STUDY REPORT / 2025年12月度 勉強会

快楽計算とサブスク設計 ――19世紀の「幸福の数値化」がなぜ解約防止の設計図になるのか

ベンサムは幸福を足し算した。ジェボンズはそれを「どこで止めるか」の問題に置き換えた。この一段の飛躍が、Netflixが新作を出し続け、Amazonが配送無料を捨てない理由をそのまま説明してしまう。理論講義と、その場で行われたビジネスへの翻訳の記録。

EXECUTIVE SUMMARY

「総量を測る」から「限界で止める」へ

1871
ジェボンズ『経済学の理論』刊行年
総量 vs 限界
ベンサムとジェボンズを分ける一点
4 → 3 → 2 → 1
おにぎり4個で説明された限界効用逓減
効用 / 不効用
価値と費用に接続する2本の線
月額費 < 限界効用
サブスクが解約されない条件
人間 → 消費者
功利主義が経済学になるときの縮小

この回の理論講義は、限界革命の三人目としてウィリアム・スタンレー・ジェボンズを扱ったものである。すでにメンガーとワルラスは終わっていて、講師は「事実関係は二人で出てしまっている」と断ったうえで、ジェボンズ固有の視点だけを取り出すという構成を選んだ。その視点とは何か。講師の答えは、観察したものを理論化し、その理論を実務にダイレクトに適用する、という往復の姿勢である。メンガーが概念、ワルラスが数式、そしてジェボンズが観察と適用。三人を並べる軸がここで初めて明示された。

講義の中身は、しかし、ジェボンズ単体では完結しない。講師が背景として持ち出したのはジェレミー・ベンサムの功利主義だった。ベンサムは幸福を数値化し、快と苦を足し引きし、社会全体の幸福量を計算しようとした。ジェボンズはその計算装置をほぼそのまま引き継ぎながら、対象を社会から個人へ、そして個人から消費者へ絞り込んだ。効用(ユーティリティ)と不効用(ディスユーティリティ)という一対の概念を立て、効用は価値へ、不効用は労働を経由して費用へと接続させる。満足度は下がりやすく、費用は上がりやすい。この二本の線が交差するところで価格が決まる、というのが講義の到達点だった。

ここに渡辺氏が加わって議論が一段深くなる。ベンサムが「人間」や「国家」や「法」という抽象的な対象に向けて幸福を論じていたのに対し、ジェボンズは対象を「消費者」に限定した。この対比を置くと、両者が同じ功利主義でありながら決定的に違うことが見えてくる、という整理である。さらに渡辺氏は、この限定によって質的な議論が排除され、量的な議論だけが残り、経済学が近代科学の方法論を手に入れたと述べた。そして、その代償として何が死んだのかを名指しする。政治的効用である。ギリシャ以来分けて論じられてきた人間の経済的領域と政治的領域が、この時代に経済の側へ一括して押し込められた――そこまで踏み込んだ発言があった。

後半、主宰者が理論を実務へ翻訳する。題材は映画『ダークナイト』を5回観るという設定である。ベンサムなら5回分の点数を合計して「たくさん観たほうが幸福量が大きい」と言う。ジェボンズなら「3回目でチケット代に見合わなくなるから、そこで止めろ」と言う。この違いをそのままサブスクリプションに当てはめると、Netflixが新作を投下し続ける理由も、Amazonプライムが配送無料を手放さない理由も、TikTokやSpotifyが未知のコンテンツを差し込んでくる理由も、すべて同じ一つの式で説明できてしまう。限界効用が常に月額費を上回るように設計する。これが解約されないサービスの正体だ、というのがこの回でもっとも実用的な結論だった。

この回を貫く1本の線

幸福を「足し算できるもの」だと考えた瞬間に、幸福は設計できるものになる。ベンサムはそれを社会政策の基準として使い、ジェボンズはそれを価格決定の基準として使った。そして現代の事業者は、それを解約されない構造の設計図として使っている。理論の話をしているようで、これは終始「どこまで金を払わせられるか」の話だった。

PART 0

プレゼンが下手なら、プロダクトが良くても存在しないのと同じ

本編前の雑談は、参加者の一人が投資家向けに同席したスタートアップのプレゼンテーションについての事後報告から始まった。内容は容赦がない。CEOもCOOも抑揚のない棒読みで、通訳を挟んだため実質30分しかない持ち時間のなかで、なぜこの事業をやりたいのかというナラティブが最後まで出てこなかった。ロードマップは抽象的で、財務モデルは「Excelでぽんと作ったような」水準。各国のレギュレーションが違うクリニック事業でありながら、その差分をどう突破するのかというストーリーが提示されなかった。結果として投資家側から先に「もういいです」と打ち切られた、という顛末である。

この報告のなかで一つ、実務的に重要な指摘があった。当該経営者の経歴にブロックチェーン開発が入っており、投資家が事前に調べてそこを突いてきたという件である。「ブロックチェーンをやったことはあまり言わないほうがいい」「関わり方がよろしく見えないので、むしろ伏せたほうがいい」という助言が交わされた。興味深いのは、その投資家自身がブロックチェーン系の案件に資金を入れている当事者であり、だからこそ「プロには通じない」と判断できる立場にあった、という構図である。経歴の見え方は、読み手が誰かによって180度変わる。

雑談の結論はきわめて単純だった。プロダクトが良くてもプレゼンが下手なら意味がない。逆に、悪いものを作っていてもプレゼンが決まれば売れてしまう。「結局商品の質とかどうでも良くて、プレゼンさえなんとかなっときゃ、なんとか買わせちゃう」――この身も蓋もない観察が、後半のQ&Aで出てくる「一度マイナスに落としてから上げる」という手法の話へまっすぐ繋がっていく。

「1ヶ月で1年分の売上を上げて、残り11ヶ月は自由」という設計

もう一つ、主宰者自身の事業運営スタイルが語られた。1月中旬までに1年分の売上を達成し、残りの11ヶ月は何もしない状態を作る、というものである。理屈は損益分岐点の操作にある。分岐点を十分に下げておけば、売上が小さくても利益は残り、キャッシュフローも残り、利益率はむしろ上がる。だから短期間で一気に上げて、あとは放置する。数億から十数億規模までなら数ヶ月で1年分の目標利益は上げられる、という前提が置かれていた。飲食店のような固定費構造ではこの方式は使えない、という留保も添えられている。

この話は雑談として流れたが、後半の理論と無関係ではない。「お金のことを1〜2ヶ月だけ考えて、あとは無視する」という発想は、時間あたりの効用を最大化しようとする振る舞いそのものであり、ジェボンズが労働の不効用として定式化したもの――働く時間が延びるほど同じ賃金では働かなくなる――の、経営者側からの実装例として読める。

PART 1

ジェボンズという人物――科学・数学・気象観察が一人に同居する

講師はまずジェボンズの経歴から入った。大学で科学と数学を専攻し、その後の仕事で気象観察を行っている。この組み合わせが重要だ、というのが講師の見立てである。物質を実際に見る目があり、数学的な概念を理論化する頭があり、さらに「単純に観察して記録する」という作業を職業として経験している。ジェボンズの理論は、この三つが結びついたところから出てきたのではないか、と。

📌 Claude補足:ジェボンズの経歴と著作

人物:ウィリアム・スタンレー・ジェボンズ(William Stanley Jevons, 1835–1882)。イギリスの経済学者・論理学者。

経歴:ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジで化学・数学を学び、学業半ばでオーストラリアへ渡り、シドニー造幣局で試金官(assayer)として勤務した。この時期に気象観測に関する論文を複数発表している。講義の「科学と数学を専攻し、仕事で気象観察をやっていた」という説明は経歴として正確である。

主著:『経済学の理論(The Theory of Political Economy)』1871年。カール・メンガー『国民経済学原理』(1871年)、レオン・ワルラス『純粋経済学要論』(1874年)とほぼ同時期・独立に限界効用理論に到達し、この三者をもって「限界革命」と呼ぶ。

もう一冊:『石炭問題(The Coal Question)』1865年。ジェボンズを経済学者として世に知らしめたのはこちらで、いわゆる「ジェボンズのパラドックス」の出典でもある。ただし本レポートではパラドックスそのものには立ち入らない(この勉強会シリーズでは別回で扱われている)。

余談:気象観察の延長で、ジェボンズは景気変動を太陽黒点の周期と結びつける「太陽黒点説」を提唱している(『The Solar Period and the Price of Corn』1875年)。今日では支持されていないが、観察データから法則を引き出そうとする彼の性向を示す例として本セッションの議論と符合する。

出典:https://www.britannica.com/money/William-Stanley-Jevons / https://www.econlib.org/library/Enc/bios/Jevons.html / https://en.wikipedia.org/wiki/The_Coal_Question

「エコノミー」という言葉をめぐる一言

講義の終盤、講師は「この人はエコノミーという言葉を作ったとも言われている」と述べた。この点は事実確認が必要な箇所である。

📌 Claude補足:発言と公開情報の食い違い

発言:ジェボンズが「エコノミーという言葉を作った」。

確認できた事実:語としての economy/oikonomia はギリシャ語(家政)に由来する古い語であり、ジェボンズが創ったものではない。ジェボンズが行ったのは、学問の名称を political economy(政治経済学)から economics(経済学)へ改めるべきだという主張で、『経済学の理論』第2版(1879年)の序文でこれを明示している。名称としての economics を決定的に定着させたのはアルフレッド・マーシャル『Principles of Economics』(1890年)である。

したがって「言葉を作った」は不正確だが、「political を外して economics と呼べ」と最初に強く主張した一人という意味では、発言の趣旨は的を外していない。なお、カール・メンガーの1871年の著書も原題は Grundsätze der Volkswirtschaftslehre であり、英訳題 Principles of Economics として「political」を外した先例にあたる。

この差は些細に見えるが、講義後半の渡辺氏の議論――政治的領域が経済的領域に吸収された時代だった――とちょうど重なる論点なので、混同したまま流さないほうがよい。

出典:https://www.britannica.com/money/Alfred-Marshall / https://en.wikipedia.org/wiki/Principles_of_Economics_(Marshall_book)

PART 2

ベンサムの快楽計算――幸福を足し算する装置

ジェボンズが「幸福の数理化」を掲げたとき、その背景にあるのはベンサムだ、というのが講師の中心的な主張である。ベンサムの有名な標語「最大多数の最大幸福」を出発点に、講義は快楽計算(hedonic calculus)の構造を分解していった。

手順はこうである。まず幸福を数値化する。次に、数値化した幸福の総量を測る。一人ひとりの幸福を合計すれば社会全体の幸福量が出るはずだ、という前提が置かれる。ここで講師が注意を促したのは「快楽」という訳語のニュアンスである。原語のヘドニックが指しているのは、喜び・快楽・満足感といったポジティブな感情全体であって、日本語の「快楽」が帯びる狭い語感ではない。社会全体のポジティブな感情をどれだけ高めているか、それを判断の指標にしよう――これが功利主義の骨格だと整理された。

そして計算式が示される。一人あたりのポジティブな感情に人数を掛け合わせればプラスの幸福量が出る。プラスがあるということはマイナスもある。苦痛(ペイン)に人数を掛ければマイナスの幸福量が出る。両者を足し合わせれば社会全体の幸福量が見える。ベンサムはこれを組織や社会の方針決定の基準として使おうとした。そして講師は、その視点は組織から個人へも切り替えられると述べる。個人の満足度、個人のポジティブな感情がもっとも高まる方向に行動を決定する――快楽計算は個人の行動原理としても機能する、と。

📌 Claude補足:ベンサムと「最大多数の最大幸福」の出所

人物:ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham, 1748–1832)。イギリスの哲学者・法学者。主著『道徳および立法の諸原理序説』(An Introduction to the Principles of Morals and Legislation, 1789年)。快苦を計測して立法の基準にしようとする功利主義の体系化者。

快楽計算:felicific calculus(=hedonic calculus)。強度・持続・確実性・遠近性・多産性・純粋性・範囲という7つの要素で快苦を評価するという枠組みで、講義で説明された「プラス×人数+マイナス×人数」はその簡略版にあたる。

「最大多数の最大幸福」の出所 — これは講義では触れられなかったが、事実として付記しておく価値がある。この句を最初に用いたのはベンサムではなく、フランシス・ハチスン『美と徳の観念の起源』(1726年)であり、チェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』(1764年)でも使われている。さらに、ベンサム自身は晩年の未公刊草稿でこの定式の「最大多数」の部分を撤回している。ベンサムの代名詞として広く流通しているが、彼の発明でも、彼が最後まで維持した定式でもない。

出典:https://plato.stanford.edu/entries/bentham/ / https://philosophybreak.com/articles/the-greatest-happiness-of-the-greatest-number-what-bentham-really-meant/

PART 3

効用と不効用――満足は下がり、費用は上がる

ジェボンズが置いた前提はきわめてドライである。人は本能的に動き、かつ利己的に動く。この二つに沿って合理的に動く。したがってジェボンズの言う合理性とは、本能に従い利己的に動くことを指す。自分にとって最もプラスな感情に向かう方向へ動く――それが合理的だ、という解釈である。

この前提のうえに、効用(ユーティリティ)と不効用(ディスユーティリティ)の一対が置かれる。不効用はポジティブな感情を打ち消すように働く。プラスとマイナスという形で計算可能だと捉えればよい。そしてここからが接続の要になる。効用は価値につながり、不効用は労働を経由して費用につながる。

限界効用逓減――おにぎり4個の話

効用側の説明は、この勉強会で繰り返し使われてきたおにぎりの例で行われた。満腹になるまでにおにぎりを4個食べるとする。1個目の満足度が4なら、2個目は3、3個目は2、4個目は1と下がっていく。これが限界効用逓減の法則である。効用は減りやすいという特徴を持つ。

労働の不効用逓増――同じ仕事でも2時間目は高くつく

不効用側は労働で説明された。労働時間が延びれば延びるほど、賃金が上がらないと働かなくなる。講師の数値例はこうである。働く時間が1時間なら時給500円でも働く。同じ労働を2時間に延ばすと、今度は時給1000円でないと働かない。つまり労働時間が長くなるほど、同じ労働・同じ時間でも賃金が上がらなければ働かなくなっていく

この二つを合わせると何が起きるか。商品は賃金で買われる。一方、商品の価格は労働賃金が上がるほど上がっていく。すると、この二つで調整されてしまう。商品価値は消費者の満足度の側から見れば下がりやすく、費用の側から見れば上がりやすい。ここに逆行する二本の線が生まれ、その交差点で価値が決まり、価格が決定される――というのが講義の結論だった。青い線が効用、赤い線が不効用として板書された。

効用(下がる)と不効用(上がる)の交点で価格が決まる — 講義の板書をClaudeが再構成した概念図。数値は説明用の例示であり実測値ではない

📌 Claude補足:限界効用逓減の「先取権」問題補足事項

限界効用逓減の法則をジェボンズ・メンガー・ワルラスの功績として語るのは一般的だが、厳密には先行者がいる。ドイツのヘルマン・ハインリヒ・ゴッセン(Hermann Heinrich Gossen, 1810–1858)が1854年の著書『人間交易の法則の展開』で、同じ趣旨の法則をすでに定式化していた(今日「ゴッセンの第一法則」と呼ばれる)。

重要なのは、ジェボンズ自身がこれを認めたことである。ゴッセンの仕事を知った彼は、『経済学の理論』第2版(1879年)の序文でゴッセンの先取権を明記した。限界革命の「同時発見」という物語は、実際には20年以上前に埋もれていた先行研究を三人が別々に掘り直したものだった、という含みがある。

出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Gossen%27s_laws

PART 4

渡辺氏の応答――「人間」から「消費者」へ縮小したときに死んだもの

講義を受けて渡辺氏が示した整理は、この回でもっとも密度の高い部分だった。要旨は次のようになる。

ベンサムが幸福を論じるとき、その対象は法であり、国家であり、人間という抽象的な存在だった。ジェボンズはその同じ枠組みを引き継ぎながら、対象を消費者が求めるものへと限定した。「効用が得られないこと」を苦痛とみなし、それによって価格を説明する。同じ功利主義でありながら、ベンサムとジェボンズを「人間」と「消費者」という対比で見ると、両者の関係が非常によく見える――という読み方である。

この限定によって何が起きたか。質的な議論が排除され、量的な議論だけが残った。渡辺氏は、19世紀という時代がすでに産業化を経て、量的な対象として捉えられる「一般的な消費者」の生活が営まれていた時代背景を挙げる。だからこそ、価格説を再現するものとして数理的モデル化が可能になった。近代経済学の基盤はここに置かれた、と。

熱力学とのアナロジー

議論は科学史の側へ広がった。ジェボンズが「科学」という言葉を使うとき、それは18〜19世紀の科学革命――マクスウェルの電磁気学、場の理論――が生まれた時代の科学であり、その物理モデルが市場という「場」の記述へそのまま流れ込んだのではないか、という見立てである。効用の逓減や均衡といった概念は熱力学との相同性が高く、均衡をエントロピーで叩けば自然科学との関連性が見えてくる、という指摘が講師の側からも出た。渡辺氏はこれについて、電磁気学をアナロジーとして用いた論文を読んだことがあると応じている。

📌 Claude補足:この直観は学説史的に裏づけがある

「限界効用理論は19世紀物理学の借用ではないか」という議論は、経済思想史の分野で確立したテーマである。代表的なのはフィリップ・ミロウスキー『More Heat than Light』(1989年)で、新古典派経済学が19世紀のエネルギー物理学(とりわけ場の理論とラグランジュ形式)の数学的枠組みを移植して成立したと論じたもの。効用を「エネルギー」、価格を「ポテンシャル」に対応させる構図が実際に指摘されている。

ジェボンズ自身も『経済学の理論』のなかで、経済学を「快楽と苦痛の力学(mechanics of utility and self-interest)」と表現している。セッション内で自然発生的に出た熱力学とのアナロジーは、思いつきではなく学説史上の主要論点と一致している。要確認 ただしミロウスキーの主張は学界内で批判もあり、「借用か、独立した並行発展か」については決着していない。

出典:https://www.britannica.com/money/William-Stanley-Jevons / https://en.wikipedia.org/wiki/Marginalism

「政治的効用が死んだ」という指摘

渡辺氏の発言でもっとも尖っていたのはここである。本来ギリシャ以来、人間の経済的領域と政治的領域は分けて議論すべきものだった。それが限界革命の時代に、経済的領域の側へ一括して押し込められる。個人の政治的な支配力や、政治的な場で自己実現を求めるという回路が、経済的な場へシフトした。「ある意味この時代で、個人の政治的効用は死んでいる」という言い方がなされた。

そしてもう一段。この移行によって、経済学者が知識人になったという命題が提示される。それまで知識人の役割は、社会の目的性と社会の功利的側面を結びつけることにあった。社会が向くべき方向と、実際に市場で起こっている現象とを接続する存在――それ以降、その役割を経済学者が担うようになった。渡辺氏はこれをマックス・ウェーバー的な役割理論に近いものとして位置づけ、「知識人とは矛盾を解決する存在、矛盾の側に立つ存在」だと述べたうえで、経済学者は抱えなければならない矛盾を理論の内側に引き受けたのだ、と結んだ。他の学問は自分たちの合理的な世界の中に引きこもった、という対比が添えられている。

この整理が実務にとって持つ意味

「経済現象を数量的に測定することの重要性」が確立すると、それ以降は数量的に測定すること以外の道が閉ざされる。渡辺氏の指摘の核心はここにある。測れるものだけが議論の対象になり、測れないものは学問の外へ出される。この構造は現代の企業経営にそのまま反映されている。KPIで測れる価値だけが会議の議題になり、測れない価値は「定性的」という名で議事録の末尾に追いやられる。19世紀に起きたこの選択の帰結を、いま毎日反復している。

PART 5

『ダークナイト』を5回観る――理論をサブスク設計へ翻訳する

ここで主宰者が議論を引き取り、参加者の一人に「一番好きな映画は」と聞いたうえで、その場で理論をビジネスへ翻訳してみせた。設問は単純である。『ダークナイト』を一般の人が観るとして、1回目が100点なら2回目は何点か。返答は80〜70点、3回目は50点、4回目は40〜30点、5回目は20点。合計およそ270点。

ベンサムの読み方

5回分の点数を合計する。1回だけ観た100点より、5回観た270点のほうが幸福の総量は大きい。したがって5回観るのが正しい。総量(=量)で判断する。

ジェボンズの読み方

4回目はチケット代1800円に見合わない。見合わないなら帰ったほうが利になる。1回目の1800円と4回目の1800円は別物である。どこまでなら払う価値があるかを問い、3回目で止める。

同じ体験でも「累計」と「その1回」では答えが逆になる — セッション内の数値例(100/80/50/40/20点、チケット代1800円)をClaudeが作図

この対比を置いた瞬間に、サブスクリプションの設計問題が姿を現す。3回観たあとに4回目で帰ろうとしている顧客を、どうやってもう一度映画館に座らせるか。答えは「今日だけ新作の先行上映がある」という上乗せである。上乗せがあれば、もう一度1800円を払う価値が生まれる。

Netflix・Amazonプライム・TikTok・Spotify

同じ作品だけが置いてあるサービスは必ず飽きられる。だから新作を出し続ける。これがNetflixが契約を引き延ばす仕組みである。一方Amazonプライムは違う経路を使う。今月観たい映画がないなら映像の効用はゼロだが、それでも配送無料があるから契約したままになる。主宰者の言葉を借りれば、合計の限界効用が常に月額費を上回るように設計している。だから解約する必要が生じない。

TikTokとSpotifyのアルゴリズムも同じ論理で説明された。決まった音楽ばかり、興味のある動画ばかりを流していると効用は逓減して視聴が止まる。そこへ「この人はこういうものも好きなのではないか」という未知の提案を差し込むと接続時間が上がる。これが依存性の高いアルゴリズムの正体である、と。

そしてNetflixがそれをさせないために何をしているか。ゲームを入れ、スポーツを入れ、音楽コンサートを入れる。常に幸福値の最大点を見越して新しいサービスを展開し続け、顧客が「解約してもいい」と感じる地点にリーチさせないようにしている――という読み方が示された。

📌 Claude補足:Netflixの多角化は実際にどこまで進んでいるか

セッションで挙がったNetflixの施策は、いずれも実在する。事実関係を整理する。

共有アカウントの制限:2023年から世界規模でパスワード共有の取り締まりを開始。広告付きプラン:2022年11月開始。ゲーム:2021年11月にモバイルゲームを提供開始。

ライブスポーツ:2024年11月のジェイク・ポール対マイク・タイソン戦を皮切りに、2024年からNFLクリスマスゲーム、WWE Raw(2025年〜)を配信。2025年12月にはポール対アンソニー・ジョシュア戦とNFLクリスマス2試合を同週に編成。MLBの放映権も2026年から取得している。

アミューズメント施設「Netflix House」:2025年11月にペンシルベニア州キング・オブ・プロシア(フィラデルフィア近郊)で1号店が開業、2号店のダラス店はこの勉強会の翌日にあたる2025年12月11日に開業した。3号店はラスベガスに2027年開業予定。10万平方フィート超の規模で、内部のTUDUMシアター(229席)ではライブスポーツも上映される。

つまり「効用が尽きる前に別種の効用を足す」という設計は、Netflixにおいて比喩ではなく事業計画として実行されている。

出典:https://www.netflix.com/tudum/articles/netflix-house / https://www.prnewswire.com/news-releases/netflix-house-philadelphia-is-now-open-welcome-to-our-home-302613232.html / https://thestreamable.com/what-sports-does-netflix-have-boxing-nfl-celebrity-tournaments

講師からの補足――「良いものを作りすぎない」という戦略

翻訳を受けて、講師の側から一つ付け足しがあった。良いものを作ろうとする人は多いが、先に良いものを作れば作るほど効用は落ちやすい。ということは、効用を落とさないために、あえて完成度を段階的に上げていくやり方があり得る。Appleの戦略のすごさはこれで見えてくるのではないか、という指摘である。

さらに講師は、実務者が取るべき行動へ話を進めた。効用と支払額が釣り合う点(0対1)は自分の価値観でしかない。そこからマイナスへ転じそうになったときに新しいサービスを展開している事業者は他に何があるかをリサーチする。そのうえで自分のサービスがどこまで来ているか、むしろ飽きられていないかを考える。飽きられそうなら何を付け加えれば顧客を振り出しに戻せるか――これを考えるのがビジネスのアップデートだ、という整理である。

「難しい話を簡単にする」という能力について

この部分の終わりに、主宰者から参加者への強い注文があった。講師陣には今後もこれ以上に難しい話をしてもらってよい。なぜなら、簡単に話されたものには価値がなく、難しい話をどう簡単に置き換えるかという作業こそが言葉の力・サービスの力・理解力になるからである。「前田さんが難しい話をしている」「渡辺さんが何を言っているかわからない」と言って放置する人間は、一生その能力がつかない――という言い方がなされた。情報を因数分解して簡単な形に置き換えられなければ、そもそもリサーチができない、と。

Q&A

質疑応答

Q. これは、お客さんがマイナスの状態にいてそれをプラスにしてあげるサービスを考えるのか、それとも0の状態からさらにプラスへ持っていくサービスを考えるのか。どちらに影響しますか。

A. お客さんの状況によるので一概には言えない、というのが前置き。そのうえで実務的な答えが示された。0からプラスへ持っていくよりも、マイナスからプラスへ持っていったほうが期待度は大きくなり、金を払う。ではフラットな人をどうやってマイナスに持っていくのか。それがプレゼンテーションの仕事である、と。

「一度落として、その後に上げる」。あなたはマイナスの状態にありますと認識させたうえで、だからこれに価値がある、皆さんプラスへ持っていきましょうと繋げる。さらに、自分がマイナスだと気づいていない人もいる。それを気づかせてマイナスにした後で「でもプラスになるじゃないか」と示すと人は物を買う。「掘り出してあげるんですよ」という表現が使われた。PART 0のプレゼン批評――熱量とストーリーがなければ何も響かない――と、ここで一つに繋がる。

Q. 嫌われている人にテストさせるという方法ではなく、逆に批判的思考のアンケートを作って使ってもらうのはありですか。

A. 両サイドから攻めるのはあり。ただし批判的思考だけのアンケートを取ると、本当にダメなものだと認識されてしまう可能性があるので、技術的にはかなり際どい、という回答。中途半端な批判的アンケートを作ると、フォーカスがマイナス側に当たってしまい、顧客のマイナスを増大させかねない。

ここでアンケート設計そのものの構造が説明された。美容クリニックを例に取ると、必ず点数式にする。自分の肌が綺麗になったと感じても、どれくらい綺麗になったかは本人にもわからない。そこで施術前が7点、施術後に何点かを答えさせる。9点と書いた瞬間、回答者は自分で書いた数字によって「7点が9点になった」と認識する。アンケートフォームには言語化させるという目的があり、言語化した本人が自分で自己暗示にかかる。満足度を上げるためのアンケートの取り方が存在する、という話である。

この論点は本レポートの理論部分と直結している。効用(満足度)は本来、本人の内側にあって外から測れない。それを数値として言語化させた瞬間に、測定行為そのものが対象を変えてしまう。ベンサムが「幸福は計算できる」と前提したところに潜んでいた問題が、アンケート設計という実務の場でそのまま現れている。質問者は最後に「すごく難しいのでやめておきます」と応じた。

宿題・アクションアイテム

この回から持ち帰るべきこと

  1. 自分のサービスの限界効用曲線を描く。 顧客が1回目・2回目・3回目に感じる価値を、講義のダークナイト例と同じ形式で点数化してみる。何回目で支払額とつり合わなくなるかを特定する。
  2. 「振り出しに戻す」手札を用意する。 効用がマイナスへ転じる直前に何を上乗せするか。Netflixのゲーム・スポーツ・Netflix House、Amazonの配送無料に相当するものが自社にあるか。ないなら何を作るか。
  3. 他社が何を上乗せしているかをリサーチする。 効用が尽きかけたタイミングで新サービスを展開している事業者を業種横断で洗い出す。講師が明示的に指示した調査課題。
  4. アンケートを点数式に組み替える。 定性的な感想ではなく、施策前後の点数を回答者自身に書かせる形式へ変更したときに何が変わるかを検証する。ただし批判的思考を前面に出したアンケートは、フォーカスをマイナスに固定するリスクがあることを織り込む。
  5. 「限界」という訳語に引きずられない。 marginal は「その1単位ぶんの変化量」であって、上限や限度ではない。この読み替えができているかを、社内で使っている資料で確認する。
  6. 次回はマーシャル。 需要と供給を統合した人物として予告された。効用(需要側)と費用(供給側)の交点という本回の図が、そこで正式な形になる。
用語集

このレポートに出てきた用語

限界効用(marginal utility)追加の1単位を消費したときに増える満足度。「限界」は上限ではなく「その1単位ぶんの変化量」を指す。
限界効用逓減の法則消費量が増えるほど追加1単位あたりの満足度が下がる。おにぎり4→3→2→1の例。ゴッセンの第一法則(1854年)が先行。
効用/不効用(utility / disutility)効用はポジティブな満足、不効用はそれを打ち消す苦痛。ジェボンズは効用を価値に、不効用を労働経由で費用に接続した。
労働の不効用労働時間が延びるほど、同じ労働でも賃金が上がらなければ働かなくなる性質。供給側の費用の源泉になる。
快楽計算(felicific / hedonic calculus)ベンサムによる快苦の定量的評価法。強度・持続・確実性など7要素で評価する。講義では「プラス×人数+マイナス×人数」として簡略化された。
功利主義(utilitarianism)行為や制度の善悪を、それがもたらす幸福の総量で判断する立場。ベンサムが体系化。
最大多数の最大幸福功利主義の標語。初出はハチスン(1726年)で、ベンサム自身は晩年に「最大多数」部分を撤回している。
限界革命1871〜74年にジェボンズ・メンガー・ワルラスが独立に限界効用理論へ到達した転換。労働価値説から主観価値説への移行点。
ジェボンズ的合理性本能に従い、かつ利己的に動くこと。ジェボンズが前提とした行動原理で、現代の「合理的経済人」の原型。
ゴッセンの第一法則限界効用逓減を1854年に定式化したH.H.ゴッセンの法則。ジェボンズは1879年の第2版序文でその先取権を認めた。
政治的効用の死渡辺氏の用語。政治的領域で求められていた自己実現や支配力が、限界革命期に経済的領域へ吸収されたという見立て。
PVOD/サブスクリプション設計限界効用が月額費を継続的に上回る状態を人為的に維持する設計。新作投下・バンドル・アルゴリズムによる新規提案がその手段。