この回の講義は、上部構造/下部構造という百年以上前の概念を、製造業と金融業、そして最終的には一企業の戦略と組織にまで因数分解していく。抽象概念が実務の道具に変わる過程そのものが主題である。
マルクス連続講義の一コマとして、この日は上部構造(Superstructure)と下部構造(Base)が扱われた。唯物史観そのものの基礎は同じシリーズの別の回で扱われているため、この回で新しく出てきたのは主に三つの層である。
第一に、講義担当者が最初に立てた「影響の非対称性」と「依存度の非対称性」の区別である。影響力は下から上へ向かうほうが強く、依存度は上のほう(資本家)が高い。「資本家がいなくなっても労働者だけならなんとかなる。労働者がいなくなったら資本家は生きていけますか」という問いで、この二つは明確に分離された。
第二に、講義への補講として入った参加者の説明である。上部構造を「国家権力=警察権」に置き換え、警察権が機能するのは我々が無自覚にそれを承認しているからだ、と展開した。支配される側が支配を維持している、という反転である。「その関係性が変えられないものだと思っていること自体が、それを維持している」という一文が、この回で最も鋭い定式化だった。さらに江戸期の岡っ引き(嫌われていた)と清水次郎長(尊敬されていた)の逆転、明治期の課税と取り締まり、昭和の刑事ドラマによるイメージ形成という三段階の歴史例が添えられた。
第三に、講師による因数分解である。上部構造/下部構造という一対を、製造業・金融業・企業経営・学校・国家と、あらゆるスケールに適用可能な入れ子構造として提示した。そして経営に落とすと、下部構造は組織づくり=リソースの活用場所=機能戦略、上部構造は戦略=アイデアの活用場所=経営戦略/全社戦略、その中間の継ぎ目が事業戦略になる。ここから「どちらを先に変えるべきか」「片方が変わったら他方はどうなるか」という循環の議論に進み、最終的に「無理やり動かすならリーダーは優秀である以外ありえない。でなければ組織は潰れる」という結論に着地した。
上部構造と下部構造は「社会」という一段階だけの話ではない。国家にも、業界にも、企業にも、学校にも、同じ入れ子が存在する。だからこの概念は歴史の説明装置であると同時に、自分の会社の戦略と組織のどちらから手を付けるべきかを判断するための道具になる。抽象度を上げるほど適用範囲が広がるという、理論の本来の使い方がここで実演された。
講義担当者は開口一番、「まだしつこくここに行っているんですけれども」と断りを入れた。理由は二つ述べられている。
一つは、マルクスが特殊だからである。「マルクスというのはかなり細かい定義があったり、異質な部分がある。他のところをやると比較的に現代的な経済学の理論に近くなってきて気づくことが多い」。つまりマルクスは、後続の経済学と接続しにくい語彙体系を持っているぶん、そこを通過しておかないと後の理論の差分が見えなくなるという判断である。
もう一つは、経済学が時代の反映だからである。「経済学はどうしても時代の反映です。なのである程度、時代背景とか、何を考えているか、思想的な背景が分からないと見えてこない」。この回のあとに扱われる限界革命、そしてケインズ革命についても、マルクスの提示した問題設定を前提にしなければ「何が革命だったのか」が理解できない、という順序立てである。
限界革命は1870年代前半に、ジェヴォンズ(英)、メンガー(オーストリア)、ワルラス(スイス)がほぼ同時期に独立して限界効用概念を提示した転換を指す。ジェヴォンズ『経済学の理論』(1871年)、メンガー『国民経済学原理』(1871年)、ワルラス『純粋経済学要論』(1874年)が代表著作である。マルクス『資本論』第1巻は1867年刊行で、限界革命はその直後に起きている。労働価値説から主観的価値説へ、また記述的分析から数学的定式化へという二重の転換が同時に起こった点は、講義担当者が「どんどん数式的な証明みたいなことになっていく」と述べた流れと一致する。
ケインズ革命は1936年の『雇用・利子および貨幣の一般理論』を起点とする。個人の合理的行動の集計が必ずしも望ましい全体結果を生まないという「合成の誤謬」を軸に、有効需要の原理を提示した。講義担当者はこの回では名前を出すにとどめており、内容は後の回に譲られている。
「行動・現実が思考・概念に影響を与える」「まず動け、そうすれば分かる」という唯物史観の基本構図、およびヘーゲルとの上下反転については、同シリーズの別の回ですでに扱われている。この回はその前提の上で、影響力と依存度の分離、支配の自発的承認、そして経営への実装という三点に議論が進んでいる。
講義担当者は、下部構造が上部構造を支え、大きな影響を与えているという基本図式から始めた。ここで重要なのは、影響が一方向ではないと明示した点である。「下から上への影響よりは少ないけれども、上から下に影響を与えている部分もある」。両方が影響しあう相互依存関係だが、影響力の大きさが非対称なのだという。
そのうえで、まったく別の軸として依存度を導入する。「ただし資本家のほうが依存度が高いです。つまり、どちらのほうがなくなったときに困りますか、という話です。資本家がいなくなっても労働者だけだったらなんとかなるよね。じゃあ労働者がなくなったとき、資本家は生きていけますか。なんとかなりません。これが依存度という話です」。
この二軸の分離から、講義担当者は「社会の中心は労働者だ、というのがマルクスの持っている前提なのかなと思います」と結論した。
どちらがどちらを動かしているか。下部構造から上部構造への影響が圧倒的に強い。ただし上部構造から下部構造への影響もゼロではない。
見え方としては、資本家が労働者に強い影響を与え続けているように見える。しかし実際には逆だ、というのが講義の主張。
どちらが欠けたときに成立しなくなるか。資本家は労働者なしには成立しないが、逆は成立する。したがって依存度は上部構造側が高い。
影響力の方向と依存度の方向は一致しない。この二つを混同すると、権力構造の読み違いが起きる。
| 層 | 該当するもの | 性質 | 講義中の比喩 |
|---|---|---|---|
| 上部構造 Superstructure | 制度、法律、芸術、社会的・文化的背景、教育的背景に影響を及ぼすもの、資本家 | 抽象的・概念的。計画部隊 | 頭でっかち/頭 |
| 下部構造 Base | 労働者、労働力、生産手段 | 具体的・現実的。実行部隊 | 肉筋/足と手 |
ここから講義担当者は動的な議論に入る。資本家の力が強くなると、「上が大きくなるのか、下が少なくなるのか」のどちらかが起きる。実際には下が減る。すると少ない人数で上を支えなければならなくなり、労働者一人あたりの負担が増える。「本来的には上が拡大していくということは、これが潰れてしまう話になる」。
ではなぜ潰れないのか。講義担当者の答えは「歴史を見ればこういうことが起こっている」というものだった。すなわち、下部構造が上部構造を打倒する。「今まで下部構造が上部構造を壊してきました。つまり支えている人たちが上をどんどん倒してきた。これは繰り返されています。このことによって社会が変わっていく」。これが歴史の法則だという。
講義担当者が「誤解があるところや訂正したほうがいい点があれば教えてほしい」と参加者に振ったのを受けて、思想史に詳しい参加者が補講に入った。ここがこの回で最も密度の高い部分である。
補講の起点は、「この対立関係を維持しているのは資本家だけではなく、労働者の側でもある」という指摘である。「相互関係があって、お互いに今の秩序関係や関係性を維持し続けている。僕たちは権力構造というものをあらためて考えないと、資本家がいて、それを構造上仕方なく労働者は背負っているみたいに、選択肢がないように見えるんですけど、実は労働者側が望んでやっている選択肢なんだ、ということを言っている」。
抽象的な話を具体化するために持ち出されたのが警察権である。「上部構造は法・国家・イデオロギーというと分からないと思うので例を出すと、上部構造は例えば国家権力である警察権だったりしますよね。では警察権はどう作られているかというと、それを支持している僕たちがいるわけじゃないですか」。
そして、我々は無自覚に「警察が秩序を守ってくれる」「警察は常に正しいものの見方である」「警察によって治安が維持される」といった前提を受け入れている。その受容こそが警察権の行使を可能にしている、という論理である。「上部構造と下部構造というのは、まず国家権力があるのではなくて、それを機能させるということを僕たちも承認している。承認して、その支配に身を委ねたほうが合理的だと決断しているからなんですよね」。
「それを望んでいるというのは、別に自分は望んでいないのにと思うけど、その関係性というものが僕たちにとって変えられないものであるということ自体が、それを維持していることなんだ」
「これは無自覚でやっていることなんです。だからこそ怖いんですよ」
補講者は、警察に対する日本人の意識が歴史的に変化してきたことを三段階で示した。
江戸期は逆だったという。「岡っ引きよりも清水の次郎長のほうが尊敬されている。ヤクザのほうが尊敬されていて、警察は嫌われていた時代が江戸期です」。
明治期になると、警察は新しい法律の執行者になる。「それまでの日本の法律や文化に関わりなく西洋の法律をそのまま入れるわけですから、めちゃくちゃ取り締まる。それまで当たり前に作ったお酒に課税したり、課税対象でなかったものを課税にして、それを取り締まるのが憲兵隊とか警察ですよね」。
そして昭和初期以降、警察のドラマが作られる。「西部警察だったり、渡哲也さんとか。ああいうものが出てきたのはなぜなのかを考えると、この構造はどこで作られていて、どう作られることが社会の構造や経済構造にどういう影響を与えるかが、実は計算されている行為でもある」。
補講者の説明は、マルクス以後のイデオロギー論の系譜と対応している。「支配される側が支配を承認することで支配が成立する」という構図は、アントニオ・グラムシ(1891-1937)が『獄中ノート』で展開したヘゲモニー概念とほぼ同型である。グラムシは、支配が暴力装置だけでなく市民社会における同意の調達によって成立することを論じた。
また「国家のイデオロギー装置」を通じて主体が構成されるという議論は、ルイ・アルチュセール(1918-1990)が1970年の論文「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」で提示したものである。アルチュセールは抑圧的国家装置(警察・軍隊)とイデオロギー的国家装置(学校・宗教・メディア・家族)を区別した。補講者が「警察」から出発して「刑事ドラマ」に至った説明は、この二つの装置がどう連動するかを示した例と読める。
ただしこの回では、グラムシ・アルチュセールの名前は挙がっていない。マルクス本体の議論として提示されている点に留意が必要である。要確認
補講者は、この構図が人間観そのものを変えたと述べる。「それまでの人間関係というのは、人間は存在的にこうだと規定するあり方だった。そこからマルクスの社会学の礎がある。つまり人間は関係概念だよ、と。関係概念である人間というところから出発すると、社会は僕たちの認識であるとか、上部構造とのやり取りの関わりの中から、どれだけ自覚的になることによってこの構造を変えうる図式ができるし、それに対して自分たちの労働を定義することができる」。
そしてマルクスの革命概念とは、「それを民衆において理解させ、自分たちの労働者革命における責任を担いなさい」というものだ、と結論している。
講義担当者が「この考え方はヘーゲルの主人と奴隷の弁証法ですよね」と問い、補講者が「それをうまく使っていますね」と応じた。そのうえで補講者は、ヘーゲルとマルクスの差を次のように整理した。
ヘーゲルにおいては、自覚的な自己成長、人間の知識、社会の成熟、歴史の進歩という問題として捉えられていた。マルクスはそれを社会における変革・社会の成熟という言い方に入れ替え、「共産主義革命におけるステップだ」という位置づけに変換した。「主体となるべき人間が、単独な存在というよりも社会関係になった」。そして「関係性を論じる経済学が、それ以前の時代には問題にならなかったものがマルクスにおいて問題になった」。
補講者はさらに、マルクスの射程の広さに触れる。「マルクスは一番最初にジェンダーとか環境意識にも取り組んだ人とも言えるし、関係の整備ということに対して経済的な責任というものを持ち込んでいる。それまで全く別々だったわけです」。
ここで講師が「エージェンシー問題」を持ち出し、議論が最も鋭くなる。距離が離れることによって活動は不純なものになり、代理人と本人の利害がずれていく。補講者は応じた。「エージェンシーは必ず代理の者なので絶対ずれるんですよ。ただ共産主義革命はエージェンシーが在り得ないんです。当事者なので、いつまでも」。
講師が「当事者しかいないということは、恣意性が消えるということですよね」と確認し、補講者は「そういうことです」と答えた。そのうえで、理論と実践の分岐点を示す。
補講者の説明:統治者がいないのに当事者がなぜか存在してしまう。建前としては「代議者」「選挙で選ばれている」「互選している」という言い方はできるが、この辺りをコントロールする方程式がない。だから理論と実践が違い、結局エージェンシーが発生した。
さらに、全体で見ると客観性が消えてしまう。当事者しかいないということは、外部から評価する視点が構造上存在しないということでもある。恣意性が消えるという利点と、客観性が消えるという欠点は同じ性質の裏表である。
エージェンシー理論(プリンシパル・エージェント理論)は、マイケル・ジェンセンとウィリアム・メックリングが1976年に発表した論文「Theory of the Firm: Managerial Behavior, Agency Costs and Ownership Structure」(Journal of Financial Economics)で経済学の主要概念として定式化された。依頼人(プリンシパル)と代理人(エージェント)の間で目的関数が一致せず、情報の非対称性があるとき、エージェンシー・コストが発生するという枠組みである。株主と経営者、経営者と従業員、有権者と政治家など、階層のあるあらゆる関係に適用される。
補講者の指摘――当事者だけの体制ではエージェンシー問題が構造的に発生しない――は理論的には正しい。ただし実際の社会主義国家では、党・官僚機構という代理層が形成され、むしろ市場経済よりエージェンシー・コストが高くなったという分析が主流である。ヤーノシュ・コルナイの「ソフトな予算制約」論などがこの系譜にある。この回でも「実践は違うよね、エージェンシーだよね」という形で同じ結論に到達している。
補講者は、マルクスの影響力の源泉を語彙の設計に見ている。「それまで労働はこんなに細かく分けないし、商品はこんなに細かく分けない。ただ、人々がこういう風に因数分解してしまうと、僕たちはその因数分解を軸として考えるようになる。だから言葉を作ったものが勝ちなんですよ。だからこれを覆していくのに、ものすごく言葉を変えていかなきゃいけなかったし、概念を整理しなきゃいけなかった」。
そして「そういった概念でもって歴史をもう一回見直すんです」。講義担当者が「それが式化がどんどん進んでいく一つのきっかけとしても見える」と受け、補講者は「それまでは単なる国家における数字でしかなかったのが、すべて当事者における数字になった。だから統計学的なものにもすごく進化させた理論でもありますね」と結んだ。
ここから講師が画面共有に切り替え、ホワイトボードに書きながら説明を引き取った。方法は単純で、上部構造/下部構造という二層に、生産手段・生産関係・社会的影響という三つの列を足す。そして製造業と金融業の二業種で埋めていく。
| 製造業 | 金融業 | |
|---|---|---|
| 下部構造(Base) | 工場と機械を使って製品を生産する | 資本・信用を運用して利益を得る |
| 上部構造(Superstructure) | ものづくりを支える法律や技術。革新や革命を美化する文化 | 資本主義を正当化するような法律。投資の重要性を広める文化・データ |
| 生産手段 | 工場、機械、原材料 | 資本、データ、アルゴリズム |
| 生産関係 | 資本家が工場を所有し、労働者が製品を生産する | 資本家が資金運用をし、労働者が金融商品を設計・管理する |
| 社会的影響 | 製品の生産と供給により物質的な基盤を支えていく | 資本の流れ自体が経済全体を支配する |
講師はこの表を「頭と足」という比喩で総括した。「こちらの人はずっと頭を使う側なんですよ。こちら側はずっと足と手を使う側なんですよ」。そして下部構造は基盤形成、上部構造は維持と正当化、さらに業界文化がそこから生まれる、と整理した。
講師は製造業を先に埋めた。工場・機械・製品という具体物があるため、生産手段と生産関係が目に見える。そのうえで「では自分の産業だったら分からないですけど、無形の場合はどうなのか」と金融業に移る。有形から無形へ、という順序で説明することで、目に見えない産業でも同じ構造が成り立っていることを示すという手順そのものが、この回の教え方の要点である。
ここが、この回でもっとも実務に直結する部分である。講師は同じ二層構造を、そのまま一企業の経営に落とし込んだ。
アイデアの活用場所。
経営戦略/全社戦略に相当する。何をやるか、どこへ向かうかを決める層。文化が生まれる場所でもあり、だからこそ「そこに人が集まる」。
リソースの活用場所。
機能戦略に相当する。誰が何をどう実行するかを決める層。実際に価値を生産している層でもある。
そして講師は、この二つの継ぎ目に事業戦略を置いた。全社戦略(上部構造)と機能戦略(下部構造)のあいだをつなぐのが事業戦略である、という三層モデルになる。
講師が示した「全社戦略/事業戦略/機能戦略」という三階層は、経営戦略論の標準的な区分と一致する。イゴール・アンゾフが1965年の『企業戦略論』で企業レベルの戦略を体系化し、以後、企業戦略(corporate strategy:どの事業領域で戦うか)、事業戦略(business strategy:その事業領域でどう競争優位を築くか)、機能戦略(functional strategy:生産・販売・人事・財務など各機能の実行方針)という三層で整理されるのが通例になった。
したがって、この講義の独自性は三階層モデル自体ではなく、それをマルクスの上部構造/下部構造と重ね合わせた点にある。この重ね合わせによって、「戦略と組織のどちらが先か」という実務的な問いが、「上部構造と下部構造のどちらが先に変わるか」という歴史理論の問いと同じ形になる。これがこの回の講師独自の解釈である。
講師はこの構造がスケールを問わないことを強調した。「学校にも上部構造・下部構造がありますよね。同じように企業の中とかスタートアップの中でも上部構造と下部構造は存在する。さっきは金融業界と製造業という大きいところでありますけど、もっと大きい国の中にも上部構造と下部構造がある。それと同じように、この金融業界の中のスタートアップとか中小企業、ここに関してもこの構成ができあがる。どこの場所でも」。
そして「僕らとか一般の僕らがいるところは基本的に中小企業になるわけですよね」と、参加者自身のスケールに引き寄せた。
構造が整理されたところで、講師は動的な問いを立てた。「戦略としてはどちらを先にやったほうがいいのか」。
答えは「上部構造を作って下部構造」である。理由は「まず上部構造ができあがることによって文化が生まれるから、そこに人が集まるわけでしょう。だからそこに下部構造を合わせなきゃいけないよね」。
ただしこれは一方向の話ではない。講師は循環を提示する。
| 起点 | 連鎖 | 実務での読み替え |
|---|---|---|
| 上部構造が変化 | → 下部構造も変化しなければならない | 戦略を変えたら組織を作り替える必要がある |
| 下部構造が変化 | → 上部構造も変化しなければならない | 労働者の価値観が変わったら戦略も変えなければならない |
| 下部構造の変化が速すぎる | → 上部構造がそこに合わせにいく | 現場の変化に戦略が追いつく局面 |
| 上部構造が肥大化 | → 下部構造を直さなければならない | 戦略が先行しすぎて組織が持たない局面 |
講師は「この循環性だけです」とまとめた。時計回りと反時計回りの両パターンがあり、どちらか一方が正しいわけではない。
この循環を実際に回す方法として、講師は二つを対置した。
「下部構造の動き自体を黙らせる」やり方。「こういう方向性でやります。だからお前ら変われ。これだけです」。
講師の評価:「簡単に言うと強制的にやらせたほうが合理的です。なぜかというと会話なんかいらないから」。
そして「お前らこう変われ」「いや、俺らやりたくない」となったとき、決着をどこでつけるかが投票である、と付言した。
上部構造がコミュニケーションを取って動かすやり方。合理性では独裁に劣る。
補講者の評価:「優秀なものがどうやって下部をどれだけ把握できているかというところに対して、対話が持たれるのが理想ですけれども、これは現実問題難しい話ですよね。対話を成り立たせるのであれば、対話のできる人間じゃないと成り立たないじゃないですか」。
講師:「上部構造の中で万が一それを無理やりやっていくのであれば、リーダーは優秀である以外ありえないんですよ。じゃないと組織は潰れます」
補講者:「下部構造から上部構造へ変化を及ぼすのであればリーダーが優秀でなければならない、というのは社会主義の問題を一言で言い当てている。まさしくそれが歴史的証明になっているということですね」
そして補講者は、対話ができない場合に何が起きるかも述べている。「結局その構造自体を維持させるとか、再生産させるということにしかならなくなってしまう」。強制で回した場合、構造は変わらず再生産されるだけになる。
「強制のほうが合理的だが、その場合リーダーの優秀さが必須条件になる」という命題は、講師の見解であり、価値判断を含む。
経営学ではこれに近い議論が「変革のスピードとコミットメントのトレードオフ」として扱われる。ジョン・コッターの変革8段階モデル(1996年)は、危機感の醸成と関係者の巻き込みを重視し、トップダウンの強制だけでは変革が定着しないと論じる。一方、ターンアラウンド(事業再生)の文脈では、時間的余裕がない局面ではトップダウンの決断が優先されるという実務的な議論も根強い。つまり「どちらが合理的か」は、変化の緊急度と組織の学習能力に依存する条件付きの問題であり、一般解はない。
また、講師の「会話なんかいらないから合理的」という表現は、意思決定のコストだけを見た場合の合理性である。実行段階での抵抗・離職・情報隠蔽といった後工程のコストを含めると、計算結果は変わりうる。実際に補講者が「構造の再生産にしかならない」と指摘しているのは、まさにこの後工程コストの話である。この回の中で両論が併存している点を確認しておきたい。
この結論を受けて、講師は次のテーマへ橋渡しをする。「となってくると、この対話がものすごく重要である」。そこから話は、ベンチャーキャピタルにおけるプレゼンテーションの変化――つまり誰が誰にどう対話するかの話――へ移っていくことになる。