STUDY REPORT / 2025年11月度 勉強会

功利主義は誰のものだったか ――「最大多数の最大幸福」の“多数”に、誰が数えられていたのか

ベンサムが死んだ翌日、イギリスの改革法は有権者を「男性である者」と定義した。理論が全員を数えているつもりでも、制度は全員を数えていなかった。ミルが理論を書き換えざるを得なかった理由が、そこにある。

EXECUTIVE SUMMARY

理論の射程と、制度の射程は一致しない

ベンサム没年月日
1832年6月6日
84歳。ロンドンにて死去
改革法の裁可
6月7日
ベンサムの死の翌日。有権者を「男性である者」と定義し、女性を初めて明文で排除した
『女性の隷従』
1869年刊
執筆完了は1861年。ハリエット・テイラー・ミルとの共著として記録されている
ミルの議会提案
man→person
下院議員として改革法案の「man」を「person」に置き換える修正案を提出。否決された
ベンサムの立場
両性の完全平等
記録上は女性参政権・離婚請求権・公職就任権を支持。11歳で改革者の道を選んだ理由も女性の法的地位
先行する論文
1851
ハリエット・テイラー・ミル『女性の参政権付与』。同じ論点の多くを先に扱っていた

ミルの分配論を一通り終えたあと、参加者から補足として出てきたのがこの論点だった。「別の角度から喋ろうかなと思った」という切り出しで始まった議論は、この日の講義の中でもっとも密度が高く、そしてもっとも事実確認の価値がある部分になった。

提示された骨子はこうである。ベンサムの時代、功利主義運動を実際に担っていたのは男性だった。ベンサムが亡くなったのが1832年で、ちょうどその年に政治が民主化へ動き出す。しかし功利主義という考え方は男性主義の運動の中でしか固まっていなかった。だからジョン・スチュアート・ミルは、女性に向けた論を書かざるを得なかった――「唱えざるを得なかった」という言い方が使われた。

そしてもうひとつ、家族の事情が絡む。ミルの父ジェームズ・ミルは、家族内で夫が代表するのだから女性の参政権はいらない、という趣旨の主張をしていた人物だった。父の影響力が強く、男性中心の功利主義が主流になっていた。それをひっくり返しにいったのが息子のほうだった、という構図である。

セッションを貫く1本の線
「最大多数の最大幸福」は、定義上すべての人を数えるはずの原理である。ところがその原理を実装する制度の側が、最初から半分を数えていなかった。理論の普遍性と制度の限定性のあいだにできたこの断層が、ミルに理論の書き直しを強いた。

講師は後半で、この断層を現代の学問へ拡張してみせる。古典派経済学も経営学も、もともとは男性を前提に作られている。当時のデータは男性向けのものしか取られていない。「今そのバグが生まれているというのはまさにそこで、僕はこれはいいバグだと思っている」――前提が古いまま残っている領域には、まだ発見の余地があるという読み方である。

本レポートは、この議論を(1)当日語られた内容、(2)公開記録による事実確認、(3)確認できなかった部分の明示、の三層に分けて記録する。とくに年号と国名については、当日の発言と記録が食い違う箇所があるため、書き換えずに食い違いとして残す。

PART 0

「別の角度から」という切り出し

直前まで議論されていたのは、ミルがなぜ革命ではなく改良を選んだのか、という問いだった。それに対して2人の参加者がそれぞれ回答を示している。1人はベンサムの法思想と人間性の相互補強という観点から。そしてもう1人が、「ちょっと別の角度から喋ろうかなと思った」と前置きして、ジェンダーの論点を持ち込んだ。

この切り出し方が重要である。ミルの理論変更の動機を、思想内在的な理由(父とリカードへの敬意、人間性への着目)ではなく、運動の構成メンバーという社会的事実から説明しようという試みだからだ。理論は真空の中で変わるのではなく、誰がそれを担っているかによって変わる、という見方である。

この回で扱われた3人の関係
ジェレミー・ベンサム――功利主義の創始者。理論の側で「性別に関係なく最大幸福を追求すべき」と述べていた。
ジェームズ・ミル――ベンサムの盟友であり、J.S.ミルの父。家族内で夫が代表するという論理から、女性参政権を不要とする立場をとった(とされる)。
ジョン・スチュアート・ミル――ジェームズの息子。父の主張の真逆へ向かい、制度設計から男女平等に正面からぶつかった。

図1:関係する人物の生没年と、1832年に集中した出来事。ベンサムの生没年(1748年2月15日〜1832年6月6日)および1832年改革法の裁可日(6月7日)は公開記録で確認済み。他の生没年は一般に流布する年次による。Claude作図

PART 1

ミルは理論を「変えざるを得なかった」

参加者の説明を、当日の順序どおりに追う。

ベンサムの時代、功利主義運動をメインで担っていたのは男性だった。ベンサム自身は「全労働に対して」という言い方をしていたが、結果として運動を動かしていたのは男性である。それが女性への主張の拡張、あるいは自由や労働の拡張へ向かうのは、1832年以降のことだった。

だから、と参加者は続ける。ミルが出版している理論を読むと、女性向けにかなり書いている。労働の拡張という文脈でもそうだ。ベンサムがやっていたのはあくまで男性主義社会に対しての理論だったよね、という認識がミルにはあった。そして1869年に出した女性についての著作や『自由論』において、男女を平等にする、ジェンダーの問題をここで解決していったほうがいい、という主張をする。制度設計から真正面からぶつかっていったのがミルだった。

さらに実利的な論拠も示された。産業がどんどん大きくなっていくのに、男性だけでは生産性に限界がある。だから女性が必要だ、とミルは言っていた。そのためには政治的権利、職業、財産権も女性のためにしっかり考えたほうがいい――こういう論理である。

📌 Claude補足:『女性の隷従』は1869年刊。ただし共著であり、執筆は1861年
参加者が「1869年に出ているこの女性のなんちゃら、英語しか読んでいないので日本語では分からない」と述べた著作は、『The Subjection of Women』(邦題は『女性の隷従』『女性の解放』など)である。刊行は1869年、出版社はロンドンのLongmans, Green, Reader, and Dyer。

重要な点が2つある。第一に、この著作の著者はJ.S.ミル単独ではなく、ハリエット・テイラー・ミルとの共著として記録されている。ミルは妻ハリエットと共同で執筆にあたっており、ハリエットが1858年末に亡くなった後、『自由論』(1859年)の完成原稿を提出し、続いて本書の執筆を1861年まで続けた。つまり執筆完了は1861年で、刊行までに8年の間がある。

第二に、ハリエット・テイラー・ミルは1851年に自身の名前で『The Enfranchisement of Women(女性の参政権付与)』をウェストミンスター・レビュー誌に発表しており、この論文が『女性の隷従』とほぼ同じ論点を先に扱い、多くの論証で似た表現を用いていたとされる。

この事実は、当日の議論をむしろ補強する。「功利主義運動が男性コミュニティで固まっていた」という指摘が正しいとすれば、同じ主張を先に女性の名前で発表した論文があったのに、8年後に男性の名前で出た著作のほうが標準的な参照文献になったという経緯そのものが、その構造の実例になっている。発言を補強
📌 Claude補足:ミルは議会でも同じことをやっていた
ミルは下院議員として、改革法案の「man(男)」という語を「person(人)」に置き換える修正案を提出している。この修正案は否決された。参加者が言う「制度設計から真正面からぶつかっていった」という評価は、著作だけでなく立法過程における実際の行動としても裏づけられる。

提出日と採決結果も特定できた。ミルは1867年5月20日、第二次選挙法改正案に対してこの修正案を提出している。結果は否決。賛成に回ったのは73名(資料によっては75名)、反対は196名(資料によっては194名)だった。反対の側には、自由党の党首であり、ミル自身が所属した党の領袖でもあるウィリアム・グラッドストンが含まれていた。票数は資料間で1〜2票の差があるため、本レポートは単一の数字を確定しない。いずれにせよ、およそ3対1の大差での否決である。

ミル自身はこの修正案を、後に「おそらく、私が国会議員という立場で果たした唯一の本当に重要な公務」と評している。議員としての全活動の中で、本人がもっとも重く見たのがこの1語の提案だった。

たった1語の置き換えを求めた修正案であるという点が示唆的である。制度の中で女性を排除していたのは、思想でも慣習でもなく、条文の1単語だった。そしてその1単語を変える提案は、自党の党首を含む3倍の反対で通らなかった。発言と一致
PART 2

1832年に何が起きたのか――発言と記録の食い違い

当日、参加者は次のように述べた。「彼が亡くなったのが1832年で、ちょうど1832年、第一次憲法改正みたいなことが行われたのがアメリカだったわけなんですよ。それで政治がどんどん選挙から民主化していきましょうという時代になっていって」。そして後段でも「本当にこれ奇跡的なんですけど、ベンサムが亡くなった年にこれが変わっていったんですよ、アメリカの法律で」と繰り返している。

この発言には、確認しておくべき2つの点がある。

📌 Claude補足:1832年の法改正はアメリカではなくイギリスであり、しかも女性を「排除」した
ジェレミー・ベンサムの没年月日は1832年6月6日、享年84歳、ロンドンで死去。ここは発言どおりである。

そして1832年に成立した法改正は、アメリカの憲法改正ではなく、イギリスの1832年改革法(Reform Act 1832、正式には「イングランドおよびウェールズにおける人民の代表に関する法律」)である。提出者は首相チャールズ・グレイ第2代グレイ伯爵。国王の裁可は1832年6月7日、施行も同日。スコットランド改革法およびアイルランド改革法も同時に成立している。

つまりベンサムが死んだ翌日に裁可されている。参加者が「奇跡的」と表現した符合そのものは、日付単位で正確だった。ただし国が違う。

より重要な食い違いは、法改正の方向である。1832年改革法は選挙区の再配分と選挙権の拡大を行った一方で、有権者を「男性である者(a male person)」と定義することによって、女性を選挙から公式に排除した。1832年以前には、まれではあるが女性が投票した事例が存在したことが記録されている。

したがって、この法は「民主化が進んだ結果として女性の労働できる範囲も広がった」という当日の説明とは、少なくとも参政権に関しては逆向きに作用した。男性有権者を増やす代わりに、それまで曖昧だった女性の排除を明文化したのである。発言との相違点

この訂正は、議論の結論を弱めるどころか強める。ベンサムが両性の平等を唱えて世を去ったその翌日に、彼の国の議会は女性を条文から締め出した。「功利主義という理論が男性中心の運動としてしか固まらなかった」という当日の指摘は、この事実によってむしろ具体的な裏づけを得る。そして、だからこそミルは『女性の隷従』を書き、条文の「man」を「person」に変えようとしたのだ、という筋も通る。
当日の発言公開記録で確認できること議論への影響
ベンサムが亡くなったのが1832年 1832年6月6日、ロンドンで死去。享年84歳 一致
1832年に「第一次憲法改正みたいなこと」がアメリカで行われた 1832年6月7日に裁可されたのはイギリスの1832年改革法。アメリカの憲法改正ではない 国と法の種類が異なる。ただし日付の符合(死の翌日)は正確
それで政治が民主化し、同時に女性の働ける範囲も広がった 同法は有権者を「男性である者」と定義し、女性を公式に排除した。1832年以前にはまれに女性が投票した例がある 参政権については逆向き。ただし「男性中心の功利主義」という主張自体は補強される
PART 3

ベンサムは本当に男性中心だったのか

ここで議論は精緻化する。講師が「ベンサムも言っていたけれど、結果それが理に叶わなかったよね、男性主義だったよね」と述べたのに対し、別の参加者が明確な訂正を入れた。

要旨はこうである。ベンサム自身は女性の権利拡張に積極的だった。早くから女性の市民的・政治的権利をしっかり作っていた。財産権、婚姻法、教育の平等も支持していた。そして性別に関係なく最大の幸福を追求すべきだ、というのが包括的にあったのがベンサムだった。男性中心の功利主義が流行っていたのは、むしろ当時のジェームズ・ミルの力が強かったからではないか――という指摘である。

📌 Claude補足:この訂正は記録と一致する
ベンサムについての記録は、参加者の指摘を明確に支持している。ベンサムは両性の完全な平等を主張し、女性参政権、女性の離婚請求権、女性の公職就任権を支持した。また、女性が法的に劣位に置かれていることこそが、1759年、11歳の時点で自分に改革者の道を選ばせたのだ、とベンサム自身が述べている。

なお、アメリカの批評家ジョン・ニールは、1825年から1827年にかけての交流の中で、自分がベンサムに女性の権利問題を取り上げるよう説得したと主張している。

したがって、「ベンサムは男性上位より全員が、というすごく曖昧なことを言っていた」という講師の評価は、公開記録に照らすと修正が必要である。ベンサムは曖昧に「全員が」と言っていたのではなく、女性参政権を含む具体的な項目を挙げて支持していた。発言との相違点

ただし講師の主張の核である「運動としての功利主義は男性コミュニティでまとまっていた」という部分は、これによって否定されない。理論家個人が何を支持していたかと、その理論を掲げた運動が誰によって構成され何を実現したかは、別の問題だからである。実際、参加者もこの区別を明示していた。「ベンサム自体は女性の権利拡張には積極的だった。ただ、おまけにあったのが当時のジェームズ・ミルであり──」という論の運びがそれにあたる。
ジェームズ・ミルの主張について
参加者は「ジェームズ・ミル自体は家族内で夫が代表するから女性の参政権はいりません、みたいなことを主張していた人だった」と述べた。この指摘は原典で確認できる。該当箇所は、ジェームズ・ミルが『ブリタニカ百科事典』の補遺向けに執筆し1820年に刊行された『統治論(Essay on Government)』である。ミルはそこで「その利益が他の個人の利益のうちに疑いなく含まれているすべての個人は、不都合なく除外されうる」と論じ、この原則を、利益が親のうちに含まれるとして子どもに、そして利益が父または夫のうちに含まれるとして女性に適用した。参加者の要約は、原文の論理をほぼそのまま伝えている。発言と一致

この論考の受け止められ方も記録に値する。J.S.ミルは自伝の中で、自分と仲間たちが父のこの論考を「政治的英知の傑作」と見なしていたと書きつつ、その多くが、女性を選挙権から除外しても深刻な弊害は生じないという議論には賛成しなかったと記している。つまり息子の側の違和感は、後年の思想的転回としてではなく、同時代のリアルタイムの反応として残っている。講師が「お父ちゃんが言っていること何言ってんだ、という状態になっていた」と表現した構図は、J.S.ミル本人の証言と符合する。

なおこの論考は、トマス・バビントン・マコーリーが『エディンバラ・レビュー』誌に三度にわたる批判論説を発表し、『ウェストミンスター・レビュー』側から三度の応答が返るという大きな論争を引き起こしている。争点は主に、人間本性を一様に利己的とする前提と、代議制民主主義および選挙権拡大の擁護とが整合するのかという点にあった。

なお、ジェームズ・ミルが功利主義の普及に果たした役割そのものは大きく、ベンサムの思想を体系的な政治的主張へと翻訳したのは彼だった、という評価は一般的である。つまり「理論家ベンサムの立場」と「その理論を政治に持ち込んだジェームズ・ミルの立場」の間に、女性の権利をめぐる断層があったという当日の構図は、少なくとも整合的な仮説である。

講師はこの訂正を受け入れた上で、次のようにまとめている。「男性の中でもそろそろこの限界が来ていますよ、というのはミルも感じていて、お父ちゃんが言っていること何言ってんだ、という状態になっていた。その真逆というか、感情の部分もあると思うんですよね」。理論的な必要と、父への反発という感情的な動機が同時にあった、という読みである。

PART 4

制度は男性基準で設計されていた

参加者が挙げた具体的な領域は4つだった。参政権、財産権、教育政策、職業選択。これらの制度自体が男性の基準で設計されていた。ジェンダーの視点から見ると、そこに大きなギャップがある。

そして講師はこの論点を、学問全体へ拡張した。「古典派経済学も、経済学も、経営学も含めて、もともと作られているのは全部男性主体に作られている」。市場が自由化していくにつれて女性が社会に進出していくとき、では女性をどのように扱っていくのか。女性のリーダーシップに関する研究がちゃんと始まったのは戦後くらいのことだ――という整理である。

講師の中心的な主張:これは「いいバグ」である
「昔のものというのは、どちらかというと労働者向けというと男性がメインになってしまうから、男性向けのデータしか取っていない、みたいな状態になっている。なので今そのバグが生まれているというのはまさにそこで、僕はこれはいいバグだと思っている

ここでいう「バグ」とは、理論と現実のずれのことである。前提が古いまま残っている領域には、既存理論では説明できない事象(アノマリー)が出てくる。講師は「アノマリーみたいなのがどんどん出てくるほうが、むしろ女性の社会での活躍は進行していくのではないか」「できるだけこのアノマリーが出てくると面白い」と述べた。説明できない現象は、理論の失敗ではなく発見の入口であるという捉え方である。

講師はさらに、望ましい構成比についても言及した。「普通に通常で考えれば、5対5か6対4ぐらいの関係になれば一番いいわけですよね。それ自体がもしかしたら逆転するのもありだと思うし、時代背景によってはそれが今やっと起き始めている」。そして表現を言い直す。「女性の時代というか、女性の時代ではなくて、男性の時代から公平性な評価の時代に変わるみたいなイメージ」である、と。

これは講師の見解であり、対立する見方がある
「望ましい男女比は5対5から6対4程度」「女性リーダーのほうが合理的な場面がある」といった評価は、講師個人の見解として記録する。

この論点には少なくとも次の対立軸がある。(1)結果の比率を目標にすべきか、機会の公平だけを担保すべきか――ミル自身は「機会の公平性」を原則として掲げており、結果の比率を目標に置く発想とは必ずしも同じではない。(2)比率目標が実際に組織成果を改善するかどうか――取締役会の性別構成と企業業績の関係を扱った実証研究は多数あるが、正の関係を報告するものと有意な関係を検出しないものの双方が存在し、制度導入国のクオータ制の効果についても評価が分かれている。

代表的な研究を特定した。メタ分析としてもっとも参照されるのはポストとバイロンによる2015年のメタ分析で、結論は「平均効果は小さく、文脈とガバナンスの質によって大きく調整される」というものである。会計上の収益指標については一定の制度的文脈で正の関係が出る一方、市場評価にもとづく指標では平均するとゼロに近い。

強制的なクオータ制については、アハーンとディットマーによる2012年の研究がノルウェーの取締役会40%クオータを分析しており、もっとも引用される。同研究は「女性比率が強制的に10%上昇すると、平均的な企業のトービンのQが12.4%低下した」と報告している。ノルウェーのクオータは大きな負の市場反応を生み、取締役会は若く経験の浅い構成に変わり、営業成績にも一部悪化が見られたとされる。ROAについては、負の効果を報告する研究が4件、効果なしとする研究が1件という状況である。

この対比の読み方:自発的な多様性の取り組みや観察研究では正の相関が出やすい一方、急激で強制的な取締役会構成の変更は、少なくとも短期的には中立から負の結果を生みやすい。したがって「女性比率を上げれば成果が上がる」も「クオータは有害だ」も、どちらも研究の一部だけを取り出した主張になる。比率そのものより、どういう経路でその比率に到達したかが効果を分けているというのが、現時点で言える範囲である。代表研究を特定

本レポートはこの論点についていずれの立場も支持しない。当日の発言を記録し、そこに検証可能な争点があることを明示するにとどめる。

講師はこの話を、自身の組織運営の話に着地させている。「僕にとってはなんで、俺マイキークラブ全員男だったら嫌ですもん」「男なのか女なのか、優秀でちゃんとやってくれる人が伸びて、そうしたらそれでわーいと言っているのが一番楽しいじゃないですか」。理屈というより好みの表明だが、この回の議論の温度を示している。

PART 5

父と子――精神の危機と、枠組みの組み換え

講師から「パパと息子は仲が悪かったのか」という直球の質問が出た。回答は次のようなものだった。

仲は良かったと言える。ただし息子としては、父親とリカードは絶対的な自分の師であるという思いがあったため、彼らの理屈をどうやって自分の中の自己実現に結びつけようかということに、すごく苦労していた。その帰結として精神衰弱になった。

だが決して違った理論を作ろうとしたのではなく、彼らの理論をどうやって補完できるか、という方向で動いた。だからギリシャ哲学へどんどん遡っていった。自然学であるとか、関心領域が全然変わってきたところがある。

なぜ枠組みを変えると、父の理論が救われるのか
参加者の説明で最も鋭かったのがここである。

父ジェームズ・ミルとリカードが持っていた「今のイギリス社会」というもの、そもそもその外郭を成り立たせているのはどういう知性史的な背景なのか。ミルはそこに対して自然学という視点をベンサムから見出した。ベンサムもまた自然科学から出発して法を発達させた人であり、法を自然科学として扱いたいという志向を持っていた。

だとすれば、ミル自身もこの人間経済というものを自然科学として扱いたいという方向に進む。そして自分が枠組みを変えることによって、その枠組み次第で父親とリカードの理論は合理化される。

つまりミルがやったのは「父の理論を否定する」ことでも「父の理論をそのまま受け継ぐ」ことでもなく、父の理論が正しくなるような、より大きな枠組みを作ることだった。これは前パートで見た「生産の法則は自然法則に近い」という定式化とも直接つながっている。生産を自然法則の側に置けば、自由放任を説いた先行世代の主張はその枠内で正当化されるからである。

参加者はこれを「積み(詰み)を行った」と表現し、さらに「ミルはすごく黒い」とも述べた。上からの思想に揉まれながら、良い折衷を出してきた、良い枠組みを作ってきた。そういう設計ができるだけの視野の広さを持った人だったことは、著作からも言えるのではないか――という評価である。

講師はこの話を受けて「こういう時代に生まれなくてよかったな、めんどくさいなと思って見てしまう」と漏らし、参加者から「現代のほうがもっとめんどくさい。すべてがハイブリッドで」と返される。「逆にハイブリッドが許される時代というのは恵まれていると思います」という応答で、この一連の議論は締めくくられた。

PART 6

縄文への遡行――外部文化と分業の再編

議論は日本の話に飛ぶ。講師の提起は、日本において男女の役割分担がここまで固定的になったのは、外部の文化が流れ込んできたからではないか、というものだった。

挙げられた例は縄文時代である。女性が狩りに行き、男性が食事を作るということもあった。優秀な者が狩りに行き、料理のうまい者が料理を作るという時代もあった。ところが文化が入ってきて、男性が戦いに行くようになる。海外からの文化によって、男が働き女が家で、という状態になっていったのではないか。島国であることの良い面もあったのが、どんどん侵害されていったという事実もあるのではないか――という見立てである。

これに対して参加者が構造的な補足を加えた。それまで集落を成り立たせていた経済がより拡大し、力のあるもの、あるいは狩りの対象物が変わってきた。それが男性に適したものになってきた面はあるかもしれない。それまでの分業の形態が一度破壊されて、新たな分業が生まれるときに、女性の立場は中心から遠ざけられたという部分があると思う、という指摘である。

縄文時代の性別分業については、断定を避けるべき論点である
講師の「縄文時代には女性が狩りに行くこともあった」という発言について、本レポート作成時点で一次資料による裏取りができていない。要確認

なお、狩猟採集社会一般については、該当する研究と、それに対する批判の双方を特定できた。

問題の研究はアンダーソンらが2023年6月に『PLOS ONE』誌に発表した「The Myth of Man the Hunter: Women's contribution to the hunt across ethnographic contexts(狩人としての男という神話)」である。民族誌的に知られる狩猟採集社会を調査し、79%の社会で女性が狩猟を行っており、大型獣の狩猟も33%の社会で確認されたと報告した。この結果は大きく報道された。

これに対する批判がヴェンカタラマンらによる2024年の論文である。同じ資料を扱っていた彼らは、アンダーソンらの研究の再現を試みた結果、手法が信頼できず、女性の狩猟を見出す方向に偏っており、結論は頑健ではないと結論づけた。具体的には、標本選択のバイアスと多数のコーディング誤りが指摘されている。データベース外から追加された社会が女性の狩猟が見られる社会に偏っており、逆に女性の狩猟の証拠がほとんどない社会が不適切に除外されていた、という指摘である。

批判側の立場も正確に記しておく必要がある。ヴェンカタラマンらは「女性は狩りをしない」と主張しているのではない。「性別による分業は柔軟であり、女性が狩猟する顕著な事例も存在する。しかしより多くの場合、狩りをするのは男性である」という趣旨であり、アンダーソンらの分析は、狩猟採集社会における性別分業についての既存の広範な実証を覆すものではない、というものである。なお元論文には2024年に訂正が公表されている。研究と批判を特定

そして、これは日本の縄文期の話ではない。上記はいずれも民族誌的に記録された近現代の狩猟採集社会を対象としており、数千年前の縄文期の性別分業をそのまま示すものではない。講師の挙げた縄文の例については、依然として一次資料での裏取りができていない。

本レポートの立場:「かつては違ったのだから、今の分業も所与ではない」という論の運び自体は、ミルの「分配の法則は社会制度である」という主張と同型であり、思考実験としては有効である。ただしその論拠として特定の歴史像を事実として持ち出すことには慎重であるべきで、当日の発言は仮説の提示として記録する。

参加者はここで、ベンサムの立場にも触れながらこう述べた。少数の利益のために女性の心と体が制約されているという趣旨のことをベンサムは言っていた。だから、女性の自発的な力がどのように非合理化されているのか、要するに最大化できていないという点を指摘していた。ある意味でそれに答えているのがミルではないか、と。

そして結論として、ミルは「今の社会ではなく、もっと古代からこの社会がどのようにセッティングされているのか」を見ることによって、相反するものを繋げた――という評価が示された。前パートの「枠組みを変えることで先行理論を合理化する」という手法と、ここでの「古代まで遡る」という手法は同じものを指している。

PART 7

設計されていない組織は、必ず型が出る

抽象的な議論のあと、講師は現在進行中の実例を報告した。会員の1人(占い師の育成事業を手がける女性経営者)についての話である。

2年前に相談に来たときは月商500万円だった。それが先週の時点で月商1.5億円、純利益が1か月で1億円を超えているという。この人が徹底的に取り組んだのは、プレゼンテーション能力の向上だけだった。話し方と喋る能力とプレゼンテーション。広告費をかけずにそれを実現した。

だが講師はここで問題を指摘する。組織設計がうまくないので、必ずどこかに歪みが出る。だからバックオフィスの部分をこちら側でサポートし、経営基盤を固めてから前に出たほうがいい、という話をしているところだという。「それだけ伸ばしたのは逆に組織設計をしたからでは」と問われて「いや、プレゼンだけで行きました」と答えるやり取りがあり、「じゃあそれに組織設計をしたら恐ろしいですね」と返されている。

講師の指摘:日本の経営者は組織設計が下手である
「これは男女構わずなんですけど、日本の経営者はこの組織設計がマジで下手なんです」。大きくなったからこそ資金があるのだから、そこにお金をかけてちゃんと設計母体を作り、経営基盤を整えなければならない。

ところが障害になっているのは顧客の側だという。CRMなどの顧客管理システムを入れると、顧客がソフトウェアの使い方が分からないと言ってクレームになるから入れられない、という状態になっている。講師の助言は「そんな客は全員切ってしまえ、いらないから。じゃないといつまで経っても成長しない」というものだった。

これに対して参加者から、より構造的な処方が示された。教育が必要だろう。引っ張ってくるときは感情フォーカスでやっているので、一人ひとりが向き合ってくれているというところで契約も結びに来ている。ただそこで機械的な扱いをされるところに歪みが生じる。だとすれば、感情で導いたものをどうやって理性的に教育していくのか、自己成長というものがここで必要だ、というところに転換できるかどうか――それが教育システムの問題ではないか。母体は感情的なものだと思うので、という指摘である。

講師はこれに同意し、依存性が高い状態に対して中間管理職を入れていく発想だと応じた。「中間部をバンバン入れてきますね」「多分それで(解決)すると思います」というやり取りで着地している。

📌 Claude補足:この事例は検証できない。それでも記録する理由
月商500万円から1.5億円、純利益1億円という数値は、講師が会員から受けた報告として語られたものであり、公開情報による裏取りはできない。要確認本レポートはこれを事実として提示せず、講師の報告として記録する。

それでもこの挿話をこのレポートに収録するのは、テーマ的に直結しているからである。この回の議論の核は「制度は設計できる/設計されていない制度は誰かに不利に働く」という一点にあった。個人の能力(プレゼン)で売上は作れるが、組織という制度を設計していなければ必ず歪みが出るというこの事例は、ミルの「生産は自然、分配は制度」という二分法を、一企業のスケールで反復している。売上を生む力は個人に帰属し、それをどう組織に分配するかは設計の問題である、という構図である。
Q&A

質疑応答

女性というのが守護の中に含まれていなかったのを、そこを含めた上で考えるという流れになってきたので、そちら向けに変更していかざるを得なかったということですね。

ベンサムは功利主義と男性中心の社会という点を指摘されてはいました。ただベンサム自体は女性の権利拡張には積極的だったんです。早くから女性の市民的・政治的権利をしっかり作ろうとしていた。財産権とか、婚姻法とか、教育の平等も支持していた。性別に関係なく最大の幸福を追求すべきだ、というのが包括的にあったのがベンサムです。おまけにあったのが当時のジェームズ・ミル、つまりミルのお父さん自体が、家族内で夫が代表するから女性の参政権はいりません、といったことを主張していた人だった。どちらかというとジェームズ・ミル自体の力が強くて、男性主義の功利主義が流行っていたというのが実際あったわけです。(編注:ベンサムの立場についてはPART 3のClaude補足を参照。記録は参加者の指摘を支持している。

パパと息子はこれ、仲が悪かったんですか。

仲は良かったと言えます。ただ基本的に息子としては、父親とリカードは絶対的な自分の師だという思いがあったので、彼らの理屈をどういうふうにして自分の中の自己実現に結びつけようかということに、すごく苦労していた。その帰結として精神衰弱になったんですけど、決して違った理論を作ろうとしたのではなく、それをどうやって補完できるかという方向でした。だからギリシャ哲学にどんどん求めていったんですよね。自然学であるとか、関心領域が全然変わってきたところがあると思います。父親やリカードが持っていた今のイギリス社会、そもそもその外郭を成り立たせているのはどういう知性史的な背景があるんだろうか。そこに対して自然学というところをベンサムから見出している。ベンサムも自然科学から法を発達させている人なので、法を自然科学として扱いたい。そうすればミル自身もこの人間経済というものを自然科学として扱いたいというところがあって、自分が枠組みを変えることによって、その枠組み次第で父親とリカードの理論は合理化されるんですね。

日本の男女の役割分担が固定的になったのは、外部文化の影響ではないでしょうか。

縄文時代のときには女性がハンティングに行って男性が飯を作るみたいなのもあったわけじゃないですか。優秀なやつがハンティングに行って、飯がうまいやつが飯を作るみたいな時代もあった。それがやはり文化が入ってきて、男性が戦いに行くようになる。いろんな海外からの文化によって、男が働き女が家で、という状態になっていったと思うんですけど、昔の縄文を見てみるとそうでもなかった。だから島国でいいところもあったよね、という状態だったのが、どんどん侵害されていったという事実もあるのかなと思って見ています。(編注:この歴史像についてはPART 6の注記を参照。断定は避けるべき論点である。

(それに対して)おっしゃるとおりだと思います。

それまで集落を成り立たせていた経済がより拡大して、より力あるもの、あるいは狩りの対象物が変わってきた。それが男性に適したものになってきたところはあるかもしれません。それまでの分業の形態が一回破壊されて、新たな分業を生む際に、女性の立場はある意味その中心とされるものから遠のいた部分があると思います。実際ベンサムも、少数の利益のために女性の心と体が制約されているといったことを言っていたと思うので、そういった意味では、女性の自発的な力がどのように非合理化されているのか、要するに最大化できていないというところは言っていた。ある意味それに対してミルは答えているのかなというところは思いますね。

それだけ伸ばしたのは、逆に組織設計をしたからだと思いました。

いや、じゃないです。もうプレゼンだけで行きました。ただ、やはり女性としての問題もあるなというのが気になっていて、これは何かというと、やはり組織設計がうまくないので歪みが出るんです。もう出るんですよ、必ず。なのでバックオフィスの部分をこちら側でサポートするので、ちゃんと経営基盤を固めてからもっと前に出よう、という話をしていて、今打ち合わせをしていたところでした。

依存性が高い状態に対して、今度はマネージャーとか中間部の人を入れていくという発想ですかね。

そうですね。中間部をバンバン入れてきますね。(参加者:ですよね。多分それで解決すると思います。)教育も必要でしょうね。引っ張ってくるときは感情フォーカスでやっているので、一人ひとりが向き合ってくれているというところで契約も結びに来ている。ただそこで機械的な扱いをされるところに歪みが生じる。感情で導いたものをどうやって理性的に教育していくのか、自己成長というものがここで必要だ、というところに転換できるのかという教育システムじゃないですかね。母体は感情的なものだと思うので。

HOMEWORK

宿題・アクションアイテム

  1. 1832年に何が起きたかを自分で確認する。ベンサムの没日と1832年改革法の裁可日を並べ、その法が有権者をどう定義したかを条文レベルで確かめる。当日の発言と記録が食い違う箇所であり、確認する価値が最も高い。
  2. 『女性の隷従』の著者表記を確認する。共著者としてハリエット・テイラー・ミルの名前がどう扱われているか、そして1851年の『女性の参政権付与』との関係を調べる。
  3. ジェームズ・ミルの「統治について」を原文で確認する。女性の利益は父または夫の利益に含まれる、という趣旨の記述が実際にどう書かれているのかを一次資料で押さえる。本レポートでは裏取りできなかった箇所である。
  4. 自分の領域で「男性前提のまま残っているデータ」を1つ探す。講師が「いいバグ」と呼んだものが、自分の業界のどこにあるかを具体的に挙げてみる。
  5. 組織設計の欠落を洗い出す。個人の能力で立ち上がった事業について、売上を生む力(属人)と、それを組織に分配する仕組み(設計)を分けて書き出す。設計側が空白なら、そこが歪みの出る場所になる。
GLOSSARY

用語集

1832年改革法(Reform Act 1832)イングランドおよびウェールズの選挙制度改革法。1832年6月7日裁可。選挙区を再配分し選挙権を拡大した一方、有権者を「男性である者」と定義して女性を公式に排除した。
『女性の隷従』(The Subjection of Women)1869年刊。J.S.ミルとハリエット・テイラー・ミルの共著として記録される。執筆完了は1861年。女性の法的・社会的従属を人類の進歩を妨げる遺物として論じた。
ハリエット・テイラー・ミルJ.S.ミルの妻。1851年に『女性の参政権付与』をウェストミンスター・レビュー誌に自身の名前で発表。『自由論』の完成にも深く関与した。1858年末に死去。
ジェームズ・ミルJ.S.ミルの父。ベンサムの盟友であり、功利主義を政治的主張として体系化した人物。女性参政権については消極的な立場をとったとされる。
アノマリー既存の理論では説明できない観測事象。講師はこれを「いいバグ」と呼び、理論の前提が古いまま残っている領域を示すサインとして肯定的に評価した。
機会の公平性結果の平等ではなく、出発点での機会が生まれや身分によって左右されないことを重視する原則。ミルが挙げた3原則のひとつ。
他者危害の原理他人に危害を加えない限り個人の自由は制限されない、という原則。ミル『自由論』(1859)による。
感情フォーカスこの回の議論での用語。顧客が「自分に向き合ってくれている」と感じることを起点に契約が成立する営業の形。規模拡大時に機械的な運用へ移行すると歪みが生じる。
中間管理職(中間部)創業者への依存度が高い組織で、意思決定と現場の間を埋める層。属人的な事業を制度に変換するための装置として、この回では処方箋として挙げられた。
レッセ・フェールと制度設計の関係ミルは自由放任を原則として認めつつ、分配については制度設計の余地を認めた。この回の議論では、その「制度設計の余地」がジェンダーにも及ぶことが論点になった。