に分けると比較しやすい」というものである。
そこから話はマーシャルとケインズの対比に移った。マーシャルは基本的に安定期の人であり、維持のための理論として見ている部分がある。ケインズは逆に混乱期の人で、高コスト構造になるときにどう弾力性を捉えるかという視点になる。だから同じ合理性であっても、安定域に埋め込まれた理論なのか混乱期に向けて生み出された理論なのかで、方向性も操作性も違う。これが経済学において常につきまとう「政府は介入すべきか否か」の問題に直結する、と渡辺氏はまとめた。レッセフェールが入る余地そのものが価格弾力性に繋がる、という捉え方である。
渡辺氏はさらに、リカードの地代の議論を現代に置き換えると、それはプラットフォームになるのではないか、と述べた。特定の地代から利益を得る主体が、いまの市場におけるキーパーソンとしてどこまで合理的なのか例外的なのか。ここが次の話に繋がる、と。
この日いちばん学説史的に密度が高かったのが、渡辺氏によるウェーバー=フェヒナーの法則への言及である。外部からの刺激が幾何級数的に強くなっても、内面の感覚は等差級数的にしか増加しない。これを対数で表したのがウェーバー=フェヒナーの法則であり、外的要因がいくら大きくなっても内的な変化は小さくなる。この生理学的モデルを経済学に持ち込み、それを効用だと言い始めたのがブレンターノであり、ウェーバーはこれを批判した――という説明である。
渡辺氏の説明は公開資料と一致する。ウェーバーは1908年、ルヨ・ブレンターノの価値理論についての著作への論評として「限界効用理論と『精神物理学の基本法則』」を執筆した。ウェーバーがそこで唯一反論の必要を認めたのが、限界効用理論とウェーバー=フェヒナーの法則の関係についてのブレンターノの主張である。ブレンターノは「精神物理学の基本法則が限界効用理論の基礎であり、限界効用理論はその応用である」と述べたが、ウェーバーはこれを退け、限界効用理論はウェーバー=フェヒナーの法則や何らかの基礎的な心理法則の特殊な適用例などではない、と論じた。
なお、この法則名の「ウェーバー」はエルンスト・ハインリヒ・ウェーバー(生理学者)であって、マックス・ウェーバーとは別人である。同姓が偶然に並んだために、批判者と法則名が同じ表記になっている。
渡辺氏はこの批判の含意をこう受け取っている。効用理論をそのまま人間に当てると、それは単なる反応理論になってしまう。生理学をそのまま経済学に適用するのではなく、判断者としての責任と主体性を持つ人間を育てるための枠組みとして経済合理性を置いたのがマーシャルである、と。前田氏はさらに、経済が独立して成り立っているという前提で見ている人が多すぎる、歴史と倫理的構造を理解したうえで時代性を読まなければ、数字だけ・行動だけで語ることになり、まったく違う道具を使っているに等しい、と応じた。