日本は先細りだ、という参加者の実感から始まった議論は、雇う相手を日本人に限定する必要はどこにもないという結論に向かった。さらに議論は中国ビジネスに及び、そこで一つの中国語が持ち出される。把柄(bǎbǐng)――取っ手。何にでも取っ手をつければ扱える、という発想である。
講義の終盤、一人の参加者が率直な問いを投げた。今日の話を聞いているだけで、日本はすごく先細りなのではないかという気がする。だからこそ「1対80だから80のほうに焦点を当てろ」と言っていたのかもしれない。ではその先細りの中で、私たちは日本で生きていくのか。80年ぐらいしたら死ぬからまあいいのか。考えて、その行き着く先はどこなのか――。
講師の答えは二段構えだった。第一に、1対80とは1億人対80億人にビジネスをするという話である。先細りなら80億人向けにビジネスをやったほうが合理的だ、というのは理解できるはずだ。第二に、外国人の流入はどう考えても止められない。ならば、それに対応できるだけのスキルがあれば逆に問題ないのではないか。
そして講師は、外国人が入ってきたときに潰される国とそうでない国がはっきり分かれている、と述べた。潰される側に立つのは弱者である。これはアメリカでも、カナダでも、ヨーロッパでも起きている。強者側に立っている人たちは、むしろ彼らをうまく利用する側になっている。自分自身の能力がそこまで上がっているなら全く問題ないし、むしろ日本はうまくやれば稼げる市場だ、と。ただしずっと日本人と同じような同化的なことをやっていると、そういうところに巻き込まれてしまう。
ここから議論は、雇用の基準そのものに移る。労働者の価値観は変わってきていて、自分の時間を切り売りしたくない、スキルを上げたくないという人が増えている。それでも私たちはその人たちを労働力として使わなければならないのか――という質問に対し、講師の答えは冷徹だった。「別にそういう人たちを使わなかったとしても、外国人が入ってきたら外国人を使ったほうが安いし生産性が高い、だったらそっちでもいいと思います。」雇う人間を日本人にこだわる必要はない。極論すれば、トヨタの社長が日本人でなくてもいい。景気が良くなり、売上が上がり、日本に税金を落としてくれるのなら。
参加者の一人が議論の途中でこう要約した。「結局そのリソースをどう取り入れていくかとか、日本人は今あるものでリソースが揃っていると思いすぎている、というところに戻ってくるということですね。」講師の同意はその通り、だった。
この回の議論は、人材を「日本人か外国人か」という属性で見るのをやめ、「その人を入れると、どの市場への入り口が開くか」という機能で見る、という視点転換に集約される。中国人を入れれば中国市場の開拓が楽になる。アメリカ人がいればアメリカ市場が楽になる。韓国企業も中国企業もそれをやっている。その入り口を、自分の会社の中に作っているかどうか、である。
先細りの日本でどう生きるのか、という問いに対して、講師はまず市場規模の話から入った。1対80とは、1億人にビジネスをするのか、80億人にビジネスをするのかという話である。先細りの市場と成長する市場が並んでいるなら、80億人向けにやったほうが合理的だ。これは理解できるはずである。
そしてもう一つ。外国人の流入はどう考えても止められない。中国人も来るし、インド人も来る。いろいろな国の人が「日本は土地が安い」「人件費が安い」と言って入ってきている。それに対応できるだけのスキルがあれば、逆に問題ないのではないか。
ここで講師が示した観察が、この回で最も冷徹な部分である。外国人が来たときに潰される国と、そうでない国がはっきり分かれている。そして潰される側に立つのは弱者である。これはアメリカでもカナダでもヨーロッパでも起きている。強者側に立っている人たちは、むしろ彼らをうまく利用する側になっている。だから自分自身の能力がそこまで上がっているなら全く問題ないし、むしろ日本はうまくやれば稼げる市場である。
ただし条件がつく。ずっと日本人と同じような同化的なことをやっていると、おそらくそういうところに巻き込まれてしまう。環境をどう利用するかが大事なのであって、環境そのものを嘆いても始まらない、という論理である。
この議論の直前に、参加者との間で不動産の話が交わされていた。日本の住宅ローンが35年から50年に延長され、借りやすくなった。だが講師の見方は辛い。「一般の人たちは東京都内でもう買うほどの余裕はないので、地方の物件をつかまされるいいきっかけだと思う。」都内の土地ばかり買っている人は資産を増やしている。二極化である。
一方で、台湾出身でアメリカ生まれの30歳の知人が、友人とツアーを組んで京都の物件を買い漁りに来ているという。理由は「日本は家のクオリティの割に安すぎる」「台北が高すぎる」。京都の街並みが好きで、しかも高さ制限があるから景観が崩れない――そこまで見て買っている。同じ「日本は安い」という事実が、ある人には脅威で、ある人には機会になっている。これが「潰される側と利用する側」の具体例である。
日本の住宅ローンの借入期間を最長50年とする商品は、2025年に複数の銀行で導入が進んだ。auじぶん銀行が2025年1月14日、PayPay銀行が2025年7月1日、SBI新生銀行が2025年11月17日に取り扱いを開始している。勉強会の4日前にSBI新生銀行が参入したタイミングであり、話題として鮮度が高い状態だった。
導入理由として各行が挙げているのは、住宅価格の高騰への対応と、返済プランの多様化である。借入期間を35年から50年へ延ばすことで月々の返済負担は下がる。ただし多くの場合、35年を超える期間設定には年0.1%程度の金利上乗せがある(上乗せ幅は銀行により異なる)。総返済額は当然増える。
講師が「借りやすいのはいいが、地方の物件をつかまされるきっかけになる」と述べた懸念は、金利上乗せと総返済額の増加、そして地方物件の流動性リスクを合わせて考えれば妥当な指摘である。ただし個別の物件判断は本レポートの範囲外である。
ここから議論は雇用の話に移る。参加者の一人が、労働者の価値観の変化を持ち出した。マルクスの話に戻るなら、人は自分自身が商品であり、自分の時間・労働力が商品になるはずなのに、それを切り売りしたくない、自分のスキルを上げたくないという人が増えている。でも私たちはその人たちを労働力として使っていかなければならないのか。
講師の答えは明快だった。「別にそういう人たちを使わなかったとしても、外国人が入ってきたら外国人を使ったほうが安いし生産性が高い、だったらそっちでもいいと思います。」雇う人間を日本人にこだわる必要はない。極端に言えば、トヨタの社長が日本人でなくてもいい。景気が良くなって売上が上がり、日本に税金を落としてくれるのなら。労働環境として何人を雇うかが制限されているわけでもない。
そして講師は、経営者に必要な資質を一言で述べた。「経営とか事業をやっていると、合理的なやつが一番強いんですよ、結局。」そちらに考え方をシフトするかしないかのほうが大事である。
議論はさらに進み、人件費がかかりすぎるビジネスは良くない、という話だけではなく、その人が日本人なのかそうでないのか、日本人に依存しないビジネスの形に持っていくというポイントも大切なのかという確認が入った。講師はそれを肯定し、具体例を並べた。
講師の指摘はこうだ。中国は別に何人だろうが、そこを開拓できるなら関係なしにやる。韓国も同じである。だったら日本もそうしないとグローバル社会では勝てない。アメリカのほうが市場は大きく、中国のほうが大きく、ヨーロッパのほうが大きい。そういう人たちへの突破口が自分にないのであれば、社内に取り入れてリソースにしてしまい、どうやって打開するかを考える。そうすれば戦略の幅が広がる。
営業についても同じである。アジア人がヨーロッパに営業するよりも、アメリカ人を雇って営業させたほうが合理的だ、という判断になるなら、そちらを入れたほうがいい。自分の会社にとって何が最も利益に近くなるのかで人材を入れるのが最も合理的であり、それは人種も問わないしジェンダーも問わない。女性用の下着を売るなら、男性が営業するより女性スタッフに営業させたほうが絶対にいい。軍事情勢やその国の風習を分かっている人だったり、というのも同じ理屈である。
講師は「近場にいる韓国の企業も社長がアメリカ人に変わっている。ヒョンデとか」と述べた。事実関係を確認すると、国籍の記述に食い違いがある。
現代自動車(ヒョンデ)は2024年11月、ホセ・ムニョス氏を2025年1月1日付で社長兼CEOに任命すると発表した。創業以来初の外国人CEOである。ただしムニョス氏はスペイン出身で、マドリード工科大学で原子力工学の博士号、マドリードのIEビジネススクールでMBAを取得している。日産で北米事業を率いたのち、2019年にヒョンデへ移り、社長兼グローバルCOO、Hyundai and Genesis Motor North America の社長兼CEOを務めた。
したがって「アメリカ人」という記述は正確ではない。ただし「北米市場を取りに行くために、北米事業の実績を持つ外国人をトップに据えた」という講師の論旨そのものは、この人事の実態と合致している。むしろ「アメリカ市場を取りに行くのに、必ずしもアメリカ国籍である必要はなく、その市場での実績が問われる」という点まで含めれば、事実のほうが論旨を強めている。
講義中、「住友も確か数百人だから数千人、ベトナム人を入れると言っている」という発言があった。この具体的な採用計画を特定できる一次情報は確認できなかったため、要確認とする。企業名・人数ともに、口頭のやり取りの中で概算として語られたものであり、そのまま数字として引用しないことを推奨する。
ただし、日本の大手企業が外国人材の採用を拡大している傾向自体は広く報じられている。個別企業の計画については、各社のIR資料および採用計画の一次情報を当たって確認されたい。
ここで講師は別の講師に話を振った。日本企業が中国に進出する場合、絶対に中国人を入れておかないと騙される。文化も違う。日本人だけで中国で戦うのは無理だ、と。
返ってきた説明が、この回で最も重い部分である。中国人は縁(血縁・地縁)の生き物なので、必ず自分たちの側に内化する。そして内化できるように、相手をどう使うかを常に考えている。逆に言えば、自分たちがどう裏切られるかを常に想定している。
ここで日本側との対比が置かれる。日本人を雇うとき、裏切ることを想定して雇わない。それを想定してやることができるかどうかが、ある意味で強者になれるかどうかである。日本人はそこで人を入れたら、そのまま親密になってしまう。だが実はそこに段階がある。日本人は友達になったら「友達」で終わる。だが友達には階層がある。階層を作って友達付き合いをしているか。経営者としては、労働者をどう見捨てるか、そして付き合い方まで、全部直さなければならない。
そして結論。中国人を入れるメリットは、そういうところを学べるところにある。授業料が非常に高いが、と。
元々中国で商売をしていた人物で、GUなどに卸して大きな会社になった。中国で会社を立てたとき、必ずナンバー2に中国の人を入れた。自分が付き合うよりその人のほうが分かっているから、付き合い関係は全部その人に任せた。それでうまく関係値を構築していった。
そうでなければ、本当に「騙すけど何か」という状態になる。それに文句を言おうが向こうは受け付けない。日本人の感覚では悪いように思うが、向こうからすれば「だから何」という話でもある。郷に入っては郷に従え。
すぐにいい人に出会えたわけではない。10人近く痛い目に遭って、その中で経験値として「何を求めたら当たり前だと思っているのか」を察知できるようになり、そういう付き合い方を学び、いっぱい失敗して、やっと見極められるようになって、いいパートナーに巡り合えた。
「相当大変だとは思いますけど」という言葉が添えられている。見極めの方法論があるのではなく、付き合った数のパイによるというのが、講師と参加者の一致した見解だった。
講師が挙げた典型的な失敗がこれである。日本人だけで中国人の優秀な人を採ろうとすると、「日本語がうまい中国人」=「日本語がうまいだけ」なのに、なぜかすべてにおいて優秀だと見えてしまい、騙される。
これは中国に限らない。インド系も同じで、日本人と同じように扱ったら絶対にダメ。彼らのメリットを必ず毎回与えること。彼らが「これをもらって当然」と思っているものを察知して、先に与える。その能力がなければやめたほうがいい。あるいはそこを勉強し続けるかどうかである。
この点について、もう一人の講師はこう述べた。「中国人にこのことをさせたら何を見返りに求めるのかをちゃんと考えたうえで、彼らと取引をするんです。見えない取引です。これができなければ、取って返されます。」
講師自身の経験としては、中国人と仕事をして損したことはなく、良いイメージしかない。ただし相当選んでいる、とのことだった。中国人は「したたか」で、10年かけて人を騙すことも平気でやる。だからこそ付き合ってきた数がものを言う。
加えて実務面での注意も出た。日本の商社は相当中国にやられている。だが中国の法律で守られるので、罰することができない。ということは決済方法まで全部ちゃんと作り上げなければならない。日本人のように「じゃあ送金します」というのは絶対にやってはいけない。そういう仕組みがきちんとあるので、それも勉強しなければならない。貿易や決済システムを分かっていない商社は大体騙される。
講義中の「中国人は縁の生き物」「必ず内化する」という表現は、中国社会論でしばしば論じられる関係(グアンシ/guānxi)と圏子(チュエンズ/quānzi)の概念に対応する。
関係(guānxi)は、互恵的な義務を伴う個人間のネットワークを指す。単なる人脈ではなく、便宜の授受が長期にわたって記録・清算される関係性である。「見えない取引」という講義中の表現は、この互恵の勘定を指していると読める。
圏子(quānzi)は、その関係が形成する内輪の同心円を指す。中心に近いほど義務も信頼も強く、外側ほど薄い。日本の「友達」概念が階層を持たないのに対し、この構造には明確な段階がある、という講義中の対比は、この概念構造と整合する。
なお、これらは社会学的な議論であって、個々人の性質を決めつけるものではない。「中国人はこうだ」という一般化ではなく、「そういう関係構築の作法が広く共有されている社会である」という理解のほうが実務上は有用である。この点は本レポートの側からの留保として記しておく。
この回で最も持ち帰る価値のある概念が、ここで出てくる。中国人と話していると必ず出てくる言葉がある、と講師は言った。「取っ手」である。中国語で「バービン(把柄)」という。
その発想はこうだ。これはどういう取っ手をつけたら扱えるか。何々はどういう取っ手をつけたら扱えるか。すべてこの発想である。すべてのものに取っ手をつければ扱えるはずだ。ならば、どうやって取っ手をつけようか――これが必ず中国人の会話に出てくる型なので、取っ手をつけるという考え方を試してみてほしい。そうすれば中国人の思考になれると思う、と。
参加者が「できないことをどうやったらできるようにするか、ということか」と確認すると、講師は肯定した。不可能の可能化である。別の講師も補強した。中国人は「不可能を可能にする」ことを自分たちのアイデンティティだと思っているところがある。日本人が外からどうやっても無理なところが、彼ら同国人ならOKになる。そういう独特の価値観があるから、自分が中国でできるとしても中国人に頼む、と。
そして参加者の一人がこの発想を一段抽象化した。「人をコントロールするのに必要なフックは何かを常に探しているというイメージですね。」講師はそれに同意し、こう付け加えた。「レアアースの発想もそこから来ているわけですからね。世界にとっての取っ手なんで、彼らにとっての。」
講義中「バービン」と発音され「取っ手」と説明された語は、中国語の把柄(bǎbǐng)である。この語は二つの意味を同時に持つ点が重要である。
第一に、字義通りの「道具の柄・取っ手・握り」。「把」は握る、「柄」は柄・取っ手を意味する。
第二に、そこから転じた「(相手を攻撃するのに使える)弱み・言質・証拠」。「抓把柄(zhuā bǎbǐng)」は直訳すれば「取っ手をつかむ」だが、慣用としては「相手の弱みを握る」「揚げ足を取る」を意味する。「让人抓住了把柄」=「人に弱みを握られた」という使い方をする。
つまりこの語には、講義中に語られた両方の含意――「扱えるようにするための取っ手」と「相手をコントロールするためのフック」――が、もともと一語の中に同居している。参加者が「人をコントロールするのに必要なフック」と言い換えたのは、偶然ではなく語義そのものに沿った理解である。
また、レアアースへの言及もこの語感で読むと筋が通る。供給網の一点を握ることは、まさに世界に対する「把柄」を得ることである。
「取っ手をつければ扱える」という発想は、対人関係の話に限らない。扱えないと思っている対象は、扱う取っ手がまだ設計されていないだけかもしれない、という問いの立て方である。
参入できない市場、動かせない組織、崩せない競合。それらに対して「無理だ」と判断する前に、どこに取っ手をつければ動くのかを探す。逆に自社の側から見れば、自社のどこが他者にとっての取っ手になっているのか――どこを握られると動かされてしまうのか――を点検する視点にもなる。
この把柄の議論には、続きがあった。人間は感情と欲で行動する。ということは男性が引っかかりやすい。逆に女性は扱いにくい。だから外国から来る女性の経営者を、中国の人はなかなか受け付けない、という指摘である。
香港の知り合いや会社の人たちも、女性の経営者は中国のビジネスがやりにくいと言っていた。なぜかというと弱みを見せないからである。だが男は引っかけやすい。徐々に変わってきてはいるものの、女性が受け入れられにくい理由の一つは、取っ手の部分が見つかりづらいからだ、というのが講師の説明だった。
関連して、政治の話にも及んだ。日本の政治家が中国に対して強く出られないのは、ハニートラップでかなり握られているからではないか、と。中国出張に行くと必ずそういう場所に連れて行かれる。弱みにつけ込むのが非常にうまい。相当握られている政治家が多いとよく聞く――という文脈である。
実際の商習慣としては、商談が終われば必ず食事、食事が終われば必ずKTV(カラオケ)というルートになる。参加者から「あそこはほとんど公安が入っているのでは」という指摘があり、講師も「入っているところは入っている。だから全部情報を抜かれている」と応じた。講師自身は、向こうへ行けば必ず連れて行かれるが、女性を指名せず、ひたすらカラオケを歌って帰るだけだったので「相当扱いづらかったと思う」と述べている。乾杯はするが、飲んだふりをして飲まない。食事も中国では一つの仕事なのでそこは乗るが、常に一線は引いているという距離の取り方である。
本節は、講義で語られた内容をそのまま記録したものである。ハニートラップや情報収集に関する記述は、講師および参加者が伝聞・経験として語ったものであり、本レポートとして事実認定を行ったものではない。また、特定の国籍や性別に関する一般化を含むが、これらは商習慣上の傾向として語られたものであって、個々人の性質を規定するものではない。実務上の含意は「相手が何を見返りに求めるかを事前に設計せよ」「弱みを作らない距離の取り方を決めておけ」という点にある。
もう一つ、実務的に重要な指摘があった。中国と一口に言うが、アメリカが「合衆国」であって一つの国ではないのと同じように、中国も省という一つの国が集まったものだと思ったほうがいい。中国人同士でも、どこ出身かで価値観がまったく違い、互いをよそ者扱いする。
言語の問題も同じである。沿海部なら英語が通じるが、内陸に行くとネイティブの中国人がいないと厳しい。貿易をやっている人なら大体英語を話すが、そうでない人もたくさんいるので、そういう場ではかなり苦労する。「中国市場」という単一の市場は存在しない、という前提を持てるかどうかが分かれ目になる。
1対80とは、1億人対80億人にビジネスをするという話。先細りなら80億人向けにビジネスをやったほうが合理的だ、というのは理解できるはず。
もう一つは、外国人の流入はどう考えても止められないということ。それに対応できるだけのスキルがあれば、逆に問題ないのではないか。中国人も来るし、インド人も来る。「日本は土地が安い」「人件費が安い」と言っていろいろな国の人が入ってきている。
そこで外国人が来たときに潰される国とそうでない国がはっきり分かれている。潰されるのは弱者。アメリカでもカナダでもヨーロッパでも起きている。強者側に立っている人たちは、むしろ彼らをうまく利用する側になっている。自分自身の能力が上がっているなら全く問題ないし、むしろ日本はうまくやれば稼げる市場。ただしずっと日本人と同じような同化的なことをやっていると、そういうところに巻き込まれてしまう。環境をどう利用するかが大事。
「別にそういう人たちを使わなかったとしても、外国人が入ってきたら外国人を使ったほうが安いし生産性が高い、だったらそっちでもいいと思います。」雇う人間を日本人にこだわる必要はない。
極端に言えば、トヨタの社長が日本人でなくてもいい。景気が良くなって売上が上がり、日本に税金を落としてくれるのなら。労働環境として何人を雇うかが制限されているわけでもない。そちらのほうが利益が上がるならそちらを選ぶ、というのが合理性である。
そして「経営とか事業をやっていると、合理的なやつが一番強い」。そちらに考え方をシフトするかしないかのほうが大事である。
その通り。日本人だけを雇っていたら、今後事業を大きくしたいときに制限されないか。中国人がいれば中国市場の開拓が楽になる。アメリカ人がいればアメリカ市場の開拓が楽になる。
同じように、近場の韓国企業も社長が外国人に変わっている(現代自動車など)。そうなればアメリカ市場が取りやすくなる。中国のSHEINやTEMUも、COOやCIOは大体アメリカ人やヨーロッパ人である。彼らはヨーロッパやアメリカ市場に進出しやすくなる入り口を作っている。それも一つの戦略である。
中国は何人だろうがそこを開拓できるならやる。韓国も同じ。だったら日本もそうしないとグローバル社会では勝てない。アメリカのほうが市場は大きく、中国のほうが大きく、ヨーロッパのほうが大きい。突破口が自分にないなら社内にリソースとして取り入れ、どうやって打開するかを考える。そうすれば戦略の幅が広がる。
営業も同じで、アジア人がヨーロッパに営業するよりアメリカ人を雇って営業させたほうが合理的なら、そちらを入れたほうがいい。自分の会社にとって何が最も利益に近くなるのかで人材を入れるのが最も合理的であり、人種も問わないしジェンダーも問わない。女性用下着を売るなら女性スタッフに営業させたほうが絶対にいい、というのと同じ理屈である。
その通り。ここから中国ビジネスの話に展開する。日本企業が中国に進出する場合、絶対に中国人を入れておかないと騙される。文化も違うし、日本人だけで中国で戦うのは無理である。
もう一人の講師の説明:中国人は縁(血縁・地縁)の生き物なので、必ず自分たちの側に内化する。内化できるように相手をどう使うかを常に考えているので、逆に自分たちがどう裏切られるかを想定している。日本人を雇うとき、裏切ることを想定して雇わない。それを想定してやれるかどうかが、ある意味で強者になれるかどうかである。
日本人は友達になったら「友達」で終わるが、友達には階層がある。階層を作って友達付き合いをしているか。経営者としては、労働者をどう見捨てるか、付き合い方まで全部直さなければならない。中国人を入れるメリットは、そういうところを学べるところにある。ただし授業料は非常に高い。
前の会社のオーナーが元々中国で商売をしていた人で、アパレルでGUなどに卸して大きな会社になった。中国で会社を立てたとき、まさにおっしゃる通り必ずナンバー2に中国の人を入れ、自分が付き合うよりその人のほうが分かっているので、付き合い関係は全部その人に任せてうまく関係値を構築していった。
そうでなければ本当に「騙すけど何か」という状態になる。それに文句を言おうが向こうは受け付けない。日本人の感覚では悪いように思うが、向こうからすれば「だから何」という話でもある。郷に入っては郷に従え、というところで中国での商売の考え方をその人からすべて聞いた。
今まで中国人とどれくらい付き合ってきて、この人が本当にちゃんとやってくるかどうかという感覚値になる。中国人はしたたかで、10年かけて人を騙すことも平気でやる。だから付き合ってきた数のパイによる。
講師自身は中国人と仕事をして損したことはなく、良いイメージしかない。ただし相当選んでいる。
よくある失敗は、日本人だけで中国人の優秀な人を採ろうとして、「日本語がうまい中国人」=「日本語がうまいだけ」なのに、すべてにおいて優秀だと見えてしまい騙されるパターン。これはインド系も同じで、日本人と同じように扱ったら絶対にダメ。彼らのメリットを必ず毎回与えること。彼らが「もらって当然」と思っているものを察知して先に与える能力がなければやめたほうがいい。あるいはそこを勉強し続けるかどうか。
もう一人の講師の補足:「中国人にこのことをさせたら何を見返りに求めるのかをちゃんと考えたうえで、彼らと取引をする。見えない取引です。これができなければ、取って返されます。」ただし使わずにはいられない。日本の商社は相当中国にやられているが、中国の法律で守られるので罰することができない。ということは決済方法まで全部ちゃんと作り上げなければならない。日本人のように「じゃあ送金します」は絶対にやってはいけない。貿易や決済システムを分かっていない商社は大体騙される。
講師の答え:もらう側はできるだけいっぱいもらっておけばいい。ただし売る側で、前金制度ならまったく問題ないが、そうでない場合は決済方法まで考えなければならない。その辺はかなりシビアである。
そんなにすぐうまくいい人に出会えたわけではない。10人近く痛い目に遭って、その中で経験値として、何を求めたら当たり前だと思っているのかを察知できるようになり、そういう付き合い方を学び、いっぱい失敗して、やっと見極められるようになって、いいパートナーに巡り合えた。相当大変だとは思うが、という補足つきである。
その通り。不可能の可能化である。中国人は「不可能を可能にする」ことを自分たちのアイデンティティだと思っているところがあり、日本人が外からどうやっても無理なところが、彼ら同国人ならOKになる。そういう独特の価値観があるから、自分が中国でできるとしても中国人に頼む。
参加者の言い換え:「人をコントロールするのに必要なフックは何かを常に探しているというイメージですね。」講師の同意と補足:「レアアースの発想もそこから来ているわけですからね。世界にとっての取っ手なんで、彼らにとっての。」
そして、人間は感情と欲で行動するから男性が引っかかりやすい。逆に女性は扱いにくいので、外国から来る女性経営者を中国の人はなかなか受け付けない。香港の知り合いも、女性経営者は中国のビジネスがやりにくいと言っていた。理由は弱みを見せないから。男は引っかけやすい。徐々に変わってきてはいるが、女性が受け入れられにくいのは取っ手の部分が見つかりづらいからである。
入っているところは入っている。だから全部情報を抜かれている。
講師自身は、向こうへ行けば必ず連れて行かれるが、女性を指名せず、ひたすらカラオケを歌って帰るだけだったので「相当扱いづらかったと思う」。乾杯はするが飲んだふりをして飲まない。食事も中国では一つの仕事なのでそこは乗るが、常に一線は引いている。
関連して、日本の政治家が中国に対して強く出られないのはハニートラップでかなり握られているからではないか、という話も出た。中国出張に行くと必ずそういう場所に連れて行かれ、弱みにつけ込むのが非常にうまい。相当握られている政治家が多いとよく聞く、とのことだった。