「批判的思考を養うにはどうすればいいか」という質問に、講師は「人の悪口だけ言い続けてください」と答えた。乱暴に聞こえるこの処方箋は、しかし最後に「悪口をロジカルに喋れないやつのほうがやばい」という一文で回収される。AIに飲まれるかどうかは知識量と想像性で決まり、その先で人間同士の会話が嗜好品になる――そこまでを一本につないだ回。
この日の締めくくりは、AI・リーダーシップの議論から自然に流れ込んだ。AIの倫理フィルターが経営者を平均へ引き戻すという構造をひととおり示したあと、講師(マイキー氏)は「がっつりまとめると何かというと、批判的思考をどれだけ増やすかというだけの話だと思います」と言い切った。長谷川氏も「まさにそうですね」と即応し、そこから議論の焦点は「では、その批判的思考はどうやって鍛えるのか」に移る。
講師が挙げた入り口は極端だった。社内研修に入れる教育は一つ、他人の悪口を100個言えるという状態を作ることである。長谷川氏はこれに実務家として反応した――実際に企業に提案すると、大概の経営者は怖がって取り入れない。自分はまず褒めることから入り、そこから「ではなぜ出ないのか」へ進む、と。部下一人につき褒める点を10個でも20個でも挙げられるか。それは人間の観察力の問題である。上司に人間の幅も器量もないから、結局は人が離れてしまう。方向は逆だが、両者が見ているものは同じだった。相手を見ているかどうかである。
議論はそこからAIへの依存の話に折り返す。批判的思考ができない人はAIも使えないしプロンプトも書けない、と長谷川氏は指摘した。講師は「AIに対して信用性が高すぎるやつほど危ない」と応じ、コミュニケーションの中で最も必要な「バグ」をどう見つけるか、そのためにはAI以外と会話する癖をつけないと批判的思考はどんどん失われると述べた。日本の教育における「先生が言うことがすべてで、反論しない」という前提が、そのままAIへの無批判な信頼に横滑りしている、という長谷川氏の分析も加わった。
そして最後に、この回で最も反転の効いた指摘が出る。中川氏が「クリティカルシンキングを学んでいたが、日本で言われている批判的思考とはニュアンスが違う。批判をするための思考ではないですよね」と問うたのに対し、講師は「そうです。日本語のマジでダメなところです」と同意した。だが直後に、講師はこの日の自分の処方箋を裏返してみせる。「他人の悪口を言うのが一番簡単なロジックなんですよ。私はあの人が嫌いだ、なぜならば、と言えるから」。そして「他人の悪口をロジカルに喋れなかったら、それこそやばいやつなんです」。悪口を言えというのは、相手を否定せよという意味ではなく、結論に対して理由を接続する訓練を、最も動機づけの強い題材でやれという意味だった。
この回の講師自身が、批判的思考の実演をしていた。前回の勉強会で自分が作ったフレームワークを、自分で読み返して穴を探し、第2カテゴリーの2番と3番に致命的な問題を見つけた。「作ってからずっと批判的思考で、何が穴かをずっと見ていた」「もう徹底的に自分の作ったやつに対して悪口を言いまくっている」。大抵の人はフレームワークができたら「俺のフレームワークはすごいぜ」で終わる。数時間で作ったものに穴しかないのは当たり前ではないか――この自己適用こそが、この日の一番の教材である。
この日の講義が始まるまでの約20分は、参加者同士の近況報告に充てられた。中心にあったのはNPO・NGOの運営実務である。話題を持ち込んだのは中川氏で、動物愛護のシェルター設立を構想している。高齢者が施設に入所したり亡くなったりすると、家の中に残された犬や猫が死んでしまう。個人で受け続けるとキリがないので、NPOにしてシェルターを持たなければ無理だと判断した、という段階である。「こっそり老人が飼っているのは1匹ではなく3匹くらい」という実感が、その判断を裏付けている。
これに対して講師は、自身のNPO・NGO運営の経験から具体的な数字と要件を返した。認定を取るには年間3,000円以上の寄付者が必要であり、加えて会計がしっかりしていること。日本国内ではNPOとして子供食堂を、海外ではNGOとして活動している、という区分である。国内の運営は管理会社の担当者がメインで行い、講師の報酬が転送されてほぼそちらに回っている、と述べた。
講義中に出た「年間3,000円以上」という数字は、認定NPO法人のパブリック・サポート・テスト(PST)における絶対値基準を指している。正確には、年3,000円以上の寄付者の数が年平均100人以上であることが要件である。計算式は「実績判定期間内の各事業年度における年3,000円以上の寄付者の合計数 × 12 ÷ 実績判定期間の月数 ≧ 100人」。寄付者数のカウントには氏名と住所(団体なら名称と主たる事務所の所在地)が明らかであることが必要で、寄付者本人と生計を一にする人は合わせて1人と数える。法人の役員および役員と生計を一にする寄付者は数から除外される。
なおPSTには他に相対値基準(収入金額に占める寄付金の割合が20%以上)と条例個別指定があり、いずれか一つに適合すれば要件を満たす。講義中に「1人500万円ではなく、たくさんの人から少しずつ集める必要がある」「月1,000円なら年額1万2,000円で十分」という話が出たのは、この人数要件があるためである。寄付総額ではなく寄付者数がカウントされるという制度設計が、募金の集め方そのものを規定している。中川氏の「人数も寄付金の人数もカウントされる」という発言は、この点を正確に押さえている。
ここで講師が語ったのが、この回の後半と最も強く響き合うエピソードである。かつて月500円の貯金企画で1,000人を集めたことがあった。だが続かなかった。クレジットカード引き落としにしていたにもかかわらず、講師が配信で参加者に対して厳しいことを言うと、全員が一斉に解除してきた。最終的に残ったのは100人程度だったという。「金を払っているんだからお前は優遇しろよ、という貧乏症の考え方を持つ人間は多数いる」「経営者だってそんなものだ」というのが講師の総括である。そこから「50万円程度なら、そんな相手に頭を下げるより自分で出したほうが早い」という結論に至った。
この話の導入部に置かれていたのが、「一般の人は全部感情で判断するんで」という一言だった。この日の後半、講師は批判的思考の最大のボトルネックについて「人間というものは自分の自己都合のほうに寄ってしまう」「感情的に判断してしまう」と述べている。冒頭の雑談と締めくくりの結論が、同じ診断を別の角度から言っている。
もう一つ、繰り返しの必要性についての議論があった。中川氏は台湾在住時に、保護された野良犬が処分されるまでの過程を1時間半の映画にして映画館で上映させた経験を語った。上映には相当な費用がかかったが自費で出した。だが「一時的にそういう運動が出てくるが、結果としてみんな忘れる」。マーケティング会社に言われたのは、毎日インスタやYouTubeで言い続けるしかない、ブランドを作るにはそれしかない、ルイ・ヴィトンは何十年経ってもずっとやっているではないか、ということだった。講師も「自分がアウトプットしろと言っても三日でみんな忘れる。動物ならもっと忘れる」と応じている。
講師の説明によれば、日本の子供食堂はほぼ死んでいる。国内支援がないためである。だから新しく立ち上げるのではなく、既に建物がある死んだ子供食堂を復活させるという形を取っている。予算がかからないからだ。しかし別の問題がある。子供食堂に来る人は、実は困っていない。8割以上がそうだ。地域密着型で運営しているため、「今日の夜は仕事に行かなければならないので食事代が浮く」という程度の利用が中心で、本当に困っている子供にリーチできていない。自治体はそうした子供を把握しているが、リストを渡してリーチさせてほしいと頼んでも断られる。個人情報保護法があるためである。だから子供たちに直接啓蒙するしかない、というのが現状だった。
PART 0で最も後半と接続するのが、海外での雇用経験の話である。中川氏は、養護施設を18歳で出た子供のうち犬猫が好きな子をシェルターで雇いたいと考えている。就職がなかなかなく、あってもすぐ辞めてしまう。保証人がいないことと、社会性の面でどうしても欠けてしまうことが理由である。講師もカンボジアやフィリピンで同様のことをしてきた。海外ではホテルを丸ごと買い、そこで子供たちを働かせている。部屋も食事も用意されるので、彼らは非常に純粋に働くという。
ただしレストランでの雇用では別の壁にぶつかった。教育を受けていないため、皿を洗う人と皿を運ぶ人を分けないと成立しないのである。「お皿を洗って、運んで、片付けてね」という指示は3つのタスクが同時に入っている。同時に3つ入っているということは、3種類のタスクを与える、つまり3人必要になる。知的能力の問題ではない。「これしかできない」という状態なので、人件費が安く済むと思ったら意外とかかってしまう、という結果になった。
同じ構造がサービス業全般に及ぶ。ピザ店での注文で、飲み物が来ないままピザが3枚出てきて、コーラを催促し続けたところ追加注文と解釈されて1人4杯分のコーラが出てきた。アペタイザーはピザを食べ終わった後に出てきた。会計時にピザが7、8枚追加されており、恐ろしい金額になっていた。すべて「早く出して」という催促が追加注文として処理されていたのである。教育の欠如は知識の欠如ではなく、複数の指示を分解して順序づける能力の欠如として現れる、というのが講師の観察だった。
そして議論は日本の教育水準の話に着地する。カンボジアでは義務教育があっても行かないのが当たり前で、鉛筆もノートもない。フィリピンもインドネシアも、学があるないという以前に文字が書けないことが普通だという。ただし全員が英語だけは話す。外国人から金をもらわなければならないので、英語だけは堪能でコミュニケーションが取れる。話していて楽しいが、文章にしたり指示を出したりすると成立しない。「それを考えたら日本は国力がある」「識字率と、一応は計算ができるという、教育のベースのところはやはりある」――そして「日本人は高校生までなら世界でも教育レベルのトップ10に入っている。だからどこかでバグるんですよね。大学・社会人になってからバグって一気に生産性が落ちる」という一文で、この雑談は締めくくられた。
OECDのPISA 2022において、日本は読解力3位、数学的リテラシー5位、科学的リテラシー2位である。スコアは読解力516点、数学536点、科学547点で、いずれもOECD平均を上回る。しかも前回調査からすべての分野で平均得点が上昇している。講義中の「トップ10ぐらい」という表現は、公開データに照らせば過小評価であり、実際にはトップ5圏内である。この差は、講師の主張(高校までは強い)をむしろ補強する方向に働く。
一方の「大学・社会人でバグる」については、日本生産性本部の「労働生産性の国際比較2025」が対照データになる。2024年の日本の時間当たり労働生産性は60.1ドル(5,720円、購買力平価換算)で、OECD加盟38か国中28位。G7では引き続き最下位である。物価変動を調整した実質ベースの労働生産性上昇率は-0.6%で、38か国中33位。前年(+0.1%・16位)から落ち込んでいる。教育到達度は世界トップ5、労働生産性はOECD28位という組み合わせが、講師の直感を数字で裏付けている。ただしこの2指標の間に因果関係があるかどうかは別の論点であり、労働時間の長さ・産業構造・資本装備率など複数の要因が絡む。
なおカンボジアについては、講義の描写と公開統計にずれがある要確認。世界銀行の統計では、カンボジアの成人識字率(15歳以上)は2022年で83.8%、2024年時点の別集計でも約84%(男性88.4%、女性79.8%)である。就学状況も、2024年のデータでは6〜11歳の94.1%、12〜14歳の90.8%が就学している。ただし15歳以降は経済的圧力で就学率が大きく下がる。したがって「文字が書けないのが普通」という描写は、国全体の平均としては正確ではない。講師が接していたのは、スラム街出身の子供や孤児施設の子供という特定の層であり、その層に限れば描写は成り立ちうる。義務教育が中学までという理解(9年制)は、制度上おおむね正しい。
AI・リーダーシップの議論をまとめる形で、講師は「がっつりまとめると、批判的思考をどれだけ増やすかというだけの話だと思います」と述べた。ボトルネックは明確で、人間は感情的に判断してしまう、自分の自己都合のほうに寄ってしまう。だから批判的思考を磨き続けること自体が、最大の予防策になる。
そして具体策として提示されたのが、社内研修に入れる教育としての「他人の悪口を100個言える状態を作る」だった。長谷川氏の反応は、実務家として率直だった――実際に企業に提案すると、大概の経営者は怖がって取り入れない。自分の入り口は逆で、まず褒めることから始め、そこから「ではなぜ出ないのか」へ進む。
他人の悪口を100個言える状態を作る。人の悪口でなくてもよく、誰の悪口でもいい。どこかで必ず穴を見つけるという訓練である。
目的は否定ではない。多角的に物事を見て、そこに穴があるか、逆を見たら違うのではないか――そう積み重ねることで鍛えられる、と講師は青木氏に説明した。
「100褒めろ」とよく言っている。部下のAさん・Bさん・Cさんに対して、どれだけの価値を認め、褒める点を10個でも20個でも出せるか。
それは人間の観察力である。上司に人間の幅も器量もないから、結局は人が離れてしまう。飲みに行こうと誘えなくなる。飲むこと自体が正しいとは思わないが、少なくともそこでフランクな意見が出てくるし、お互いに相手をもっと知ることができる。それはAIができることではない。
方向は正反対だが、両者が要求しているものは同一である。対象を細部まで観察していなければ、100個の悪口も20個の褒め言葉も出てこない。長谷川氏が「怒れない上司というのは、要するに人のことを見ていないんですよ。だから怒る以前の話」と述べたのは、まさにこの点だった。
ここで長谷川氏はもう一段接続した。批判的思考ができない人はAIも使えないしプロンプトも書けない。さらに、講師のような人物から引き出しをいっぱい開け出すことも、そういう思考があったうえでしかできない。人の本音を聞き出す――営業で言えば、顧客の見えていない本音をどう見出すか。講師が「インサイトの部分ですか」と確認し、長谷川氏が「インサイトですね」と応じた。そういうものも批判的思考がないと出てこない、というのが長谷川氏の結論である。
中川氏が終盤に提起した論点――日本で言われる「批判的思考」と、自身が学んだクリティカルシンキングのニュアンスが違う――は、日本語圏の教育・人材開発の解説でも繰り返し指摘されている点である。クリティカルシンキングは「適切な根拠や基準に基づいて結論を吟味する思考」であり、誤りを指摘するための否定的な思考ではない。情報を無条件に受け入れず、客観的な視点から分析し、本質を見抜く思考技術として説明される。その本質は根拠・基準・結論を吟味してより適切な結論を導くことにあり、あら探しを目的とするものでは決してない、というのが標準的な整理である。
したがって訳語そのものが誤訳というより、「批判」という日本語が持つ日常的な語感(=非難)が、学術用語としての「批判」(=吟味・検討)を覆い隠していると見るのが正確である。講師が「英語で喋るならクリティカルシンキング・ベースで喋る」「これが日本語のダメなところ」と述べたのは、この語感の問題を指している。この誤解の一般性は、講師のこの日の処方箋「悪口を言え」が、文脈なしに受け取られると正反対の方向に作用しかねないことも示している。
批判的思考の話は、そのままAIへの信頼度の話に折り返した。講師の判定は明快である。AIに対して信用性が高すぎるやつほど危ない。そして、コミュニケーションの中で最も必要な「バグ」をどう見つけるかを考えると、AI以外と会話する癖をつけていかないと批判的思考はどんどん失われる。
長谷川氏はこれを日本の教育文化の問題として引き取った。以前GPT-5が導入されたとき、GPT-4.5からかなり答えが厳しくなったという話があって笑った。だがそもそもAIが言っていることを全部信用していること自体が間違いであり、それを信用してしまうことが根本の問題ではないか。特に日本の教育においては、先生が言うことがすべてであり、先生の言うことに反論するというのは、ずっとなかった。目上の言うことを聞け、という前提が長く続いてきた。だから企業においては、AIを使うのはいいがAIの言うことを全部信じるな、という教育をOJTを使いながらやるしかない。
講師の返しは、必要な能力の特定だった。AIに反発できるほどの能力は、多分知識量になってくる。あとは想像性。この2つがないと批判的思考まで結びつかない。そして「AIに相談しているやつがいるが、そいつは友達がいないやつなんですよ」という一言を投げ、長谷川氏が「根本的には自分の価値がないことを証明しているようなもの」と応じ、講師が「そう、鏡なんで」と受けた。
講師の予測はこうである。思考が停止したとき、デバイス依存が起きる。携帯電話のデバイス依存が起き、携帯なしでは話せなくなったのと同じ構造で、AIなしでは話せなくなる。「今、壁打ちをAIばかりでやっている人がめちゃくちゃいる。もう最悪です」――これがまさに末期の状態である、と。長谷川氏は「危険ですね」と応じつつ、「でも確かに、もっともっとそういう風になっていくんだと思います」と現実の趨勢を認めた。
そして講師が挙げた既視感のある例が、この節で最も刺さる指摘だった。「〇〇さんが言っていたから、という理由がよくあるじゃないですか。あれがまさにAIで起きているんですよ、もうすでに現代で」。長谷川氏は「他社はどうなんだ、他はどうやっているんだ、そういうことばかり」と重ねた。権威の参照先が人からAIに置き換わっただけで、思考の構造は何も変わっていない、という診断である。
締めくくりに講師が置いた一文――「うまく利用していると思ったら、実はうまく利用されていた、という状態になっているのが大抵なのではないか。携帯電話をうまく利用していると思いつつ、ほとんどが利用されている側であるのと同じ」。
この議論には、AIの言葉を裏付ける形で長谷川氏から上場企業の統治の話も出た。上場会社であればトップは投資家に話をするので、質の低い経営については次から議決権行使の支持が得られなくなる、という牽制が働く。ただしそれ以外のところでは、そうした牽制が働かない。そこをどうやるか、戦術的にやるか戦略的にやるか、という論点が残る、と。
この回で最も先の話をしていたのが、人間同士の会話の価値についての議論である。講師の見立てはこうだった。AIが生まれれば生まれるほど、人間との会話自体が嗜好品になる。そして嗜好品に価値があるということは、嗜好品だからこそ価値がなければいけないということでもある。
その条件として挙げられたのが、コミュニケーションの円滑さ、出せるフィードバック、インプットとアウトプットの円滑さである。これらが伴わなければ、そもそも嗜好品にならない。したがって面白くない人間は全部排除される、という結論に接続する。
この話が具体例として最も分かりやすく展開されたのが、介護業界だった。介護はAIロボットがやり始めるだろう。そうなったとき、たまに訪問してくれる人が面白いかどうかが、ものすごい価値になる。ロボットが日常の介護を担い、たまに人間の見回りが来る。そのときその人がどれだけ面白いか。会話のコミュニケーションそのものが嗜好品になる。「出されるコーヒーがつまらない、まずい人間なのか。面白いね、美味しい人間なのか」――講師の比喩である。長谷川氏は「まさにそこですね。一番バリューアップのところだと思います。そういう方がいらっしゃったら給料を何倍も高く上げないといけない」と応じた。
中川氏がここで実務の観察を持ち込んだ。海外の会社では、最終的に採用する際に「この人と一緒にやっていけるかどうか」という、判断基準をどこに置いたらいいのか分からないような基準で最終判断をする。AmazonでもAppleでもそうだったと思う。AIを駆使していても、そのヒューマニティ・感性のところは人間が取っているのではないか、と。
講師の応答は、業界を特定するものだった。それを最もやっているのはアメリカの銀行業界である。どんなに技術があろうが知識があろうが、コミュニケーションがしっかり取れる人間でなければ入れない、と明言している。ジェイミー・ダイモンがはっきりそう言っている。「人の能力は基本的にある程度平均化されてくる」と言っているからこそ、想像性やコミュニケーションが決定的に重要になる、という論理である。ゴールドマン・サックスもJPモルガンも2年前からそうだ、と。
長谷川氏はこれを「もっと前からやっています」と補正し、現場の実態を語った。朝に100人ほどが集まる。まず順番取りである。今日誰がプレゼンするかを取り合う。そこで同僚からの総合評価が出てくるので、面白いかどうかも当然あるし、新たなリサーチや新たな視点で物を言っているから面白い、という評価もちゃんと書かれる。発言しないのはもちろんダメで、定性的なところは当然評価に組み込まれている。プレゼンは3分。朝一番のくそ忙しい時間にくだらない話をしたら、次は絶対に出してもらえない。
ジェイミー・ダイモン(JPモルガン・チェースCEO)がソフトスキルの重要性を強調していること自体は事実として確認できる。彼は「AIは仕事を消滅させるが、感情知性(EQ)やコミュニケーション、文章力といったソフトスキルを持つ人には十分な仕事がある」と述べ、具体的な助言として批判的思考、EQ、会議で価値を出す力、コミュニケーション、書く力を挙げている。また以前から「良い質問をし、競合・顧客・自分自身の失敗から学ぶ人が有効なリーダーである」とも述べており、これらのスキルは銀行に限らずあらゆる分野で重要だと主張している。講義中の描写と方向性は一致する。
ただし時系列に注意が必要である要確認。今回確認できたダイモンのこの趣旨の発言報道は2025年12月11日以降のもので、この勉強会(2025年12月4日)より後にあたる。したがって講師が参照していたのは、それ以前の別の発言か、業界内での認知である可能性が高い。「2年前から」という講義中の表現が指す具体的な一次発言は、今回の調査では特定できなかった。ただしダイモンの一貫した主張の方向性そのものは、後日の報道によって追認される形になっている。
なお講義中に触れられたドッド=フランク法の規制緩和と、大手投資銀行が銀行業務よりファンド的な収益構造へ寄せていくという文脈については、この回では詳細が展開されていない。ここは別途の検証が必要な論点として残る。
青木氏が実務的な問いを投げた。批判的思考を社内教育でやるなら評価にもその観点を入れなければならず、そうなると「AIが言うことと反することをしてもいい」という内容を入れる必要がある。ということは人事にAIを入れないほうがいいということになるのではないか、と。
講師の答えは分業だった。人事はあくまでパラメーター、つまり能力値を見るという点では必要である。問題はどこまで入れるかにある。そして批判的思考について、講師は判定基準を一段絞り込んだ。批判的なものは何でもいい。問題は、そこに想像性があるかないかだけである。そして青木氏本人に向けて「一番の弱点は、面白いか面白くないかというところで面白くない人間なので評価されない」「これが批判的思考で、想像性が面白いのであれば、僕はありだと思っています。それこそまさに想像性だから」と、直接的なフィードバックを返した。
青木氏は「そうすると、面白いか面白くないかは人間でなければ判断できない」と確認し、講師が肯定した。定量的なパラメーターで評価しつつ、定性的な面は人間が判断する――これがこの日の評価設計の結論である。そして講師は青木氏に、この日で最も端的な宿題を出した。「だから面白くなってください。まず、あなたの目標はそこだけです。面白い人間になる」。
この日の最後、講師は自分自身の実践として批判的思考の適用例を示した。前回作ったフレームワークの資料を、講師は会員全員には渡していない。一部のメンバーにだけ渡している。その理由が、この節の核心である。
第一に、100%鵜呑みにされると困るから。出さない理由として考えていたのは「必ず穴があるだろう」ということであり、あくまであれは参考物である、という位置づけだった。第二に、より積極的な理由として、そのボトルネックを自分で見つけられたときに、はじめて説明できるから。渡す相手の条件は、資料の内容を説明できることである。「マイキーの非道徳(=運営チャンネル)に出しているのは、みんな説明できるメンバーだから」。
会員全員に投げたらどうなるか。絶対に説明できない。説明できない状態であれを投げれば、それ自体がリスクになる。間違った方向に行くし、修正がつかなくなる。だからマイキークラブの一部メンバーには投げているが、「欲しいです」と言っただけの人には絶対に渡さない、と講師は明言した。
講師が資料を渡す条件として挙げたのは3点である。第一に、プレゼンテーションがうまくなること。第二に、人を納得させられること――センスメイキング理論でいう納得性を高めるコミュニケーション能力。第三に、それを人に説明して納得させられるだけの知識を得ること。「参考にしたいです、だったらしなくていいです」というのが講師の線引きだった。基本的なところを理解して言語化し説明できること、加えてそれを伝える能力があるかどうか。この2つが揃って初めて渡す、という設計である。
そして講師は、自分自身への適用を明かした。「大抵の人はフレームワークができたら、俺のフレームワークはすごいぜ、で終わっているんですけど、僕は作ってからずっと批判的思考で何が穴かをずっと見ていたんですよ」。その結果、第2カテゴリーの2番と3番が最大のボトルネックだと見つかった。だから今日それを話した、と。さらに「もう徹底的に自分の作ったやつに対して悪口を言いまくっています」「トライアンドエラーは重要なので」「数時間でパパッと作ったものに、そんなの穴しかないに決まっているじゃないですか」と続けた。
この自己適用は、講師がこの日、前田氏の指摘を「めっちゃいい視点」と評価した理由とも接続する。前田氏はこの日の話がイノベーションから入っていたために腑に落ちなかった。講師はその引っかかり自体を、批判的思考が働いた証拠として扱った。「今日だって前田さん自身がこの穴を見つけてきたわけじゃないですか。これも一つのポイントなんですよ」。そして、その指摘に対してきちんと説明して納得してもらえたことを、両者の合格ラインとして示した。
この回の処方箋は、そのまま社内研修に持ち込むには扱いが難しい。長谷川氏が「実際に企業に提案すると大概の経営者は怖がって用意しない」と述べたとおりである。しかし講師自身が最後に置いた条件を読めば、この処方箋は既存の思考訓練の枠組みに翻訳できる。
講師の条件は次の3点である。第一に、感情論ではなく合理性があるかどうか。第二に、ロジックが立っているかどうか。第三に、相手を否定するわけではないこと。そのうえで講師は「他人に悪口を言うのが一番簡単なロジックなんですよ。私はあの人が嫌いだ、なぜならば、と言えるから」と述べ、逆に「他人の悪口をロジカルに喋れなかったら、それこそやばいやつなんです」と締めた。
これを標準的な言葉に置き換えれば、「主張に対して必ず理由を接続する訓練を、最も動機づけの強い題材で行う」ということになる。クリティカルシンキングの標準的な定義――根拠・基準・結論を吟味してより適切な結論を導く――と、実は矛盾しない。むしろ「無理やり反論を作れ」という一般的な訓練よりも、動機づけの面では実行されやすい。ただし研修として設計するなら、対象を人ではなく資料・企画・自社の戦略に置き換えるのが安全である。講師自身がこの日やっていたのは、まさに自分の資料を対象にした版だった。
締めくくりとして、講師は自分のYouTubeでの実演を予告した。1週間から10日後に公開予定の回で、トランプ大統領とホワイトハウスが提示している金額がどれだけ嘘かを扱う。「明らかな嘘がむちゃくちゃあるが、誰もメディアも言わないので、それを全部数字の中で分析してデータで出す」。トランプが言っていることをどこまで信用できるか、ホワイトハウスに記載されている数字はすべてはったりである、と。そこをしっかり観察できる洞察力があるかどうか――これが批判的思考の実物である、というのがこの日の最後のメッセージだった。
講師が予告した「ホワイトハウスが提示している数字がすべてはったり」という主張については、対象となる具体的な数値や政策が講義中に特定されていないため、本レポートでは真偽を判定できない要確認。当該のYouTube回が公開された後、提示されたデータと一次資料(ホワイトハウス公表値、および対応する統計機関の原データ)を突き合わせて各自で検証するのが、この日の宿題に最も適した実践になる。講師の主張自体を鵜呑みにするのは、この回が批判した態度そのものであるという点も含めて。