この回の講義は、エンベデッドネス理論(埋め込み理論)の話から始まる。講師(マイキー氏)はまず、この理論が扱っているのは「抜けられないような状況はどう作られ、どのように生み出されているのか」という社会との関係性の問題だと定義した。そして二つの厄介な性質を挙げる。第一に、埋め込まれていることには気づけない。第二に、気づけないだけでなく抜け出せない。強めたり弱めたりという結果は起こるが、意図的にコントロールするのは難しい――ただし過去の事例をなぞることで再現性高く演出することはできるのではないか、というのがこの回の出発点である。
講義の核心は、参加者の長谷川氏が投げた素朴な疑問から生まれた。産業革命の話と現代の話が混ざっていて分かりにくい、という指摘である。ここで講師が示したのが、この回で最も価値のある整理だった。エンベデッドネスという同じ言葉を使う二人の論者が、41年の隔たりを挟んで正反対のことを言っているという事実である。カール・ポランニーは、経済が社会から切り離されて市場原理主義になってしまったと警鐘を鳴らした。マーク・グラノヴェッターは、その40年後に「そんなことはない、いまも埋め込まれている」と反論した。パン屋を例に取ったこの説明は、二人の視点の違い――マクロと歴史 対 ミクロとネットワーク――を明快にしている。
ここから議論は現代へ折り返す。デジタル化やリモートワークは一見すると脱埋め込みの動きだが、勝っているのは埋め込まれている側だ、と講師は言う。GAFAMも、いったん社会の埋め込みから抜け出したように見えて、最終的には自分を強くするために再び埋め込みへ向かっている。Amazonはオンラインで埋め込みつつAlexaでリアルに埋め込みに行き、GoogleはPixelでリアルを取りに行き、Metaはスマートグラスで同じことをしている。脱埋め込みだと思った瞬間に、次の埋め込みが始まっている。したがって結論は「両方できる人間が一番強い」という、きわめて実践的な方程式になる。
この回を貫くのは「逃げるか、使うか」という選択である。脱〇〇という語が流行語になっている時代に、講師の答えは一貫して「逃げられないのだから使え」だった。冒頭の雑談で語られた「アナログ最強」という実感も、終盤の組織運営における厳しい詰めも、同じ線の上にある。人は自分に都合のいい埋め込みへ流れるだけであり、逃れようとするほど不幸になる。それなら自分がいまどういう埋め込みをされているのかを分解し、それを利用する側に回るほうが早い、というのがこの回の実践的な結論である。
この日の勉強会は、進行中の書籍プロジェクトの近況報告から始まっている。前田氏から「本屋から本が消えました」という報告があり、週末の売上が想定を超えていたこと、自分たち以外だけでも数百部が動いているらしいことが共有された。最初の2週間の目標は単純に達成できてしまうのではないか、という見通しである。講師はこれに対し、増刷分がまだ来ていない段階だと応じ、「これからマイキークラブの皆さんに徹底的な営業の力の差を見せようと思う」「手売りで1万売ります」と宣言した。この時点で40件のアポイントが入っているという。
関連して、卒業生の事例が紹介された。帽子屋を営む参加者が、クラブに来てから純利益が1億円を超えているという。当初は2〜3,000万円ほどだったものが1年で1億円を超え、それが継続している。講師はこれをダイナミック・ケーパビリティの実例だと位置づけ、「種まきをしておいてよかった」と述べた。
そして、この日の講義内容と直接つながる一言が出る。前田氏の「でもやっぱりアナログ強いですね」という感想に対し、講師は「アナログ最強ですよ」と即答した。データがきちんと開示されているのが見えるアナログデータがある、という話に、「絶対ズレが出てきますから、アナログと」と応じている。この短いやり取りが、後半の脱埋め込み議論の伏線になっている。
ほかに、前夜のDiscordでの雑談が朝7時まで続いたこと、ドイツから参加予定のメンバーの兄が大使館から接続してきたこと、Amazonがなぜ撤退したのかというテーマで取材を受けたこと、次はトルコを見たほうがよいという話などが共有された。加えて事務連絡として、今週土曜のサミット、プレゼンテーション指導の募集、入会半年以内のメンバー向けの「歩き方講座」の予定が告知されている。
「本屋から本が消えた」のは広告によってではなく、手売りと40件の営業アポによってである。書籍という商品が動いた経路は、人間関係のネットワークそのものだった。これはグラノヴェッターの主張――どんなにドライに見える取引も信頼と人間関係に左右されている――の実演になっている。講師が後半で「オンラインしかやっていない人は基本的に雑魚だし、リアルしかやっていない人も雑魚だ」と述べるとき、その根拠はこの日の売上報告そのものである。
本編に入って講師がまず示したのは、社会機能の階層という枠組みである。宗教、政治、経済、軍事といった社会の機能は、人体と臓器の関係のようにバラバラでは存在できない。どちらか一方しかないということもない。だがそれらは対等ではなく、上位に立つものと下位に立つものがある。しかもその位置は環境によっても時代によっても変わる。
階層の下へ行くほど機能重視になり、上へ行くほどナラティブ(物語)が必要になる、というのが基本の傾きである。そして機能重視のものほど周りとの繋がりが弱く、社会から離れやすい。物語重視のものほど繋がりが強く、離れにくい。講師はこの傾きをマックス・ヴェーバーの語彙に接続し、機能重視の方向へ行くことを脱魔術化、埋め込みを強くする方向を再魔術化と呼びうると述べた。
具体例として並べられたのが宗教・法律・経済である。宗教は階層の上、法律は中ほど、経済は下に来る。人体の比喩では、宗教は脳のようなもので、経済は血液のようなものだ――必要だが一部を取り出すことができる。ここから離れやすさと拡散のしやすさが導かれる。繋がりが強いものは離れにくいが広がりにくく、繋がりが弱いものは離れやすいが広がりやすい。講師はこれをネットワーク理論の語彙に置き換え、強い繋がりをデンス・ネットワーク、弱い繋がりをスパース・ネットワークと呼んだ。前者のイメージは親友であり、信頼は強いが増やしにくい。後者は道を歩いて次々に声をかけていくイメージで、広げやすい。
この枠組みを経済学史に当てはめたのが、この節でもっとも示唆的な部分である。アダム・スミスの時代の経済学は、いまのイメージより階層の上にあった。それがマーシャルでもっと下がり、ケインズでさらに下がる。階層上のポジションが変われば、理論そのものも変わるのではないか――これが講師の提示した見方である。宗教改革以降、経済や市場は社会から乖離していき、埋め込みが弱くなる。弱くなったものは繋がりやすく、独立して見えるものが繋がり合って巨大化する。そうして経済が社会を支配するようになり、それが産業革命へつながる、というストーリーが描かれた。
講師が用いた強い繋がり/弱い繋がりの区別は、マーク・グラノヴェッターの論文「The Strength of Weak Ties(弱い紐帯の強さ)」(1973年5月、American Journal of Sociology, Vol.78, No.6, pp.1360-1380)に由来する。同論文は、転職活動において親友や家族よりも「やや疎遠な知人」のほうが新しい情報や機会をもたらすことを実証した。緊密なネットワークは高度に冗長な情報を持つため探索にはほとんど役立たず、弱い繋がりは情報の冗長性が少ない、というのが論理である。社会ネットワーク研究で最も引用される論文の一つとなった。グラノヴェッターはスタンフォード大学社会学部教授である。
ここで長谷川氏が割り込む形で疑問を提示した。要旨はこうである――エンベデッドネス理論は1950年代にポーターと一緒に出てきた社会学の理論のはずで、産業革命の頃の話とはまったく違う時代の話ではないか。経営学でポーターが脚光を浴びた頃に社会学の側から出てきたが当時は目立たなかった。グラノヴェッターは、経済が人間関係の強い繋がり・弱い繋がりに左右されると言ったはずだ。ここが自分のなかで混ざってしまう、という指摘である。
講師の回答は明快だった。まず知っておくべきは、ポランニーとグラノヴェッターのあいだに40年の開きがあるということです。
この時期に何があったか。世界恐慌があり、ファシズムが台頭し、社会がボロボロになった。ポランニーが考えたのは「なぜ社会がこんなに壊れてしまったのか」である。答えは、経済を社会から切り離して市場の原理だけで動かそうとしていたからだ。かつて経済は宗教や政治に埋め込まれていたが、近代市場はそこから切り離された。市場が社会のルールを支配したことは人類史においてきわめて危険である、という警鐘。マクロで、歴史の大きな流れを語る立場。
ポランニーの概念を現代の社会学に復活させたのが「埋め込み問題」の論文である。命題は「市場は本当に社会から切り離されるのか」。答えは否。現在の経済活動は常に個人のネットワークのなかに埋め込まれている。どんなにビジネスがドライに見えても、結局は信頼と人間関係のネットワークで取引は左右されている。ミクロで、現代のネットワークの実態を語る立場。
講師はこの対比を、参加者にとって身近なパン屋の例で展開した。埋め込まれていた時代のパン屋では、店主にとって儲けも大事だったが、村の誰かが困っていれば――社会全体として埋め込まれているから――お返しに薪のようなものを渡そうとか、催しを手伝ってくださいとか、そうしたやり取りが生じた。街でのパンの販売そのものが村の人間関係の一部だった。それが市場原理主義へ移行すると、駅前チェーン店の店員と客のように、赤の他人同士がお金だけで繋がる状態になる。お金さえ払えば誰でもパンが買える代わりに、社会の絆や伝統は関係がなくなる。これが世界恐慌の時代であり、ポランニーが「繋がっていたものが離れてしまったのではないか」と論じた状況である。
ではグラノヴェッターはこれに何と返したか。講師の説明では、パン屋が小麦を仕入れるとき、毎回いちばん安い業者を選ぶのが市場原理である。しかし現実には「長く付き合っているから信頼できる業者だ」という理由で、コストではなく信頼関係で小麦を買っている。これは強い繋がりがあって埋め込まれているから起きる。だから市場経済がドライだというのは幻想であって、実際には蜘蛛の巣のように人間関係が張り巡らされ、そこに巻き込まれている状態なのだ、と。より現代的な例として、SNSで信頼しているインフルエンサーが勧めたからという理由で選ぶ行動も挙げられた。
講師はまとめとして「グラノヴェッターはすごくミクロに語っているのに対して、ポランニーはすごくマクロに語っている」と述べ、二人はそもそも視点が違うのだ、と整理した。長谷川氏は「グラノヴェッターばかりやっていてポランニーはほとんど勉強していなかった」と述べ、ポランニーを読んでみると応じている。講師はポランニーの代表作として『大転換(The Great Transformation)』を挙げ、そこに時代背景の前提が書かれていると案内した。
長谷川氏の「1950年代にポーターと一緒に出てきた社会学の理論」という認識は、公開されている書誌情報とは一致しない。
ポランニーの『大転換――我々の時代の政治的・経済的起源(The Great Transformation: The Political and Economic Origins of Our Time)』は1944年刊。グラノヴェッターの「Economic Action and Social Structure: The Problem of Embeddedness」はAmerican Journal of Sociology 1985年、Vol.91, pp.481-510に掲載された。したがって両者の隔たりは41年であり、講師が述べた「40年の開き」はほぼ正確である。一方、マイケル・ポーターの『競争の戦略』は1980年刊であり、いずれにせよ1950年代ではない。ただし「経営学でポーターが脚光を浴びた時期と、社会学でグラノヴェッターが出てきた時期が近い」という長谷川氏の時代感覚そのものは、1980年代前半という点で正しい。
グラノヴェッター1985論文の中身についても補足しておく。同論文は、近代産業社会においても大半の経済行為は社会関係の構造に埋め込まれていると論じ、利潤最大化を前提とする非人格的な一回限りの取引という想定を批判した。同時に、新古典派の「過少社会化(undersocialized)」された原子的な行為者像だけでなく、社会構造を持ち込もうとする論者の「過剰社会化(oversocialized)」な議論も批判している点が特徴である。埋め込みアプローチが広く普及したのは1990年代から2000年代初頭であり、グラノヴェッターとポランニーの双方の仕事がその基盤とされている。(出典:American Journal of Sociology、Stanford University Department of Sociology、Springer Nature Link)
講師はこの直後、両者の関係についてもう一段の留保を置いている。グラノヴェッターはポランニーの理論に対して批判的な意見の出し方をしているが、これはミクロとマクロ、長期と短期という視点の違いでもあるので、批判が当たっているかどうかには疑問が残る、というものである。ただしグラノヴェッターがポランニーの理論を受けてエンベデッドネス理論を構築したことは間違いない、と述べ、前田氏も「グラノヴェッターの論文には必ずポランニーが出てくる」と応じている。先に読んで比較してみるのも大事だ、というのが講師の勧めだった。
ポランニーの問題意識について、参加者の渡辺氏が長い補足を加えた。この回でもっとも思想史的な密度が高い部分である。
氏の説明はイギリスの歴史から始まる。教会権力が解体され、救貧法のような制度から「そこに所属するものには何らかの役割がなければならない」という社会制度が浸透した結果、それが人々を労働者へと駆り立てていった。本来ならば意味がなくてもそこにいるだけで、あるいはその社会に属しているというだけで何らかの存在の役割があったものが、「仕事をしない労働者ではいてはいけない」という価値観に置き換わった。そうすると安心してそこにいられなくなる。社会に溶け込むことができなくなる。それが、労働しなければ自分の時間や肉体を商品化しなければならないという不安に晒された人たちの始まりであり、資本主義の始まりでもある、という読みである。
渡辺氏はこれを国ごとの問題としても捉える。本来その地域社会に根ざした活動をすればそれで一つの経済として成り立っていたものが、市場を満足させる人間・労働・肉体労働を提供しなければならないという不安を植えつけられた。脱埋め込みとは精神的な駆動力の問題でもある――こういう人材でなければ生き残れない、社会に役立てない、という焦りを言われることで、社会の存立基盤が破壊される。文化を担う人や大道芸人のような、社会に濃く接するサービスを担っていた人々が「必要のない存在」と見なされてしまう。何の意味があるのか、どういう数字を上げているのかと常に問われないと生きていけない人たちを生み出し、人間の序列を作り、社会的な自己防衛反動を生んだ。
氏の結論は重い。こうした社会では、人間は常に恐怖に対して働くしかない。市場社会が圧倒的な難民を作っている、そしてその難民を受け入れるだけのセーフティネットを国はどう作っているのか、というのがポランニーの問いだった。それは一国の問題ではなく国際社会の問題として生まれ、それが大戦の理由の一つでもある。社会的に破綻したからこそ戦争が起こった。まず難民を受け入れる余地を作るのが先ではないか――そこがポランニーの危機意識だった、という説明である。長谷川氏はこれを受け、講師の言った「真逆」の意味がよく分かった、時代背景も明確になった、と述べている。
本節の内容は渡辺氏によるポランニー読解であり、ポランニーのテキストそのものの逐語的な要約ではない。ポランニーの評価は経済思想史のなかで割れており、「市場社会が社会を破壊した」という物語自体を過度に単線的だとする批判も存在する。本レポートは氏の見解として記録するにとどめる。
ここから講義は現代へ折り返す。講師はまず、埋め込みという言葉が持つネガティブな響きを指摘した。「洗脳されている」「脱〇〇」といった語――脱金融化、脱政治、脱なんちゃら――が昨今のトレンドワードになっている。そこから抜け出すことは一つのメリットかもしれないが、デメリットもあることをちゃんと理解しなければならない、というのが出発点である。
とくにテクノロジーは脱埋め込みの風潮を伴って現れる。デジタル化により、人に会わなくても営業ができ、店を持たなくても物が売れ、オフィスに行かなくても仕事ができるようになった。これは確かに脱埋め込みである。ところが、と講師は続ける。結果として勝っているのは、埋め込まれた側なのだ。営業はインターネット上よりリアルのほうがよく、販売もネットより直接プレゼンテーションしたほうが成約率が高く売上も上がりやすい。優秀な人たちはリモートワークではなく、みんな会っている。冒頭の雑談で語られた「アナログ最強」がここで理論と接続される。
講師の見立てはさらに踏み込む。脱埋め込みの側へ流れる人たちには無能な人が多いのではないか。そしてそちらへ流れる人が多くなるほど、逆側では合理的な人たちによる強いコミュニティが形成され、それこそが格差を生む一つの流れになっているのではないか、というのである。マーケティングを含めてすべてをインターネット上だけで完結させようとする発想への批判が、ここに込められている。
そして最も鋭い観察が続く。プラットフォーマーと呼ばれる企業も、いったんは埋め込みから抜け出していった側である。しかし最終的に自分たちを強くするために、再び埋め込みの方向へ流れている。それがいまのGAFAMでありマグニフィセント・セブンだ、というのが講師の読みである。
長谷川氏はこれに強く同意し、マグニフィセント・セブンはむしろ埋め込みに徹しているように見える、と応じた。検索ならGoogle、買い物ならAmazonという形で、極端に、グローバルに、徹底的に埋め込みを作っている状態である。だからグラノヴェッターよりもさらにマクロな水準で、会社としてはミクロだが社会的にはマクロにも埋め込まれている。時代背景によって埋め込みのスタイルは進化していくのではないか、というのが氏の見立てだった。
| 企業 | 脱埋め込みとして始まった領域 | その先で行われている再埋め込み |
|---|---|---|
| Amazon | オンラインの買い物という領域で社会の従来型商流から離脱 | 買い物という行為に深く埋め込みつつ、Alexaでリアルの生活空間に入り込む |
| オンライン検索という領域での離脱 | 検索に埋め込みつつ、Pixelなどハードウェアでリアルを強化 | |
| Meta | SNSという領域で社会から脱埋め込み | SNS上で埋め込まれた先に、スマートグラスでリアルにも入り込む |
| NVIDIA | GPUというリアルのハードウェア | リアルで埋め込みつつ、Omniverseなどソフトウェア側でも埋め込む |
参加者の一人から、Appleのジーニアス(Apple Store)はアナログ的な埋め込みで、iOSのような便利すぎて出られない状態は機能的な埋め込みだと思うが、この二つの違いがポランニーとグラノヴェッターの違いにあたるのか、という質問が出た。講師の答えは「そういう話ではない」である。埋め込みには機能的な埋め込みも感情的な埋め込みもあり、種類が複数ある。そのうえで、結局は人が都合よく見ているだけだという渡辺氏の見解が正しいと思う、と述べた。
講師の議論はここで一つの命題に収束する。日本という社会に埋め込まれているとして、外に出たとしても結局は他の国で埋め込まれる。人間は都合のいい方にしか流れず、結局どこかに埋め込まれる。ならば、埋め込まれた上でどう勝つかを考えたほうが早い。
逆に埋め込まれないようにするとどうなるか。まず場所的な制約があり、次に経済的な制約がある。経済的制約から逃れようとして新しい通貨を作ろうとするのが仮想通貨のような動きだが、結果としてうまくいかない。それも経済圏の中で成り立ってしまっているからである。常に通貨を通さなければならない以上、完全な脱は無理であり、脱をしようとするほどその人は不幸になる。脱を試みて現実から目をそらすこと自体が、いま起きている思考の問題ではないか、というのが講師の診断だった。
ここで町田氏が「あるかないかだと思っていたが、そうではなく、ずっと埋め込みは大きくあり続けているということですね」と確認し、講師は同意した。「埋め込まれたくない」と感じている時点で、すでに十分に埋め込まれている、というやり取りである。「埋め込まれていない人はいるんですか」という問いに対する答えは「それは無理です。不可能です」だった。
唯一の方法として冗談混じりに挙げられたのが「無人島で裸で生活すること」である。社会インフラを使った時点で埋め込みに入るので、インフラから完全に離脱しないと無理だ、と。ここに渡辺氏が哲学的な釘を刺した。ハイデガーの語彙で言えばそれもありえない、というのである。人間は他者という存在を前提としなければ存在できない。一人でいるとしても、それはコミュニティの一人であり、「いま自分はそれを持っていない」と意識しなければ一人でいることすらできない。自分が一人で生きるためには他者の分を自分一人で埋めなければならないと意識せざるを得ないのだから、埋め込みを意識しないで生きることは人間には不可能である。仮に一人でいたところで、他者がいた前提の埋め込みを一人でやっているに過ぎない――そういう補足だった。
渡辺氏が「ハイデガーで言うと」として述べた内容は、現存在(Dasein)が本質的に「共同存在(Mitsein)」であるという『存在と時間』の議論に対応すると読める。ただし、これは氏の口頭での援用であり、特定の箇所を典拠として示したものではない。本レポートでは、氏がその趣旨で発言したという事実を記録するにとどめ、テキストとの対応の厳密な裏取りは行っていない。
講師がこの回で繰り返し述べた結論が、両方できる状態である。彼はこれを前回から言い続けていることだと前置きしたうえで、次のように整理した。デジタルが強ければアナログに行き、アナログが強ければデジタルに行く。この行き来ができる能力を持っている人が一番強い。どちらか一方に振り切っている状態、偏りが出まくっている状態こそが格差を生む。
具体例としてGoogle、Netflix、Facebookはまさにこれをやっており、リアルも強くしていると述べた。逆にアナログ企業の最強格としてGEを挙げ、GEもデジタル化へ向かい、またアナログへ戻ろうとしている、と指摘している。これはモデルのサイクルと同じで、デジタル上とリアル上でただ繰り返されているだけの話だ、という読みである。
「オンラインしかやっていない人は基本的に雑魚だし、リアルしかやっていない人も基本的に雑魚だ。じゃあ両方できたら最強じゃないか。埋め込まれる部分も最強だし、埋め込まれていない部分も最強だ――どっちに行ったとしても結局勝てる。これがレジリエンスにつながってくる」
この「行き来できる」という能力の重視は、この回だけの主張ではない。埋め込みを理解すればそれを使えるかどうかの話になる、という講師の言葉がその根拠である。町田氏との対話で講師はこう述べている――自分たちがいまどういう埋め込みをされているのかを分解すれば、その埋め込みを利用して導く方向に使える。目線としては、埋め込まれる中でどう合理的に生きるかのほうが大事なのではないか、と。
講師の言う「デジタルとアナログの両方ができる状態」は、経営学における両利きの経営(ambidexterity/探索と深化の同時追求)の枠組みと形が似ているが、この回では両利きの経営という用語は使われていない。あくまで講師独自の整理として記録する。また「オンラインだけの人は無能/雑魚」という表現は講師の断定的な言い回しであり、リモートワークやオンライン専業の生産性については実証研究でも評価が分かれている。本レポートは氏の見解として記録し、価値判断としては採らない。
講義の終盤、進行中のプロジェクトに関する実務的なやり取りが行われた。この回の記録として重要なので、内容を要約して収録する。
あるメンバーがミーティングに参加せず、進捗の報告も行っていない状態が続いていた。講師はこれを公開の場で問い質した。移動していたので入れなかった、報告できなかった、見られなかった、という説明に対して、講師は一つずつ矛盾を潰していく。Zoomの講義には出られている、Discordのリアクションスタンプは押せている、講義中に文章を打ち込むことはできるはずだ、メモも取っていないなら時間はあったはずだ――という具合である。最終的に「自分勝手な行動をしていた」ことを本人に認めさせ、求めることは三つだけだと明示した。返事をすること。出るか出られないかをはっきり判断すること。報連相で、やったことを上に報告すること。
この場面は、それだけを見れば厳しい叱責である。だが講義本編の文脈に置くと別の意味が見えてくる。報連相とは、組織という埋め込み構造への接続そのものである。接続を怠った個人は、本人の自覚とは無関係に周囲のネットワークに負荷をかける。講師が「あなたが情報を固めておいて誰が得するのか」と問い、本人が「誰も得しない」と答える一連のやり取りは、埋め込みの中で合理的に生きるとはどういうことかの実演になっている。なお講師自身、この日の詰めは「3%くらいしか詰めていない」と述べており、指導の一形態としての演出も含まれている点は差し引いて読む必要がある。
続いて前田氏から、リーダーを信じてやってもらえないか、という趣旨の要請があった。一人一人で見る視点と全体から見る視点はまったく違う。その人にとって良いことが全体を壊すこともある。いまのリーダーたちは講師の伝えていることを最大限やるために動いており、基本的に不満はない――少し長期的に見てほしい、というものである。
最後に、手伝ってくれているメンバーの一部から「マイキーさんおすすめの株式10銘柄を教えてほしい」という依頼があったことが共有された。前田氏は「そういうお願いをすること自体がありえない」と述べ、講師も一貫して同じ立場を取った。「上がるのが重要ではなく、なぜ上がったのかが重要である」という一言がその要約である。上がる傾向の話はしているが、重要なのは自分でリサーチできるようになることであり、それがなければ自分がいなくなったときにどうやって稼ぐのか、という問いが投げられた。講師は皮肉として「教えましょうか、その代わり手数料はもらいますけどね。それだとマイキークラブがいらなくなる」と述べている。
この一連のやり取りは勉強会内での方針表明として記録するものであり、投資の推奨や助言ではない。講師も具体的な銘柄の提示は行っていない(会話中に一度SpaceXの名が冗談として挙がるが、未上場である旨がその場で確認されている)。本レポートの読者においても、投資判断は各自の責任において行われたい。