この回の後半、講義が終わってから約47分間続いたディスカッションは、単なる質疑応答の域を超えている。前半で提示された弁証法という枠組みが、参加者それぞれの実務――事業相談、論文執筆、組織改革、宗教理解――に持ち込まれ、そのつど枠組みの適用範囲が検証されていく。結果として、この時間帯は「弁証法をどこまで使ってよいのか」を確定させる作業になった。
最も鋭い指摘は、マイキー氏が繰り返し戻ってきた「命題のすり替え」である。ソクラテスの対話法は、質問と答えを繰り返しながら相手の矛盾を引き出し、より深い真理に到達する方法であって、その過程で明題(議論の対象そのもの)をすり替えるとは一言も言っていない。ところが大抵の人は、明題をすり替えることによって自分の逃げ道を探す。これが、議論が建設的でなくなり、つまらなくなる最大の原因だ、という指摘だ。
もう一つの核心が、論破で勝敗が決まってしまうのはなぜかという問いである。マイキー氏の答えは意表を突く。論破された側が負けなのではない。論破された側であってもジンテーゼにたどり着くことができれば、その人も勝ちである。では論破で勝敗が決まってしまうのはなぜか――それはテーゼの側がそこから何も生み出せなかったからであり、ジンテーゼに繋ぐことができなかったからだ。あるいは、感情的にアンチテーゼを認めることができなかったからだ、と。
そして、この二つの罠を回避するために示された処方箋が「どうでもいい」という態度である。渡辺氏はこれを、対話における自己正当化の問題として深掘りした。多くの議論は、自分を正当化する根拠を探すか、相手の根拠をどう不確かなものとして切断するかに費やされている。本来の議論の目的は、お互いが次のステージに行けるジンテーゼを見つけることのはずなのに。自分が学んできたことや正当化を、どれだけ手放せるか。それが上手に議論する方法である、というのが渡辺氏の結論だった。
「ジンテーゼは次のテーゼに変わる」――マイキー氏がこの議論パートの冒頭で提示したこの一文が、全体を貫いている。ジンテーゼは終着点ではない。それは次のテーゼに変わり、そこにまたアンチテーゼが生まれ、またジンテーゼに変わる。これはサイクルの話なのだ、と。人間の歴史はこうやって成長してきたし、ビジネスも同じである。だとすれば、議論の目的は「正解に到達すること」ではなく「サイクルを止めないこと」になる。命題のすり替えも、論破による勝敗も、自己正当化も、すべてこのサイクルを途中で止めてしまう行為として、同じ一つの罠のバリエーションとして説明される。
議論は渡辺氏の発言から始まる。マイキー氏が「アンチテーゼで一番重要なのは、なぜその感情がそこで生まれたのかだ」と述べたことを受けて、渡辺氏はこう応じた。感情が動くというところは、僕たちの認知の限界でもある、と。
そこからの論理展開が重要だ。認識の限界というものを自分で設定することは、どうしても不可能である。自分の外側は、定義上、自分では見えない。だからこそ、もう一つ対話という形式を持って相手から聞き出すしかない。そして引き出すためには質問力が要り、さらにそれに対して相手とそういう関係を結べるソーシャルスキルが求められる。
ここから渡辺氏は、この日の主題に接続する。だとすれば我々は、積極的にジンテーゼへ向かうというだけでなく、まずアンチテーゼを求めなければいけない。それは自分にとってすごく大きな試練でもあるし、負荷がかかることでもある。しかし僕たちは、どうしても先に解決策を欲しがってしまう。そういうショートカットを避けなければならず、もっと理性的に言語化しなければならない、と。
前田氏もこれに同意する。先に解決案を求めてしまうところは確かにある。でもきちんとプロセスを踏んでいきましょう、と。それがないと、実はいい提案がされていたとしても、そこに対して自分の中の認識の限界・認知の限界の内部でしか、新しい答えや選択肢を受け取れなくなってしまう。結果として、どこかでアドバイスをアドバイスとは違った形で実行していくことにつながるのではないか、と。「結構多く見られますよね、こういうことね」という一言が添えられている。
「アドバイスを受けたのに、なぜか違う形で実行されている」という現象は、指示の伝達ミスや理解力の問題として処理されがちだ。しかしこの議論が示しているのは、受け手の認知の限界の内側でしか新しい選択肢は受け取られないという構造的な制約である。だとすれば、アドバイスする側にとっての課題は「分かりやすく伝えること」ではなく、「相手の認知の限界そのものを一度動かすこと」――つまり相手にアンチテーゼを立てさせることになる。この論点は、後半のPART 6で「アンチテーゼを生み出させる」という提案力の話として再登場する。
マイキー氏はここで、弁証法の構造そのものについて重要な補足を入れる。ジンテーゼで会計(=完結)ではない。ジンテーゼはテーゼに変わる。そうするとまたそこにアンチテーゼが生まれ、またジンテーゼに変わる。これはサイクルの話なのだ、と。
人間の歴史はこうやって成長してきた。ビジネスも同じである。テーゼが生まれ、アンチテーゼが生まれ、ジンテーゼができ上がる。それがまた妥当性を獲得していき、テーゼに変わり、またアンチテーゼが生まれてくる。
そのうえで、マイキー氏はこのサイクルを実感するための「教材」を二つ挙げた。一つは『新世紀エヴァンゲリオン』、もう一つは『ファイナルファンタジーXVI』である。
「使徒」というテーゼに対して「人間」というアンチテーゼが生まれることによって、最終的に人間がどこにたどり着くのか。主題歌「残酷な天使のテーゼ」をカラオケで歌ってから、それが何を意味しているのかを考えて本編を観るとよい、というのがマイキー氏の推奨する順序である。
特に20話以降、主人公の内面の葛藤が延々と表現され続け、最終的に何になるのか。そこまで来ると「人類補完計画」の意味が分かってくる、と。
神が作った世界というテーゼに対して、人間が自我を持ってしまうというアンチテーゼが生まれる。その結果として何が生まれてしまったのか。それがこの作品の中身になっている、というのがマイキー氏の読みである。
PS5用ソフトとして紹介されている。
なぜフィクションを教材にするのか。マイキー氏の理由は明快だ。人間社会ではこのサイクルが体感しにくい。なぜなら動きがそんなに速くないから。産業が変わるのに10年、20年かかる。ところが物語であれば、それが十数時間で完結した形として提示される。だから追体験できる、と。
渡辺氏もこれに応じ、世界に避けられる自分と、世界を祝福したい自分――そういう自己の内的葛藤が見えるという意味ではすごくいい、と評価した。「追体験できると思うんですよ」というのが両者の一致点だった。
マイキー氏は『新世紀エヴァンゲリオン』の総尺について「13時間半で全てが完結している」「18時間半」という二つの数字を挙げているが、文字起こしの該当箇所は音声認識の乱れが大きく、どの範囲(TVシリーズのみか、劇場版を含むか)を指しているかが判別できない。ただし数字の側から、どちらの範囲を指していたかは推定できるようになった。
TVシリーズは1995年10月から1996年3月にかけて放送された全26話で、本編の総尺は約10時間25分である。したがって「13時間半」はTVシリーズだけでは届かない。一方、これに劇場版(『DEATH&REBIRTH』および『Air/まごころを、君に』)を加えるとおおよそ13〜14時間になる。マイキー氏の言う「13時間半で全てが完結している」は、TVシリーズ+旧劇場版という範囲を指していたと読むのが整合的である。「18時間半」のほうは、さらに新劇場版シリーズまで含めた場合に近づく数字だが、当日の文脈からはどちらを念頭に置いた発言か確定できない。TV版の尺を特定
『ファイナルファンタジーXVI』の発売は2023年6月22日、プラットフォームはPlayStation 5である。マイキー氏が「PS5用ソフト」として紹介した点は正確である。照合済み
とはいえ、ここで数字の精度が問われる必要はあまりない。マイキー氏の議論の骨子――「産業の変化は10〜20年かかるので体感できないが、物語なら十数時間で一つのサイクルを追体験できる」――にとって重要なのは、10時間だろうが18時間だろうが「産業の20年」に比べれば桁違いに短いという一点である。ここで機能しているのは時間圧縮によって構造を可視化するという方法論であり、この点は数値の当否と切り離して受け取れる。
ここからが、この議論パートの中心である。きっかけは参加者の一人が投げた問いだった。要旨はこうだ。ヘーゲルのやり方は、テーゼとアンチテーゼを設定していく形なので一番やりやすい。一方でソクラテスとマルクスのやり方は難しい。ソクラテスはどちらかというと明題をどう作るかという話であり、マルクスは明題自体をぶち壊す、明題そのものを疑うということをやっている。だから実務的にはヘーゲルが一番使いやすいのではないか。
そのうえでこの参加者は、自分の実務上の観察を付け加える。ビジネス上で一番問題になるのは、目の前にある明題を解決しなければいけないところを、ずっと感情で避けていることではないか。いろいろアイデアを出しても結局解決しないよな、という話に直面することが最近多い、と。
マイキー氏の応答が、この回で最も切れ味の鋭い部分になる。
ソクラテスの対話法は、質問と答えを繰り返しながら相手の矛盾を引き出し、どれだけ真理深く到達するかという方法であって、そこに対して明題をすり替えることは一言も言っていない。
でも大抵の人たちは何をするかというと、明題をすり替えることによって自分の逃げ道を探す。
これが一番、建設的じゃない会話になってつまらなくなる原因である。
この指摘は、単に「議論のマナー」の話ではない。マイキー氏はこの後、命題のすり替えが起きる場面を次々と具体化していく。事業相談を受けても、大抵この会話のコミュニケーションが成立しない。またはその場で気づいても、ジンテーゼに持っていく前にテーゼに戻るか、明題を自ら、知らないうちに変えている状態を作っている。そういう状況になっている以上は、おそらく何も話が進まず、結果として「建設的な会話は一切ございませんでしたね」という状態になって終わる。
そして踏み込んだ一文が続く。「勝手に自分のアンチテーゼだと思っているものが、実はあなたにとってはテーゼになってしまっているよね、という状態になっている。」これがおそらく一般の人たちの思考回路であり、ビジネスをやっている人たち、特に近代社会では非常に多い、と。
命題のすり替えと並ぶもう一つの罠として提示されたのが、論破の問題である。前田氏が「弁証法はどちらが正しいかの話ではないし、もちろん折衷案でもない。議論を通してより良いものに発展させるところだ」と整理したのを受けて、マイキー氏が論破について展開した。
理論上で言えば、論破するしないという言葉がある。論破したほうが勝ちという状態になってしまうのはなぜか。それは、論破された側がジンテーゼにたどり着けていないからである。逆に言えば、論破された側であってもジンテーゼにたどり着くことができれば、結果としてその人も勝ちである。
ではなぜ論破で勝敗が決まってしまうのか。マイキー氏の答えは二つある。①テーゼの側がそこから何も生み出せなかったから。ジンテーゼに繋ぐことができなかったから。②感情的にアンチテーゼを認めることができなかったから。これが議論におけるポイントになる、と。
そのうえでマイキー氏が提示したのが、この回で最も引用されやすい一文である。
「最強の考え方があるんですよ。このアンチテーゼを受け入れる。『どうでもいい』です。」
こだわりをどうでも良くすれば、アンチテーゼは受け入れられる。結果としてジンテーゼへ持っていける。ただこれだけの話である、と。
マイキー氏はこれを、AIとの対比でも説明している。算数で理解できない人が世の中にはいる。そういう相手を放っておくと、感情的に許せないという状態になる。これが一番たちの悪い人である。AIならそこは合理的に判断する。しかし人間には感情があるので、感情をそこに出さないためには「どうでも良くならない限り無理」なのだ、と。つまり「どうでもいい」は投げやりな態度ではなく、感情という変数を意図的に落とすための技法として提示されている。
渡辺氏はこれを受けて、議論の目的論から補強した。大体、対話をしている中で人は自分を正当化する根拠を探しているか、あるいは相手の根拠をどうやって不確かなものにするか、そこを切断しようとしている。それが議論と言われているものの実態のほとんどではないか、と。
しかし本来の議論の目的は、お互いにとってその議論が両方を次のステップ、次のステージに行けるジンテーゼを見つけることである。ところが我々はそこができていない。相手の根拠を壊すこと、そこを切断すること、それが不正確であると証明することによって自分の正当化をしようとしている。あるいは自分の経営判断の正当化を、自分の判断や目標の正当化をしようとしている。ここに尽きるから、「どうでもいい」という考え方になれないのではないか。
だから、学びを得るというところに我々がある意味自分の判断を一度フラットにしてみる。自分が学んできたことや正当化を、どれだけ手放せるか。それが上手に議論する方法である。議論というのは実は結構大事なことを言っていて、相手に対する敬意といったところも大事になる、と。論破しようという心づもりでやっていると、なかなかそれは生まれてこない感覚ではないか、というのが渡辺氏の締めだった。
マイキー氏が「明題のすり替え」と呼んでいるものは、伝統的な論理学では論点のすり替え(ignoratio elenchi/irrelevant conclusion)と呼ばれる誤謬に対応する。相手の主張とは別の、しかし表面的には関連して見える論点を論証して、あたかも元の主張を論駁したかのように振る舞う手法である。
興味深いのは、この誤謬のラテン語名 ignoratio elenchi に含まれる elenchi が、まさにソクラテスの問答法(エレンコス/elenchus)に由来する語だという点である。直訳すれば「反駁が何であるかを知らないこと」。マイキー氏が「ソクラテスの対話法は明題をすり替えるとは一言も言っていない」と述べたのは、語源のレベルまで正確な指摘だったことになる。
また、より狭い形としてストローマン論法(藁人形論法)がある。相手の主張を弱い形に作り替えてから攻撃するもので、マイキー氏が言う「勝手に自分のアンチテーゼだと思っているものが、実はテーゼになってしまっている」状態は、自分自身に対してストローマンを立てている状態と読める。照合済み
用語の出所と定義を確認した。ignoratio elenchi(無関係な結論、論点相違)はアリストテレスが『詭弁論駁論(On Sophistical Refutations)』で挙げた13の誤謬のひとつである。定義は、結論そのものは真でありうるし論証として妥当でありうるが、実際に争われている論点に答えていないという形式の誤りを指す。
アリストテレス自身の規定が、この回の議論に直接効いてくる。アリストテレスによれば、ignoratio elenchi は「反駁の本性についての無知」から生じる誤謬である。ある主張を反駁するには、その主張の矛盾命題を証明しなければならない。元の主張とそれ以外の関係に立つ命題を証明したところで、それは ignoratio elenchi にしかならない、と。つまりこの誤謬は「間違ったことを言う」誤りではなく、「何を証明すれば反駁になるのかを取り違える」誤りである。
この定義は、マイキー氏の指摘の精度をさらに裏づける。マイキー氏は「ソクラテスの対話法は明題をすり替えるとは一言も言っていない」と述べた。エレンコスが「相手が認めた別の命題と矛盾することを示す」という手続きである以上、そこで示されるべき矛盾は元の主張に対する矛盾でなければならない。命題をすり替えた瞬間、それはエレンコスであることをやめて、ignoratio elenchi――エレンコスが何であるかを知らないこと――になる。語源が示していたのは類似ではなく、まさに正反対の関係だった。
命題のすり替えの具体例として、マイキー氏はアナログとデジタルの関係を持ち出した。この論点は既存の勉強会レポートで別途詳しく扱われているため、ここではこの回の文脈に必要な範囲にとどめる。
要旨はこうだ。ビジネスの根本はアナログにある。人間世界の明題もすべてアナログにある。アナログが強いからこそ、それをさらに強くするためにデジタルがある。それによってさらにアナログが強くなっていく、という循環を繰り返す。
ところが多くの人がやっている流れは違う。アナログの明題を無視してデジタルへ行き、デジタルがアンチテーゼになっていない状態で、そのままテーゼになってしまっている。これが大抵の人のデジタル活用の仕方だ、というのがマイキー氏の指摘である。自分たちは全員アナログ上で生まれてしまっているので、デジタルはアナログを補完する立場でしかない。デジタルネイティブ世代であればアナログを活用してデジタルをさらに強くし、アナログがコンテンツに変わる。しかしデジタルがコンテンツだ、というのは明題ではない。
そこから、根本的なビジネスはすべて営業で始まっている、デジタルマーケティングも含めてすべては営業を強くするための流れを作るのがマーケティングである、という主張に接続した。営業やプレゼンテーションが弱い人がビジネスをやるべきでない理由は、まさにこのすり替えを行っているからだ、と。
前田氏がこれを受けて要約している。デジタルとアナログのどちらが正解かでしか考えていないから、どちらを前にするかの話になってしまい、ジンテーゼが生まれるわけがない。
議論の中盤、参加者の一人(ビジネススクール出身者)が強い反応を示した。「イノベーションが弁証法のジンテーゼだというところまで来たのは、私はビジネススクールで何を勉強していたのかと思ってしまった」という感想である。パラドックス理論も出てきたが、イノベーションで人も会社も苦労しているのに、弁証法をもう一度きちんと勉強しないといけないのだと目から鱗だった、と。
そのうえでこの参加者は、自身の研究経験から一つの気づきを述べる。哲学者たちはそれぞれ生きている世代も歴史背景も違う。だから前の人の考えをテーゼとして、自分がアンチテーゼになり、自分でジンテーゼを作って新しい論を作る、ということをしているのではないか。というのは、社会学の論文を書くときにテーマ選定で困ると、必ず「過去の論文を擦れ(=先行研究をなぞれ)」と指導される。過去の論文は今の現状にそぐわないから、そこを研究して書けば新しい論文になり新しいセオリーになる、と。「これ、弁証法で論文のテーマを決めていたんだな」と思い出しました、という発言だった。
ここでマイキー氏は、自分も同じことを言われた経験があると認めたうえで、その指導法にかなり懐疑的な考え方を持っていると述べる。理由は明快だ。過去の論文をなぞるだけでは、結果としてアンチテーゼを生まないからである。
マイキー氏にとって重要なのは、論文の中で、今までの既存のものに対してどのようにアンチテーゼを出すのかという点だ。それができてはじめて価値のある論文になる。ということは、論文の作り方もアンチテーゼ気味に書いたほうがいい、ということになる。
そのうえで、具体的な方法論が提示される。おそらく論文を擦って書くと80点が取れる論文になる。では、アンチテーゼ的なものを作るために一番簡単に引っ張り出す方法は何か。マイキー氏の答えは学問の横断だった。
別の学問から理論を引っ張ってきたうえで、それを対象に合わせる。そうすると、今までの理論に対して必ずアンチテーゼが生まれる。
ただし、それ自体が120点になる論文かもしれないし、20点にしかならない論文かもしれない。このバランスのところがすごく重要になる、というのがマイキー氏の留保である。
この技法は、マイキー氏自身の説明スタイルにも表れている。「マクロ的なもので言ったらミクロで例える。逆にミクロ的な話だったらマクロに例え直す」――これがまさに学問的な横断を考えることだ、と本人が述べている。
先の参加者もこれに応じ、実務的な難所を指摘した。120点や200点になるのは相当ハードルが高くて、大体は擦っている分には合格点がもらえる。だからみんな何となく可愛げのある文章になってしまって、アンチテーゼの分が弱い。アンチテーゼが弱ければ当然、結果としてジンテーゼも弱いものになる。そういう論文がほとんどだし、自分もそんなものを書いたと思っている、と。
さらに、この参加者はより本質的な問いを立てる。アンチテーゼまでは何とか一般的にも考えられる。過剰な書き方でわーっと書ける。しかしジンテーゼを作るのは実はすごくハードルが高くて、ひらめきや、そのグラウンドの知識、経験値がないと作るのが難しいのではないか。この辺はどうやって磨いていったらいいのか。これがPART 6の起点になった。
この議論の最後で、マイキー氏と参加者が両者の思考様式の差を非常に簡潔に定式化している。マイキー氏の言葉では、MBAやビジネススクールでやっているものは「1+1=2 をどうやって綺麗に書くのか」という話であり、自分の場合は「1+1=2 は当たり前だよね、の中でどうやって作るのか」を先に考える。ただこの違いだけだ、と。
この対比は、この回の主題と正確に対応している。前者は与えられたテーゼの内部で精度を上げる作業であり、後者はテーゼそのものにアンチテーゼを立てる作業である。合格点(80点)は前者で確実に取れるが、120点は後者からしか出ない。ただし後者は20点になるリスクを常に伴う。マイキー氏が「このバランスのところがすごく重要」と留保をつけたのは、この非対称なリスク構造を指している。
なお、学問の横断という方法論は、経済モデルの数理化やデータサイエンスの導入がすでに学問の横断そのものである、という点をマイキー氏自身が指摘している。数学や科学の手法が経済学に持ち込まれた時点で、横断はすでに起きている、と。
「ジンテーゼを作る力はどう磨くのか」という問いに対して、マイキー氏はまず前提を組み替えた。自分が持っているテーゼに対して、どうやって相手にアンチテーゼを生み出させてあげるのか。それが提案の力である。質問者が「アンチテーゼを生み出させるんですね」と確認したのに対して、マイキー氏は「そうです」と応じている。
ジンテーゼを作る能力を磨くのではなく、相手にアンチテーゼを生み出させるような提案をどう設計するかを意識しているかどうか。これが大事だ、というのが答えの骨格である。そして、その実演として長い比喩が展開された。
マイキー氏の展開はこうだ。生物には寿命があり、食物連鎖があり、サイクルがある。基本的に生き物は生まれて死ぬ。同じように会社も、どこかで生まれて死ぬ。会社には厳密な寿命はないが、あるといえばある。大抵の会社が潰れていくからだ。
では100年、150年、200年生きている会社は何をやってきたのか。マイキー氏はここで、現代医療に接続する。アンチエイジングやDNA編集といったものがいずれ入ってくると、寿命も健康でいられる時間も長くなる。健康でいるためには美容に行ったほうがいい、血液をきれいにしたほうがいい。外部的な要因を体に注入することで、その人の寿命が長くなる。これは体の改造をしていることになる。
会社も同じではないか、というのがマイキー氏の主張である。体そのものを生物が改造するように、会社も改造していかなければならない。汚い血になるならきれいにする。肝臓や臓器そのものが汚くなったら、全部新しい臓器に変える。そうすればまた長生きできる。
そして本題に接続する。いまやっている会社が属する産業には終わり時期がある。寿命が来たら終わる。それに対応するためには、医療でいうゲノム編集と同じように、会社自体もゲノム編集を行うことによって長生きさせる。それがおそらく組織改革になる。
いまの状況を見れば、古い産業のものがたくさんあって、いつ潰れるか分からない、いつ死ぬか分からない。だとすればゲノム編集が必要であり、臓器の入れ替えが必要だ。だから組織編成が大事なのだ――という説明ができる、と。
マイキー氏はこの比喩の直後に、その使い方を自己解説している。「バカなやつは『生物と会社を一緒に例えないよ』という話になるが、これは生体でも経営学でも両方説明できている内容なので、合点がたくさんある」。
そのうえで実務への落とし込みが示される。会社が今ゲノム編集を必要としている。臓器を切り替える必要がある。それと同じように、会社自体の考え方を変える必要があるから、人材を変える必要がある。評価制度を変える必要がある。これがまさにゲノムの編集である、と。
さらに強烈な切り返しが続く。「長生きしたいと言いながら、ゲノム編集や治療は受けたくありませんと言っているのと同じ」。ここに新しい臓器がある、ここに健康的な血がある、ここにいい皮膚移植があると言われているにもかかわらず、「いや、私はこの姿のままで長生きしたいんだ」と言っていたら、死ぬと思うでしょう、と。本当に長生きしたい人ならちゃんと治療も受けるし、予防もしているはずだ。
質問者はこれを受けて、ゲノム編集をやるやり方にもアンチテーゼの部分――これがいけない、これがダメだというのを全部洗い出して、設計をしっかり作っていかないといけないということですね、と確認した。マイキー氏は同意し、こう締めている。すべての動作自体が減点、またはキープになるという前提で考える。どんどん減点されていくのだから、それを改善したらまた加点される、という考え方で持っていくのが、会社の経営でも生命でも大事なのではないか、と。
質問者の最後の一言は「ちゃんとパーツで分解して考えるのも大事だなと今思いました。パーツで分解しながら、ちゃんと横を見ながらという感じですね」だった。
注目すべきは、この生物学的メタファーがPART 5で提示された「学問の横断」の方法論を、その場で実演したものになっている点である。マイキー氏は組織論(経営学)に対して生物学・医学の枠組みを持ち込み、その重ね合わせによって「組織編成が必要だ」という主張へのアンチテーゼ的な説得力を生成している。質問「ジンテーゼを作る力はどう磨くのか」に対して、答えを説明するのではなく、その場で一つ作ってみせるという応答形式がとられている。
なお、企業を生命体になぞらえる発想は経営学に前例がある。アリー・デ・グースの『The Living Company(企業生命力)』は長寿企業の共通点を生命体の比喩で論じたもので、組織エコロジー論も個体群生態学の枠組みを組織に適用した理論群である。照合済み
書誌情報を特定した。アリー・デ・グース(Arie de Geus)の『The Living Company』は1997年刊行で、同年3〜4月号の『ハーバード・ビジネス・レビュー』に同名の論文版が掲載されている。もとになったのは、デ・グースがロイヤル・ダッチ・シェルの戦略計画部門の責任者だった時期に社内で実施させた調査であり、同書は1997年のブーズ賞(最も革新的で洞察に富む経営書に贈られる賞)を受賞している。
中身も、この回の文脈にきれいに接続する。デ・グースは、平均的な企業の高い死亡率を生き延びた組織を「リビング・カンパニー(生きた企業)」と呼び、多くの企業が若くして死ぬのはその方針と実務が経済学の思考と言語に偏りすぎているからだと論じた。シェルの調査チームが抽出した長寿企業の4つの特徴は、環境に敏感であること、強いアイデンティティを持ち結束していること、寛容であること、財務において保守的であることである。
マイキー氏が組織論に生物学・医学の枠組みを持ち込んだこの場面は、経営学の系譜としても孤立していない。デ・グースの主張の核が「企業を経済的機械ではなく生きた労働共同体として扱え」というものである以上、企業を経済モデルだけで捉えることこそがテーゼであり、生命体のメタファーはそれに対するアンチテーゼとして機能してきたという読み方ができる。マイキー氏がその場で実演してみせたのは、この学史的な対立の縮図でもある。
議論の途中、参加者の一人が具体的な経営者の名前を挙げて確認を求めた。弁証法を聞いていて、ジョブ理論や、アンディ・ジャシー氏のAWSへの移行はそういう流れになっていたのではないか。前回の課題でジャシー氏を調べていると、かなりつながると感じた、と。
ただし、この参加者には引っかかる点があった。サティア・ナデラ氏はかなり理論的なところから、文化や理想論を提示して、そこから組織を作り直したように見える。それはどちらかというとヘーゲル的なのではないか。これについて意見はあるか、という問いである。
マイキー氏の応答は「おっしゃる通りだと思います」から始まる。ただし、と続けた。ナデラ氏が一番大事にしたのは指針だが、彼はアンチテーゼを作りまくった。
その根拠として挙げられたのが、「何でも知っている状態」というのをまず目標としてやめよう、という方針である。その時点でアンチテーゼなのだ、と。凝り固まったものを全部解体していったわけではないか。今までの経営方針をすべて破壊していったのだから、あれはまさにアンチテーゼである、と。
質問者はこれに納得し、「変なところに固執しないでという、そこはすごく重要だったんですね」と応じている。
マイキー氏が挙げた「何でも知っている状態をまずやめよう」という方針は、サティア・ナデラ氏が2014年のマイクロソフトCEO就任後に繰り返し用いた "know-it-all" から "learn-it-all" へ という定式に対応する。すべてを知っている(know-it-all)文化から、すべてを学ぼうとする(learn-it-all)文化へ。これはキャロル・ドゥエックのグロースマインドセット(成長型思考)を組織文化の中核に据えたものとして知られる。
つまりマイキー氏の指摘は、ナデラ氏本人の言明とほぼ一語一句対応している。質問者が提起した「ナデラはヘーゲル的(思考が先にあり、そこから組織を作り直す)ではないか」という見立ても筋が通っているが、マイキー氏の反論もまた成立する。ナデラ氏が最初に立てた指針そのものが、既存のマイクロソフト文化に対するアンチテーゼだったからである。ヘーゲル的なトップダウンの理念提示と、マルクス的な既存体制の解体は、この事例では同時に起きている。
なお、ナデラ氏とマイクロソフトの事業設計については、同じ2025年11月7日に公開された別の勉強会回で詳しく扱われている。本レポートでは、この回の主題である弁証法の適用例として言及される範囲にとどめた。
議論の終盤、参加者の久保氏から、この回で最も枠組み自体を試す質問が出た。要旨はこうだ。宗教はまさに明題としてテーゼになっていると思うが、そのアンチテーゼや矛盾、反対権を用いて止揚するというのは、宗教的な分野だと難しいのではないか。
マイキー氏の即答は「でも宗教は何度も改修していますよ」だった。イスラム教も改修されている。聖書も変えられている。そのうえで、久保氏が「昔のものがずっと残っている場合はどう考えればいいのか。カトリックも残っているし、全部がイスラム教になっているわけではない」と食い下がる。
ここで渡辺氏が別角度から整理を入れた。成立そのものが、人間世界がテーゼなのだ。そして宗教的な教えそのものがアンチテーゼとして示されている。それが信仰と生き方になる。だから、そもそもの設定として我々は、人間世界をより細かく見て、より問題を解するということのテーゼとして、自分の力量や人間性、人間の限界というものをどこで見つけるか――これはAIも同じではないか、と。人間の限界を示すところにおいて、次のアンチテーゼがそれをどう解決するのか、そこにその力の源泉があるのかを知る。だから人間世界そのままがテーゼで、宗教的な言説がアンチテーゼとして理解されているのではないか、と。
久保氏が「なかなかジンテーゼに持っていくところが難しいと思う」と重ねると、マイキー氏は「めっちゃ簡単じゃないですか」と応じ、一気に整理してみせた。
| 段階 | 内容 | マイキー氏の説明 |
|---|---|---|
| テーゼ | 古代ユダヤ教 | 一神教としてユダヤ教が存在した。モーセの十戒を中心に信仰が広まったが、民族的な宗教であり、選民思想が強調されていた |
| アンチテーゼ | イエス・キリスト | ユダヤ教の枠を超えて、すべての人を救うための普遍的な宗教観が必要だと提唱した |
| ジンテーゼ | キリスト教の成立 | 普遍的な救済を掲げる新しい宗教が成立した |
| 新しいテーゼ | カトリック教会 | ローマ教皇を中心とした中央集権的な教会体制 |
| アンチテーゼ | 宗教改革 | ルターやカルヴァンによるカトリック批判 |
| ジンテーゼ | プロテスタント | 結果として生まれたのがプロテスタント。宗教そのものがアンチテーゼの産物である |
久保氏の「昔のカトリックやユダヤ教を強く信じている人たちもいるのでは」という点についてのマイキー氏の答えは、それはそれで真実としておけばよいというものだった。そこに対して分派が生まれていったことがアンチテーゼから生まれており、新しい宗教が生まれた。人間がずっとあって会社がずっとあるのと同じことで、昔のものが残っていても、すべてが置き換わるという意味に捉えないほうがいい、と。
この議論には重要な留保が加えられている。「会社みたいに、より合理的にどんどん」という久保氏の言い方に対して、マイキー氏は「宗教で一番言っちゃいけない。合理性は求めちゃいけないですよ、宗教に」と釘を刺した。
理由の説明はこうだ。人間は普通、罪なく生まれてくる。しかし常に人間にはアンチテーゼがある。キリスト教の場合は、過去に背負った罪というものを人間が被っている状態から始まる。だからそこに対して救いがあり、最終的に信仰がある。罪がない状態で生まれているのに、罪を被っている。聖書を読むと、人間は昔に罰を犯したから寿命が短くなった、といった記述がある。すでにそこを被っている状態から始まる。この辺が経営とはだいぶ違う点である、と。
マイキー氏はさらに、これを思考として扱っても全く別のベクトルになる話なので、断片的に考えるといくらでも話が広がるが、いくらでもまとまらなくなる、と述べている。「ここはビジネススクールなので、一応ビジネスに落とし込んだというだけの話です。別にいいんですよ、宗教だったら宗教でバンバン話しますけど」というのが締めだった。
久保氏が最終的に問いを整理し直す。「どの分野、どの領域まで活用できるのかというところのご意見を聞きたかった」。これに対する渡辺氏の回答が、この回における弁証法の適用範囲の確定にあたる。
本当に、問題を問題として認識するというところまでが、このゴールなんです。ですから、それ以上の真理を探求するというものではこれはない。
そもそも人間をどう定義するか、我々が使っている「1+1」という理性は、ある意味どこかで認知の合理性・不合理性を生んでしまう。だから、世の中の始まりが何であるかといったことを尋ねるのに、弁証法は適さない。
人間の問題の立て方、あるいは問題の解決、あるいは矛盾というものを見つけたところに、それをどうやって克服していこうかというところに適用するのが弁証法である。弁証法は、そんなに万能な方法ではない。そこはまず理解していただきたい。
久保氏は「一見矛盾とか、何か相対するものが生じたときに、どう解決していくか。そういう捉え方のときに使える手法なんですね」と確認し、渡辺氏が「それを確認するのは僕たちの五感であるとか認知ですよね。それに即してしかこの論は作れないので」と応じて、この論点は決着した。
なお、マイキー氏は久保氏の質問自体を分析対象にしている。なぜその質問が出てきたのかも理解できる。それはまさに久保氏の現在のテーゼであって、すべてを「1+1=1」に持っていこうとする質問の形になっているからだ、と。ある考え方をすべての分野に当てはめられるのかという問いは、すべての経済指標や企業指標がすべての業界に当てはまるかという問いと同じ構造である、というのがマイキー氏の指摘だった。
セッションの最後、前田氏が「やっぱりただ言うのではなく、何を元にしているのかを知らないことには結局話ができない」と振り返り、この日の議論を受けて次はマックス・ウェーバーをやったほうがいいのかもしれない、と述べた。マイキー氏は「僕は新世紀エヴァンゲリオンをまず見ていただきたいです、本当に」と返している。
そこから短いが密度の高いやり取りがあった。前田氏は、弁証法は「生み出すのを目的にしていない」というか、そのプロセスの中で結果を生み出せるものがある、という言い方をする。そしてこう続けた。どこかで進化論のようなものに繋がってくると思っている。だからやっぱり無駄を出さなければいけない。それを無駄と呼ぶのが適切かどうかは分からないが、と。
渡辺氏がこれを受けて、進化論を弁証法の語彙で言い直した。進化とは偶然と必然の自己撞着ではないか、と。偶然的に生まれたものを、どうやって必然的な枠組みに組み込めるか。それに対してルーティンができて、それをどうやってまた破壊していくか。それは自己破壊もあるし、自然界からの到来による破壊もあるし、変異ということもある。しかし、それをどうやって目標づけるか、あるいはうまく自分の理想にするか。その発想の転換そのものに、ある意味この進化がある。
だからそれは一元的な活動ではなく、二つの相反する動きを自分のものに統合する見方であり、そういう自律的なあり方である、と。そう考えるならば、まったく打算的あるいは自己本位的なものに議論が収縮しない。必ずこの自己撞着がある、と。
ここで前田氏が最後の一言を引き出す。「結果を求めたら、書いてはダメなわけですね」。渡辺氏の答えは「そうです。結果を先取りはできないですね」。多くの人は結果を先に置いて、それに対してどうするかという問いの立て方をする。それではそもそもジンテーゼを呼び込まない、と。
PART 1で渡辺氏が指摘した「先に解決策を欲しがってしまう」という癖と、PART 9の「結果を先取りはできない」は、同じ一つのことを言っている。議論の入口と出口で同じ指摘が繰り返されたことになる。
そのうえで前田氏が加えたのが「無駄を出さなければいけない」という視点だ。進化における変異のほとんどは無駄になる。しかし変異を止めれば進化も止まる。アンチテーゼの大半は使えないが、アンチテーゼを出さなければジンテーゼは生まれない――マイキー氏が「120点になるか20点になるか」と述べたバランスの問題が、ここで進化論の語彙に翻訳されている。
締めの連絡事項として、翌日に懇親会があること、翌週にマイキー氏がイベントでピッチに立つこと(都内・関東圏の参加者への来場呼びかけ)、翌週の講義は水曜日ではなく月曜日になる可能性があること、11月末に帯広で合宿があること、2026年2月か3月にマイキークラブ公式合宿を計画していることが告げられ、セッションは終了した。
質問者は、時代背景としてまずどういう明題を作るかという触発があり、その後に「そもそもの明題があるところで、じゃあ逆をやってみよう」というのがヘーゲル、「そもそもの明題のほうが頭でっかちなことを言っているんじゃないか」というところから始まったのがマルクス、と自分の理解を整理した。そのうえで、ビジネス上で一番問題になるのは、目の前の明題を解決しなければいけないところをずっと感情で避けていることではないか、と実務的な観察を述べている。
マイキー氏の応答は、ソクラテスの対話法は相手の矛盾を引き出して真理に到達する方法であって、明題をすり替えるとは一言も言っていない、というものだった。しかし大抵の人は明題をすり替えることで自分の逃げ道を探す。これが一番、建設的でない会話になる原因である、と。質問者は「いろいろアイデアを出しても結局解決しないよな、という話に直面することがあって、今日の話を聞いてこういうところなのかなと思った」と応じている。
すべてを捨てて、結局アンチテーゼの側にばかり行ってしまう人がいるのではないか、という問いである。マイキー氏の回答は「いいんじゃないですか、普通に。でもそれ、アンチテーゼにしか行かないやつ。この共感性のない人間なので」というものだった。質問者は「まあ、いませんね。わかりました」と引き取っている。
マイキー氏「受け入れるときにどうでもいい。そっちのほうが合理的だよね」。質問者はこれを、テーゼのところで自分の理論が正しいということに固執してしまうと、アンチテーゼにも最終的なジンテーゼにも行き着かない。その流れのためには「どうでもいい」という価値を自分の中で受け入れておかなければいけない、ということですね、と確認した。マイキー氏「そうです。それが一番合理的だよね、というのが」。
ビジネススクールで学んだ経験を持つ参加者からの感想である。イノベーションの作り方と全く同じであり、パラドックス理論も出てきたが、イノベーションで人も会社も苦労しているのに、弁証法をもう一度きちんと勉強しないといけないのだと改めて思った、と。マイキー氏の指導によって今までの知識も根本から覆されると感じた、という発言だった。「ビジネススクールは全然こんなに掘り下げて哲学から入っていかない。全部繋がっちゃうんだな」というのが率直な感想である。
社会学の論文を書くときに「過去の論文を擦れ」と指導されたこと、過去の論文は今の現状にそぐわないから、そこを研究して書けば新しいセオリーになると言われたことを思い出した、という発言である。「これ、弁証法で論文のテーマを決めていたんだな」と。
マイキー氏は自分も同じ指導を受けたと認めたうえで、その方法にかなり懐疑的だと述べた。過去の論文を擦るだけではアンチテーゼが生まれないからである。重要なのは、既存のものに対してどうアンチテーゼを出すのかであり、論文もアンチテーゼ気味に書いたほうがいい。擦って書けば80点は取れるが、120点にするには学問の横断が最も簡単な方法だ、というのが回答だった。
ひらめきや、そのグラウンドの知識、経験値がないとジンテーゼを作るのは難しいのではないか、という問いである。マイキー氏は問いの立て方そのものを組み替えて答えた。自分が持っているテーゼに対して、どうやって相手にアンチテーゼを生み出させてあげるのか。それが提案の力である。そして、それを生み出させるようなものをどう作り出すかを意識しているかどうかが大事だ、と。
その実演として、生物の寿命と会社の寿命を重ねるゲノム編集の比喩が展開された(PART 6参照)。質問者は最後に「ちゃんとパーツで分解して考えるのも大事だなと思いました。パーツで分解しながら、ちゃんと横を見ながらという感じですね」と応じている。
ジョブ理論やアンディ・ジャシー氏のAWSへの移行は弁証法的な流れだったと思うが、サティア・ナデラ氏は理論的なところから文化や理想論を提示して組織を作り直したので、どちらかというとヘーゲル的ではないか、という問いである。
マイキー氏は「おっしゃる通りだと思います」としつつ、ナデラ氏が一番大事にしたのは指針だが、彼はアンチテーゼを作りまくったと反論した。「何でも知っている状態」をまず目標としてやめよう、という時点でアンチテーゼである。凝り固まったものを全部解体し、今までの経営方針をすべて破壊していったのだから、あれはまさにアンチテーゼだ、と。
宗教はまさに明題としてテーゼになっていると思うが、そのアンチテーゼや矛盾、反対権を用いて止揚するのは宗教的な分野だと難しいのではないか、という問いである。
マイキー氏は「宗教は何度も改修していますよ」と即答し、ユダヤ教→キリスト教→カトリック→宗教改革→プロテスタントという二段の正反合を提示した(PART 8の表を参照)。ただし宗教に合理性を求めてはいけないという留保が加えられている。人間は罪なく生まれてくるのに、キリスト教では過去に背負った罪を被っている状態から始まる。ここが経営とは根本的に違う点である、と。
この回で弁証法の適用範囲を確定させた質問である。渡辺氏の回答は明快だった。問題を問題として認識するというところまでがゴールであり、それ以上の真理を探求するものではない。世の中の始まりが何であるかといったことを尋ねるのに弁証法は適さない。人間の問題の立て方、問題の解決、矛盾を見つけたところにそれをどう克服するか――そこに適用するのが弁証法であり、そんなに万能な方法ではない、と。
マイキー氏はさらに、この質問が出てきた理由自体を分析している。それは久保氏の現在のテーゼであって、すべてを「1+1=1」に持っていこうとする質問の形になっている。ある考え方をすべての分野に当てはめられるのかという問いは、すべての経済指標や企業指標がすべての業界に当てはまるかという問いと同じ構造だ、と。
締めくくりのやり取りである。前田氏は、弁証法は生み出すことを目的にしているのではなく、そのプロセスの中で結果を生み出せるものがある、と述べ、どこかで進化論に繋がると思っている、だから無駄を出さなければいけない、と続けた。
渡辺氏はこれを、進化とは偶然と必然の自己撞着である、と言い直した。偶然的に生まれたものをどう必然的な枠組みに組み込むか、それに対してルーティンができ、それをどう破壊していくか。二つの相反する動きを自分のものに統合する見方である、と。前田氏の「結果を求めたら書いてはダメなわけですね」に対する渡辺氏の答えは「そうです。結果を先取りはできないですね」だった。