この日のセッションの前半は、講義ではなく議論だった。テーマは「人はどうすれば変わるのか」。そして結論は、勉強会の文脈としてはきわめて重い。人は基本的に変わらない、変わるとすれば死に近い体験を通してであり、それを人工的に作るには倫理と常識を外す必要がある――マイキー氏はこの立場を一貫して崩さなかった。
特徴的だったのは、この主張が抽象論で終わらず、二種類の一次データで裏打ちされたことである。一つは彼自身の失敗事例で、過去に実際にこの方法を実行し、100人規模の集団訴訟を受けたという告白。もう一つは成功事例で、6〜7年をかけて実際に変わった当事者であるキクリン氏本人が後半に登場し、何をされ、何が効いたのかを本人の言葉で説明した。理論と実践の両方が、賛否の分かれる形で提示された回である。
興味深いのは、この議論の結論が後半で微妙にずれていく点だ。マイキー氏は前半で「死の疑似体験」を強調するが、実際に変わったキクリン氏の証言から浮かび上がったのは、劇的な一撃ではなく、6〜7年にわたる同じ指摘の反復と、「逃がさない」という側の執拗さだった。マイキー氏自身も後半でこう言い直している。本人が何にしがみつくかより、どう逃さないかを考えるほうが重要だと。強度の理論から、時間と網の理論への静かな移動が起きている。
この日語られた変化のモデルは、突き詰めれば「言い訳の余地を構造的にゼロにする」という一点に収束する。冒頭の男女議論では「言い訳できない環境を作る」ことがイベントの価値として語られ、中盤では「当たり前のことができない人に当たり前でないことはできない」という切り分けで言い訳が封じられ、キクリン氏の証言では「あなたが使うはずだった時間は一生帰ってこない」という一文が言い訳を無効化した。理不尽そのものが目的なのではない。理不尽に筋が通っていることによって、逃げ道の側の論理が先に潰される。キクリン氏が「理不尽なだけなら聞きたくないで終わる」と言ったのは、この構造の核心を突いている。
本レポートは発言内容を記録・整理したものであり、そこで語られた手法を推奨するものではない。この回で語られた方法には、私生活への物理的な介入、深夜の連絡、精神的に追い詰めることを明示的な目的とする働きかけが含まれ、話者自身が「訴えられるレベル」「捕まるすれすれ」と表現し、実際に集団訴訟に至ったと述べている。労働環境や教育の場でこれを実行すればハラスメント・違法行為に該当しうる。参照する際は、手法そのものではなく「言い訳の余地を消す」「逃げ道を先に塞ぐ」という構造の側を抽出すべきである。
録画は会話の途中から始まっている。話題は男女の問題だが、渡辺氏がまず置いた前提は、これを男女の話として語っていないという点だった。男女の問題は民族の問題でもあり、要するにいろいろなモデルが結局は共通である、という思いで語っている。アジア人と白人、黒人と白人が解決してきた問題と同じ構造であり、それはつまりアファーマティブ・アクションの問題である、と。そして誰が一番よく論じられるのかといえば、自分がその立場だからというわけではない。一番大事なのは成長するかどうかだ、というのが彼の立場だった。
ここからマイキー氏の合宿企画の話に展開する。渡辺氏が提案したのは、男女それぞれのやりやすいことをやらせたうえで競わせ、負けたほうが話を聞く、という形式だった。彼が価値を見たのは競争そのものではなく、男性が女性に負ける経験という、社会のシステム上ほとんど発生しない体験を人為的に作れる点にある。社会的・組織的な非対称をいったんフラットにしたうえで負けを経験させれば、それだけで一つのイベントになる、と。
マイキー氏がこの提案に食いついたのは、別の理由からだった。言い訳の余地をなくすことへの関心である。彼の観察はこうだ。基本的に言い訳をする人間は負けているから言い訳をする。普段は自分のことを何も語らないのに、言い訳のときだけは一人前に、いかにもそれが正しいという論調で語る。だから彼が期待したのは「負け組であることを証明してくれること」であり、その後に出てくる改善案が予想通りのゴミであることを確認する時間だった。「もっと積極的に発言すればよかった」「もっと積極的に行動すればよかった」という、小学一年生の一学期にどう友達を作るかという水準の目標しか立てられない――それを大の大人が、あるいは経営者が真顔で言うのを聞くのが楽しい、と彼は述べている。同じ理由で、投資した会社には失敗してほしいとも言った。起業家側の言い訳とその後の代替案を聞けるのが面白いから、というのがその理由である。
渡辺氏はこの流れに、宗教史からの補助線を入れた。ナイチンゲールが「そもそもイエス・キリストが女性でない時点で不公平だ」「未来のキリストは女性であるべきだ」と述べたこと、そして仏教が「なぜ仏が男性なのか」という議論に膨大な労力を費やし、男性でも女性でもない存在としてどう位置づけるかに苦心してきたことを挙げ、紀元前から男女の待遇差は問題であり続け、それを乗り越えた存在をどう尊敬すべきかが議論されてきた、と説明している。
フローレンス・ナイチンゲール(1820–1910)が宗教思想・神学に強い関心を持ち、女性の召命と社会的地位について厳しい批判を書き残したことはよく知られている(未刊の草稿『Cassandra』など)。ただし、この日引用された「イエス・キリストが女性でない時点で不公平」「未来のキリストは女性であるべき」という具体的な文言については、一次資料での確認ができなかった。趣旨として近い議論が彼女の宗教的著作に存在する可能性はあるが、引用としての正確性は保証できないため 要確認 とする。仏教における仏身の性別をめぐる教理的議論(変成男子説など)が長い歴史を持つこと自体は、仏教学の常識的知見と整合する。
マイキー氏の変容論は、否定から始まる。彼が影響を与えて人生を変えてきたと言える人たちの共通点は、能力ではなく「脳筋で動ける」ことと「素直であること」だった。それ以外の人については、自分でも成果が上がっていない、と彼は率直に認めている。アメリカ時代の知り合いの心理学者たちにも聞いたが、返ってきたのは「基本的に人と人は変わらない」という答えであり、人が変わるとすれば、変えようとする側の100倍努力しなければ無理だと言われた、という。
ここから彼の逆算が始まる。自分の100倍努力している人が、変わろうとしている人の中に何人いるのか。いないのであれば無理だ、と。そして彼が挙げた具体例が鋭い。石山氏や青木氏らがプレゼンの練習をしているのを見て「すごいな」「私もやりたいな」と思っている時点で、その人はもう変われない。なぜなら、彼らがやっていることはすごいことではなく当たり前のことだからだ。当たり前のことができない人に、当たり前でないレベルのことができるはずがない。当たり前ができる人が当たり前でないことをやって初めて、何かが積める。
渡辺氏は、人が変わる古典的な契機として「戦争に行く」「大病をする」「牢獄に入る」を挙げ、これに匹敵するインパクトがないと変われないのが事実だ、と応じた。マイキー氏の返しは「牢獄にはぶち込んであげたが生ぬるい牢獄なので、もっと厳しくしていい」というものである。
渡辺氏が「どういう理論を学んでその確信を持ったのか」と問うと、マイキー氏は自身の観察の履歴を語った。人間ウォッチングが好きで、優秀な人間とダメな人間の違いをまず見た。心理学のクラスや自己啓発の講演会に、アメリカにいた頃むちゃくちゃ通った。そこで飛躍した人の成功体験を聞くと、確かに本人は「努力した」と言うのだが、どうも努力ではないのではないかと思い始めた。そして共通点として残ったのが、死の体験に近い経験だった。肉体的にも精神的にも追い詰められ、行き先もなく、友人もいなくなり、お先真っ暗という状態に置かれた人間が、もっとも変化していた。
日本に住んでいるとこの機会は基本的に訪れない。だから疑似体験として与えるしかない、というのが彼の設計思想である。これは工藤氏(勉強会内では「たかさん」と呼称)も同じことを言っている、と彼は付け加えた。死の恐怖に近い体験をすればするほど人は変わる。ただしそれを実行しようとする者はおらず、実行させるためのプログラムを作る者もいない。マイキー氏が合宿の説明をしたとき、その人物からは「お前は頭がおかしいのか」と言われつつ、「でもそれが一番変わる」とも言われたという。
この設計を実行するには何が要るかを問われて、マイキー氏が挙げたのは覚悟ではなく洞察力だった。相手が一番嫌がることは何かを徹底的に分析し、そこを徹底的に詰める。ピンポイントでダメージを与えなければすぐ逃げられてしまうから、追い込むための道筋が分かっていなければできない――という技術論として語られている。ここで彼が使った「傷口に塩を塗る」という比喩は、そのままハラスメントの定義に接近する。この手法の危うさは彼自身も理解しており、実際に100人規模の集団訴訟を受けたと述べていることは、記録として重要である。
「倫理観を外さないと人は変わらない」という文脈で、二つの有名な心理学実験が引き合いに出された。事実関係を整理する。
スタンフォード監獄実験(1971年8月):発言では「2週間やるはずが5日で終わらせた」とあるが、正確には2週間の予定を6日で中止している 裏取り済。フィリップ・ジンバルドーが米海軍研究局の資金で実施。最初の4日間で3名の被験者が精神的に耐えられず解放され、外部の観察者が状況に衝撃を受けたことが中止の直接の契機となった。なお近年の研究では、看守役が自発的に残虐化したのではなく事前に振る舞いの指導を受けていた証拠が指摘されており、「人は役割によって残酷になる」という通俗的な教訓自体が再検討の対象になっている。この点は、本セッションでの引用の前提を揺るがす。
ミルグラム実験:発言では「訴訟になったぐらい」とあるが、訴訟に発展したという記録は確認できなかった 要確認。ミルグラムの服従実験は激しい倫理的批判を受け、米国心理学会での資格審査の対象となり、その後の研究倫理規定(インフォームド・コンセントの厳格化)を形づくる契機になったが、法的な訴訟が中心的な帰結だったわけではない。「倫理的批判」と「訴訟」は混同しないほうがよい。
マイキー氏は自己啓発書への評価を語る中で、ナポレオン・ヒルの『悪魔を出し抜け!』について「50年間家族が封印していた本」と述べ、「読んだが何の身にもならなかった」と評した。封印されていたのは事実だが、期間は50年ではない。執筆は1938年、刊行は2011年6月で、およそ73年が正しい 裏取り済。悪魔との対話という形式をとり、教会と学校を人間を支配する装置として攻撃する内容だったため、妻アニー・ルーが刊行を差し止めた。1970年のヒルの死後は妻が原稿を保持し、1984年の妻の死後は甥に、その妻フランキーの意向で刊行されず、彼女の死後にナポレオン・ヒル財団CEOのドン・グリーンの手に渡り、シャロン・レクターの注釈を付して2011年に刊行された。『思考は現実化する』の続編として、なぜ成功法則に従っても失敗する人がいるのかを扱う本である。
この議論の背骨にあるのは、マイキー氏の人間観である。自己啓発や宗教がよく言う「人は善である」という前提こそが、人と付き合えなくさせるポイントだ、というのが彼の主張だった。逆に「人は全員悪人である」と置けば、お互いのメリットとデメリットが見えてきて、そこを補い合うという思考になる。他人は全員悪人だという前提で、その悪をどれだけ許容できる器があるかというベースで人と付き合えば、怖いものがなくなる。逆に善人であることを前提にするから、裏切りが怖い、怒られるのが怖いという感情が生まれる、と。
渡辺氏はこれを制度論に接続した。人が悪であるからこそ、そこに対してどうシステムを作るかというところに知性が発揮されてきた。男女の問題も、不平等だからこそ解決策が生まれ、そこに文化が生まれてきた。ただしそれを克服するには、まず悪や問題を摘出し発見しなければならない――この整理が、直後に始まる前田氏の「コモンズの悲劇」講義の前提を作ることになる(この続きは別レポート「コモンズの悲劇と回避設計」を参照)。
マイキー氏がここで提示した処方箋は、思考の向きを反転させるというものだった。対人関係については思考したほうがいいが、自分に対しては思考しなくていい。脳筋であったほうがいい。ところが大抵の人は逆で、感情のフィルターがかかった結果、自分に対して思考し、他人に対して脳筋で動く。だからプログラムを組むならまずこの向きを逆転させるところから始めるべきだ、と。相手が一番喜ぶことと一番嫌がることは何かを常に考える。それは思考である。そのうえで、それを実行するときに自分は理屈も感情も関係なく脳筋で動く。このサイクルを徹底的に回すことで、変わるというより「慣れる」に近い状態になるのではないか、というのが彼の言い方だった。
渡辺氏はこれを哲学の言葉に置き換えた。アテネ的真実とエルサレム的真実の違いである。我々が普段見ているのは理性ベースのアテネ的真実だが、エルサレム的真実、つまり人間のドロドロとした最も深い感情、欲望と感情が相まったところの真実を掘らないことには、人間は自分自身と向き合ったとは言えないのだろう、と。
自分に対して思考する(言い訳・葛藤・自己分析)。他人に対して脳筋で動く(反射的な反論、感情的な対応)。マイキー氏の評価は「マジで無駄な動き」。
他人に対して思考する(相手が最も喜ぶこと・最も嫌がることを分析する)。自分に対しては脳筋で動く(理屈と感情を挟まずに実行する)。このサイクルを回し続ける。
セッション後半、話題は当事者本人に移った。マイキー氏が「出会った当初は本当に何もない、やばい奴だった」と紹介したキクリン氏が、自身の変化のプロセスを語る形式である。ここが本レポートで最も価値のある部分になる。理論ではなく、実際に受けた側の記述だからである。
キクリン氏の証言は、成功譚として始まらない。マイキー氏からずっと同じことを言われ続けて6〜7年が経ったが、言われていることは最初からずっと変わっていない。営業できたほうがいい、話したほうがいい、考えられるようになりましょう――そして最初はそんなに変わらなかった、と本人が明言している。思考力がつく、喋る機会が増えるといったチャンスを与えられても、ファシリテーションが急にできるようになるわけでも、話ができるようになるわけでもなかった。
転機は、彼自身が「営業が欲しい」と思ったときに訪れた。欲しいと思ってから、いろいろなものが身についた。そしてそのときにやったことは、その環境に身を置いてしまうことだった。何か欲しいものがあれば、その環境に入ればやらざるを得なくなる。やらなければならない状況の中で、自分の持っているカードをどうつなぐか、目の前で起きたことをどうつなげるかを繰り返した結果、マイキー氏に言われていたことが全部つながった、というのが彼の説明である。
キクリン氏が今でも刺さっていると語ったのは、怒鳴られた記憶ではなく、淡々と言われた一文だった。思考力を上げるワークを自分から志願しておきながらサボり、忙しい・体調が悪いと言い訳をしたときに返ってきたのがこれである。今あなたが言っていることは全部言い訳だ。それはあなたがやりたいと言って始めたことで、こちらも時間を使い、あなたも時間を使うことを決断したはずだ。その使うはずだった時間を使わなかったということは、一生帰ってこない。それについてごちゃごちゃ言っている暇はない。やらなかったという事実をまず受け入れろ――。彼はこれ以降サボらなくなったと述べている。
この一文が効いた理由は構造的である。相手の言い訳の内容に反論していない。言い訳が扱っている論点(忙しさ、体調)を無効化する別の軸(消えた時間は回収不能である)を提示することで、言い訳の土俵ごと消している。
| 課されたこと | 実際の運用 | 本人が語る効果 |
|---|---|---|
| アウトプットの即日提出 | その日に出せなければその場で電話。加えて長文のメッセージが届く | 「眠い」「疲れた」を言い訳として使えなくなった |
| 映画リストの視聴とアウトプット | 指定リストを見て考えたことを送る。フィードバックのみで答え合わせはしない | 思考力が最も伸びた。「もう少し掘り下げられるよね」というヒントだけが返るため、自分で掘るしかなくなり、どこで止めるかの判断が身についた |
| ディベート(極端な議題) | 実際に「風呂の浴槽で用を足して追い焚きさせろ」という議題で5時間の応酬 | 反論に対する反論まで想定する癖がついた。相手の反論を先読みする「二人分の意見」が頭に入るようになった |
| 言語化の水準指定 | 「100人が聞いて98〜99人が分かる日本語」でなければアウトプットと認めない | 説明の抽象度を相手に合わせて調整できるようになった |
特に映画課題の設計は、ここまで語られた「理不尽」とは性質が違う。マイキー氏はディベートの相手役ではなくフィードバック役に回り、正解も不正解も言わない。ヒントだけを出す。キクリン氏はこれを「コンサルをお願いするとこういうことが起きる」と表現し、答え合わせをしないことによって、自分で考えて答えを出し、それが足りているかを自分で掘り下げるしかなくなった、と説明している。結果として、リサーチをどこで止めるか・どこで諦めるかという判断が自分の中で使えるようになった瞬間が、思考の一つの停止ポイントだった、と。
キクリン氏が自分の学びの総括として挙げたのが、両極論である。極論を考えるのはもともと好きだったが、反対側の極論を考えていなかった。両方の極論を全力で肯定できるようになると、世の中で起きている問題は全部その間で起きているので、何でも肯定できるようになる。
例として彼が挙げたのが米価の議論だった。米が高くなり、安くしろ・海外がどうだと文句を言う声がマジョリティだとする。その気持ちは分かる。だが逆の極論を一度考えてみる。米は高くなったほうが良かった、という側を全力で肯定する。すると、安く買い叩いた結果として作る人がいなくなれば困る、日本の米が美味しいと思うなら作る人を増やすためにも高いほうがいい、という論が立つ。さらに、米が食べられるのが当たり前という前提自体が誤りであり、安い海外米を炭水化物として受け入れればよい、日本の米は高級品なのだという時代の変化として捉えることもできる。これで「米が上がるのは最高だ」という一つの極論が語れるようになる。
そしてこれができるようになると、マイキー氏の言う「どうでもいい」が分かってくる、というのが彼の結論だった。マイキー氏自身の説明はもっと単純である。どうなろうがどっちでもいい、そっちに対応すればいいだけだ、と。起きたことに対応していればよく、それが嫌なことであっても、どうせどうでもいいので嫌なことにならない。
85%・95〜97%という成約率は、本人たちの自己申告であり、母数・商材・リード獲得経路・期間のいずれも明示されていない 要確認。実際、キクリン氏自身がこの数字について重要な注釈を加えている。マイキー氏の数字はクロージングに見えない、と。相手を理解し信頼を得てから契約に至るという通常の営業プロセスを踏まず、「入りますか、入りませんか」で始まり終わっているように見える、というのである。つまりこの数値は営業スキルの指標ではなく、接触する相手が既に高度に選別されている状態を反映している可能性が高い。分母の設計が違う数字を、自分の営業成績と直接比較しないほうがよい。
セッションの最後、議論は最も実務的な地点に着地する。上野氏が「そのトレーニングをやったら変わると思うか」と問い、キクリン氏は「目的次第」と答えた。自分の場合はマイキー氏との関係を崩したくないという直近の目的があった。手放したくない何かがなければ、逃げればいいだけの話になる、と。
これに対するマイキー氏の返しが、この日の結論を書き換えた。そこも重要だが、自分が考えているのは「どう逃さないか」を考えるほうだ、と。キクリン氏がやらなかったとき、なぜやっていないんだと文句を言い続けた。それをやるかやらないかというだけの話であり、あれがなかったらそのまま終わっていただろう、と。キクリン氏も「なかった」と即答している。つまり、変化を起こしたのは受け手側の動機ではなく、送り手側がしつこく網を張り続けたことだった、という総括である。
ここでキクリン氏が語った理不尽の効用の説明は、この日で最も洗練されている。理不尽は、自分が今持っているカードが使えないと知る瞬間である。だから新しいカードを見出すしかなく、そのとき頭をめちゃくちゃ使う。結果としてカードが増えるから、次の理不尽に対応できることが少しずつ増えていく。理不尽の中にいると、だんだん理不尽ではなくなってくる――。そして彼は、耐えられた理由として一点だけ挙げた。理不尽なりに筋が通っていたことである。理不尽なだけなら「聞きたくない」で終わる。筋が通っているから、反論の余地がないという地点に立てる。
マイキー氏が繰り返し語ったのが、自分には才能も能力もセンスもないという自己認識である。スプラトゥーンでも1年間ずっと自分が一番下手だと文句を言いながら続け、今は誰よりもうまい。それはセンスでもスキルでもなくパワーだった、と。ここでキクリン氏が言葉を補っている。この「パワー」は暴力ではなく、最もリターンが大きい投資は時間だという軸のことである。みんなの十分な能力でも、100倍の時間があればよくないか、という発想だ、と。
マイキー氏自身の説明は徹底している。全ての学問、全てのやってきたことについて、自分は才能のない人間だから人一倍やらないと駄目だと考えてやってきただけだ。大抵の人は才能があるらしいので、やらないらしい。太っている人が「痩せようと思えばいつでも痩せられる」と思っているからダイエットをしないのと同じだ、と。
キクリン氏が最後に提示したのが、この日で最も再利用しやすい主張である。できないことをやったほうが再現性が高い。生まれつきできるものは人に教えられない。教えられないということはシェアできず、自分にしかできないものになる。すると「自分がいなければ成立しない」ことばかりが集まってしまう。それが才能を活かした何かの実態である。逆に、できないことをできるようになる過程を通れば、その道筋を人に渡せる。
彼はその証拠として、マイキー氏が高いIQを持ちながら参加者と会話が成立していること自体が異常だと指摘した。IQが20違うと会話が成立しないとよく言われるが、それ以上に離れている。実際にIQの高い人同士が話しているのを見たことがあるが、共通認識が多すぎて単語だけが飛び交い、何を言っているか分からなかった。それでもこの場の説明が分かりやすいのは、マイキー氏ができないことをやった積み上げの記憶を持っているからだ、というのが彼の解釈である。
この命題は自己啓発やネット言説で広く流通しているが、査読を経た心理学研究における確立した知見としての典拠は確認できなかった 要確認。IQは母集団の分布上の相対位置を表す指標であり、差が20あれば標準偏差でおよそ1.33に相当するが、「会話が成立しない」という定性的な断絶が生じるという実証は見当たらない。会話の成立可否は語彙・共有前提・説明意欲といった別の要因に強く依存する。この日の議論でキクリン氏自身が実例として挙げたのも「共通認識が多すぎて単語だけが飛び交う」状態であり、これは知能差ではなく共有前提の量の差による現象として説明できる。数値の部分は俗説として扱い、観察された現象のほうを採るのが妥当である。
マイキー氏:理論的な話はものすごいが、弱者に優しい。自分の学派やコミュニティを作っている学術的な立場があるため、カリキュラムとして質の高いものは出せても、人が変わるかというと変わらない。倫理も常識も取り払ったうえで教育をしない限り、人は変わらないのではないか。
マイキー氏:100〜200名規模。ただし合宿でやったのではなく、私生活で実行していた。毎日のように怒声が飛び、物が飛ぶような状態で、連絡がつかなくなれば家に乗り込んで引きずり出したこともある。それをやって実際に人を変えた後に、100人規模の集団訴訟を受けた。それでも会員が望むならやる、訴えてくれて構わないが、やるときは徹底的にやる。
マイキー氏:アメリカの研究にはそこまでない。アメリカも倫理をものすごく気にするので、理論武装のほうが多い印象がある。ミルグラムの実験もスタンフォードの監獄実験も倫理的問題で止まった。倫理観を外さない限り変わらないと思うが、倫理観を外したのが奴隷貿易の時代であり、倫理観がないからこそ人が進化した面がある。むしろ人間を躾けるより犬の躾のほうがよほど楽で、動物のほうが人間より賢い。
マイキー氏:人間ウォッチングで優秀な人とダメな人の違いを見続け、アメリカで心理学のクラスや自己啓発の講演会に通いまくった。そこで飛躍した人の話を聞くと、本人は努力したと言うが、努力ではないと思い始めた。共通点は「死の体験に近い経験」をした人だった。日本ではその機会がないので疑似的に与えるしかない。必要なのは覚悟ではなく洞察力で、相手が一番嫌がることを分析して詰めるしかない。
マイキー氏:あった。ただし『悪魔を出し抜け!』も読んだが、何の身にもならなかった。人が理論的に、綺麗にまとめていること自体が、人を変化させないのではないかと思っている。それよりも乱雑な世界、戦や戦争のような、自分の人生に直接起きる経験のほうが、思考するより簡単に人を変える。(※「50年間封印」という年数は事実と異なる。PART 1のClaude補足参照)
キクリン氏:一歩間違えたら死んでいた。5時間ほど議論した。あの手この手で実行する方法を組み立ててくるので、反論に対する反論まで想定して話す必要があった。たとえば「不衛生だから嫌だ」と言えば「じゃあレンジでチンすればいい」と平気で返ってきそうだったので、そういうことは言えないと判断しながら、超頭を使って話した。最後は「感情によってダメです」という結論に落ち着いた。
キクリン氏:数年間なかった。教えてもらってできるようになった部分はあったが、それが何かの役に立ってはいなかった。褒めてもらって「じゃあすごいんだ」で終わっていた。それが営業をやることになったときに全部つながって、「今、自分は営業ができるんだ」と具現化された。その瞬間がブレイクスルー感だった。/渡辺氏:それは、感じなくてもやり続けられる力ですね。それが素直さですね。
マイキー氏:楽しむか苦しむかなら、楽しむほうが得だから。どちらにも持っていけるなら、得しているほうがいい。全部ネタになると思っている。投資も含めて誰よりも失敗している人間なので、年齢的に考えるともう何でもない、となる。だからできることはやらない。できているのだからやる必要がない。できないことをやっていくほうが楽しい。ゲームも、できないゲームをやったほうが楽しい。
マイキー氏:50点くらい。最低限できるよねという水準を「できる」とする。伸ばしたければ伸ばせばいいが、後でいい。必要になったら60〜70に上げればいい。
マイキー氏:それは絶対にある。加えて、ロジックで話して理解できないようであれば、その相手はそこまで到達していないということ。そこまで到達しているからロジックが通用する。共通言語があるかどうかで、ロジックで攻めるかパワープレイで押すかが決まる。マイキークラブの7割とは共通言語がないのでパワープレイしかない。