利益が2倍になっても給料は2倍にならない。この事実を「経営者が悪い」と読むか、「分配率で見ると立場が反転する」と読むか。マイキー氏はデータの見方を一度ひっくり返し、そこから世界のCEO交代率という別の指標に接続した。数字が多い回なので、発言と公開データの照合を重点的に行っている。
この回のマイキー氏の議論は、余剰の話から始まっている。余剰があるということは、どちらかに余裕があるということだ。互いに得をするという方程式は成り立たず、必ずどちらかが得をしてどちらかが譲る幅がある。だとすれば格差社会こそが余剰を最大化しているのではないか――この問いを、国内総所得に対する企業利益と労働報酬という二つの比率で検証していく、という構成である。
事実関係の骨格はこうだ。S&P500の純利益率は長期平均で6%弱だったものが2020年以降に10%を超え、直近ではさらに上がっている。一方、国内総所得に占める労働報酬の比率は過去数十年で最低水準にある。つまり企業は過去最高に儲かっているのに、その利益は賃金として出ていっていない。差額は資本に流れている。ここまでは公開データと整合する(詳細は後述の照合を参照)。
マイキー氏はこの構造の起点を、労働集約型から知的集約型への転換に置いた。IBMが最強と呼ばれていた1980年代、同社は40万人以上を抱え、ハード設計から製造・販売・導入後のコンサルまで垂直統合していた。テクノロジーがない時代だから人が要り、人が増えるほど売上が上がり、だから金が均等に分けられた。人数が増えるから一人あたりの給料は上がらないが、総額としては労働に配分された。この構造が壊れたのがIT以降である。利益が2倍になっても人数は2倍にならない。10%も増えない。だから差額は資本に行く。
ここから議論は反転する。「給料が低いのに労働分配率が高い会社」の社員は、絶対値では損に見えるが、分配率で見れば会社の稼ぎ以上に守られている。逆に「一人あたり生産性が桁違いに高いのに賃金がそれに追いついていない」大手テック企業の社員こそ、分配率で見れば最も不公平を被っている。マイキー氏の言い方では「実は一番不公平なものを受けているのはNVIDIAの社員」である。この反転を提示したうえで、彼は「僕はどっちが正しいとも言っていない」と明確に留保している。主張は絶対値だけで公平を論じるなということであって、賃上げ要求が不当だという断定ではない。
マイキー氏が最初に置いた数字は三つである。第一に、S&P500の平均純利益率が1989年からの25年ほどで5.85%程度だったのに対し、2020年を超えてから10%を突破していること。第二に、国内総所得に対する企業の労働報酬、つまり会社員に払う給料の比率が過去40〜45年で最低であること。第三に、企業利益の比率は逆に過去最大になっていること。インフレで給料が上がったように感じていても、利益から見れば最悪である、という言い方がされた。
純利益率5.85%。裏付けが取れた。T. Rowe Priceの整理では、2024年末時点のS&P500の年末平均純利益率は9.75%であり、これに対して1989〜2015年の平均は5.85%である。発言の数値と期間はほぼそのまま一致している。
「今マックス2024年度の15.何%」。食い違いここは公開データと合わない。FactSetの集計では2024年第4四半期のS&P500の純利益率は12.1%であり、5年平均の11.6%は上回るものの15%台ではない。同社が2009年の集計開始以降で最高と報じたのも2026年第1四半期の13.4%である。発言を書き換えず、食い違いとして記録する。「異常値と言えるほど高い」という論旨自体は12〜13%でも成立するが、15%という水準は現時点で確認できない。
労働分配率が「過去40年で最低」。こちらは発言のほうが控えめだった。米国の統計では、賃金・給与が国内総所得に占める比率は2024年に約42.8%まで低下し、福利厚生を含む広義の指標も2025年第3四半期に53.8%、2026年第1四半期に54.1%と、いずれも統計開始の1947年以来の最低水準にある。40年ではなく約80年ぶりの低さである。同時期、税引後企業利益は国民所得の12.3%(戦後平均は7.3%)を占め、2026年第2四半期の税引前利益は4.8兆ドルと過去最高を記録している。構造の向きは発言のとおりで、程度はむしろ発言より強い。
マイキー氏は40年前の世界最強企業としてIBMを挙げ、当時の姿を「ハード設計をやり、製造もし、販売もし、納品後の企業コンサルまで自社完結する垂直統合型」と描写した。従業員は40万人以上。テクノロジーがなかったから人が必要で、人がいるほど売上が上がる。この構造では人数が増えるほど総額として金が分配される。「いっぱい人がいていっぱい売上るからみんな均等に金が分けられた」時代である。
IBMの従業員数は1985年に405,536人でピークを打ち、1990年末には373,000人台まで減少している。「40万人以上」という発言は正確である。一方NVIDIAは2025会計年度末時点で38か国に約36,000人。「3万人しかない」という発言もおおむね一致する。人員比で約11分の1という関係になる。
要確認ただし「当時IBMは純利益率11〜13%を出していた」という数値は、1980年代のIBM単体の純利益率として今回は裏付けが取れなかった。当時のIBMが高収益企業だったこと自体は広く知られているが、具体的な率は原典(アニュアルレポート)で確認する必要がある。
続いて示されたのが、生産性上昇率と中位層の実質賃金上昇率の対比である。戦後から1970年代半ばまでの30年ほどは、生産性の伸びが96%に対して中位実質賃金の伸びが91%。ほぼ連動していた。ところがコンピュータ革命・IT革命・インターネット革命を経た期間になると、生産性が72%伸びたのに対し中位実質賃金は8.7%しか伸びていない。2000年以降の15年で見ると、生産性21%に対して賃金1.8%である。
図:生産性の伸びと中位層の実質賃金の伸び(講義中の数値。EPIの推計と照合済み・単位%)
米Economic Policy Institute(EPI)の推計では、1948〜1973年にかけて典型的な労働者の時間あたり報酬は生産性とほぼ歩調を合わせて伸びた。ところが1973〜2014年では生産性が72.2%(年1.33%)伸びたのに対し、典型的労働者の報酬は年0.22%、期間全体で9.2%しか伸びていない。講義で挙げられた「72%対8.7%」はこの推計とほぼ一致する。乖離が決定的になったのは1979年以降とされる。
なおEPIのこの推計には、生産性のデフレーターと消費者物価の違いや、中位値と平均値の差をどう扱うかをめぐる方法論上の批判もある。数字を使う際は「生産性は事業部門の産出価格ベース、賃金は消費者物価ベース」という基準の違いがあることを添えておくのが安全である。
ここからがこの回の中心的な論法である。給料1000万円の人と300万円の人を並べれば、絶対値では前者が得をしている。しかし、利益が2倍になったのに1000万円しかもらっていない人と、利益が落ちているのに300万円が固定されている人では、どちらが優遇されているのか。マイキー氏の答えは後者である。会社が儲かっていないのに給料を担保してもらっているのだから、「めっちゃいい会社じゃん」となるはずだ、と。
マイキー氏はこの見方を自分にも適用している。「会社の利益が2倍になったなら、俺の給料も1.1倍ではなく1.5倍にしろ」と自分なら言う、と。しかしほとんどの人は言わない。絶対値でしか見ていないからである。そして自身がストックオプションも報酬も最後まで受け取らないと言っているのは、資本分配率を上げるためだ、と説明した。
この議論に渡辺氏が別の軸を差し込んだ。マーシャルの言う「貧困」は、競争の結果としての強者と弱者のことではなく、ケーパビリティ(潜在能力)の欠如を指す。社会における生産者余剰と消費者余剰を最大化することの意味は、社会の余力を生み出し、社会のケーパビリティを高めることにある。したがって貧困の解決とは、能力の底上げによって社会全体の組織力を高めることであって、結果の平準化ではない、と。
マイキー氏はこれを受けて、ケーパビリティが欠如しているのに富を求めること自体が合理的でない、と応じ、渡辺氏は「それが貧困なんです」と返した。二人の合意点は「その状態を貧困と呼ぶ」という一点であり、そこから先の処方箋(能力を育てるのか、要求を却下するのか)については、この場では分岐したまま終わっている。
「貧困=ケーパビリティの欠如」という定式は、正確にはアマルティア・センの潜在能力アプローチ(capability approach)に由来する。センが1980年代に体系化したもので、貧困とは所得の不足ではなく、基本的な潜在能力を確保できていない状態=capability deprivation である、と定義する。機能(functionings=実際に「できていること」「なれていること」)と潜在能力(capability=それを達成する実質的自由)を区別するのがこの枠組みの核である。要確認マーシャル自身が同じ語で貧困を定義していたかどうかは今回確認できなかった。マーシャルが貧困と人格形成の関係を重視したことは知られているが、capability という術語での定式化はセン以降のものと理解しておくのが安全である。
もう一点、マイキー氏はピケティに触れた。資本収益率が経済成長率を上回る(r > g)ため、労働で得る所得より資産運用のほうが速く伸び、富が集中していく、という指摘である。渡辺氏はこれを教育資本の問題として引き取った。なお、発言中で書名が「20世紀資本論」と語られたが、正しくは『21世紀の資本』(Le Capital au XXIe siècle、2013年フランス語版、2014年英訳)である。
ここでマイキー氏は論点を切り替えた。公平性を最も早く実現する方法は何か。みんな格差だ差別だと言い、経営者が悪いと言う。ならばいまのアメリカ企業を見てほしい、と。2024年から2026年にかけてCEOの交代率が異常に高い。時代の境目だからである。AI主導への転換が起きているのに、いまの時代に属さない経営者が居座っているなら交代させる。それが世界で起きていることだ、という主張である。
そのうえで日本に矢を向けた。日本ではPC革命のときもIT革命のときも経営者が変わらなかった。アメリカでは大半が外部からの流入だったのに、日本ではそれが起きなかった。だから「見せしめで考えるなら、社員を合理的に判断して首を切っていくというなら、まず経営者から替わらなければおかしい」。上が変わらず下だけが切られるなら、それは権力の一方的な行使であって、社員が不満に思うのは当然だ――という論理である。
この節でマイキー氏が挙げた数値は三つある。「経営者を替えろという株主要請が世界で1.9倍に増えた」「日本の経営者交代率は3.5%程度で、世界の6分の1から7分の1」「CEO交代時、後任は平均して15歳ほど若い」。さらに、米国では60歳以上のCEO任命数が3分の1に減り、最多層は50〜59歳、次いで40〜49歳になっている、という主張が続いた。
交代の活発化そのものは裏付けが取れる。2025年はアクティビスト起因のCEO交代が記録的な年となり、米国ではキャンペーン開始から1年以内にCEOが辞任した件数が32件、直近4年平均を60%上回った。うち16%はS&P500構成企業である。米国のアクティビスト活動全体も記録的水準にあると複数の年次レビューが報告している。
ただし「60歳以上のCEO任命が激減し、若返っている」という部分は、公開データと逆である。食い違い2026年に報じられた米国データでは、CEOの平均年齢はむしろ上昇しており、平均61歳、20年前の約51歳から10歳上がっている。就任時の平均年齢も47歳から55歳へ上がった。「CEOは60代が新しい標準になりつつある」という見出しで報じられている状況であり、「60代以上の任命が3分の1に減った」という発言とは方向が合わない。発言を書き換えず、食い違いとして記録する。ただし、業種を半導体・ソフトウェアなどの技術セクターに限れば別の傾向が出る可能性はあり、マイキー氏が見たデータの母集団が公開統計と異なる可能性も残る。ここは元データの特定が必要である。
日本側。2025年の上場企業社長の平均年齢は58.7歳で、年代別では60代が43.1%と最多。全国の企業ベースでは60.8歳で35年連続の最高更新である。「日本の社長は高齢」という発言の方向は裏付けが取れる。一方、「外部から連れてくるCEOが過去最多」という点については、欧米でもCEOは主に内部昇格であり外部採用は約2割にとどまるという調査があり、外部招聘が主流という理解は補正が必要である。要確認「1.9倍」「3.5%」「15歳」の三つの数値については、出所となる統計を特定できなかった。
マイキー氏はもうひとつ、経営者に求められる経歴の変化を挙げた。これまではサプライチェーンマネジメントとCFOが重宝されてきたが、いま最も求められているのはCOO(チーフ・オペレーティング・オフィサー)である。自分たちが持つ技術と、今後取りうる手段を、どう実装するか。その経験を持つ経営者が求められている、と。AIが実務に降りてくる局面では、構想ではなく実装の経験が効くという読みである。
この節の締めくくりに、マイキー氏はホームデポの経営者のインタビューを引いた。安定期には人材を安定させてよいが、不景気またはそこへ向かおうとしている時期にはCEOは変わるべきである、経営陣も入れ替えたほうがいい、と語っていたという。要確認この発言の出典(誰の、いつのインタビューか)は特定できなかった。ただし論旨は前田氏の講義(安定期の理論と混乱期の理論では方向性が違う)と正確に対応している。
参加者から出た指摘が、この日の議論に折り返しを作った。経営の合理化とクリティカルシンキングはトレードオフではないか、というものである。渡辺氏はこれを肯定した。安定系の合理化を進め、知の深化にばかり集中していると、そこから統一を外れて出てくる批判的思考を排除する方向に行ってしまう。だからこそ外部から移植しなければならず、その移植によって初めて企業としての均衡が取れる。ただし日本でこれをやるには、社会全体としての相当な覚悟が要るだろう、と。
マイキー氏はここでプライベート・エクイティと外国人投資家の話に接続した。外国人が株主になっても、日本人かどうかに関係なく合理的な社長を連れてくるほうが日本企業のためになる、と。渡辺氏は「雰囲気社会そのものを変えてしまう」効果を認めた。
もう一点、参加者から日本企業の統治に関する指摘が出た。日本の会社には「会社は株主のもの」という前提がなく、創業者やトップの持ち物という感覚が染みついている。それが抜けないとトップが替わりにくい、という見立てである。マイキー氏は1970年代以降に銀行が大量に株式を持ち、結果として何も言わない取締役会ができあがって同じ人が居座り続けた、という構造を挙げてこれに応じた。
終盤、参加者(町屋氏)から、この日の議論と過去のセッションを重ねた質問が出た。IBMとNVIDIAの違いは、要するにファブレスになるほど有利ということなのか。生産力を持たなくてもある程度有利に進むということか。そして、相手にとってスイッチングコストが高く、やめられないものを持つことが大切だという話に聞こえた――と。
そのうえで町屋氏は、マイキー氏自身が作った仕組みは「一人NVIDIA」ではないか、と接続した。工場もファクトリーも何も持たない。ストラクチャル・ホール(構造的空隙)に位置取りして情報の非対称性を生みやすいポジションを確保し、参加者にとっての離脱コストを積み上げていく。過去の会合で参加者たちから「キモい」と繰り返し評された仕組みは、この日の分配の議論とまったく同じ形をしていた、という指摘である。
マイキー氏の応答は短い。「エンベデッドネス理論というものがある。あれを僕は仕組みで埋めちゃっている状態です」。さらに、講義もYouTubeもコメントもすべてジャブであり、助言した相手がそれをやった場合・やらなかった場合の双方の帰結を把握したうえで出している、と述べた。参加者からは「種明かしを聞いた途端に、全部手のひらの上で考えさせられていたのが分かった」という反応が出ている。
ストラクチャル・ホール(structural holes)はロナルド・バートが1992年に提示した概念で、直接つながっていない集団の間に位置する主体が、情報とコントロールの優位を得るという議論である。エンベデッドネス(社会的埋め込み)はマーク・グラノヴェッターが1985年の論文で提示した概念で、経済行為が社会関係のネットワークに埋め込まれていることを指す。町屋氏の質問とマイキー氏の応答は、この二つを重ねている。バートの議論が「関係の希薄な隙間に立つ有利さ」であるのに対し、グラノヴェッターの議論は「関係が濃く埋め込まれることの拘束力」であり、両者を同時に設計するというのが「仕組みで埋める」という発言の内容だと読める。要確認ただしこれはClaudeによる解釈であり、マイキー氏自身がこの日、二概念の関係を明示的に説明したわけではない。