前田氏によるジェレミー・ベンサム講義を土台に、マイキー氏が「現代の功利主義=アルゴリズム最適化」という補助線を引き、渡辺氏が「安全と期待を保証する法」という第三の軸を差し込んだ回。教科書的な「最大多数の最大幸福」の暗記から、報酬関数の設計という実務課題へ降ろすまでの議論を再構成する。
この日の講義は、ベンサムを倫理学者としてではなく、制度設計者として扱うところから始まった。前田氏が最初に提示した問いは「最大多数の最大幸福とは何か」ではなく、「なぜこの人は富の分配にこだわったのか」である。社会科の教科書がスローガンで打ち切ってしまう部分の、その手前にあった問題意識を復元する作業だった。
復元された問題意識は二つある。ひとつは産業革命下で進行した二極化――地主・投資家に富が集中する一方、労働者は労働時間が伸びるだけで富が増えない構造。もうひとつは法制度の矛盾――何百年も前の慣習に従った法律が現状と食い違ったまま運用され、「昔からやっているから正しい」が根拠として通用してしまう状態。ベンサムは上流階級の出身で、この構造から利益を受け取れる側にいた。しかし弁護士として実務に就いたことで、富を受け取れない側の生活を直接見ることになる。前田氏が「現実主義」と呼んだのは、この立ち位置から出てくる態度――理論を作ることではなく、それを実装可能にすることを重視する姿勢――のことだった。
ここに、マイキー氏が現代への補助線を引く。「功利主義こそ、まさにアルゴリズムの最適化だ」。膨大なユーザーデータを用いて累積報酬を最大化する広告配信やレコメンドエンジンは、ベンサムが手作業でやろうとしたことのテクノロジー版である。そして最も難しいのは計算そのものではなく、報酬関数をどう設計するかだ。ベンサムの快楽計算が当時ぐちゃぐちゃになったのは、多元的な価値観を単一指標に集約しようとすれば必ず測定誤差が露呈するからで、その構造的な困難は計算能力が上がった現在も消えていない。むしろ計算速度が上がったぶん、ハードルは高くなっている。
マイキー氏が最終的に提示したのは、アルゴリズムが完成するための三角形である。①アウトカム(数量で測れる部分。ベンサムが担当した領域)、②トレードオフの境界線(権利論。状況によって動く。ビジネスではファイナンスが担当する)、③意思決定主体(人の感情が入り込む。ビジネスでは顧客と市場)。ベンサムがやり残したのは②と③であり、だからこそ彼の功利主義は「全てが結果論でしかない」アウトカム重視にとどまった――そしてその欠落を長期的・質的な視点で埋めにいったのがJ.S.ミルだ、という接続で講義は次回に引き継がれた。
これに対して渡辺氏が置いた軸は、まったく別の角度から来る。ベンサムにとって富は手段であって、目的は幸福である。では幸福を生むものは何か。渡辺氏の答えは「幸福を生み出す性質を生み出すこと」、すなわち安全と期待だった。個人の財産が保障され、努力が将来報われると信じられる状態を法が保証する。これがベンサムの経済的な最大の功績であり、彼の数値化・計算式は、そのための立法の道具立てだった、と。分配の話に見えていたものが、実は「安全がなければ分配以前に富が生まれない」という順序の話だったことになる。
功利主義は「みんなが幸せになればいい」という道徳論ではない。目に見えなかった価値観を数値化し、社会を科学的にデザインするための最初のOSである。だからこそ19世紀の人物が21世紀のアルゴリズム設計の議論に直接つながる。そしてそのOSの未完成な部分――トレードオフの境界線をどこに引くか、誰が意思決定するか――が、今日の報酬関数設計・AI倫理・投資判断の難所としてそのまま残っている。
前田氏は最初に「よく社会の教科書には、最大多数の最大幸福、と大体ここで終わらせてる部分がある」「ただちょっと誤解な表現が多い」と釘を刺した。そのうえで扱われたのは、スローガンではなく問題設定のほうである。
都市人口が増加し、階級の分断が進む。地主・投資家の側には富が集まり、労働者の側は労働時間が長くなり劣悪な環境に置かれる一方で困窮していく。前田氏の表現では「労働階級の負担は増える一方、ただ富が増えないというシステムができてくる」。富が増えていく場所と減っていく場所が固定されれば、格差は拡大し続ける。ベンサムが直面したのはこの二極化だった。
ベンサムは12歳で大学に入るほどの才能を持ち、父も含めて上流階級の出身である。つまり当時の社会構造から富を享受しやすい立場にいた。しかし弁護士として働くことで、富を受け取れない側の生活を直接目にする。この二重の視点が、彼を「理論を作る人」ではなく「理論を実装可能にする人」にした、というのが前田氏の読みだった。
もうひとつ、ベンサムが実務で直接感じたのが法律の問題である。何百年も前の慣習に従った法がそのまま運用されており、現在の状況と矛盾している。前田氏は「今日本で江戸時代のやり方をそのまま適用したら通じますか」という比喩でこれを示した。さらに悪いのは、その矛盾が「昔からやっているから」という理由だけで正当化されていることだ。「昔からやってるからには何の根拠もない」。ここが、ベンサムが法の体系そのものを作り直そうとした出発点になる。
ベンサムの関心は①労働者階級と地主・投資家階級の二極化と②法制度の矛盾という二つの問題の解消にあった。功利主義はその解消手法として編み出されたものであり、順序としては「倫理理論を作ったら結果的に制度に応用された」のではなく、「制度を作り直すために基準が必要だったから理論を作った」。この順序を逆にすると、功利主義は途端に理解不能になる。
二極化の背景には、権力が地主・投資家・上流階級に集中しやすい構造がある。選挙は制限選挙で、情報はクローズド、アクセスできても理解しにくい。ここを解消するために、前田氏はベンサムが満たそうとした三つの条件を挙げた。第一に、みんなが分かるように単純化すること。第二に、単純化しただけでは足りないので共通の基準を持って測定できるようにすること。第三に、その二つを公正に使える仕組みにすること。判断基準の明確化、結果主義、そして公平性(前田氏の注記では、ベンサムが実際に組み込んだのは「平等性」に近く、みんな一律に並べましょうという形だが、本当にやりたかったのは公平のほうだったのではないか)が、そのための装置になる。
結果主義について前田氏が使った例は分かりやすい。誰かにタックルして、その結果その人が車に轢かれずに助かったとする。本人は怪我をさせるつもりだったかもしれないが、結果として自動車事故から救った。功利主義の枠組みでは、これは「いいこと」になる。「その人がどういうつもりでやったかどうか関係ありません」。動機を評価から外すことで、誰が扱っても同じ結論が出る汎用的な物差しになる――しかしそれは同時に、後述する深刻な欠陥を招き入れることでもある。
裏取り済ジェレミー・ベンサムは1748年2月15日ロンドン生まれ、1832年6月6日没。オックスフォード大学クイーンズ・カレッジに12歳で入学し、1763年に学位を取得している。講義中の「12歳で大学に入っている」という記述は公開資料と一致する。主著『道徳および立法の諸原理序説』(An Introduction to the Principles of Morals and Legislation) は1780年に印刷され、1789年に刊行された。
要確認ただし「最大多数の最大幸福」というフレーズ自体はベンサムの発明ではない。この語句はフランシス・ハチスンが『美と徳の観念の起源』(1725/26) で用いたものが最初期の用例とされ、ベッカリーア『犯罪と刑罰』(1764) にも同趣旨の表現がある。ベンサム自身はこの表現をジョゼフ・プリーストリー『統治の第一原理に関する試論』(1768) から得たと記憶していたが、研究者の指摘によればプリーストリーはこの表現を使っていない可能性が高い。ベンサムの功績は語句の発明ではなく、それを半世紀にわたって千通りの応用に落とし込み、制度批判の武器にしたことにある――この点は、前田氏が強調した「実装を重視する現実主義」という読みとよく符合する。
幸福を点数化するという発想を、前田氏は「幸福ポイント」という言い方で説明した。本人が嬉しい、満足度が上がる、危険を回避できた――そうした結果につながる行動はプラス1ポイント。怖い、悲しいというマイナス感情につながる結果ならマイナス1ポイント。そして1人は1人であり、年収によって票の重みが違っていた時代の選挙制度に対して、誰の1ポイントも等しく1ポイントとして数える。この幸福の量と人数を掛け合わせたものが社会の幸福の総量であり、それが最大になる方法が正しい――これが「最大多数の最大幸福」の中身である。
前田氏は「快楽主義」という訳語が誤解を招きやすいことにも触れた。堕落した快楽の追求ではなく、経済学の語彙で言えば効用最大化のことだ、と。そして、この考え方が人間だけでなく動物にも適用できることから、動物福祉・動物愛護の議論にもつながっていると付け加えた(この日は深入りしなかったが、後半のセッションでこの伏線が別の形で回収されることになる)。
そのうえで、講義の後半はこの物差しが壊れる場所の列挙に費やされた。
| 問題 | 内容 |
|---|---|
| 少数の犠牲 | 数が少ないという理由だけで犠牲にしてよいのか。「少数だから犠牲にしていいかというと、それはまた別」 |
| ポイントの等価性 | お腹が空いて満たされることと、人を助けることが同じ1点になる。「それって本当に差がないんですか」 |
| 測定困難 | 実際に測定基準を作ろうとすると極めて難しい。パンを食べて感動する人と何も感じない人を同じ物差しで測れるのか |
| 多数による正当化 | 少数でも重要なことを、多数の論理で正当化しかねない。最も分かりやすい帰結が全体主義 |
| 質のトレードオフ | 数と質はトレードオフになりやすく、質の高いものが捨てられる危険がある |
これらの問題を受けて、前田氏はベンサムの立場を「量的功利主義」と位置づけた。すべてを数値化して一律に並べる方式である。そして、どうしても必要になった質的な側面に言及したのがジョン・スチュアート・ミルであり、次回はそこに進む――という予告で講義は締められた。
本レポートはベンサムを制度設計の思想として読むことに絞っている。量的功利主義と質的功利主義の対比、ミルの「満足した豚よりも不満足なソクラテス」といった議論は、この日は次回への予告としてのみ触れられた。したがってミル側の議論はここでは展開しない。
裏取り済セッション中、マイキー氏が「シンプルって言って7要素もあるんですよね」と指摘し、参加者が「シンプルではないですね」と応じた場面があった。これは正確で、ベンサムの快楽計算は強度(intensity)・持続性(duration)・確実性(certainty)・遠近性(propinquity)・多産性(fecundity)・純粋性(purity)・範囲(extent)の7項目を考慮に入れる。範囲(何人に及ぶか)を除く6項目は、いずれも本人にしか分からない主観量である。つまり快楽計算は「単純化のための道具」として設計されながら、実際には主観量を6つ掛け合わせたうえで人数を掛けるという、当時の数学では扱いきれない構造をしていた。前田氏が挙げた「測定困難」という論点は、原典のレベルですでに露呈していたことになる。
マイキー氏が最初に問題にしたのは、日本語の「功利主義」という訳語そのものだった。英語ではutility――効用である。ベンサムの定義は「快楽の増大ないし苦痛の減少をもたらす性質」であって、この定義だけを聞くと「好きなことだけやっていけばいいじゃん、と勘違いする人が増えそう」。哲学・倫理の世界ではutilityは効用とほぼ同義であり、「なるべくみんなこうなった方がいいよね」という比較的おおざっぱな考え方を指す。ところが日常会話では「打算的」「損得勘定のうまい人」というニュアンスで使われてしまう。マイキー氏は「この言葉を日本語に和訳したやつは誰だ、と突っ込みたいぐらい、勘違いを生みやすい理論だ」と述べた。
そのうえで、ベンサムとミルの射程の違いを一文で整理している。ベンサムは快楽と苦痛の総和という量的な話をしており、ミルは長期的・質的に優れた幸福という定義をしている。この二つを合算して喋らないと、「好きなことだけやるやつが増える」危険な言葉になってしまう、と。
ここからがこの回の核心部分である。マイキー氏は「現代でいちばん分かりやすいのはアルゴリズムの最適化だと思うんですよね。功利主義こそまさに」と述べた。広告配信、レコメンドエンジン――膨大なユーザーデータを用いて累積報酬を最大化し、「この人はおそらくこれを見るだろう、こういうところにリーチするだろう」を予測する。Facebook(Meta)の広告配信は、まさに功利の最大化を実装したものだ、と。
そして、その最大の難所として挙げられたのが報酬関数の設計である。ベンサムの功利的計算は、少数の犠牲と測定誤差が露呈したと言われる。理由は「計算式に全部当てはめていくと、当時の数学の方式ではぐちゃぐちゃになる」から。人間の多元的な価値観を単一指標に集約しようとすれば、必ず測定誤差が出る。これは現代の批判としてもそのまま通用する内容だ、というのがマイキー氏の見立てだった。
では当時の功利最大化と現代の功利最大化は何が違うのか。マイキー氏の答えは「計算能力のスピードが変わっているから」である。ただし、それによって問題が解決したわけではなく、むしろ「現代にとって最も功利主義的なことを考えた場合、ハードルがすごく高くなっている」。
マイキー氏がベンサムの限界として名指ししたのは、アウトカム重視という一点である。「彼のやっていた功利主義はアウトカム重視で、全てが結果論でしかないよね、というアプローチの仕方をしていた」。そこから必然的に出てくるのが権利論であり、トレードオフの境界性をどこに引くかという問題になる。
マイキー氏が提示した枠組み。①アウトカム――数量で測れる部分。ベンサムが担当した領域。②トレードオフの境界線――状況によって動く。どこまでが許容範囲か。③意思決定主体――人の感情が入る領域。誰が決めるのか。「この三角形の形ができて初めて、アルゴリズムが完成する」。ベンサムは①しかやっていない。ミルが②③に向けて長期的視点を加えにいった。
この枠組みは、気候変動問題への投資判断にそのまま適用できる、とマイキー氏は続けた。トレードオフの限界線――収入になる限界、破産する限界――がどこにあるかを詰めることで投資金額が決まり、次に「誰が意思決定するのか」で感情という要素が入ってくる。これまでは数字だけで判断されていたものが、限界値と意思決定主体を加えることで初めて機能する構造になる。
ビジネスの文脈では、①アウトカムは数値化(売上・利益)、②トレードオフの境界線はファイナンス、③意思決定主体は顧客と市場になる。「この3つが揃うことによって、いい商品があってずっと売れ続けるようなものにアップデートしていく。それがまさに製品のアップデートだと思っている」。
逆に、日本のメーカーはこの構造のうち①しか考えていないのではないか、というのがマイキー氏の批判だった。「お金を使わなくて投資していかない企業であって、誰が決定するかというとお前らじゃなくて市場である、世界の流れである、投資家である。そういうところを無視するような経営方針をやっている」。そこから外れていったのがGoogleやAmazonのアルゴリズムであり、それが今の時代を作っている、と。
もうひとつ、マイキー氏が持ち出した接続がMR=MC(限界収入=限界費用)である。ビジネスの利潤最大化条件にどれだけ近づけるかは、この考え方があるかないかで変わってくる。「自分の持ってる予算だけで分配方式もせずにマーケに金かけちゃう」のがその欠落の症状で、最大のROASを狙うためのデータ分析が出てこないから、日本のマーケティング戦略の金の使い方はえげつなく高い――という指摘だった。
要確認「アルゴリズムの累積報酬最大化=功利主義のテクノロジー版」という対応づけは、この日のマイキー氏独自の整理であり、特定の文献に紐づく定説ではない。ただし、その内容は現在のAI研究における主要な論点と実質的に重なる。多元的な価値を単一のスカラー報酬に集約しようとすると意図しない挙動が生じるという問題は、強化学習では報酬ハッキング/仕様ゲーミングとして知られ、推薦システムではエンゲージメント最大化が長期の利用者利益と乖離する問題として繰り返し議論されてきた。「計算能力が上がっても報酬関数の設計問題は解けていない」という指摘は、技術的にも支持される。
また、マイキー氏の三角形(アウトカム/トレードオフの境界線/意思決定主体)は、厚生経済学の用語で言えば「帰結主義的評価」「権利・制約条件」「集合的意思決定の主体設定」に対応する。アマルティア・センが功利主義批判として展開した「権利と帰結の統合」の問題設定に近い構造だが、この日にセンへの言及はなかった。
渡辺氏が持ち込んだのは、法学者としてのベンサム像である。「この人はやっぱり法律についての責任感の強い方なんですね」。そして、法と立法の科学が何をもたらすのかという問いに対して、渡辺氏はこう整理した。富は手段であって、目的は幸福である。では幸福とは何をすることか。渡辺氏の答えは、幸福そのものではなく「幸福を生み出す性質を生み出す」ことだった。
その性質とは何か。安全と期待である。個人の財産が保障され、努力が将来的に報われると信じられる状態。それを法が保証する。「努力が将来的に報われるよ、それを法が保証するものであるよ、ということを作ったのが、ある意味この経済において1番の功績」。
そして渡辺氏は、経済に対して政治・立法がなせる目的として4つを挙げた。生存・豊かさ・安全・平等である。このうち安全がなければ――個人の財産が保障されず、経済活動が保護されなければ――富は社会的な幸福を目的とする手段になりえない。安全があることによって「富を創造できる期待がある社会」を作り上げる。それが最も大きい、と。
裏取り済ベンサムは『民法典原理』(Principles of the Civil Code) において、民法の従属的目的としてsecurity(安全)・subsistence(生存)・abundance(豊かさ)・equality(平等)の4つを挙げ、この優先順位で扱っている。渡辺氏がセッション中に「確か4つだったと思うんですけど、生存とか豊かさとか安全とか平等」と述べた内容は、原典と一致する。
さらにベンサムは同書で、人間が動物と違って「予期による快苦」を感じる存在であること、したがって現実の損失から守るだけでは足りず将来の損失に対しても可能な限り保証する必要があることを論じている。これが「期待の保護(security of expectation)」であり、渡辺氏が「努力が将来的に報われると信じる」と表現した内容そのものである。ベンサムの序列づけでは「生存と安全は同じ高さまで上がる。豊かさと平等は明らかに劣位である。前二者は生命そのものであり、後二者は生命の装飾である」とされており、分配(平等)よりも安全が優先されるという構造も原典どおりである。
この点は、講義への補足として参加者から出た「分配ばかりやっていると、せっかく稼いだのに分配されるならやる気なくすよね、となるので、そのへんのバランスも考えていた」という指摘と完全に整合する。ベンサムは分配主義者ではなく、安全を土台に置いたうえで分配を論じた思想家として読むのが正確である。
渡辺氏はさらに、道徳的サンクションという概念に議論を広げた。それまで内面的・精神的な価値に属していた快楽や幸福が、経済や人間の行為に依存するカテゴリーへ移動した。偶発的に生じるものではなく、道徳的サンクションを利用することで積極的に構築可能なものになる。渡辺氏の言葉では「モラルから構築へ、設計へ」という移動である。マイキー氏が「アルゴリズム」と呼んでいるものを、渡辺氏は「量的な概念と質的な概念を、社会の規則や強制の手段として合理化したもの」と言い換えた。
ここで渡辺氏が触れた、やや暗い含意も記録しておく必要がある。「囚人とか貧困とか病人を管理するっていう段階もここから生まれています」。収容施設を作り、そこをどう合理的に管理するか、弱者をどう分類するか――社会が最大限にコストを低く抑えて管理し、対象を導くことを最大化する。ベンサムの設計思想は、福祉や独占禁止法だけでなく、管理装置の設計思想でもあった。
福祉制度、独占禁止法、1人1票の選挙制度。前田氏が挙げたとおり、「公正の利益を最大化するために重要」という言い方で、現在の社会制度に組み込まれている。安全と期待の保護は、投資行動と経済成長の前提条件でもある。
渡辺氏が指摘した管理装置の設計。少数の犠牲を多数の論理で正当化する回路。前田氏が「1番分かりやすい例で言えば全体主義」と述べたとおり、同じ物差しがそのまま反転する。設計思想としての功利主義には、この両面が最初から同居している。
この回で最も鋭かった論点のひとつが、マイキー氏がベンサムの制度設計思想に対して投げた次の疑問である。
「最大幸福の最大化は、そもそも循環性であればできないはずなんですよ。すでに変わるから、市場自体が」――ベンサムの最大多数の最大幸福は19世紀初頭のアメリカで政策の基準になっていた。だから統計データや人口調査が発達した。ところが同じ19世紀に鉄道ブームと金融恐慌が10年おきに繰り返され、市場が均衡しないことが明らかになる。静的な最適解を出す枠組みと、循環する市場は、原理的に噛み合わない。
マイキー氏はここで景気循環論の登場を挙げた。市場が均衡しないという事実に対して、循環そのものを理論化する動きが出てくる。そして「データ自体の政策評価がかなりおおざっぱだった」ため、ベンサム流の社会デザインが政策基準になっていたにもかかわらず、実際にはかなり粗いデータしか出てこなかった、と。循環性を読みながら政策を打たなければならない、という認識が19世紀半ばから出てきたことになる。
裏取り済セッション中の音声では「クレメントシグラー」「クレー」と聞こえる人名が挙がっているが、これはクレマン・ジュグラー(Clément Juglar, 1819–1905)を指していると考えられる。ジュグラーは1862年に『フランス・イギリス・アメリカ合衆国における商業恐慌とその周期的反復』を刊行し、最初の景気循環理論家とされる。恐慌を無関係な単発の出来事ではなく、約10年間隔で反復する現象として捉えた点が画期であり、7〜11年周期の中期循環は現在もジュグラー循環と呼ばれる。
もう一方の「クレー」はおそらくキチン(Joseph Kitchin)で、3〜4年の短期循環を指す。循環の入れ子構造としては、コンドラチェフ長波の中に複数のジュグラー循環が含まれ、ジュグラー循環の中に複数のキチン循環が含まれるという整理が一般的である。年代の整合性は良好で、「19世紀半ばから循環が把握される時代が出てきた」というマイキー氏の記述は公開資料と一致する。
ここから議論は現代の日本企業に移る。マイキー氏は、蓄積データをどれだけ活用するか、データサイエンティストの機能とデータ活用方法が極めて重要になっているにもかかわらず、日本企業のデータ活用ランキングが最下位だったことを挙げ、「断片的なデータしか見ずに何か判断している」と述べた。
前田氏はこれを学習論の側から補強する。長期的な視点で捉えるということは、本来必要なデータ量の範囲が増えるはずである。ところが短期的にしか見えないので、自分たちで範囲を絞り、対応できる範囲も絞ってしまう。結果として次につながらないことを繰り返している。さらに前田氏は、日本では「正解を求める傾向が強い」ことを問題にした。データからは推論しかできず、「こういうことが予測されますね」という形にしかならないのに、「何が正解ですか」ばかりを求めてしまう。だから短期的で直結しているデータしか参考にできない。貨物の輸送量から貿易の位置づけを読み、そこから何かにつなげるという想像力が養われていないため、データの活用範囲がどんどん狭くなっていく――という診断だった。
要確認セッション中は「AMDのランキング」「60、今回6カ国だか7個があって最下位の方にいた」と述べられているが、この指標の出所は文字起こしからは確定できなかった。文脈から推測されるのはIMD(国際経営開発研究所)の世界デジタル競争力ランキングで、2025年版は69カ国・地域を対象としている。ただしIMDの総合順位における日本は31位前後で推移しており、「最下位」ではない。
一方、IMDの競争力ランキングには「ビッグデータと分析が意思決定に活用されている度合い」を経営者調査で問う個別指標があり、この項目で日本が長年にわたり最下位圏にあることは繰り返し報じられてきた。「総合順位」と「個別指標」を混同しないことが重要で、「日本がデータ活用の個別指標で最下位圏」という主旨自体は複数年にわたって観測されているが、本レポートでは具体的な年次・順位の数値は特定できなかったため要確認とする。この数字を引用する場合は、IMD世界デジタル競争力ランキング原典の該当指標を直接確認されたい。
分配ばかりを論じると「せっかく稼いだのに分配されるならやる気をなくす」という反発が出るのでは。ベンサムはそこをどう考えていたのか。(参加者)
資産や自分の稼いだものを守る安全・セキュリティの問題もベンサムは論じていたはずで、そこは加えたほうがよい。分配ばかりやると意欲が失われるので、そのバランスも考えていた。(前田氏の講義への補足として)
※ 本レポートPART 4で示したとおり、この指摘はベンサムの原典(安全>生存>豊かさ>平等の序列)と整合する。
「功利主義」という日本語訳は適切か。(マイキー氏)
英語ではutility=効用であり、ベンサムの定義は「快楽の増大ないし苦痛の減少をもたらす性質」。この定義だけを聞くと「好きなことだけやればいい」と勘違いする人が増えかねない。哲学・倫理の世界でのutilityと、日常会話で使われる「打算的」というニュアンスは意味が違う。日本語訳が誤解を生みやすい構造になっている。
ベンサムが「短期的」と言われるのは、ある事象に対してのみ判断するからということか。(参加者)
そのとおり。道徳的に目に見えなかった価値観をこの時代から数値化することに焦点を当て始め、それが現在まで継続されて精錬されている。ただしそれがアウトカム重視で、結果論でしか処理していなかった。だからそこを振り返らなければならない。現代でも――特に日本ではアウトカム重視で物事を判断するので――背景をきちんと理解し、それをどう評価するかが問題になる。(マイキー氏)
今のアメリカ社会を見ると、ベンサムの考え方は非常に魅力的に思える。ベンサムでは少数が犠牲になるという話だが、今のアメリカはマジョリティが犠牲になっていて、10%くらいの富裕層・資本家だけが得をする社会になっている。富の分配、二極化の解決法になるアイデアなのではないか。(参加者)
理想論で言えばまさにそのとおり。ただしアメリカの経済成長の仕組みは、この50年間、格差を作ることで作られてきた。苦しむ人が増えることで上が儲かり、自由に金が使える状態になって投資が促される。それをひっくり返すとアメリカの経済が成長しなくなる。これは中国も同じ。中国は「全員を豊かにしよう」としてIT規制を決めて製造業を増やし、結果として詰んだ。今の中国の力でも実現できない。おそらく僕らが生きている間には変わらない、というのが結論。(マイキー氏)
それに対する解決策は、まだ世界が模索中ということか。(参加者)
今の資本主義の枠組みの中心にあるのが「少数派による支配」――植民地主義的な構造であるとすれば、その基本的な思考が変わらない限り、簡単には変わらない。逆にそれ以外の方法がないからでもある。(渡辺氏)/もっと言ってしまうと、人間に感情がある以上、無理。ルールや倫理、道徳がある以上、最大化はできない。最大化を目指すのなら無理。限られた中での最大化はできるが、限られていない側の最大化には勝てない。(マイキー氏)/その正当性に感情的な納得がなければシステムは作動しない。法でない限り、ナラティブが分からなければ適用されてもみんながついてこられない。だからAIがこれをアルゴリズム化できたとして終わりかというと、感情がある限り受け入れられない。(渡辺氏)
ベンサムの発想には、ゲーム理論やメカニズムデザインの要素も入っているのではないか。(前田氏)
マルサスも含めて、統計・データを蓄積していくことで、よりよい社会設計をするためのツールにしていくという共通点がある。数学的なデータの積み重ねという点で、両者には共通する土台がある。
※ この日はここで留められ、ゲーム理論・メカニズムデザインとの正式な接続は行われなかった。