STUDY REPORT / 2025年11月度 勉強会
この回の『資本論』は、商品の定義で止まる。そして「では価値とは何か」という一歩手前で、講義は意図的に中断された。その空白に、参加者たちが投げ込んだのがエンダウメント効果と物語だった。理論の穴を、理論の外から埋めにいった一時間の記録。
この日の講義担当は前田氏である。冒頭、前田氏はこの単元が長くなる理由をあらかじめ断った。マルクスは資本主義を分析するために、既存の単語をそのまま使わず、細かいところまで定義をやり直している。その定義が曖昧なままなら飛ばせるのだが、やり直された定義そのものが理論の中核キーワードになってしまっているため、飛ばせない。だから定義の作業を一つひとつ踏まなければならない――というのが、この回の設計思想だった。
実際に扱われたのは、『資本論』のごく冒頭にあたる部分である。資本主義社会は商品の集まりであるという序文の一文。商品は資本主義を成り立たせる最小の構成単位であり、資本主義を人体に例えるなら商品は細胞にあたる。細胞の分析から始めなければ人体は調べられない。だから『資本論』は商品の分析から入り、そしてそこが最も難解だと言われる。
前田氏は商品の条件を三つに整理した。生産中心の社会(≒資本主義社会)で扱われるものであること。人の欲望を満たすものであること。市場で交換されるものであること。この三つのうちどれかが欠ければ商品ではない。そのうえで、市場という語にも定義が与えられた。市場とは、交換されたものの所有権を決める場所である。そこらで拾った石を「これは僕のものです」と言っても誰も認めていない。市場で交換されて初めて、誰に帰属するかが確定する。物を売る場所という理解では足りない、という指摘である。
そして貨幣と労働力という二つの特殊な商品に触れたところで、前田氏は講義を止めた。次は価値の分析に進むはずだが、価値の理解は複雑すぎるので今日はここまでにする、と。この「止めた場所」が、この回の議論をつくった。空白のまま残された「価値とは何か」に対して、マイキー氏が持ち込んだのが行動経済学の保有効果であり、渡辺氏が持ち込んだのが労働への期待感と愛着の問題であり、前田氏自身が最後に認めたのが「マルクスは価値と労働を明確に定義していない」という自己矛盾だった。
◆ セッションを貫く1本の線
この回は、マルクスの解説ではなくマルクスの未完成部分の特定に費やされた。理論を紹介する側の前田氏が「価値も労働も定義されていない」「市場が価値を形成するという前提自体が検証されていない」と自ら認め、実務側のマイキー氏が「だから価値なんてどうでもいい。どうでもいいなら振り切れる」と応じ、渡辺氏が「だからこそマルクスは経済学の外に出た」と接続する。三者が別方向から同じ穴を指す構図になっている。空白を埋めるものとして最後に残ったのがストーリーだった。価値に物差しがないから、物差しの代わりに物語が値段を決めている――これがこの日の到達点である。
前田氏はまず、前回扱った唯物史観を短く復習した。歴史を科学として捉え、そこに法則があるものとして扱い、法則を見つけて検証する。マルクスが自分の理論を立てるとき、主に用いたのは三つ――唯物史観、階級闘争、そして共産主義の理想である。ここで前田氏が強調したのは、三つ目の共産主義の理想は、前の二つから導き出された結果であるという順序だった。理想が先にあってそこへ理論を寄せたのではなく、少なくともマルクス自身の建て付けとしては、分析の帰結として理想が出てくる形になっている。
ただし前提そのものは検証されていない。歴史の中に必ず科学的な法則がある、というのはマルクスにとって前提であって、本当にあるのかどうかは別問題である。前田氏は「一応あるというのは前提になっていますよ。だから歴史のほうから検証しましょう」と、この前提を括弧に入れたうえで先に進んだ。
次に前田氏が示したのが、『資本論』という書名の読み方だった。マルクスというとコミュニストのイメージが先に立つが、この本がやっているのは資本主義のメカニズムの詳細な分析である。だから『資本論』なのだ、と。そして目的を身も蓋もなく言えば「資本主義の粗探し」である。問題があると認識していたから、詳細に分析すれば暴き出せると考えた。
ただし粗探しには共感性が要る。ただ嫌いだと言うだけでは通用しない。共感を得るために科学的な手法を導入する。科学的手法を取る以上、法則に導かれているという前提を置かねばならず、一つひとつの定義を見直し、その定義に基づいて理論を展開しなければならない。定義のやり直しは、粗探しに共感性を持たせるための手続きだった――というのが前田氏の読み筋である。この構造を押さえておくと、後半で出てくる「結論から逆算した理論だ」という批判の意味が理解しやすくなる。
📌 Claude補足|『資本論』の刊行と編集
『資本論』第1巻はマルクス自身の手により1867年に刊行された。マルクスは1883年に死去し、第2巻(1885年)・第3巻(1894年)はフリードリヒ・エンゲルスが遺稿を編集して刊行している。この回の後半で「マルクスの評価はエンゲルスに負っている」という議論が出てくるが、著作の物理的な成立過程という点でも、その指摘には根拠がある。
講義で引用された序文の一文は、日本語訳では「資本主義的生産様式が支配的である社会の富は、『商品の巨大な集積』として現れる」といった形で訳されるのが一般的である。文字起こしでは「日本主義的生産式」「巨大な集席」と表記されているが、これは音声認識由来の誤りであり、本レポートでは正しい表記に直している。
前田氏の説明の中で最も明快だったのが、人体の比喩である。資本主義社会は商品の集まりである。商品は資本主義を成り立たせる最小の構成単位である。資本主義を人体に例えるなら、商品は細胞にあたる。人体を調べたければ細胞の分析から始めなければならない。だからマルクスは商品の分析から入る。そしてそこが最も難解だと言われる――ここまでが一続きの論理になっている。
| 条件 | 内容 | この条件が意味すること |
|---|---|---|
| 生産中心の社会で扱われる | ここでいう生産中心の社会とは、ある意味で資本主義社会のこと。その中で扱われるものが商品である | 社会が変われば商品の定義と意味も変わる。商品は普遍的な概念ではなく、特定の社会形態に紐づいた概念である |
| 人の欲望を満たす | あらゆる人のあらゆる欲望を満たすことが商品の役割。人の欲望を満たさないものは商品ではない | 逆に言えば、何らかの形で人の欲望を満たせるなら、それは商品になり得る。範囲は原理的に開かれている |
| 市場で交換される | 商品は必ず市場において交換される。これは商品の性質を述べている | 交換されないものは、どれほど価値があると本人が思っていても商品ではない |
この三条件から、価値の存在が導かれる。商品には必ず価値が存在する。なぜなら人の欲求を満たすからである。ということは、商品になり得るものは誰かに対して必ず価値を持つ。ただし前田氏はここで釘を刺した。いま使っている「価値」は一般的な意味での価値だと思ってほしい。マルクスは価値も定義し直すからである。そして定義し直すということは、価値も分析しなければならないということになる。
◆ 分解が次の問題を呼ぶ、という構造
前田氏は『資本論』の段階的な性格をこう説明した。一つのテーマを分析して分解すると、次の問題が見つかる。ではその次の問題をより細かく分解して詳細にメカニズムを調べよう、となる。この連鎖が続く。価値を調べると、価値の次に労働が出てくる。だからどこかで止めなければ切りがない。前田氏はこの単元の到達点として「労働まで」と「商品フェティシズム」を設定し、その先に剰余価値を置いた。読者としては、この連鎖の構造そのものが『資本論』の難解さの正体である、と理解しておくとよい。
この回で最も独自性が高かったのが、市場の定義である。前田氏はこう述べた。市場とは、交換されたものの所有権を決める場所である、と。そこらで石を拾ってきて「これは僕のものです」と言っても、誰かが認めているわけではない。後から別の所有者が出てくるかもしれない。つまり拾ったものは所有権が決まっていない。市場は、それが誰に帰属するかを決める場所である。そこで交換されて初めて、誰のものかが社会的に認識される。
だから、と前田氏は続けた。市場とは物を売っている場所ではない。商品を交換し、かつ所有権を決める場所である。そしてこの定義を採用するなら、貨幣も商品の一つになる。市場で交換されるものだからである。
📌 Claude補足|この市場観の位置づけ
「市場=所有権を決める場所」という定義は、標準的な『資本論』の解説書に定型句として出てくる表現ではない。マルクス自身の議論では、交換過程の分析において商品所有者どうしが互いを私的所有者として承認し合うという法的・社会的関係が論じられており、前田氏の定式化はこの部分を現代の言葉で圧縮したものと読める。所有権の確定という機能を市場の本質に置くことで、後半の議論(美術品や個人データのように交換が薄いものは価値が定まらない)が接続しやすくなる、という説明上の利点がある。要確認ただし、これがマルクス解釈として標準的な整理かどうかは、講義で参照された典拠が示されておらず、確認できなかった。前田氏独自の再構成である可能性を含めて記録しておく。
前田氏は、この世には特殊な商品が二つある、として貨幣と労働力を挙げた。貨幣がなぜ商品なのかといえば、市場で交換されるものだからである。労働力についても同様で、市場で十分に交換されている。前田氏が挙げた例はタイミーだった。労働力の売り買いのプラットフォームを作ったサービスであり、まさに労働力が市場で交換されている実例である。
この二つは商品でありながら、他の商品にはない性質を持つ。だからこそ特別な意味を持ち、この二つが特殊な意味を持っているからこそ資本主義経済が存在する――前田氏はそう述べて、詳細には踏み込まなかった。貨幣論と労働力の商品化は、この単元の後の回で扱われる予定になっている。
講義が価値の手前で止まったあと、マイキー氏が口を開いた。「前田さんの話を聞いていて思ったのが、商品の価値の分析というところが一番引っかかっていて、エンダウメント効果で全部ばらついているよ、という話をしたら面白いんじゃないか」。前田氏は即座に「まさにそこだと思う」と応じた。ここから、この回の実質的な議論が始まる。
マイキー氏は参加者に手を挙げさせ、この用語を知らない人が一定数いることを確認したうえで説明した。皆さんの個人データと他人の個人データ、どちらが価値があるか。多くの人は自分の個人データと答える。ではそれをどうやって測るのか。あなたの個人データとイーロン・マスクの個人データではどちらに価値があるか、と問えばマスクだと答える。しかし、その人の家族から見たらどうか。
結論として、人は自分が持っているものにバイアスをかけて評価してしまう。マイキー氏が挙げた例が、亡くなった母親からもらった100円のネックレスだった。本人にとっては価値がある。他人から見れば価値がない。ではその差を埋めるには何が必要か。参加者から「ストーリー、物語」という答えが返り、マイキー氏は「そういうことです」と受けた。プレゼンテーションとは、まさにこの差を埋める作業である――自分が売りたい金額があり、他人はそこまでの価値だと思っていない。それをどう埋めるかが重要になる、と。
📌 Claude補足|保有効果(エンダウメント効果)の出典
保有効果は、リチャード・セイラー(Richard H. Thaler)が1970年代初めに指摘し、1980年の論文で概念化した行動経済学の現象である。人は自分が所有しているものを、所有していない状態で評価する場合よりも高く評価する。
代表的な実証が、カーネマン、クネッチ、セイラーによる1990年のマグカップ実験である。大学生を分け、一方にだけ6ドル相当のマグカップを渡し、渡された側には「いくらなら手放すか」、渡されなかった側には「いくらなら買うか」を尋ねた。結果は売り手の提示額の中央値が7.12ドル、買い手が2.87ドル、選択者が3.12ドルで、同じマグカップでも自分のものになった瞬間に約2.5倍の開きが生じた。背景にあるのは損失回避であり、プロスペクト理論によって体系的に説明される。
つまりマイキー氏の説明は、行動経済学の標準的な理解と整合している。ここで重要なのは、この現象がマルクスの労働価値説では説明できないという点である。同一の商品が所有の有無だけで倍以上に評価が変わるのなら、投下された労働から価値が決まるという説明は、少なくとも個々の交換の場面では成り立たない。
保有効果の実証:マグカップ実験における提示額(中央値)
出典:Kahneman, Knetsch & Thaler (1990) の実験結果として報じられている数値をもとにClaudeが作図。単位は米ドル。
マイキー氏はこの議論を、価格形成の話へ広げた。自分の作ったラーメンは日清のカップヌードルより価値があると思いたい。しかし率直に言えばカップヌードルのほうが美味しいかもしれない。調味料が入りまくっているからである。ではそこにストーリーが加わったらどうなるか。この麺にこれだけ手をかけ、この材料を仕入れ、スープにこだわり、200回も300回も味見をして作ったスープです――そう語られれば、カップヌードルより美味いと錯覚させることができる。実際に価値を測る物差しがないからこそ、物語が入り込む余地がある。
次に挙げられたのが自動車である。販売金額は決まっている。人件費、エンジン代、バッテリー代、ライト代、ハンドル、シート。1,000円かかって2,000円かかって3,000円かかって、その積み重ねを価値として提供している。ではその部品の、その材料の価値は誰が決めたのか。ここの価値自体にそもそも定義がない。マイキー氏は、マルクスの価値論は労働という変則的な見方をせず、ベースにあるものを組み合わせたものの価値の分析として読めるのではないか、と述べた。そして実際のビジネスはそれで成り立っている、と。
◆ ウォルマートの値上げと、個人商店の10円
マイキー氏が出したもう一つの例が、値上げの非対称性である。ウォルマートが値上げをしても誰一人文句を言わない。しかし小さな店が10円上げるだけで文句が出る。この違いは何なのか。値上げをしていい人と、してはいけない人というバイアスが働いている。ならば商品という最小単位の価値は、そもそも歪んでいるのではないか――というのが結論である。この視点は、後段の「大量生産のクッキーより、障害者が作った美味しくないクッキーのほうが高く売れる」という例と対になっている。どちらも、価格が原価でも品質でもなく物語と発話者の資格で決まっている例である。
マイキー氏の議論の着地点は、実務家らしいものだった。価値の尺度に疑問を持ち始めると、ループ状態になって答えが出てこなくなる。結果としてどうでもいい。そしてどうでもいいのであれば、振り切ることができる。価格や価値の部分について、どうやってストーリーを作ってあげるのかを考えればよい。人間は周りの最小単位の集合体に揉まれている状態にあり、欲しい賃金も欲しい金額も、その組み合わせによってコントロールされている――これが、マイキー氏が『資本論』を勉強したときに感じたことだという。
渡辺氏は、この議論をマルクス側に引き戻した。物との交換が幻想的な関係になっていく現象を端的に表せば、その通りである。私たちが期待している労働、自分がなしたこと、達成したこと、かけた時間に対して、愛着はある。この愛着を説明する理論が、正統派の経済学側にはない。市場における自分の労働の価値と、自分が持っている自分の労働の価値が一体化していないから、不満が生じ、正しい判断ができない。
そして渡辺氏はこう続けた。その辺りを調整して合理化することを考えれば、「ある意味どうでもいい」という形で自分の愛着を捨てられるかどうかが、社会に適合するには最も手堅い方法である。マイキー氏の「どうでもいい」という結論と、渡辺氏の「愛着を捨てる」という処方が、ここで重なった。
渡辺氏はさらに、マルクスが経済学の外に出た理由をここに置いた。マルクスは社会にどう働きかけるかを考えるために、経済学以外に存在論や政治的なあり方まで扱った。だからこそ経済学以上の効果を求めたのであり、経済学の内部だけではマルクスは論じられない。マルクスが理想とする経済学の姿や市場のあり方は、この理論の中からだけでは答えが出てこない――そのことを理論自体が結論づけてしまっている。だから前田氏も苦労しているのだろう、と。
◆ 渡辺氏によるマルクスの使い方
それでもマルクスを学ぶ意味はどこにあるのか。渡辺氏の答えは、「分析ツールとして使う」である。価値をどのように私たちが納得し、それに対して意思決定しているのか。その枠組みを知ること。そしてその枠組みを最初に暴いた人物として、マルクスの理論は分析ツールとして機能する。答えを取り出すのではなく、問いの立て方を借りる、という位置づけである。
この議論を受けて、講義担当の前田氏自身が、理論の弱点を明示した。ここがこの回で最も価値のある部分である。
① マルクスの理論は、共産主義へ向かうために作られている部分があり、結論から逆算して構築されているため、どこかに歪みを生じさせざるを得ない。
② 価値と労働は本当は最も重要であるにもかかわらず、明確に定義されていない。ここに自己矛盾がある。
③ 市場によって価値が形成されるという前提そのものが検証されていない。
マルクスは枠組みを使おうという意識が強すぎるため、必ず二項対立を用いなければならなくなる。二項対立にするために枠組みを設計していく部分がある。
その結果、二つの項の「間にあるもの」が説明できない。資本家と労働者の関係を敵対的関係として捉えると、強制・搾取・収奪という説明にはなるが、その中間にあるグラデーションは扱えなくなる。
前田氏はまた、現代の状況とマルクスの理論のあいだにはかなりの隔たりがあり、説明しきれていない部分が大きい、とも述べている。マイキー氏の疑問――現代の価値のばらつきをマルクスは説明できないのではないか――に対して、講義担当者自身が同意した形になる。
渡辺氏は、この理論が持った熱の源泉を別の角度から説明した。マルクスは終末論に強く影響を受けており、そこで熱が生まれている部分がある。それまで経済学に関心のなかった人たちがふと読んで、それが何かの力になった。それは、私たちが日々味わっているものを言語化してもらったということである。労働がそのように使われているという実感、みんなが持っているその頷き。普段から経済学を勉強していない人にとって、その理論はきわめて分かりやすい現実の見取り図だった。
渡辺氏はさらに、資本家と労働者の敵対的関係を「このシステムのままではもう地獄ではないか」という認識として捉え、ダンテ『神曲』と『資本論』の構成が非常に似ていると論じる文学的研究があることにも触れた。悪いのは資本家個人ではなくシステムであり、そのシステムが人を敵対させ、強制と収奪を容易に導き出してしまう――という構図である。
マイキー氏は、さらに踏み込んだ見方を出した。マルクスの評価自体がバイアスである。理由は二つある。
第一に、マルクスは生きている間は有名ではなかった。第二に、アンチを打ち出したことが大きかった。産業革命が起き、労働時間が長く、賃金が伸びにくい状況で、資本主義に困っている人がたくさんいた。だから資本主義に対するアンチを作ることによってのマーケティングが、きわめてうまくいった。マルクス自身は困窮した生活を送っていたと言われている。そしてマルクスがいなくなった後、資本主義への疑問を持つ人たちがより上の層まで広がり、結果としてマルクスが有名になり、『資本論』が重宝されるようになった。生前の評価は今ほどではなかった――アラン・チューリングのようなものだ、というのがマイキー氏のまとめである。
渡辺氏はこれに同意し、「ほとんどエンゲルスによっている」と応じた。生前の生活もエンゲルスに支えられ、マルクスの著作物もエンゲルスが出版してマーケティングをした。それをどう使ったかという点では、当時の資本家に取って代わろうとする新興の資本家側の思惑もあった可能性がある、と。そして、フランス革命そのものが庶民の蜂起で始まったかというと、徴税をめぐる上層の駆け引きから始まったものが拡大したにすぎない、と考えれば、思想が「使われる」とはそういうことなのかもしれない、と締めくくった。
📌 Claude補足|マルクスと環境問題、そしてピケティ
質疑の中で「マルクスが現代に生きていたら何をするか」という問いが出た。前田氏はトマ・ピケティの主張に近い部分があるのではないかと答え、富裕層への巨額の課税による格差是正を挙げた。ピケティの『21世紀の資本』は2013年にフランスで刊行され、翌年に英訳・邦訳されて世界的なベストセラーとなった。資本収益率が経済成長率を上回る(r > g)という不等式を軸に格差の拡大を説明し、処方としてグローバルな累進資本課税を提唱している。この点で前田氏の見立ては、ピケティの主張の要約として正確である。
もう一点、前田氏は「マルクスの研究者がメモを調べていて分かってきたことがあり、環境問題にも関心があった」と述べた。これは裏取りできる。マルクスの膨大な抜粋ノートを含む新メガ(MEGA=マルクス・エンゲルス全集の新版)の編纂作業を通じて、晩年のマルクスが自然科学や物質代謝の議論に深く踏み込んでいたことが明らかにされてきた。日本ではこの研究を担った一人である斎藤幸平氏が、『大洪水の前に――マルクスと惑星の物質代謝』(2019年、英語版は2017年)でこの主題を扱い、国際的な評価を得ている。前田氏の「今データとして結構出てきている」という表現は、この研究動向を指していると考えて整合する。
📌 Claude補足|Anthropicのコードが「一番多い」という発言について
質疑の途中、マイキー氏が「最近中国からアメリカへのハッキングで一番多く攻撃コードを書いているのはAnthropicのコードである」「倫理を唱えている会社が一番ハッキングコードを自動生成している」と述べた。関連する事実は存在する。Anthropicは2025年11月13日、Claude Codeを悪用した大規模なサイバースパイ活動を検知・阻止したと公表した。攻撃は2025年9月中旬に検知され、中国の国家支援ハッカーグループ「GTG-1002」が、大手テック企業・金融機関・化学メーカー・政府機関を含む約30組織を標的にしたとされる。偵察、脆弱性の発見、認証情報の窃取、バックドアの作成、データ収集、報告書生成といった工程の80〜90%がAIによって自動実行された点が、初の大規模事例として報告されている。攻撃者は「セキュリティ企業の従業員である」「防御テストである」と偽ることで安全機構を回避していた。
ただし要確認「一番多い」という比較の主張は、この報告からは導けない。Anthropicの報告は特定の一件の大規模事案を扱ったものであって、生成AI別の攻撃コード生成量を比較した統計ではない。発言の趣旨(倫理を掲げる企業のツールが高性能ゆえに悪用された、という皮肉)は事実に支えられているが、量的な最上級の主張は裏づけがない。書き換えず、食い違いとして記録する。
Q商品は量産物に限る、というのはなぜか。(藤川氏)
A(前田氏) 美術品のような場合を考えてほしい。商品の価値は労働力から出てくるが、美術品は時期や人によって評価が全く変わる。それは資本主義のシステムではなく、その時のトレンドや思い込みで生じている。株式が分かりやすい例で、良い情報が出れば急に上がり、違いますと言われれば下がる。しかし本来的には、情報によって企業の価値そのものは変わっていない。
A(藤川氏の確認) つまり、価値はあるかもしれないが、時々で評価が変わるので一定の基準で評価できない。だから分けている、ということか。量産的にマクロ視点で見れば需要と供給がある程度一定で、交換が恒常的に生じるから、という理解でよいか。
A(前田氏) その通り。マクロ視点が生じないということである。加えてマルクスは平均化という言葉を使っている。価値を見るには労働力の平均化が重要で、美術品のようなものは一点物になることが多いため平均化が生じない。
Q量産が要件なら、データは無限に量産できてしまうのではないか。データは『資本論』には一切入ってこないのか。
A(前田氏の逆質問) データは本当に無限に量産できるのか。なぜ無限に量産できると考えるのか。
A(質問者) 保存する場所があるから。……いや、保存場所は無限ではない。Googleが原作のサービスを作れば、一度作った後は皆がアクセスして使える。その「皆が使える」状態が量産されている状態ではないか。
A(前田氏) 「使える」ではなく、商品は交換されるものである。では交換されるデータとはどういうデータか。音楽データや映像データなら、対価を払ってダウンロードする。しかし音源の数は作った分しかない。提供は理論上は無限にできるかもしれないが、実際には需要の限界によって制限を受ける。ちゃんと制限がかかるシステムがここにある。
A(補足のやり取り) ではサービスは商品ではないのかという問いに対して、前田氏は「サービスも商品である。市場で交換されるからだ」と答えた。さらに「今の状況では、恋愛だろうと命だろうと、商品になっている部分はあると思っている。現実にそうなっている部分がある」とも述べている。
Qマルクスが現代に生きていたら、いまの資本主義の歪み――たとえば格差――に対して何をしたらいいと言うと思うか。
A(前田氏) マルクスは格差の解消という意図を最も強く持っていたと思うので、いまであればトマ・ピケティの主張に近い部分があるのではないか。富裕層に巨大な税金をかけて格差を是正する、という主張はするだろう。ただしもう一つ、今のマルクスの理論では理解できない部分がかなり出てきているので、そこをどう捉えるかはイメージがつかない。
Q彼は現在のGAFAMのような技術革新をどう見るか。AIは今バブルなのか。技術革新のフェーズだからこそバブルではない、という考え方もあり得るのではないか。
A(前田氏) その疑問はもっともだが、そこには経済が発展してきた歴史の部分がある。ケインズからミルトン・フリードマンへ、という流れを説明する一つのステップになる話なので、マルクス単独ではなく今後の講義の流れの中で議論していくのがよい。もう一つ伝えておきたいのは、研究者がマルクスのメモを調べる中で、マルクスが環境問題にも関心を持っていたことが分かってきているという点である。分配だけでなく環境をいかに維持するかという意識を持っていた。だとすればAIについても常に警鐘を鳴らし、それに対してどういう論を張るかで動くのではないか。
Q中国は自動運転などでルールを無視する一方、キャッチアップも激しい。資本主義の課題という循環はどうなっていくのか。
A(前田氏) 中国の戦略を見ると、ルールを破るという面がある反面、徹底的にルールを調べてどうやって最適化するかもやっている。しかもそれを企業体ごとに作り分けているように見える。連合したり、グループを作ってエコシステムを設計したり、密着する部分と分離する部分を作り分けたりしている。アメーバのように柔軟に形を変えて分散していくイメージがあり、その意味では非常に読みにくい。
Q商品の価値の分析について、エンダウメント効果で全部ばらついている、という話をしたら面白いのではないか。(マイキー氏)
A(前田氏) まさにそこだと思う。商品フェティシズムがその部分を説明しようとしているが、おっしゃる通り説明しきれていない。
A(渡辺氏) 外堀からしっかり埋めてこられているので――労働に対する期待感、愛着。無茶ぶりされた仕事を必死でやり遂げたら「できるじゃん、次もそれでお願いね」と言われる。その時の怒りが分かるならマルクスが分かる。自分の労働がどこまでなら再生できるのか、というところが商品化という形に姿を変えている。そして自分が関わったもの、価値があると思うものへの評価基準がどう設定されるのかを労働者は求める。この愛着を説明する理論が、正統派の側にはない。
Q『資本論』でいう労働とは、人間が行う「商品を作り出す活動」を指しているのか。ロボットが商品を作る場合はどうなるのか。(久保田氏)
A(渡辺氏) 労働とは、まず労働者の関わりによる時間であるとか、労働者が準備しうる資本のことである。商品を生み出す資産、労働力、時間、投下したもの。
A(前田氏・マイキー氏) あくまで人間である。ただし質問の立て方に無理がある。マルクスが書いた頃にロボットはない。あくまで歴史の産物なので、それをそのまま現代に当てはめようとするのはかなり暴論である。時代背景を話しているのだから、そこからどう違っていくのかを考えるほうが筋がよい。
Q価値についても、皆が同じような判断で欲しくなるような、という説明があったが、どういうことか。(久保田氏)
A(前田氏) 一般的に思っている価値とはイメージが全く違う。そして労働の意味合いも、労働そのものをどうこう言いたいというより、価値を定義づけるために労働の意味を定義している。だから逆算的に考えなければならない。価値がどういう方向性かが見えないと、労働の方向性も見えない。だからこそ今日はここで止めた。
Qロボット化が進み、個人の考え方も多様になる世の中では、マルクス的な視点はますます当てはまりにくくなるのではないか。(久保田氏)
A(マイキー氏) 言っていることは分かる。その答えは、「抽象労働」という捉え方が何を生み出してしまうのかを考えればよい。彼の捉え方自体が、今の時代とはちょっと違うよね、と言えるようになる。一度『資本論』を読んで、その言葉を見ておいてほしい。そうすればマルクスが定義しているポイントが理解できるはずである。ここを話すとまた長くなるので今日は喋らない。
Q(思考法へのアドバイス)どうすればこの宿題に答えを出せるか。
A(マイキー氏) 久保田さんは物理学者なので、点と点をまっすぐ結ぼうとする。そうすると前田さんに殺される可能性があるので、歪ませて点を結ぶ考え方を持つと面白い回答が出る。経済学と経営学は1+1=2にならない。あなたの分析は1+1=2を作ろうとしていて、点と点を直線で結んでどれだけ直線を引けるかを考えている。だから少し違う波の話をされると「嫌だ」という反応が出る。これは行動パターンとして見えている。あえて歪ませて、まっすぐな線でなくても点と点は繋がるという思考の上で回答を出すと納得性が上がる。柔軟性の高い人は、線だろうが点だろうが、まっすぐだろうが歪んでいようが、繋がっているならいいと考える。この曖昧性こそが経済学であり経営学である。人間というばらつきのあるバグの集合体を扱っているのだから、絶対にまっすぐな線にはならない。
A(久保田氏の受け止め) ユークリッド幾何ではなく、非ユークリッド的な、湾曲したいろいろな見方がある、ということですね。