「広告費の投入量は売上と市場シェアの相関を作る」。経営戦略で長く語られてきたこの命題を、講師はオークション理論と行動経済学の二つの武器で反証しにかかった。勝者の呪い、自動入札、在庫の希少性、限界効用逓減、そしてアドフラウド——五つの経路で広告の限界を示したうえで、不景気に取るべき手は営業とプレゼンテーションであると結論づけた回である。
この日の後半は、マイキー氏が単独で行った講義である。テーマは「広告神話の崩壊」。開始前の説明によれば、直前に他所で登壇した際にバイアスがかかりすぎていると感じたため、この日はフラットにする必要があると考え、なぜ自分が営業を押しまくるのかという理由を全部喋る、という動機で組まれている。
攻撃対象となったのは、経営戦略の教科書で長く語られてきた命題である。広告費の投入量が売上と市場シェアの相関を作る——英語圏ではシェア・オブ・ボイス(発言量シェア)がシェア・オブ・マーケット(市場シェア)を獲得する、という言い方をされる。講師の主張は、これは理論的に否定可能であり、むしろマーケティングをすればするほど売上が下がる状況すら説明できる、というものである。その説明に使われたのがミクロ経済学のオークション理論と行動経済学の二つであり、結論として、需要が停滞している局面では営業とプレゼンテーションの合理性が説明できる、と述べられた。
論証は五つの経路をたどる。第一に、デジタル広告はRTB(リアルタイムビッディング)というオークション方式で取引されており、人気の高いセグメントほど競争が激化してクリック単価が跳ね上がる。しかしそのセグメントの購入率もLTVも誰にも分からない。不確実性の高い対象に多数が入札する構造は、オークション理論でいう勝者の呪いそのものである。広告費が上がるほど1人あたり単価が上がり、ROASは悪化する。第二に、プラットフォーム側の自動入札アルゴリズムはコンバージョン最適化を目的としており、クリック率の高い層へ集中的に配信する。単価が高くクリック率も高いところへ投げられる以上、追加投資1単位あたりのリターン(限界ROAS)はゼロへ収束するよう設計されている。金はプラットフォームに吸い上げられる。
第三に、広告価格は買い手の購買力ではなく在庫の希少性によって決まる。米国のテレビ広告で18〜34歳のリーチ単価が高騰しているのは、テレビを見る若年層が減って在庫が希少になったからである。日本のInstagramで高齢者向けのリーチ単価が高くなるのも同じ理屈で、人口構成上は高齢者が多いのに、Instagramの利用者は若年層に偏っているからである。第四に、広告効果には限界効用逓減が働き、初期段階・成長段階・飽和段階の三つのフェーズを持つ。そして好景気の市場では広告によって潜在需要を掘り起こせるが、不景気の市場では財布が硬く潜在需要を引き出しにくいため、飽和が早く訪れる。第五に、アドフラウドとMFA(広告収益最大化目的で作られたサイト)が存在し、インプレッションとクリックは伸びるがコンバージョンは低いという構造的な漏れが発生している。
この講義の骨格は「不景気の人の心理は氷である。溶けるのを待つのか、溶かしに行くのか」という一つの比喩に収束する。広告は溶けるのを待つ手段であり、営業とプレゼンテーションは溶かしに行く手段である。景気が良く消費者が探索型の行動をとっているときは、待っていても溶ける。しかし不景気には消費者が防衛型にシフトし、馴染みの高い製品に固執する。この状態で認知広告を打っても効果は激減する。だから予算をマーケティングから営業支援へ振り替える——これが講師の一貫した主張であり、自身が広告費ゼロで営業とプレゼンだけで事業を回している根拠でもある。
講義に入る直前、マイキー氏は当日の内容を選んだ理由を説明している。他所の主催者のイベントで登壇した際に、自分の話にバイアスがかかりすぎているのではないかという懸念を持った。だから今日の内容はフラットにしなければいけない。今日出席している人に対して、なぜ自分が営業を押しまくるのかという理由を全部喋ろうと思う——これが動機である。
つまりこの講義は「営業が大事だ」という結論を主張するためのものではなく、その結論に至る理論的な根拠を全部開示するためのものとして設計されている。講師自身が結論の部分だけを繰り返してきたことを問題視し、背後にあるオークション理論・行動経済学・研究データを開示して、反論可能な形に置き直そうとしている。この設計意図は、講義の最後に「今のやつを覆すような何かがあるのであればどうぞ」と反論を募る形で明示されている。
なお講義の冒頭で音声トラブルがあり、参加者からの指摘を受けてイヤホンに切り替えるやり取りがあった。また前半の共産主義・社会主義パートを担当した前田氏・渡辺氏も引き続き在席しており、講義後半では前田氏から重要な補足質問が入っている。
講師が板書したのは、次の命題である。「広告費の投入量が、売上と市場シェアの相関を作る」。米国ではこれをシェア・オブ・ボイス(SOV、発言量シェア)とシェア・オブ・マーケット(SOM、市場シェア)の関係として語る。広告をすればするほど市場シェアを獲得できる、という定説である。
これが本当なのか、というのが講義の出発点となる問いである。講師の立場は明快で、この命題は理論的に否定可能であり、むしろマーケティングをすればするほど売上が下がっていくことすら説明できる、というものだった。使う武器はミクロ経済学のオークション理論と行動経済学であり、この二つでおおむね説明がつく。
そして結論を先に述べる形で、需要停滞時には営業×プレゼンテーションの合理性が説明できる、と提示された。逆に言えば「広告費を増大させると売上が停滞する経済学的メカニズム」が存在する、ということである。
本レポートの読者にとって最も重要なのは、この命題をめぐって強力な反対側のエビデンスが存在するという事実である。講師の主張を評価するには、両方を並べる必要がある。
SOV=SOM側の実証研究。レス・ビネットとピーター・フィールドによるIPAデータバンクの分析は、ブランドの成長率がSOVとSOMの差(エクストラ・シェア・オブ・ボイス、eSOV)に比例するという関係を示している。eSOVを0%から8%へ引き上げれば、長期的に最大10%の利益成長が見込まれるというモデルが提示されている。Analytic Partnersの分析では、不況期に投資を増やしたブランドは増分売上が17%拡大し、逆に削減したブランドは平均18%縮小した。しかもその損失の3分の2はROIの低下ではなく投資額の減少に起因する、とされる。1981〜82年の景気後退期の600社を対象にした研究では、広告費を維持または増加させたブランドは、その後3年間で売上が375%成長したのに対し、削減したブランドは19%にとどまった。ケロッグが大不況期に広告予算を倍増させ、削減したポストからシェアを奪った事例、パンデミック期にP&Gとコカ・コーラが投資を維持してシェア・オブ・ボイスを高めた事例も、この立場を支持する典型例として挙げられる。
両者はどこで噛み合っていないか。この対立は、必ずしも一方が誤りだという話ではなく、前提条件の違いに帰着する可能性が高い。ビネット&フィールド系の研究は、主に大規模ブランドのブランド広告について、長期の利益効果を扱っている。一方、講師の議論は運用型デジタル広告のオークション単価と短期のROAS、しかも円安下の日本市場、中小企業や無形コンテンツ事業という条件下の話である。実際、講師自身が「大きなマーケティングをかけるのはちょっと待ってくれ」「少量の広告費用ならいい」と述べており、広告そのものの全面否定ではない。したがって読者としては、「自社の条件はどちらの前提に近いのか」という問いに置き換えて読むのが実務的である。
講師がまず理解を求めたのは、アルゴリズムの構造である。世界の広告費の大半はGoogle、Meta、Amazonの三社に集中している。そして取引の中核にあるのがRTB方式、すなわちリアルタイムビッディング——オークション方式である。
そこで登場するのが「勝者の呪い」である。定義は、真の価値以上の価格を支払ってしまうことである。講師は例として「30代男性・投資に興味あり」というセグメントを挙げた。広告主なら誰もが食いつくセグメントである。食いつくということは需要が大きい。需要が大きければ価格が上がる。いわゆる「良いリスト」と呼ばれるものである。
ここで講師が会員に投げた問いが核心を突いている。ではこのAさんの購入率はいくらか。このAさんのLTVはいくらか。答えは「分からない」である。誰も分からない。分からないまま、多数の広告主が同じセグメントに殺到する。米国ではこうした人気セグメントの1クリック単価(CPC)が60ドルまで上がった例がある、という数字が示された。
結果として何が起きるか。売上は発生する。しかし見なければならないのはROASである。単価が上がっているということは利益が薄い。だから広告費が上がれば上がるほど企業の収益性は悪化する。ここにパラドックスが生じている——これが第一の経路である。
勝者の呪いとRTBの関係。RTB業界において勝者の呪いは実際に認識された問題であり、ファーストプライス・オークションでのリアルタイム入札は、落札確率を上げない過剰な入札価格の適用によって無駄な支出を生むとされる整合。セカンドプライス・オークションでは落札者が2番目の入札額を支払うため真の価値での入札が促されるが、ファーストプライスへの移行後、広告主は過剰支払いをしやすくなった。競合が2ドルまでしか払う意思がないのに10ドルで入札すれば5倍を支払うことになるが、各オークションに何社が参加しているかという情報は、プログラマティック広告の誰も持っていない。この情報欠如を補うために「ビッドシェーディング」というアルゴリズム的手法が使われている。
CPC 60ドルという水準。米国の高単価キーワード帯では現実的な水準である整合。保険系キーワードの最高CPCは約54.91ドル、「auto insurance quote」「buy life insurance」等は60〜90ドルのレンジとされる。法務・保険領域では平均CPCが100ドルを超えるケース、人身傷害系のロングテール語で800ドルに達したという報告もある。高いLTVを持つカテゴリほど顧客獲得に高値を払う構造は、講師の説明と一致する。
広告主の三強。2025年の世界デジタル広告収益はGoogleが約2,140億ドル、Metaが約1,960億ドル、Amazonが約686億ドルで、講義中の「1位Google、2位Meta、3位Amazon」という順位は正しい整合。ただし2026年にはMetaがGoogleを初めて逆転する見通しで、Metaが約2,430億ドル、Googleが約2,395億ドルと予測されている。三社合計のシェアは2025年の59.9%から2026年には62.3%へ上昇する見込みで、集中度はさらに高まっている。
次に講師が扱ったのは、プラットフォーム側のアルゴリズムである。GoogleやMetaが提供する自動入札(マネージド・キャンペーン)は、コンバージョン最適化のアルゴリズムとして動く。つまり「30代男性・投資に興味あり」といった層に対して、次々と配信を投げられる仕組みになっている。コンバージョン率やクリック率が高い層が集中的に送り込まれる。
ここで講師が引用したのが、イェール大学とMITの研究チームの知見である。アルゴリズムを使ってマッチングからクリック率までを上げていく。広告と効率性をどのように保つのか。しかし制約は別である——単価も上がり、クリック率が高いところに投げられるということは、単価は高くなる。結果として何が起きるかというと、プラットフォーム側に金を吸い上げられる仕組みになっている。
さらに講師は、数字の見せ方の問題を指摘した。量を組み合わせることで数字をよく見せることができる。クリック率とリーチ率は高くなるが、コンバージョン率(成約率)は伸び悩む。いっぱいリーチしてもらっているのに全然物が売れない、という状態である。ここで登場するのが限界ROASという概念で、追加投資1単位に対するリターンをどれだけゼロに近づけさせるか——これがマネージド・キャンペーンのアルゴリズムの本質である、というのが講師の主張である。
「限界ROASをゼロに近づけることがプラットフォームのアルゴリズムの目的である」という命題は、講師の解釈であり、プラットフォーム各社が公表している設計目的ではない。ただし経済学的には、完全に効率的なオークション市場では入札者の余剰がゼロへ収束するという結果は標準的であり、講師の主張はこの一般理論をプラットフォーム広告に適用したものと読める。イェール大学とMITの研究チームによる具体的な論文名は講義中に特定されなかったため要確認、引用元の同定はできていない。読者が検証する場合は、まず自社アカウントの限界ROAS(追加投資1単位あたりの増分収益)を実測することが最短の反証手段になる。
三つ目の経路として提示されたのは、価格決定の主体が誰かという問題である。講師がスタンフォード大学の論文から引いたとする命題は、「広告価格は買い手の購買力ではなく、在庫の希少性によって決まる」というものである。
この命題は直感に反する。広告主は購買力の高い層にリーチしたい。そこにリーチできれば効果は高い。しかし価格を決めているのは、その層の購買力ではなく、その層の「在庫」がどれだけ市場に出ているかである。
具体例として挙げられたのが米国のテレビ広告である。18〜34歳のリストが圧倒的に少ない。その結果、リーチ単価は3倍になった。理由は単純で、テレビを見る層が減っているから在庫が希少になり、1人あたりの価格が高くなる。
逆の例としてデジタル広告が挙げられた。Metaのようなプラットフォームでは、高齢者向けのリーチ単価が高騰する傾向が強い。ここで講師は会員に問いを投げている。日本人は高齢者と若い層のどちらが多いか——高齢者である。ではInstagramを使っている層は——若年層である。ということは、高齢者のリストの単価はInstagramでは高い。人口としては多数派なのに、そのプラットフォーム上では希少だから高くなる。希少性によって価格が決まる、という構造の裏返しである。
方向性は公開情報と整合する。18〜34歳の成人の74%が有料テレビを離脱済みまたは離脱予定であり、同年齢層のケーブル視聴率は2023年1月時点で34%まで低下している。若年層がケーブルを切ることで残る視聴者の年齢構成が高齢側へ偏り、若年層がテレビ上で希少になって単価が上がるという因果は、業界で共有された認識である。実際に、ベビーブーマー層向けのCPMより18〜25歳層向けのCPMのほうが全ジャンルで大幅に高く、ニュース枠では800ドル近くに達するという報告もある。
ただし「リーチ単価がちょうど3倍」という具体的な倍率については、出典となる調査を特定できなかった要確認。倍率はジャンル・時間帯・年度によって大きく変動するため、単一の数値として扱うのは避けるべきである。また講義では出典を「スタンフォード大学の論文」としているが、該当論文の同定もできていない。命題の内容自体(価格は希少性で決まる)は経済学的に自明であり、この点に疑問はない。
四つ目は、前田氏が前半の講義で扱った限界効用逓減の法則を広告に適用したものである。講師は広告効果を三つの段階に分けて説明した。
| 段階 | 何が起きているか | なぜそうなるか |
|---|---|---|
| 初期段階 | 売上が上がりやすい | 低予算でテストマーケティングを行うため、広告ノイズが起きにくい |
| 成長段階 | 認知が広がり、売上が伸びる | ある程度の露出が閾値を超えることで認知が拡散する |
| 飽和段階 | 顧客が獲得できなくなる | 市場は有限である。ターゲット層にリーチしにくくなる |
そして講師が最も強調したのが、飽和点はどこにあるのかという問いである。ここに景気が効いてくる。好景気の市場では、広告によって潜在需要を掘り起こしやすい。それに対して不景気の市場では、市場の財布が硬い状態にあるため、潜在需要を引き出すのが難しい。結果として飽和しやすくなる。
この主張が実務上もっとも重要なのは、予算配分の判断根拠になるからである。同じ広告費を投じても、市場の状態によって飽和到達までの距離が違う。講師が後段で「初期段階はいい、成長期もいい。その後の飽和段階に持っていくのが、不景気のときは圧倒的に早い」と述べているとおり、不景気に大きな広告予算を投じるということは、飽和点を短距離で踏み抜くことを意味する。だから「あなたの商品を殺しに行っているんですか」という問いになる。
五つ目の経路は、広告在庫の質の問題である。講師はここで、自身が米国で実際に仕掛けたことのある仕組みだと明かしたうえで、二つの用語を説明した。
アドフラウドは、不正クリックやインプレッションの生成を外部で行う仕組みである。広告が消費者にリーチする仕組みの内側で、実体のない接触を作り出す。MFAはMade for Advertisingの略で、広告収益を最大化する目的で作られたウェブサイトやコンテンツを指す。広告の転用先として存在しているだけで、そもそも本来のターゲットにリーチできない。
講師が引用したのはANA(全米広告主協会)の調査である。講義中の説明では「運用型広告の21%がMFAに流れている」「インプレッションの15%がMFAに流れている」とされた。結果として、インプレッションとクリック数は伸びるが、コンバージョンは低いという構造が生まれる。
ANA(全米広告主協会)のプログラマティック・メディア透明性調査の実際の数値を確認したところ、MFAサイトが占めるのは調査対象インプレッションの21%、広告費の15%である。講義中の説明は「広告費の21%/インプレッションの15%」となっており、二つの数値が入れ替わっている。
調査の詳細は次のとおり。実施期間は2022年9月から2023年1月、対象は広告費1億2,300万ドル、インプレッション355億回、参加はANA会員21社。年間換算で広告主は約130億ドルをMFAサイトに費やしていると推計されている。参加した全広告主に何らかのMFA支出があり、うち1社は総支出の42%がMFAサイト向けだった。
なお、数値の入れ替わりは講師の主張の方向性を変えない点も付記しておく。むしろ「インプレッションの5分の1がMFAに流れている」ほうが、リーチ指標の空洞化という論旨を強く支持する。またその後の続報として、MFA対策が進んだ後もプログラマティックで268億ドルが依然として無駄になっているという分析や、コスト・ウォーターフォールによりプログラマティック支出のうち消費者に届くのは36%にとどまるというANAの後続レポートも出ている。
講師はここで、実際に広告を大幅削減した企業の例を二つ挙げた。
講義での説明は「広告を1億ドル削減したが、新規ユーザー数に変化はなかった」というもの。
Claude補足による事実関係の精密化:Uberの元パフォーマンスマーケティング責任者ケビン・フリッシュによれば、年間広告費1億5,000万ドルのうち3分の2にあたる1億ドルを停止したところ、ライダーアプリのインストール数にほぼ変化がなかった。ただし背景は「広告が効かない」ことではなくアトリビューション詐欺である。悪質なアドネットワークが、Uberがオーガニックに獲得したはずのインストールを自社の成果として計上していた。日次クリック数が総アクティブユーザー数を上回るという物理的にありえない数値や、ユーザーのアプリストア利用を監視してオーガニック登録を横取りする手口が確認されている。Uberは複数のアドネットワークを提訴した。
講義での説明は「2021年に予算をカットし、経営基盤を見直してブランド構築とプロダクト改善に投資した結果、過去最高利益を叩き出した」というもの。
Claude補足による事実関係の精密化:方向性は正確である。Airbnbは2020年にブランド広告と運用型広告の合計を2019年の11.4億ドルから4.82億ドルへ58%(6.62億ドル)削減し、うち運用型が5.41億ドル減とブランド広告削減幅の4倍以上を占めた。2021年2月には恒久的な削減方針を発表。2021年第1四半期の販売・マーケティング費は前年同期比28%減の2.29億ドルだった。CEOブライアン・チェスキーは、デジタルプラットフォームへのトラフィックの90%が非有料または直接流入であり、マーケティング費を半減させても2019年並みのトラフィックを維持したと述べている。「過去最高利益」という表現には注意が要る要確認——2021年第3四半期に当時としての四半期最高純利益(8.34億ドル)を計上したのは事実だが、通年ベースでの初の黒字化は2022年である。
両事例に共通するのは「広告費を大きく削っても事業が壊れなかった」という点である。ただし因果の中身は違う。Uberは詐欺によって計測が汚染されていたケースであり、Airbnbはブランド資産が既に十分に厚く、直接流入が9割を占めていたケースである。どちらも「広告一般が無効である」ことの証拠ではない。むしろ「自社の広告のうち、どれだけが実効的なのかを実測しているか」という問いを突きつける事例として読むべきである。この読み方は、講義の後半で語られる「予算の振り方が一番大事」という結論とも整合する。
講師はここで日本市場に議論を移した。引用されたのは消費者行動に関する研究レポートの一般的知見である。不景気またはスタグフレーション状態のもとでは、消費者の行動パターンが探索型から防衛型へシフトする傾向が強い。結果として、馴染みの高い製品に固執する傾向が強くなる。
この行動変化が広告の種類ごとに違う効果をもたらす。特に認知広告——ディスプレイ広告や動画広告——の効果が激減する。新規の選択肢を探していない人に対して、新規の選択肢を認知させる広告を打っても届かないからである。
さらに日本には二つの構造的な不利がある。第一に、日本人は海外プラットフォームに依存している。第二に、円安によって広告単価が上がる。ドル建てで決まる入札価格を円で支払う以上、為替が動けば同じリーチにより多くの円を払うことになる。結果として顧客獲得コスト(CAC)が悪化し、利益を圧迫する。
講師はこの三つを整理して、日本で今広告が向いていない理由として次のようにまとめている。一つ目は日本人自体が外国のプラットフォームに依存していること。二つ目は円安で顧客単価コストが極めて高くなっていること。三つ目は消費者の心理状況自体が財布を固めていること。これをどうやって打開するのかといったら、プレゼンと営業以外にないだろう、という結論である。
講義の前提である「日本は不景気である」という認識について、2026年8月時点のマクロ統計を確認した。2026年4〜6月期の実質GDP成長率は前期比年率+1.1%(前期比+0.3%)で、3四半期連続のプラス成長となっている。名目賃金の高い伸びが続くなかで物価上昇率が鈍化したことにより、実質賃金は前年比で増加に転じ、家計の購買力は徐々に回復している。したがって「景気後退(リセッション)」という技術的定義には当てはまらない。
ただし、講師の議論の実質——財布の紐が硬いという部分——は、統計とも整合的である。同じ4〜6月期において個人消費と設備投資はいずれも市場予想を下回って減少しており、中東情勢による先行き不透明感が家計と企業を慎重にさせた可能性が指摘されている。また7〜9月期については、前期比年率で1%台後半のマイナス成長を見込む予測機関もあれば+0.7%の緩やかな回復を見込む機関もあり、見方が割れている。
したがって正確には、「日本は不景気だ」という命題は成立が微妙だが、「消費者が防衛型にシフトしている」という命題は支持されると読むのが妥当である。そして講師の理論に必要なのは後者だけである。マクロの成長率ではなく、消費者が探索型か防衛型かという行動指標のほうが、広告・営業の予算配分にとっては直接的な変数になる。
ここで講義は反証から処方へ転じる。マーケティングには二つの戦略がある。プル戦略は広告で顧客を引き寄せる。プッシュ戦略は人的販売で商品を売り込む。
広範囲にリーチできる。ただし顧客の自発性に依存する。
景気が悪いということは自発性が低いということである。したがって不景気にはプル戦略の前提そのものが崩れる。
リーチは狭い。ただし売り込む行為そのものが需要喚起になる。
自発性に依存しないため、自発性が低い局面でも成立する。
この対比を、講師は一つの比喩に圧縮した。不景気の人の心理は氷である。では、それをどうやって溶かすのか。溶けるのを待つのか、溶かしに行くのか。会員は当然「溶かしに行きたい」と答える。そして講師は結論を置く。広告は溶けるのを待つこと。営業とプレゼンは溶かしに行くことである。
そのうえで、不景気時にはマーケティング予算から営業支援予算へシフトすることで回復速度が高まるというデータもある、と述べられた。
| 手法 | 講義での説明 | Claudeによる裏取り |
|---|---|---|
| チャレンジャー・セールス・モデル | 顧客の信頼獲得よりも、顧客に新しい視点を提供する。議論を提供し、議論をリードする営業スタイル。問題を提起して議論式に持っていくことで効果が高まる | マシュー・ディクソンとブレント・アダムソンによる研究。大不況期に6,000人の営業担当者を調査して構築された整合。営業を5類型に分け、従来重視されてきた「関係構築型(リレーションシップ・ビルダー)」が複雑なB2B営業で最も成績が悪く、「チャレンジャー型」が突出して優れていることを示した。CEB(現Gartner)の調査では、チャレンジャー型が複雑B2B営業のトップ営業の約54%を占める。手法は「教える(Teach)・合わせる(Tailor)・主導権を握る(Take Control)」の3段階 |
| ラショナル・ドラウニング | 広告では情報量と論理構成ができない。これができるのがプレゼンテーションである。プラスの話ではなく機会損失の話をする。利益を上げるではなく損失を下げる。損失回避性をどう促すか | チャレンジャー手法の「教える」パートに含まれるコマーシャル・ティーチングの一手法。プロスペクト理論(カーネマン&トベルスキー)の損失回避性を営業に適用したもの。既存レポート『プロスペクト理論と長期保有』で扱われた同じ理論の、売り手側からの応用にあたる |
| ABM(アカウント・ベースド・マーケティング) | 不特定多数を対象とする広告はカスタマイズ性がない。特定の有料顧客に集中する。不況期の王道戦略であり、すなわちカスタマイズ商品を作る。そのためにはヒアリングからの提案=質問力×営業(プレゼン)能力が要る。導入企業の84%が従来マーケティングよりROIが高いと報告している | ITSMAの調査に関連する数値だが、84%という数字はROIではなく「顧客のビジネスニーズをより深く理解できるようになった」と答えた企業の割合である食い違い。ROIについては「ABMが他のマーケティング戦略より高いROIをもたらすと答えたマーケター」が87%、ITSMA 2024年ベンチマーク調査では「成熟したABM実践企業のうち他のどのマーケティング投資よりABMのROIが高いと報告した割合」が76%という数値がある。方向性は講師の主張を支持するが、84%とROIの結びつけは正確ではない |
講師は自身のGRAIモデルを用いたAI提案資料が、まさにラショナル・ドラウニングの実践例であると述べている。機会損失の切り口で書くほうが合理的だという意図で作った資料である、と後段のQ&Aで補足された。
講義の実践パートでは、機会損失をどう語るかが具体例で示された。基本形は「今のうちにやっておかないと、将来こういう問題が起きる」という形式である。健康商材が最も分かりやすい例として挙げられた。
そのうえで、講師は歴史的なプレゼンテーションの例を四つ挙げた。いずれも「参入しないと大きな機会を失う」という論法で組織を動かした例である。
| 事例 | 講義での説明 | Claudeによる裏取りと補正 |
|---|---|---|
| スティーブ・ジョブズ/iPhone | Appleはこれまでパソコンばかりやってきたが、モバイル市場に参入しなければ成長機会を大きく失う。だから我々はやらなければならない、というプレゼンをした | 公開の場でのiPhone発表(2007年1月)は「Appleが電話を再発明する」という肯定形の訴求だった。ただし社内では「我々の昼食を食べてしまうデバイスは携帯電話だ」というカニバリゼーション(iPod食い)への危機感が語られたことが知られており、社内向けの論法としては機会損失型だったという整理は妥当。公開プレゼンと社内提案を区別する必要がある要確認 |
| リード・ヘイスティングス/Netflix | ストリーミング時代が来る。万が一自分たちが入れなかった場合、HuluやAmazonに取られてしまう。だから我々がやらなければならない | Netflixのストリーミング開始は2007年、Huluのローンチは2007〜08年、Amazon Unboxは2006年。競合の登場時期と整合しており、時系列に矛盾はない整合 |
| アンディ・ジャシー/AWS | このまま参入せず、半導体の設計からデータセンターまでやらなければGoogleが来るぞ。だからAWSをさっさとやらなければならない | ジャシーがAWSの構想を書いたのは2003年、AWSのローンチは2006年である。ただしAmazonの自社半導体設計は2015年のAnnapurna Labs買収以降であり、AWS立ち上げ時の論点ではない時系列のずれ。二つの異なる時期の意思決定が一つの物語に統合されている |
| Google/Android買収 | 今後の検索エンジンはパソコンではなく携帯に変わる。だからAndroidを買収しなければならない、というプレゼンをした | Googleは2005年8月にAndroid社を約5,000万ドルで買収。「検索の主戦場がモバイルへ移る前に押さえておく」という戦略的動機は広く報じられており、機会損失型の論法として整合的整合 |
もう一つ、講師が強調したのがMicrosoftのやり方である。説明では、MicrosoftはChatGPTを世に広める前に、自分たちと関係の良い顧客だけにテストさせ、機会損失の話だけをして固めていった、という趣旨だった。サティア・ナデラが「今後AIをやらないとこういうデメリットがある」と語った、という説明が添えられている。
公開情報を確認したところ、ChatGPT自体は2022年11月にOpenAIが一般公開したものであり、Microsoftが顧客を選んで先行提供したものではない。ただしMicrosoft 365 Copilotについては、講師の説明どおりの段階的展開が実際に行われている。2023年5月にMicrosoftはM365 Copilotの「Early Access Program」を発表した。これは招待制の有償プレビューで、世界の600社を初回対象とするものだった。それ以前には、シェブロン、グッドイヤー、ゼネラルモーターズ、ダウといった20社の企業顧客とともにテストを行っていた。
つまり、製品名が入れ替わっているが、「良い顧客を選んで先に渡し、フィードバックで改善してから一気に広げる」という構図の説明は事実に基づいている。この点を訂正したうえで読めば、講義の主張は補強される。
講義の終盤、会員から「中小企業でメリットしか目がいかない相手にはどうするか」という実務的な質問が出た。回答は「機会損失を前面に押し出すのではなく、後ろに押さえておいたうえでメリットを提示する」でオッケー、というものだった。
そのうえで講師が展開したのが、顧客の質という論点である。基本的にバカなやつほど傲慢である、という前置きのあと、金持ちと貧乏な人に弁当を注文させると、貧乏な人ほど種類がたくさん入った弁当を頼む——選択肢が多いことが心理的なマウンティングになっているからだ、という観察が示された。エルメスは商品数が極めて少なく、ユニクロは商品数が極めて多い。メリットがたくさんあるところに食いつきやすい層に対しては、機会損失を5つ、メリットをたくさん提示するのが有効である。しかしそれで囲い込める顧客は質が悪い可能性がある。
本当に良い顧客は、機会損失を言っただけで、それを克服することによるメリットを自分で想像できる。そういう顧客が最も良い客である——これが講師の顧客選別の基準である。そして重要なのは、売上を上げることではなく顧客を囲い込むことであり、囲い込む相手を誰にするかといえば、メリットに食いつく層ではなく機会損失を考えられる層である、と結論づけられた。
講師の事業設計の最終的な狙いは、LTVを高めて顧客の依存度を上げることにある。良い顧客との関係が築けていれば、自社商品の欠点を全部伝えてくれる。それを改善し続け、頃合いを見て一気に広げれば、市場に受け入れられやすい完成度になっている。逆に1か月で作ったものを広告で一気に投げれば、クレームが殺到してブランディングもサービスも落ち、LTVが続かない。顧客が離れれば再び集客しなければならず、集客コストが積み上がる。集客し続けることが最も疲れる、最も難易度が高い——だから「集客しなくていいモデル」を作る。広告とマーケティングのコストが下がるぶん利益率が高くなる。この経営基盤の設計が最初に来る、というのが講師の主張である。
この日の勉強会は、会員の一人である中川氏による猫の保護活動の告知で締めくくられた。15年半にわたり個人で保護活動を続け、57匹を送り出してきたが、港区から高齢者の急逝や入院で犬猫が置き去りにされるケースへの対応を打診されたことを受け、NPO法人「尻尾の約束」を立ち上げた。埼玉県内、東武東上線の終着駅近くに土地と古家を購入し、大規模改修してシェルターにする計画で、猫と小型犬を対象に、高齢者が飼えなくなった子や譲渡できない子を引き取る。クラウドファンディングは2か月で500万円を目標に開始され、この日の時点で63万円に達していた。監事には東京都の元職員(生活文化局の局長、NTT系企業の監査役経験者)が就いており、コンプライアンス面も整えていると説明された。
この告知の流れで、中川氏が「営業が大事だということをマイキーさんにいつも言われて痛感している。ここ数日はチラシをいつも持ち歩いて出会う人に渡している」「今日の会食でも猫の話を持っていってチラシを渡した」と述べたことに対し、マイキー氏は「さすがです。マジで大事です」「それぐらいやらないと本当に響かない」と応じた。中川氏が「選挙活動みたいなつもりでやっている」と続けたのに対する「営業、大事です」という応答は、この日の講義全体を一言で要約している。人間の課題であれば理解されやすいが、動物は必ず二の次にされるからこそ、しつこいくらいにプッシュしなければ届かない——プル戦略が効かない領域でプッシュ戦略を取る、という講義の論理が、そのまま非営利活動に適用された形である。
関連して、マイキー氏自身もカンボジアと日本で保護活動を行っていること、動物愛護を担当する政治家に直接詰め寄った経緯、地方の保護活動に対してふるさと納税を財源として活用するという中川氏の構想(各都道府県に一つずつシェルターを展開する将来像)なども語られた。