教義の違いだけでは説明が足りない。労働力が減れば農民の交渉力が上がり、地理が守ってくれる土地でしか封建制は成立せず、都市が育てば教会は誰と結びつくかを選び直す。マイキー氏と渡辺氏が、宗教の話を土地・人口・地理の話として組み替えた回。そして「不安の解消」という動機が、なぜイノベーションの話に着地するのか。
前半の講義がウェーバーの方法論を扱ったのに対し、後半の議論は「では、なぜカトリックではなくプロテスタントだったのか」という一点に絞られた。ここで渡辺氏とマイキー氏が持ち込んだのは、教義の解説ではなく社会構造の説明である。宗教が資本主義を生んだ、という因果の言い方を渡辺氏は明確に退け、「相関関係」「奇妙な一致」という語を選び続けた。
渡辺氏の整理はこうだった。営利欲も技術も、中国にもインドにも古代からある。富を拡大したいという思いも普遍的である。だから資本主義の「萌芽」はどこにでもあった。問題はそこから近代資本主義へ移行できるかどうかであり、その分かれ目は「財そのものに使わず、次に取っておくこと」を内的な原理として説明できるかにあった。個人の意見としてではなく、集団として、社会を構成する概念として、持続的に再生産されうるかたち――それを備えていたのがプロテスタントだった、という見立てである。
マイキー氏はこれを、土地と人口の話に翻訳した。カトリック教会が農村に広がった理由は徴税であり、対象は農民だった。ところが14〜15世紀に疫病で労働力が減ると、生産者側の交渉力が上がる。管理していた側と管理されていた側の立場が入れ替わりかねない。そこで支配層は交渉の基盤を土地から資本へ移し、囲い込みへ向かう。同じ時期、都市が育ち、その市民層とどう結びつくかを考えたのがプロテスタントだった――という筋である。
そして議論は、カルヴァン派の予定説がもたらす心理状態へ移る。誰も救いを保証してくれない。だから禁欲的な行動を反復する中にしか確証が得られない。渡辺氏の言葉を借りれば「資本主義のからくりは恐怖」である。マイキー氏はこれを一行に圧縮した。カトリックは安心の追求、プロテスタントは不安の解消。そしてイノベーションを起こす人間は、常に後者の側にいる。
久保田氏の質問を受けて、渡辺氏は問題を組み替えた。中国も古代ユダヤもインドも研究してみれば、資本主義の萌芽はある。営利欲があり、技術がある。では何が近代資本主義への転換点になったのか。渡辺氏の答えは、外的な要因ではなく内的な動機の側にあった。
お金というものに対する向き合い方は、すでに他の宗教でも出来上がっていた、と渡辺氏は言う。違ったのは、その禁欲を「自分のために消費するのではなく、次の資本に投資する」というかたちで再生産する傾向を持っていたかどうかである。そしてそれを、一個人の意見としてではなく、ひとつの集団として、社会を構成する概念として、持続的に再算出できるかたち――これは資本家の論理とまったく同じ構造をしている。
渡辺氏はさらに、ウェーバーがここで何をしようとしていたのかを説明した。目指されていたのは「アルキメデスの点」――他の宗教と比較したうえで、資本を再生産し自分のために消費しない、という選択がどこで内的動機として成立したのかを特定する作業である。外から言われたからでも、そうしたほうが得だからでもなく、信仰の目的と一体になっているからこそ、継続性が強く、ぶれない。
そのうえで渡辺氏は、この作業がウェーバー自身の時代の問題意識とも接続していたと述べた。当時のプロイセンがどこへ向かうのかという政治的な問題と、当時の科学的方法をめぐる論争。この分類方法は、その両方に共通の視座を開いてくれる問題として立てられている、という読みである。前田氏が確信的な結論からではなく順番を立てて講義してきたのは、その方法論の延長上にこの理論があるからだ、と渡辺氏は補足した。「犯人探しのようなもの」で、この現象を継承しているのは誰が媒介者なのかを特定できた、という位置づけである。
マイキー氏は、久保田氏の「なぜプロテスタントのみが資本主義の方に向かったのか」という問いに、教義ではなく組織の話で答えた。出発点はカトリック教会がヨーロッパ中に建てられた理由である。マイキー氏の説明では、それは税を回収するためであり、回収の相手は庶民、つまり農村の住民だった。
ここから分岐が生まれる。都市が次々と出来上がっていくと、教会もその都市との親和性を作らなければならない。カトリックは伝統的な共同体の維持、農村的なものに軸足を置いた。対してプロテスタントは、都市の市民層に向けて、どう強く結びつくかを考えた。教育の方向性も、カトリックが「人間とは何か」を解こうとしたのに対し、プロテスタントは実用性のある技術教育に向かった。資本経済に向いているのは後者である。
マイキー氏はさらに一段深い層に降りた。14世紀から15世紀にかけて、ヨーロッパは封建制の危機に直面していた。伝染病によって人口が減ると、労働力が減る。労働力が減れば生産量が減る。生産量が減れば、食べ物などに対する生産者側の交渉能力が上がる。つまり農民の立場が上がる。それまで農民を管理していた側と、管理されていた側の力関係が入れ替わりかねない状態になる。
下剋上が起きるかもしれない。ならば交渉の基盤を変えるしかない。土地に縛られた関係から、資本をベースにした関係へ移行する――これが囲い込みへ向かう論理である。農村側にはその段階では資本がないため、資本家のほうが資本をベースに交渉できる。マイキー氏の説明では、農業を資本主義化していく動きもここから出てくる。
図1:ヨーロッパの推計人口の推移(Claude作図。中世温暖期の増加と14世紀の大飢饉・黒死病による激減を示す概念図。推計には幅があり、出典により数値は異なる)
マイキー氏の説明で最も踏み込んでいたのが、封建制の成立条件だった。封建制が出来上がった理由は簡単で、外部的圧力がないから、人に土地を任せても大丈夫だったからである。ヨーロッパは山が多く、地理に守られていたため、他人に土地を渡しても外部から攻撃を受けにくかった。
逆に中国のような内陸部の国では、外からの圧力が強く、人に任せるとどこで奪われるか分からない。だから国で管理する。マイキー氏の結論は挑発的である。封建制ができなかったから資本主義が遅れた、と。土地と人の関係をどう設計できるかが、その後の経済制度の形を規定したという読みである。
| カトリック側の基盤 | プロテスタント側の基盤 | |
|---|---|---|
| 結びついた層 | 農村・伝統的共同体 | 都市の市民層 |
| 教育の問い | 人間とは何か(教養) | 何ができるか(実学・技術) |
| 既存のやり方 | 維持する。余計なことはしない | 仮説を作って検証し、試す |
| 正統性の置き場 | 伝統を維持しレジティマシーを高める | アノマリー(例外)に賭ける |
| 結果として | 安心の追求 | 不安の解消 |
ここから議論はカルヴァン派の二重予定説に移る。渡辺氏の説明はこうだった。神は救う者だけでなく、捨てる者も決めている。カトリックであれば、自分が救われるかどうかを教会が言ってくれた。だがプロテスタントでは誰も言ってくれない。誰にも分からない。
平均寿命が短く、簡単に人が死んでいく時代である。次の世が保証されないことは最大の恐怖だった。渡辺氏はこれを「資本主義のからくりは恐怖です」と要約した。救いの確証が外から与えられない以上、禁欲的な行動を反復する中にしか確証が得られない。それが内的動機になった、という論理である。
参加者からは「予定説は疑心暗鬼を誘っている」という理解が示され、渡辺氏はそれを肯定した。同じプロテスタントでもルター派とカルヴァン派で違い、ルターの場合はまだ聖書に立ち戻れば救いがあるが、カルヴァン派は聖書に立ち戻っても救いがない。その違いが大きい、と。
神に祈っておけば大丈夫。その代わり寄進をしろ、という構造(マイキー氏の要約)。妥当性・安定志向・リスクを冒さない態度と親和的。既存のやり方を維持し、正統性を高める方向に力が向かう。
誰も救ってくれない。自分で考えろ、と突き放される。仮説を持ち、検証し、何が最も合理的かを考えなさいと言ってくる宗教(マイキー氏の要約)。分からないまま飛び込む態度と親和的。
マイキー氏自身が「すごく雑な表現ですけど、これくらいが一番分かりやすい」と断ったうえでの整理である。そのうえで彼はこの対比を現代に接続した。日本人はおおむね安心の追求だけをする。一方でイノベーションを起こす人やアントレプレナーは、不安の解消に向かう。安定していればイノベーションは起きにくい。妥当性を効かせるのか、エッジを効かせるのか、という違いである。
渡辺氏はさらに、ユダヤ教も同じく不安から発想している、と付け加えた。行動原理を見れば不安から発想していることが理解できる、という指摘で、マイキー氏も「不安が一番重要だと捉えている」と応じている。
「不安の解消」側に立つとはどういうことか。その実例として、マイキー氏は直後に控えた講演会の準備の話をした。会場で爆竹や花火を用意しろと言った理由である。
最初からクラッカーを持っていくと、クラッカーはダメだと言われる。だがダイナマイトを持っていけば、さすがにそれはやめてくれ、爆竹もやめてくれ、ただしクラッカーなら――と、許容ラインが上がる。ルールのハードルを上げるには、一度振り切ったアイデアを出して、どこがギリギリかを削っていく。その削った状態こそが最も振り切っている状態だ、というのがマイキー氏の説明である。安定的な守りの姿勢を取るつもりは一切ない、と本人は述べていた。
Q1.(久保田氏)元は同じなのに、歴史的に新しく出てきたプロテスタントだけが資本主義の方に向かったのはなぜか。
A.(マイキー氏)教育の母体が違う。カトリック教会は徴税のため農村に広がり、伝統的共同体の維持に向かった。プロテスタントは都市の市民層とどう結びつくかを考え、実学的な技術教育に向かった。既存のやり方を維持しようとした側と、仮説を立てて検証し試した側では、後者が勝つ。
Q2.プロテスタンティズムのほうが行動に直結しやすい、行動派になりやすいということか。
A.(マイキー氏)そうである。ジャン・カルヴァンの二重予定説を見るとよく分かる。同時期に封建制から資本主義への移行が起きており、両サイドで見ると面白い。
Q3.封建制からの脱皮、つまり次の社会へのシフトということか。
A.(マイキー氏)14〜15世紀のヨーロッパは封建制の危機に直面していた。疫病で労働力が減ると生産者の交渉力が上がり、管理していた側と管理されていた側が入れ替わりかねない。そこで資本をベースにした交渉へ移行し、囲い込みが進んだ。
Q4.なぜ中国では封建制ができなかったのか。
A.(マイキー氏)外部的圧力が強く、人に土地を任せるとどこで奪われるか分からないため国が管理した。ヨーロッパは山が多く地理に守られていたので、人に土地を渡しても攻撃を受けにくかった。封建制ができなかったから資本主義が遅れた、というのがマイキー氏の見立て。
Q5.同じプロテスタントでもカルヴァン派とルター派で違う。なぜカルヴァン派なのか。より禁欲的だからか。
A.(渡辺氏)ルターの場合はまだ聖書に立ち戻れば救いがあるが、カルヴァン派は聖書に立ち戻っても救いがない。誰も救いを保証してくれないため、禁欲的な行動を反復する中にしか確証が得られない。その違いが大きい。
Q6.予定説は疑心暗鬼を誘っているということか。
A.(渡辺氏)資本主義のからくりは恐怖である。次の世が保証されないことが最大の恐怖であり、それが内的動機になった。ユダヤ教も同様に不安から発想していると見ることができる。