STUDY REPORT / 2025年10月度 勉強会

リカード対マルサスは成立しない――同じ土俵に立っていない二人を、なぜ人は並べたがるのか

前田氏による経済思想史レクチャー(マルサス編)/渡辺氏による歴史的補強/マイキー氏による対比構図そのものへの異議
EXECUTIVE SUMMARY

エグゼクティブサマリー

1798年
マルサス『人口論』初版
6歳
マルサスがリカードより年長
1815年
穀物法をめぐる直接対決
3つ
両者が実際に衝突した争点
第31章
リカードが1821年に追加した「機械について」
1834年
新救貧法(マルサス没年と同年)

この回は、アダム・スミスを扱った前回の続きとして、本来なら順当にリカードへ進むはずのところを、前田氏があえてマルサスから入るという構成を取った。理由は明快で、リカードを先に置くと「スミス→リカードという主流の系譜があり、マルサスはその外側にいた異端者」という教科書的な配置がそのまま固定されてしまうからである。前田氏はその順序を入れ替え、まず人物の背景から入った。マルサスはイギリス国教会の聖職者であり、リカードは父がユダヤ教徒で、そこから離れて相場と金融で自立した人物である。この出自の差が、貧困をどう見るか、救済をどう扱うか、経済をどこまで理論化できると考えるかという根本の姿勢を分けている。

マルサスの人口論は、食料が算術級数的にしか増えないのに対して人口は幾何級数的に増えるという非対称から出発する。人が増えても性欲は減らない、だから増加は勝手に起こり、生産は意識的に増やさなければ増えない。この差が積み上がれば必ず食料の奪い合いになる。前田氏はこれを「避けられないもの」として説明した上で、マルサスの立場が貧困=怠惰の結果という前提に立っており、したがって救貧法には反対だったこと、そして人口抑制の方法を予防的なものと積極的なものに分けていたことを整理した。渡辺氏はここに、ナポレオン戦争期に穀物価格が高騰し、食料そのものが軍事的な武器として使われた時代背景を重ね、エリザベス朝の救貧法が教会中心の相互扶助を国家的な労働動員へ置き換えていった過程を補った。貧困が「みんなで支える課題」から「個人が生産で解決すべき義務」へすり替わっていく、その転換点にマルサスの議論があったという読み方である。

ここからがこの回の核心になる。マイキー氏は、リカードとマルサスを対比項として並べる慣行そのものに納得がいかないと切り出した。リカードの理論はいくつかの単純な前提を置いて演繹的に抽象モデルを組み立てたものであり、マルサスは統計と歴史事例を踏まえた制度論的な議論を展開している。そもそも方法が違い、目指しているものが違う。にもかかわらず対比されるのは、単に同時代に他の名乗り手がいなかったからではないか、という指摘である。その上でマイキー氏は、両者が実際に衝突した点を三つに絞り込んだ。作れば売れるか(供給が需要を生むか)、伸ばすべきは利潤か所得か、そして自由貿易か保護貿易か。この三点に限れば対立は明確だが、それ以外の領域では二人は同じ土俵に立っていない。

そしてマイキー氏はこの三点を現代へ写像した。WTO・FTA・グローバルサプライチェーン・DXによる生産性向上は、いずれもリカード側の世界観の産物である。作れば売れる、効率を上げれば価値が増える、分業すれば全体が豊かになる。一方で景気対策、所得分配、需要不足への政策的対処はマルサス側の問題意識に属する。参加者から「トランプはリカード寄りか」という質問が出た際、マイキー氏は即座に「トランプが言っているのはマルサスではないか」と返した。保護貿易であり、国内生産の防衛であり、まさにマルサスが穀物法をめぐって取った立場と同じ側である。

締めくくりで前田氏は、マルサスがやっていることはリスクの最小化であり、リカードがやっていることは機会費用の最小化である、という定式を出した。マルサスはドメスティックな需要をどう満たすかを見ており、リカードはグローバルなサプライチェーンをどう組むかを見ている。渡辺氏はさらに、リカードは歴史をそこで遮断して「どの時代にも適用可能な理論」を作ろうとしたのに対し、マルサスは歴史から論拠を作ろうとした社会科学者だったと補い、両者は個人的には非常に良好な関係にあったこと、経済学理論としての連続性はスミスから来ているのではなく、自由という概念の連続性として繋がっていることを指摘した。

セッションを貫く1本の線

「同じ言葉で語られている二つのものが、本当に同じ土俵にあるのか」を疑うこと。リカードとマルサスは対比されるが方法が違う。需要と供給は対比されるが刺激する場所が違う。文系と理系は分断されているが、言語も数式も同じ世界の表現方法にすぎない。この回は経済思想史の講義でありながら、実際には「分類の枠組みを疑う訓練」として組み立てられている。

PART 0

文系と理系のあいだ ――「方程式として言語を覚える」という横断

講義に入る前の雑談は、この回の底流をそのまま先取りするものだった。話は「自分から話しかけて認知してもらうところから始めなければいけない」という自己認識の話から始まった。マイキー氏は、場が話しにくいから黙るという態度に対して、それなら黙っていてくれて構わないと突き放しつつ、自分には友達がほとんどいないので、みんながどうやって初対面の人と友達を作っているのか逆に不思議だと述べた。上野氏や渡辺氏が「話しやすい環境を作りたいのではないか」と応じ、参加者の側からも「このコミュニティに来て初めてできたくらい」という反応が出た。

そこから話題は思考の型に移る。上野氏は、自分は先に結論を出してから話を続けるというやり方ができず、考えているうちにその場で言葉が出てこなくなると打ち明けた。マイキー氏がゴールを先に置いてそこへ寄せていく話し方をしていることへの言及である。渡辺氏はこれを、経済学とは人間の行為も歴史も効率性も、すべてを数字にどう落とし込むかを常にやっている数学的な技術ではないか、と受けた。パズルにするにはピースにしなければならないが、文系の人間はピースにしたがらない。唯一固有の情報、この時間・この空間においてのみ成り立つ何かに強いこだわりがあるからである。ピースにできることがマイキー氏の強みに繋がっているのではないか、という指摘だった。

マイキー氏はこれに対し、自分は文学的なものを数学的に考え、数学的なものを文学的に考えることを無意識にやっているかもしれないと応じた。渡辺氏は「言語の違いとは、文法という関数と単語という数の違いにすぎない」と言い換え、両方が必要だと述べた。ここでマイキー氏が出した具体例が、この回で最も鮮やかな一節である。

スペイン語を方程式として覚える

「私はご飯が食べたい」がYo quiero comer、「私は日本に行きたい」がYo quiero visitar Japón。この二文を並べると、共通して残るYo quieroが「I want to」に当たると分かる。次に「私はメキシコを訪れる」と「私はアメリカを訪れる」を並べれば、visitarが「訪れる」だと分かる。「私は英語を勉強しています」と「私はスペイン語を勉強しています」を並べれば、estudioが「study」だと分かる。例文を二つ出して、イコールになる部分を抜き出す。それだけを反復し続ければ、固有名詞以外の意思疎通はある程度できるようになる。

マイキー氏は15〜16歳のときにメキシコでこれをやっていたと述べ、「数式を言語に置き換えているだけ。数字か文字か、数字か音かの違いでしかない」と説明した。

渡辺氏はこれをトランスファラブルなスキルだと位置づけた。日本の教育は科目を一つひとつ独立した世界観として扱うため、それぞれが分断されている。しかし転用可能なスキルとして捉えれば、単に一つの世界の表現方法や原則が違うだけだと理解できる。そこに行き着くまでに日本人は非常に時間がかかる。教わっていないので、早くても大学に入ってからだろう、というのが渡辺氏の見立てである。マイキー氏は、そもそも学校の勉強は「点を取るためのもの」ではなく「どういう思考回路で得心できるかの訓練」だと小中学生の頃から捉えていたと述べた。三角関数も古文も実生活で直接使うことはまずない。だからこそ、何をどう覚えれば最も効率よく連結できるのかだけを意識して勉強していたという。

渡辺氏は、この種のスキルは古典を学んでいれば必須になるものだが、その古典を教えなくなった結果、身につく機会自体が消えていると加えた。数学をやる人でもそこまでやっている人は少ない。純粋に言語の置き換えというのは最も思考を使う作業である、というのが渡辺氏の評価だった。

雑談の後半は、マイキー氏がプレイ中のPlayStation 5のゲーム『Ghost of Yōtei』の主人公が藤川氏に似ているという話題で盛り上がり、その流れで翌日に控えた日米首脳会談の話題に移った。マイキー氏は高市首相について「今回すごく頑張っている」「女性リーダーシップのトレンドが来るのではないかと楽しみにしている」と述べ、前任者がトランプ大統領に名前も覚えられていなかったのに対し、高市氏はかなり良い関係を築けているという評価を示した。理由として、もともとアメリカで学び、女性議員のアシスタントを務めた経歴があり、コミュニケーション能力がしっかりしていること、そして20年ほど前から言っていることがあまり変わっていないことを挙げている。

📌 Claude補足|日米首脳会談と高市首相の経歴

この勉強会は2025年10月27日に開催されており、会話中の「明日」は10月28日にあたる。実際に2025年10月28日、高市早苗首相は迎賓館赤坂離宮でトランプ大統領との初の日米首脳会談を行った。会談では日米が「黄金時代」を築くことを確認し、その後両首脳は横須賀に寄港中の米空母ジョージ・ワシントンを訪問している。またこの会談で、高市首相はロシア極東のサハリン2からの撤退は困難であることをトランプ大統領に伝えた(首相官邸・外務省発表、日本経済新聞・時事通信報道)。発言中の予測は事実として裏付けられた。

経歴については補足が必要である。高市氏は1987年、松下政経塾のスポンサーにより、米国民主党下院議員パトリシア・シュローダー氏の事務所でコングレッショナル・フェローとして議員立法のための調査・分析に従事した。発言中の「女性議員のアシスタント」はこのフェローシップを指すと考えられる。ただし「元々アメリカでずっと勉強していて」という部分は正確ではない。高市氏は神戸大学を卒業後、松下政経塾を経てこのフェローシップに就いており、滞米期間は限定的である。なお、この時期の肩書きの表記(「米国連邦議会立法調査官」)については、実態は特別研究員/フェローであったとして報道各社が繰り返し検証しており、争点となっている。要確認

PART 1

マルサスという人物の座標 ―― 国教会の聖職者が経済を書くとき

前田氏がこの回でマルサスから入った理由は、理論の前に背景を置きたかったからである。「リカードとマルサスはよく対比して出されるが、理論ばかりが出されて、本当はこの人たちの背景のほうが重要だ」というのが冒頭の宣言だった。

マルサスはイギリス国教会の聖職者である。したがって宗教改革後のプロテスタンティズムの影響を強く受けた人物として見るべきである、と前田氏は言う。対するリカードは、父がユダヤ教徒であり、ある意味で父のところから反発するようにして出て、株式で儲けて自立していった人物である。宗教的な影響が皆無とは言わないが、その部分から切り離されて「科学をどう考えるか」という視点を持っていたのがリカードであり、プロテスタンティズムの視点から世界を見ていたのがマルサスである。前田氏はここで「どちらが正解というわけではない」と念を押した上で、この差を意識するとその後の議論がクリアになる、と述べている。

📌 Claude補足|二人の出自と経歴

トマス・ロバート・マルサスは1766年2月13日生まれ、イングランド国教会の聖職者。ケンブリッジ大学ジーザス・カレッジで学び、サリー州オークウッドで助任司祭を務めた。1805年、東インド会社が幹部養成のために設立したヘイリーベリーの東インド・カレッジに、歴史・政治経済学の教授として招かれている。これはイギリスで初めて「political economy(政治経済学)」という語が正式な学職名として使われた例であり、マルサスはイギリス初の経済学教授にあたる。

デイヴィッド・リカードは1772年4月18日生まれ。父アブラハム・リカードはオランダから移住したセファルディ系ユダヤ人の株式仲買人である。リカードはユニテリアンに改宗しクエーカー教徒の女性と結婚したため、家族から勘当された。株式仲買人・国債引受人として巨富を築き、後に下院議員となっている。「父から反発して出て、株式で自立した」という前田氏の説明は正確である。

📌 Claude補足|年齢についての食い違い

講義後半(1時間01分頃)で前田氏は「実はリカードのほうが年上です」と述べているが、これは事実と逆である。マルサスは1766年生まれ、リカードは1772年生まれで、マルサスのほうが約6歳年長である。前田氏はこの直後に「なぜマルサスから出すかというと、影響はこの人のほうがもっと前から受けているから」と続けており、「年長のリカードではなく、あえて年下のマルサスから入る」という論の組み立てになっている。しかし実際にはマルサスが年長であり、『人口論』初版(1798年)はリカードの主要著作『経済学および課税の原理』(1817年)より19年早い。したがって「マルサスから入る」という前田氏の判断そのものは、時系列的にはむしろ自然な順序であり、根拠として挙げた年齢関係だけが逆になっている。この食い違いは、結論を弱めるものではなく、むしろ補強する方向に働く。要確認

貧困をどう見るか ―― 二つの前提

前田氏は、当時の貧困観には二つの捉え方があったと整理した。一つは、貧困という状況は神の徳を積んでいることであるという見方。もう一つは、貧困は怠惰の結果であるという見方である。前者に立てば、貧しい者はきちんと救済しなければならない。後者に立てば、自己責任なのだから救ってはいけない、という結論になる。そしてマルサスの立場は、どちらかといえば後者に近い。

貧困=神の徳を積んでいる

貧しさは信仰的な試練であり、共同体が支えるべき課題である。教会を中心とした相互扶助が正当化される。エリザベス朝以前のイングランドで実際に機能していた枠組み。

政策的帰結:救貧法による救済の肯定

貧困=怠惰の結果

貧しさは個人の努力不足に起因する。したがって救済すればするほど怠惰を助長し、誰のためにもならない。労働へ向かわせる方向を考えなければならない。

政策的帰結:救貧法への反対、労働の義務化

前田氏は「救済をすると、貧困は怠惰の結果だから、救えば救うほど怠惰を助長する。つまり怠けさせる。つまり誰のためにもならない」というマルサスのロジックを明示した上で、だからマルサスは救貧法に反対し、どんどん働かせましょうという意見を出し、それが法案化されていく流れができた、と説明している。

📌 Claude補足|救貧法とマルサスの影響

エリザベス救貧法は1601年に制定され、教区単位での貧民救済を法制化した。マルサスは『人口論』において救貧法を最も強力に批判した論者であり、救貧法が庶民の貯蓄意欲と将来への備えを削ぐと論じた。実際に1834年、救貧法改正法(Poor Law Amendment Act 1834、いわゆる新救貧法)が制定され、救済を受けるには中央集権的なワークハウスに入ることを条件とした。ワークハウスは「劣等処遇(less eligibility)」の原則に基づき、最低賃金の自立労働よりも過酷になるよう意図的に設計され、また夫婦・親子を分離することで受給中の出産を抑制することを狙った。この法はマルサス、ベンサム、チャドウィックの思想が形にしたものと評価されている。

ただし正確を期すと、マルサス自身が法案を作ったわけではない。新救貧法の成立は1834年8月、マルサスの死は同年12月23日であり、彼はこの法の施行をほとんど見ていない。「実際にそれを法案化したりという流れができてきます」という前田氏の表現は、思想的影響としては正しいが、本人の立法行為ではない点を分けて理解する必要がある。

PART 2

人口論の骨格 ―― 二つの級数と、二種類の抑制

マルサスが二つのポイントに絞ったと前田氏は言う。食料と性欲である。人が増えれば必要な食料は増える。しかし人口が増えたからといって人の性欲が減るわけではない。減らないのだから人口は勝手に増えていく。一方、食料は積極的に、意識的に増加させていかなければ増えない。この非対称が問題の核である。

増え方の差はさらに深刻である。食料はある意味で足し算で増えていく。1に2を足し、3を足していく算術級数である。これに対して人口は2の2乗、2の3乗、2の4乗と幾何級数的に増える。2乗なら4倍、3乗なら8倍、4乗なら16倍。この差が積み上がれば、人口の伸びが圧倒的に上回り、食料の奪い合いになって足りなくなる。前田氏の結論は「この状況は避けられない、というのがマルサスの言いたかった一つの結論でもある」というものだった。

図1|マルサスが想定した二つの増加速度(Claude作図・概念モデル。食料=算術級数、人口=幾何級数として8期分を単位換算で表示)

飢餓が起きれば人口が減る。人口が減ると食料をはじめ様々なものが余るようになり、一部に余裕が生まれる。余裕ができるとまた人口増加が始まる。これがループする。ずっとこれが繰り返される、というのがマルサスの見立てである。だからこそ、悲惨な状況になる前に人口抑制の方法を見つけておき、適正にコントロールしましょうという立場になる。

予防的抑制と積極的抑制

種別意味講義で挙げられた手段性格
予防的(preventive)そもそも増えないようにする出産制限、晩婚化を進める出生率を下げる方向
積極的(positive)結果として人口を減らす疫病、飢餓、戦争死亡率を上げる方向

前田氏は積極的抑制について、「これを無理に起こせという形では必ずしもない」と明確に留保をつけている。またマルサス自身が前半と後半で意見をある程度変えており、反応を見ながら調整をかけた部分もあると付け加えた。

📌 Claude補足|「出産制限」をめぐる食い違い

予防的妨げ(preventive check)と積極的妨げ(positive check)という区分は、マルサス自身の用語であり、講義の説明は骨格として正確である。ただし手段の中身については食い違いがある。マルサスが予防的妨げとして推奨したのは「道徳的抑制(moral restraint)」であり、彼はこれを「思慮に基づく結婚の延期または断念と、その間の厳格に道徳的な男女関係」と定義した。つまり晩婚と婚前の禁欲である。

一方、マルサスは避妊(人工的な産児制限)には反対しており、道徳的に擁護できないものとして非難していた。1824年ごろには初期の見解を緩和し、結婚と出産を意図的に遅らせるといった穏健な予防的妨げの比重を高めているが、避妊への反対姿勢は変わっていない。講義中の「出産制限」を人工的な産児制限の意味で取ると、マルサス本人の主張とは逆になる。後世のいわゆる「新マルサス主義(Neo-Malthusianism)」が避妊を積極的に推進したため、この点はしばしば混同される。

マルサスの罠は、なぜ外れたのか

前田氏は自ら反証も提示した。マルサスの罠と呼ばれる構図が現実に起きたかというと、人口が増えたところである程度食料が賄えたりということは実際に起こった。技術開発によってである。さらに人口が増えると、いわゆる人口ボーナスによって国力や産業力が強くなり、いろいろなアイデアが出てくる。その部分で乗り越えられてきたところがある。したがって「マルサスが言った通りには必ずしもならなかった」というのが前田氏の評価である。

ただしその上で前田氏は、二つの前提だけは頭に入れておいてほしいと述べた。第一に、マルサスは貧困を怠惰の結果だと前提していること。第二に、人口調整は自然の摂理で起こるので避けられず、したがってダメージを最小限にすることを考えましょうという立場であること。「かなり悲観的な考え方だとは思うが、危機に備えようという考え方については、むしろこういう形でやるほうがリスク管理としては適切ではないか」というのが前田氏の総括だった。

切り取ることへの自己申告

前田氏はこの節の最後に、「今回は一部分だけを切り取って話している。この人には思想的な背景がいろいろあるので、ここだけをピックアップして必ずしも言うのは本来的には正しくない」と明言している。その上で「こういう部分があると分かることによって、他のところとの繋がりがある程度見えてくる。とりあえずここがポイントではないかという一つの提案です」と位置づけた。理論を教科書的な結論として渡すのではなく、接続点として渡すという姿勢である。

PART 3

渡辺氏の補助線 ―― 食料が武器になった時代

渡辺氏は、リカードとマルサスの論争の背景には技術革新とナポレオン戦争があると切り出した。戦争をしていると穀物の値段が上がる。値段が上がるから手に入れづらくなる。しかも輸入を制限する法律まで作られる。自前の穀物を作るためである。その法律をめぐって、特定の階級が穀物を手に入れ、特定の階級が値上がりによって食べられなくなる。「僕たちが今直面している以上に、この戦争における食料問題に直面した世代なんです」というのが渡辺氏の説明だった。

ここで渡辺氏が強調したのは、軍隊において食料が即戦力であり、かつ食料そのものが武器になるという点である。食料を制限したり輸出を制限したりすることで、相手国の軍事力や経済を叩ける。経済を武器にしてしまうという側面があった。だとすれば、食料に対するコントロールは政治レベルでできるのではないか。政治レベルで経済をコントロールすることによって、経済的な悲劇を避けられるのではないか。そういう前提のもとで経済を見ていた時代である、と渡辺氏は位置づけた。

📌 Claude補足|1815年、穀物法をめぐる直接対決

マルサスとリカードは1815年、穀物法をめぐって正面から衝突している。マルサスが同年2月初旬に『地代論(An Inquiry into the Nature and Progress of Rent)』を発表すると、リカードは数週間後に『低穀価が資本の利潤に及ぼす影響についての試論(An Essay on the Influence of a Low Price of Corn on the Profits of Stock)』で応答した。マルサスはさらに『穀物輸入制限に賛成する意見の根拠(Grounds of an Opinion on the Policy of Restricting the Importation of Foreign Corn)』を出し、「外国産穀物の輸入に対する何らかの制限に賛成する、熟慮の上で、しかし断固たる意見」を表明した。

マルサスの論拠は国防と食料安全保障である。彼は防衛(defence)と富裕(opulence)を二者択一と捉え、選ばざるを得ないなら迷わず前者を選んだ。対するリカードは、外国供給への依存というマルサスの懸念に同意せず、安価な穀物の利益をより高く評価した。リカードは防衛と貿易のトレードオフ自体を否定し、戦争や国内不作の場合でも、外国の農業国が対英穀物輸出を制限すればそちらが深刻な打撃を受けるのだから、そうはならないと論じている。渡辺氏の説明した時代背景は、この論争の実際の争点と正確に一致している。

救貧法が壊したもの

渡辺氏はエリザベス朝の救貧法について、それまでとの断絶を強調した。産業革命以前は、食べられないとか生産性といったことがそこまで必要とされていなかった。食べられない人は社会でみんなが救う、支えるという当たり前の状態があり、それが教会を中心としていた。食べられない人の負担は教会が担っていた。しかし国としてそれでは産業が経済戦争に勝てなくなるから、働けない者を働けるようにせよという方向へ舵を切り、教会が社会の中心であるというあり方そのものを壊した。

渡辺氏の言葉では、救貧法は「生産をするというところに大きく舵を切っていく。国家的に、それまで食べられた人たちを食べられなくしていくところに拍車をかけていった背景もある」。資本主義というものが労働へ駆り立てていく。貧困が「社会においてみんなで解決するべき問題」あるいは「神様から与えられた課題」だという考え方から、社会がどうにかするより個人が何とかしなければいけない、しかもそれは生産しなければいけない、生産することは国民としての義務だ、という方向へすり替わっていく。その時代に対して、資本主義という考え方、市場を中心とした経済人間活動の基礎となった時代だというところが、マルサスの議論としてあるのではないか、というのが渡辺氏の総括だった。

中国での同時代的議論

渡辺氏は最後に、これと同様の議論が同時期に中国でも起こっていると付け加えた。「中国のほうが200年ぐらい早いんですけど」と述べた上で、人口と食料の関係を数理化・モデル化して政策に反映させるようになった時代がちょうどこの時期ではないか、政策として政治家がそれを知り、実際に市場において備蓄や穀物価格のコントロールを意識的にするべきだと考えるようになったのがこの時代だ、という趣旨である。

📌 Claude補足|洪亮吉と「中国のマルサス」

渡辺氏の言及に最も近い人物は清代の学者・洪亮吉(1746-1809)である。洪亮吉の『治平篇』は1793年に成立しており、マルサス『人口論』初版(1798年)の5年前にあたる。洪亮吉は人口増加とその社会政治的帰結を論じ、マルサスと同じ問題群を提起したため「中国のマルサス」と呼ばれる。彼は清朝の人口が順治年間の約1億人から乾隆末期には3億人に達した一方、耕地面積はさほど増えず、一人当たり5畝から2畝へ減少したことを指摘している。

したがって「中国のほうが200年ぐらい早い」という発言は、洪亮吉を指しているのであれば5年早いが正しく、200年は過大である。ただし、穀物価格の政策的コントロールという意味での常平倉(ever-normal granary)の制度自体は漢代にまで遡り、清代には全国的な備蓄・平準システムとして高度に運用されていた。この制度史を指しているのであれば「はるかに早い」は成立する。発言中では人物名が挙げられていないため、どちらを指しているかは判別できない。要確認

PART 4

マイキー氏の異議 ――「対比」が成立しない三つの理由

前田氏の説明を受けて、マイキー氏は真正面から異議を唱えた。「僕このリカードとマルサスって、結構対照的なモデルとして注目されているポイントで、対比みたいな感じで見られているじゃないですか。で、僕そもそもそれが納得いっていない人で」。

理由は方法論である。リカードの理論は、いくつかのシンプルな前提を置いて演繹的に抽象モデルを作ったものである。「この論文を読むと分かるんですけど、結構決めつけで入っている理論なんですよね」。それと比較すると、マルサスは統計や歴史事例を踏まえた制度論的な議論を展開している。中身がそもそも違う。にもかかわらずなぜ対比されるのか、というところで引っかかっている。「おそらくそういうことを他に名乗る人がいなかったんじゃないか、他にそう出てくるものがなかったんじゃないかな、という感じで僕は読んでいた」というのがマイキー氏の推測だった。

それでも、実際に衝突した三点

方法が違うと言った上で、マイキー氏は「結論は違うわけなんです、大きく」として、実際に争点となる三点を切り出した。

争点リカードマルサス
①作れば売れるか供給が需要を生み出す。作っただけ売れるのだから、理屈上「売れ残り」はありえない需要不足は必ず起きる。節約されれば物は売れなくなるし、不況にもなる。生産が上がれば嗜好品も生まれ、景気が悪くなれば売れない時期も来る
②何が伸びるべきか利潤が伸びないと投資が止まり経済が停滞する。賃金や地代を低く抑えて投資を促そう(資本家ベース)地主や政府の支出を需要で支えることが重要。そもそも金を使う人がいないと物を作っても意味がない(需要ベース)
③貿易政策自由貿易派。穀物をどんどん輸入して食品価格を下げ、賃金も下げて投資を増やせばよい保護貿易寄り。国内生産をしっかり守り、地主の金を回して消費も増やしていかなければならない

マイキー氏はこれを「イケイケのリカードと、守りのマルサス」「盾と矛の関係値」と要約した。そしてここから、この回で最も踏み込んだ評価が出る。「これが二つ同時期に出てきたよねとなってくると、どちらかというと理論的にはマルサスのほうが先を行っていたんじゃないか」。リカードは作る力が重要だから供給が鍵、だから作りまくればいい。マルサスは買う力が重要であり、いくらたくさん物を作っても購入できなければ意味がない、だから買う力を守って景気を支えていこう、という立場である。

📌 Claude補足|一般的供給過剰論争と、ケインズによる再評価

マイキー氏が挙げた第一の争点は、経済学史で「一般的供給過剰論争(General Glut Controversy)」と呼ばれるものである。ジャン=バティスト・セイは需要が供給によって決まると主張した。いわゆるセイの法則である。リカードはこの立場を擁護した。マルサスは、資本家は消費のために生産するのではなく富を蓄積するために生産するのだから需要に不足が生じる、貯蓄率が高すぎれば需要は完全雇用を支えるに足りなくなり、一国経済において一般的供給過剰は起こりうる、と反論した。マイキー氏の要約は、この論争の内容と正確に一致している。

そして「理論的にはマルサスのほうが先を行っていた」という評価は、経済学史の側からも裏付けがある。有効需要の不足の可能性を主張したケインズは、マルサスを自らの先駆者とみなした。ケインズは1932年後半にマルサスがリカードに宛てた書簡を読んだことがきっかけとなり、『一般理論』において有効需要へ焦点を絞ることになったとされる。マルサスは200年近く経ってから、リカードではなくケインズの側に回収されたことになる。

「今の産業は、どちらをやっていますか」

マイキー氏はここで参加者に問いを投げた。今の産業は世界中でどちらをやっているか。参加者から「トランプはどちらかというとリカードの考え方に近いということになるのですかね」という発言が出たとき、マイキー氏は即座に返した。「え、トランプが言っているのはマルサスじゃないですか?」。発言者もすぐに「ああ、そっか。保護貿易だ。そうですね、失礼しました」と訂正している。

この一往復の意味

「イケイケ」「積極的」というイメージと、政策の中身は一致しない。トランプ政権の通商政策は強い言葉で語られるが、実際にやっていることは国内生産の防衛であり輸入制限である。これは1815年に穀物法を擁護したマルサスと同じ側にある。イメージで分類すると必ず取り違える、という実演がこの一往復で行われた。

PART 5

現代への写像 ―― WTOとDXはリカード、関税と分配はマルサス

マイキー氏は三つの争点を現代の制度と経営に写像していった。まずリカード側である。WTOという国際貿易機関の基礎理念になっているのはリカードの考え方である。企業のサプライチェーン戦略もそうであり、FTA(自由貿易協定)もそうである。そしてDXによる生産性の向上も、リカード色が強い。

ここでマイキー氏はITとDXの区別を挟んだ。ITとは、たくさん処理しなければいけないものがあったときに、機械を入れることで8時間かかっていた仕事を2時間や3時間でできるようにするものである。導入としてはそれで終わる。量の処理時間を減らすのがITである。しかし2時間にしたとしても、量は増えるが一人当たりのスキルが上がったわけではなく、特別な何かがあるわけでもない。ただ量が処理できるようになっただけである。処理できるようになった上で、では品質を上げていきましょうと考えるところがDXである、というのがマイキー氏の定義だった。

IT = 量的緩和

同じ仕事にかかる時間を圧縮する。8時間の処理を2時間にする。処理できる量は増えるが、一人当たりのスキルや品質は変わらない。

量の期間を減らす発想

DX = 質的向上

処理できるようになった上で、品質そのものを上げにいく。生産性が上がり、付加価値がついていく。

質を上げて付加価値をつける発想

マイキー氏の整理では、DXの生産性向上も「量が増えて生産性が上がり、付加価値をつけていく」という点で、まさにリカード的である。会社がどうやって効率的に作るのか、どう分業するのか。それが最大の関心事であるのがリカードの考え方であり、供給側と効率重視こそがリカードの世界観だ、と述べた。産業の構想力もグローバル貿易も、みんなが大量に作るということは競争性が生まれるということである。

対してマルサスは何かというと、景気対策であり所得の分配である。需要不足が出てくる場合、マルサスの問題意識が政策の中心になってくる。「同じ人口論でも、そもそも戦っている場が違う」と渡辺氏の指摘を引き取りながら、マイキー氏は「この二つは同じように見えていて、同じような経済学として出てくる論文かもしれないが、中身の内容が全く違う」と結論した。

図2|現代の制度・政策・経営領域はどちらの世界観に属するか(Claude作図・講義内の分類に基づく定性評価。右方向がリカード的=供給・効率・自由貿易、左方向がマルサス的=需要・分配・保護)
📌 Claude補足|WTOとリカード、そして機械についての翻意

WTO(世界貿易機関)は1995年に設立され、その理論的基礎に比較優位の原理があることは広く認められている。この原理はリカードが『経済学および課税の原理』(1817年)で定式化したもので、FTA・EPAの正当化根拠としても用いられ続けている。

一方で、リカードが「効率一辺倒」だったという理解には修正が必要である。リカードは1821年の『原理』第3版で第31章「機械について(On Machinery)」を新たに追加し、冒頭で「さらなる熟慮の結果、この問題についての私の意見はかなりの変更を経た」と宣言した。初版では機械化は生産性向上によってコストと実質価格を下げるため、社会のすべての階級に利益をもたらすはずだと論じていた。しかし第3版では、地主階級と資本家は低価格の恩恵を受けるが、資本家が高価な機械の資金を捻出するために賃金を下げれば労働者はその恩恵を受けられない、と修正した。機械は「労働者階級の利益にとって非常に有害でありうる」と書き、新しい織機やエンジンを恐れた労働者は「偏見と誤りの犠牲者」ではないと明記している。これはラッダイト運動がピークを過ぎた直後の時期にあたる。渡辺氏が後段でラッダイト運動とAIを重ねて論じたのは、この文脈を踏まえたものである。

PART 6

リスクの最小化と、機会費用の最小化

マイキー氏の説明を受けて、前田氏が締めの定式を出した。「マルサスのやっていることはどちらかというとリスクの最小化の考え、リカードの考えていることは機会費用の最小化なんですよ」。そしてマルサスの理論はドメスティック・デマンドをどうやって満たすのかであり、リカードはグローバル・サプライチェーンをどう組むかである。この対で見ると見やすい、というのが前田氏の提案だった。

マルサスリカード
最小化するものリスク機会費用
視野ドメスティック・マーケットグローバル視点
方法統計・歴史事例に基づく制度論単純な前提からの演繹的抽象モデル
作ろうとしたもの社会科学どの時代にも適用可能な経済理論
歴史の扱い歴史から論拠を作る歴史をそこで遮断する
実務上の立場貧民救済の現場にいた聖職者相場と国債で財を成した投資家

最後の行は、前田氏が議論の終盤で自ら追加した反省である。「もう少しマルサスは、実際にこの人は貧民救済をやっていた人なので、そういう立場から見ていたということ。それとリカードについては実際にこの人は投資家なので、投資家をいかにうまく活かすかという視点が全く違う。そこの部分はやっぱり対比したほうが良かったのかな」。理論の対比よりも、実務上の立ち位置の対比のほうが本質を捉えられたのではないか、という自己批評である。

渡辺氏による整理 ―― 良好な関係と、遮断された歴史

渡辺氏は、二人の関係は多くの論文で非常に良好だったと言われていると述べた上で、その違いを「歴史をどう評価するか」に集約した。リカードは歴史をそこで遮断したかった。マルサスはその歴史から自分の論拠を作りたかった。だからマルサスは明らかに社会科学なのである。長期的な問題に解決を与える、つまりどの時代にも適用可能な理論を作りたかったのがリカードであり、ただし目の前の問題については短期的なものも追求しなければならないという点ではリカードも柔軟性を示していた。したがって「この二人の意見の対立は、実は表面的だったというふうに僕自身は理解しています」というのが渡辺氏の結論である。

それを繋ぐのが、この時代の啓蒙主義であり自由論だと渡辺氏は続けた。政府の裁量と市場をどうすり合わせていくかという議論を、そうせざるを得ない国際的情勢が生んだ。だから歴史的にこの二人の議論が際立つ必然性があったのではないか、と。

ラッダイト運動とAI ―― 渡辺氏の重ね合わせ

渡辺氏は、彼らがラッダイト運動(機械破壊運動)にも関わっていることに触れ、「ちょうどAIと似ていますけど」と接続した。機械が出てきて、その機械への投資によって固定資本ばかりに金が行き、流動資本と労働者の数を減らすようなことになってしまったら、それはそれで問題だよね、と。それに対して政府がどれだけ介入するかについては、長期的に見てそれがどこに落ち着くのか分かるまでは答えを出せない、というすごく慎重な姿勢を彼らは見せる。そこに対しての自由というのが彼らの中にあった啓蒙でもある、というのが渡辺氏の読み方である。

スミスからの連続性はあるのか

マイキー氏は、リカードとマルサスがアダム・スミスの延長として語られることへの違和感が消えないと述べた。渡辺氏はこれに対して非対称な答えを返した。マルサスについてはその違和感に同意するが、リカードについては間にジェームズ・ミルがいる、と。ジェームズ・ミルはベンサム以降の功利主義を経済理論にどう持ち込むか、それを統治や歴史を通観する上での理論としてどう作るかを考えており、そういう社会科学を完成させたいという志向があった。その社会科学の延長上でリカードが出てきている、という見立てである。

渡辺氏はさらに、自由という概念を軸に据え直した。社会における貴族や派兵の問題、戦争における政策が生む経済の歪み、市場に対して極端な力が入ることで自由が脅かされること。相互に対する客観的な裁定者としての自由という問題が脅かされるという点において、自由論と市場の自律性が関与してくる。正常な発展を促進するものが自由であり、その自由が保持できないのであれば、市場としても社会としても価値や行為を最大化できない。政治や政府による介入をどう抑制するかという点においては、両者に共通性があると思う、というのが渡辺氏の指摘だった。

マイキー氏はこれを受けて、連続性があるとしてもその起点が違うと応じた。「大体いろいろなものを見た場合、僕の印象なんですけども、書き方が『国富論』に啓発されてそこから理論を起こしているような書き方をしているのが、あまりにも多いかなと思っている」。しかし自分が見ていくと、どちらかというと元々二人とも自分の視点での社会的問題意識を持っていた。自分が直面している社会的問題を解決するにはどうしたらいいんだろうと考えたときに、その一部として『国富論』のものを引用してきた、という印象である、と。

渡辺氏はこれを「エートス」という言葉で受けた。文化を語るとき、意識的にではなくその時代に流れている議論の風潮というものがある。その中に乗っているということは一つあって、それがアダム・スミスの影響を受けたと表現される。これは例えばカントがヒュームやルソーの影響を受けているというのと同じことだと思う、と。「だからそこら辺の連続性はそこまでないように思うんですけど、その人の持っていた問題意識に対して、そういった参考という意味では」ある、というのが渡辺氏の着地だった。経済学理論としての連続性はない。あるとしたらこの自由という概念の連続性である、と渡辺氏は明言している。

📌 Claude補足|ジェームズ・ミルとリカード

ジェームズ・ミル(1773-1836)はベンサムの功利主義サークルの中心人物であり、リカードの友人かつ助言者だった。リカードが『経済学および課税の原理』を書き上げ出版に踏み切ったのは、ミルの執拗な説得によるところが大きいことが知られている。またミルはリカードを下院議員にするよう働きかけてもいる。渡辺氏の「間にジェームズ・ミルがいる」「その社会科学の延長上でリカードが出てきている」という指摘は、思想史的な系譜として妥当である。なおジェームズ・ミルの息子がジョン・スチュアート・ミルであり、後の功利主義・自由論の展開へ繋がる。

PART 7

なぜこの回は「思考の横断」に着地したのか

議論の終盤、マイキー氏は予測を語る人たちのうち、AIやテクノロジーの話しかしない人は本当に内容が薄いと述べた。渡辺氏が「それはどの分野もそうではないか」と返すと、マイキー氏は同意した上で構造を説明した。一つの話しかしない人のほうが多いのは、自分の専門性を情報配信することで自分のワールドを作り、マウンティングが取れる場所を作り上げるからである。しかし学問は横断して価値があると思っている。教育も学問もコミュニケーションも、すべて横断することによって価値が生まれる、付加価値が生まれるものだと思っている、というのがマイキー氏の立場だった。

前田氏はこれを受けて、思考の横断ができない限り、人に伝えるものも薄っぺらになると応じた。マイキー氏はここでCFOという職能を例に挙げる。CFOの仕事はファイナンスなので、すべての分野に絡ませなければならず、結局知識を横断させなければならない。それを最も背負っているのがCFOである。CTOやCMO、CIOといった役職と比べても、情報の横断という点でCFOは際立っている。CTOは内部の状況がメインになるが、CFOは外部との連携ありきでなければ成り立たない。人事も総務も経営企画も経理も財務もコンプライアンスもすべて見た上で、さらに事業も見なければならず、IRで投資家とも向き合わなければならない。それを全体的なストーリーテリングとしてどうまとめ、CEOに受け渡すかという仕事がある、と。

参加者からは、人事の仕事もかつては採用と評価だけで良かったのが、今は人的資本経営をやらなければならず、そのためにはファイナンスの知識も長期目線も統計の理解も必要になっている、という実感が語られた。マイキー氏は「そのスペイン語の勉強の仕方も、学習方法の横断でしかないじゃないですか」と、冒頭の雑談へ議論を戻している。この回が、経済思想史の講義でありながら、実質的には「分断された枠組みを横断する訓練」として設計されていたことが、ここで明示的になった。

前田氏の自己申告

前田氏はこの流れの中で、誤解を解いておきたいと述べた。「ここの部分、得意だからやっているんじゃないんですよ。苦手だからやっているんですよ」。だから毎回、渡辺氏に「間違っているところ、足りない視点はないですか」と必ず聞いている。渡辺氏のほうが圧倒的にこの分野に詳しいと分かっているからである。前田氏は自分の得意分野として「16世紀に中国がアメリカ大陸からサツマイモやトウモロコシを輸入して人口が拡大した」といった文化史的な説明を挙げ、経済モデルは苦手なほうだと述べた。苦手な領域を自分の担当に据えるという設計そのものが、この勉強会の性格を示している。

Q&A

質疑応答(本テーマ該当分・全件)

今日の前田さんの講義ではマルサスの説明はあったと思うが、リカードの説明が入っていたような気がする。この後やるのかと思って聞いていたが、そのあたりを誤解しているかもしれない。(遠藤氏)
前田氏:確かにリカードはやっていない。ただ、マイキー氏がやっていることでは、対比して見ると分かりやすいということです。 / 質問者:分かりました。ありがとうございます。めちゃめちゃ分かりやすかったです。こんなにシンプルなんですね。
トランプはどちらかというとリカードの考え方に近いということになるのですかね。
マイキー氏:え、トランプが言っているのはマルサスじゃないですか? / 質問者:ああ、そっか。保護貿易だ。そうですね、失礼しました。 / マイキー氏:ただリカードの意見が間違っているかというとそうではなく、例えばWTOのような国際貿易機関の基礎理念になっているのがリカードの考え方です。
マルサスとリカードの違いについて、マルサスは現状の分析、つまり「今までこのままだとこういう未来だ」という現状提示をしているのがマルサスで、リカードは「ではそれをどう突破するか」を話しているのかなと思ったのですが。(前田氏から)
マイキー氏:いやいや、そんなことないですよ。これもただ思いつきで喋っているだけなので、多分あとあとこういうふうに説明していくと、よかったらまた出てくるんでしょうけど。 / 補足として渡辺氏は、リカードは長期的な問題を解決する「どの時代にも適用可能な理論」を作りたかったが、目の前の短期的な問題への柔軟性も示していたと応じている。
ちょうどこの二人が同じ時代にいたので、すごく良い関係だっただろうなと何となく思う。お互いにありがたいと思っていたのではないか。(前田氏)
渡辺氏:二人の関係は、いろいろな論文で非常に良好だったと言われています。結局そこに歴史をどう評価するか。リカードは歴史をそこで遮断したかった。マルサスはその歴史から自分の論拠を作りたかった。明らかに社会科学なんですよね。ただ穀物法をめぐっての意見、あるいは金の価格についての意見が衝突したというだけのものであって、対比されるというのはそれだけのことです。
マルサスとリカードがアダム・スミスの延長のように語られるのが、どうしても納得できない。(マイキー氏から渡辺氏へ)
渡辺氏:マルサスについてはそう思うのですが、リカードのほうは間にジェームズ・ミルがいます。ベンサム以降の功利主義を経済理論にどう持ってくるか、統治や歴史を通観する上での理論としてどう作るか、そういう社会科学を完成させたいというところがあって、その延長上でリカードが出てきている。経済学理論としての連続性はないと思っています。あるとしたら、この「自由」という概念の連続性です。 / マイキー氏:連続性はあるとしても、その起点が違うと思っています。二人とも元々自分の視点での社会的問題意識を持っていて、それを解決するために『国富論』の一部を引用してきたという印象です。 / 渡辺氏:それは「エートス」という言い方をしますが、その時代に流れている議論の風潮に乗っているということ。カントがヒュームやルソーの影響を受けているというのと同じだと思います。
ACTION ITEMS

宿題・アクションアイテム

  1. Discordへのアウトプット(必須) マイキー氏は「今言ったことを全部、Discordのほうにちゃんとアウトプットしておいてください」と明言している。リカードとマルサスの三つの争点を、自分の言葉で書き出すこと。「今度から返事をしなかったら分かったということで確定させて続けます」という宣言付きである。
  2. 三つの争点を自社に当てはめる 自分の事業が、供給側(作れば売れる/効率を上げれば価値が増える)を前提に設計されているか、需要側(買う力がなければ意味がない)を前提に設計されているかを判定する。両者は刺激する場所が違うため、混同したまま施策を打っても効かない。
  3. ITとDXの区別を自社の投資案件に適用する 現在進行中のシステム投資が「量の処理時間を減らすIT」なのか「品質を上げて付加価値をつけるDX」なのかを分類する。前者しかやっていないのに後者だと呼んでいないか。
  4. マルサスの罠が外れた理由を、自分の業界で探す 技術開発と人口ボーナスによってマルサスの予測は外れた。自分の業界において「このままいけば必ずこうなる」と言われている構造を、何が外しうるかを列挙する。
  5. 次回予告(水曜) 模倣(パクる)とイノベーション(知と知を組み合わせる)のどちらが合理的か、そのタイミングについての研究を扱う予定。また、改革を目指すか模倣を目指すかによって人事組織体制をどう変えるべきかという論点も予告されている。
GLOSSARY

用語集

人口論(An Essay on the Principle of Population)
マルサスの主著。初版1798年。人口は幾何級数的に、食料は算術級数的にしか増加しないという非対称から、人口過剰と貧困の必然性を論じた。
算術級数/幾何級数
前者は1, 2, 3…と一定量ずつ増える。後者は2, 4, 8, 16…と一定倍率で増える。マルサスは食料を前者、人口を後者に対応させた。
予防的妨げ(preventive check)
出生率を下げる方向の人口抑制。マルサスが推奨したのは「道徳的抑制」=晩婚と婚前の禁欲であり、避妊には反対していた。
積極的妨げ(positive check)
死亡率を上げる方向の人口抑制。疫病・飢餓・戦争など。マルサスはこれを推奨したのではなく、抑制が働かない場合に自然に生じる帰結として記述した。
マルサスの罠
生産性が上がっても人口増加がそれを食い尽くし、一人当たり所得が上がらない状態。産業革命以降の技術進歩により、実際には外れた。
救貧法(Poor Law)
1601年のエリザベス救貧法に始まる貧民救済の法体系。マルサスは怠惰を助長するとして反対し、その思想的影響下で1834年に新救貧法(劣等処遇原則・ワークハウス制)が成立した。
穀物法(Corn Laws)
1815年制定の穀物輸入制限法。マルサスは国防と食料安全保障の観点から支持し、リカードは安価な穀物の利益を優先して反対した。両者の直接対決の場。
セイの法則
「供給はそれ自身の需要を創造する」。ジャン=バティスト・セイに帰される命題で、リカードが擁護した。マルサスはこれに反対し、一般的供給過剰は起こりうると論じた。
一般的供給過剰論争(General Glut Controversy)
19世紀前半、リカードとマルサスを中心に戦われた論争。需要不足による全般的な過剰生産がありうるかが争点。ケインズはマルサスを自らの先駆者とみなした。
比較優位
リカードが定式化した貿易理論。各国が相対的に得意な財に特化して交換すれば双方が得をする。WTOやFTAの理論的基礎。
機会費用
ある選択をしたことで得られなくなった、別の選択肢から得られたはずの利益。前田氏はリカードの立場を「機会費用の最小化」と定式化した。
ラッダイト運動
1811年頃からイングランドで起きた機械破壊運動。リカードは1821年の『原理』第3版で第31章「機械について」を追加し、機械化が労働者に有害でありうると自説を修正した。
ジェームズ・ミル
1773-1836。ベンサム系功利主義者でリカードの助言者。リカードに『原理』の出版を促し、下院議員への道も後押しした。J.S.ミルの父。
エートス
その時代に流れている、意識されないままの議論の風潮・気質。渡辺氏はスミスとリカード・マルサスの関係をこの語で説明した。
人口ボーナス
生産年齢人口の比率が高まることで経済成長が加速する現象。マルサスの罠が外れた要因の一つとして前田氏が挙げた。
IT/DX
マイキー氏の定義では、ITは処理時間の圧縮(量的緩和)、DXは処理能力を前提とした品質と付加価値の向上(質的向上)。