この回で扱われたこと
この日の勉強会は、講師(マイキー氏)ではなく共同登壇者の前田氏が理論解説の口火を切るところから始まった。前回この場で扱ったのはマーク・グラノヴェッターの埋め込み理論だったが、今回はその源流にあたるカール・ポランニーのエンベデッドネスを取り上げる、という宣言である。経済学の中でも最重要に位置する理論ではないか、という前田氏の私見が最初の一文だった。
解説の骨格は人体の比喩に置かれている。肝臓だけ、腎臓だけで人間が成り立つことはない。同じように宗教・政治・法律・経済・文化は、それぞれ単独では機能せず、社会という身体の中に置かれて初めて働く。そして人体に心臓と腎臓の優先順位があるように、社会の機能にも序列がある。ここから前田氏は、埋め込みの強さは「正当性」によって上がり、「合理性」によって下がる、という二つのつまみを提示した。祭りや神話や歴史といった、一見すると無駄に見えるものが社会に残ってきたのは、それが正当性を支え、機能どうしを接続するストーリーを供給しているからだ、という説明である。
会の中盤で、この議論に正面から異議が入る。経営学でエンベデッドネスを学んだという参加者(長谷川氏)が、自分が習った埋め込み理論はそんな哲学的なものではなく、企業や個人が自分のいるネットワークの内側でしか考えられないという現象論だった、と述べたのである。これに対する講師の回答が、この回でもっとも実用的な部分になった。グラノヴェッターの核心は「経済学と社会学のいいとこ取りをした者が勝つ」であり、したがって埋め込まれた側と埋め込まれていない側を行き来できるリソースを持っているかどうかが唯一の使い道だ、という整理である。
後半は、渡辺氏が持ち込んだ近代批判との衝突に移る。私たちはすでに合理化のレールを敷かれており、そこで考えている合理性が本当に自分の合理性なのか、という問いである。講師はこれに「脱却することと所有を捨てること」という自身の仮説で応じ、批判的思考を、埋め込まれた瞬間にそれを中和するための手続きとして説明した。
埋め込みは良し悪しの話ではなく、強さの話である。強く埋め込まれれば秩序と信用が手に入り、その代わりに視野と可動域を失う。弱く外れれば情報と拡散力が手に入り、その代わりに秩序と信用を失う。したがって問うべきは「埋め込まれているかどうか」ではなく、「どちらにも移動できる状態を自分が作れているか」である。この一点が、理論の説明から個人の学び方の話まで、この日の議論すべてを貫いていた。
始まる前に置かれた前提
録画は前田氏の発言の途中から始まっている。この理論は経済学の中で最重要の位置にあるのではないか、という自身の見立てを述べ、そして今日これをやることになったのは講師に誘導された結果だ、と軽口をたたいてから本題に入った。前回この場で扱ったのはマーク・グラノヴェッターの理論であり、今回はカール・ポランニーのエンベデッドネスを扱う、という位置づけが最初に示されている。
前田氏がこの理論を「社会システムの挙動を理解するために必要な理論」と定義したのは、この勉強会がこれまで扱ってきたウェーバーやマルクスと同じ入口に立っているからである。社会構造の理解がなければ経済は理解できない、という順序を先に置く。その意味で、この回は独立した新テーマではなく、これまでの理論回の接続点として設定されていた。
カール・ポランニー『大転換(The Great Transformation)』は1944年刊。市場経済がそれ以前は慣習・宗教・親族関係といった社会制度の中に埋め込まれており、18〜19世紀の資本主義拡大がそれを社会から切り離そうとする試みだった、という議論である。マーク・グラノヴェッターの「Economic Action and Social Structure: The Problem of Embeddedness」は1985年、American Journal of Sociology 第91巻3号(481〜510頁)。ポランニーの概念を、企業間ネットワークを分析するための道具として組み直したもので、新経済社会学の出発点とされる。会の後半で前田氏が述べた「先にポランニーがあり、そこからグラノヴェッターに繋がっている」という理解は、刊行年の順序として正しい。
人体と臓器──機能は単独では生きられない
前田氏の説明は、社会を身体に見立てるところから始まる。肝臓だけで成り立つ人体はなく、腎臓だけで成り立つ人体もない。臓器は身体の中に置かれて初めて機能する。社会も同じで、宗教・政治・経済・文化はそれ単独では存在せず、社会の中にあって初めて生きる。だからこれらを切り離してバラバラに論じることは、原理的にできない。エンベデッドネスというのは、極端に言えばこれだけの話だ、と前田氏は述べた。
ここで「機能」と呼ばれているのは、社会を運用するために必要なパーツのことである。宗教、法律、政治、経済といったものがそれにあたる。そしてこれらは相互に影響する。宗教は政治に影響し、政治は経済に影響し、経済はふたたび宗教に影響する。単独で語りがちだが、実際には循環している。だから個々を見るのではなく全体を俯瞰しなければならない。前田氏は、マックス・ウェーバーが政治・宗教・経済という広い範囲をつないで理論を構築していた背景には、この考え方があったと読めると付け加えた。
もう一つの論点が序列である。人体の中で心臓と腎臓のどちらを先に守るかと問われれば、多くの人は心臓と答える。同じように社会のパーツにも重要度の差があり、重要度が上がることが、そのまま埋め込みが強くなることを意味する。社会に対する必要性や影響力が大きいものほど、上位に置かれ、強く埋め込まれる。
前田氏はこの階層論から、学問の独立時期という具体例を引いた。経済学が学部として独立してきたのは実質的にマーシャルの時代であり、政治学や宗教学のほうがずっと早く学問として独立している。もし社会の中で重要度の高い機能ほど強く埋め込まれ、先に制度化されるのだとすれば、この時間差は説明がつく、という読み方である。
正当性で締め、合理性で緩める
この回の中心にある道具立てが、埋め込みの強さを決める二つの要因である。前田氏によれば、正当性が強くなると社会への埋め込み(必要性)は高くなる。これをエンベッディングと呼ぶ。逆に合理性が高くなると必要性は低くなり、埋め込みは外れていく。これをディスエンベッディングと呼ぶ。奇妙に聞こえるかもしれないが、こういう現象が起こる、というのが前田氏の言い方だった。
したがって、社会の中で心臓や脳にあたる位置を占めたければ、正当性を強くする必要がある。では何が正当性を強くするのか。宗教の教義、文化、歴史──要するにイデオロギーを作り上げ、それを支えるもの、という答えが提示された。
エンベッディング(埋め込みを強める)
正当性を積み上げる方向。教義・文化・歴史・神話・祭り・儀礼といった、経済的な採算では説明のつかない装置が担う。得られるのは秩序と信用と、その社会での不可欠性。
ディスエンベッディング(埋め込みを外す)
合理性を上げる方向。効率・コスト・時間といった尺度で置き換えていく。得られるのは可動域と拡散力。失うのは、その場に固有の必要性。
この二つが対になっていることが重要である。合理化は埋め込みを外す作用を持つのだから、合理化を進めるほど、その社会にとっての「なくてはならなさ」は薄くなる。前田氏が後段で「僕らはやっぱり合理から離れるのが今必要だ」と述べたのは、この対称性を踏まえた発言だった。タイパやコスパで測るということは、歴史的に形成されてきた知を手放すことと同じではないか、と彼は問うている。祭りの機能を本当に考えたことがあるか。神話の機能を考えたことがあるか。それが残ってきたのは社会的に必要だったからだ、と捉えるべきではないか、という提起である。
ポランニーの中心命題は「二重運動(double movement)」と呼ばれる。19世紀の自由主義は、経済活動をそれまで組み込まれていた社会的・慣習的・保護的な制度から系統的に切り離し(脱埋め込み)、自己調整的市場を作ろうとした。しかしそれは実現不可能な企図であり、社会の側から労働法や関税といった保護の対抗運動が起きて、経済を再び社会に埋め戻そうとする──という往復の議論である。「合理化=脱埋め込み」という前田氏の説明は、この本筋と方向として一致している。
一方、この日語られた「社会の機能には序列があり、経済は元々かなり下の階層にあった」という階層モデルは、ポランニーのテキストに直接そう書かれているものではなく、前田氏自身が「こう捉えたほうが理解しやすいのではないか」と会の中で提案していたものである。実際、渡辺氏に対して「一応こう捉えた方がいいのかなと思った」と確認を求める形で提示されている。理論の要約としてではなく、講師の作業仮説として扱うのが正確である。
機能をつなぐのはストーリーである
社会のパーツが相互に影響すると言っても、その繋がりは自然にできるわけではない。前田氏は、繋がりを作るのがストーリーだと述べた。ストーリーを作りやすいものほど、埋め込みを強くする機能が働く。そしてストーリーを伝える装置として挙げられたのが、神話、儀礼、祭り、そして歴史である。
ここが、この理論のもっとも反直感的な部分である。祭りも神話も、費用対効果で見れば無駄に見える。しかし社会を構成し、その中で各機能の正当性を高め、機能どうしを接続するためには不可欠な行為だ、という結論になる。社会の機能を有効にするためには、物語を伝えるシステムが必須である──前田氏はそう締めくくった。
この論点は、この場でこれまで繰り返し出てきたナラティブの重要性と直結している。実際、後半のセッションでは同じ道具が企業の顧客戦略の説明に使われることになる。ただし前田氏がここで語っているのは、企業が顧客を囲い込むためのナラティブではなく、社会が自分自身を維持するために必要とする物語のほうである。
そのうえで前田氏は、この理論がSWT理論(弱い紐帯の強さ)と組み合わさると理解しやすくなる、と述べた。経済は埋め込みが弱く、弱いからこそ拡大して影響力を持てる。逆に宗教や政治のように上位にあって密なネットワークになっているものは、広がりにくい。この非対称を説明するのに、弱い紐帯の議論が使える、という筋である。
「The Strength of Weak Ties」はマーク・グラノヴェッターが1973年に American Journal of Sociology 第78巻6号に発表した論文。強い紐帯どうしは互いに接触して閉じた集団を作りやすく、そこから得られる情報は重複する。これに対し弱い紐帯は集団と集団の橋渡しとして働き、新規の情報をもたらす、という主張である。埋め込み論文(1985年)と同じ著者による12年前の仕事であり、「弱いほど広がる」という前田氏の説明は、この論文の趣旨と整合している。
弱く広げてから、強く固める
参加者から出た質問が、この理論をいきなり現代企業の話へ引き寄せた。GAFAMのような巨大企業は、ポランニー的に見ると再埋め込みをしているのか、それとも埋め込みから脱出しているのか。ストーリーを作ってコミュニティを形成している一方で、国家や宗教とは相反する動きにも見える。どちらとも取れるのではないか、という問いである。
前田氏の回答は、どちらかではなく順番だ、というものだった。仕組みとしては、あえて意図的に埋め込みを弱くする。弱くすることで拡散できる。拡散したあとで、今度は埋め込みを強くする。まず既存の伝統的な価値観を緩め、そのうえで新しいストーリーとして自分たちの価値づけを行う。これを順番に繰り返すことで地盤を広げ、さらに地盤を固め、より強固なエコシステムを作っていく。結果として、知らない間に取り込まれて逃げられなくなる、という構図である。
「緩める → 広げる → 固める」という三段の順序が、この日示された唯一の操作手順である。既存の埋め込みを合理性で緩め、緩んだ隙間に自分の物語を流し込み、流し込んだ先を今度は正当性で固める。この順序が逆になると、いきなり固めようとして誰も入ってこない、あるいは緩めたまま拡散して何も残らない、のどちらかになる。
この整理は、後半の議論でブラウザ市場やスマートフォンOSの事例に接続されることになる。ただしこの時点では、まだ抽象的な操作手順として提示されているにとどまっていた。
経営学のエンベデッドネスとの衝突
この回でもっとも生産的だったのが、参加者からの正面からの異議である。経営学でエンベデッドネス理論を学んだという長谷川氏が、自分が習ったものはこれほど哲学的な内容ではなかった、と述べた。人間は社会やネットワーク、自分のいる人的環境の中で埋め込まれた概念の中でしか考えず、その中で利益追求をしているにすぎない、というのが自分の理解する埋め込み理論であり、具体例としてはトヨタが愛知県で圧倒的に強いことや、シリコンバレーにApple・Googleが集まっていることが挙げられる。埋め込みは強みにもなるが悪い方向にも働く。そして日本は埋め込みが強すぎて固まりすぎ、イノベーションが生まれていない──そう海外の研究者から批判されるのが実情だ、という指摘だった。
参加者が混乱しかねないので、哲学的な方向に入る前に経営学側の理解も置いておきたい、という趣旨の発言である。これに対して講師が回答に入った。
講師の整理はこうである。グラノヴェッターが提唱した埋め込み理論は、人間の経済活動は損得勘定だけで動いているのではなく、人間のネットワークの中に深く組み込まれている、という考え方である。しかし彼の一番のポイントはそこではない。経済学と社会学のいいとこ取りをした者が勝つ、と言っているのだ、というのが講師の読みだった。経済学は人間を「自分の利益を最大化する合理的個体」と見る。社会学は、社会に埋め込まれすぎるとルールや文化に縛られてロボットのような存在になると見る。現実はその中間にある。だとすれば、いま自分は埋め込まれた側に行ったほうが得なのか、外れた側に行ったほうが得なのかを判断できるかどうか──それがこの理論の唯一の使い道だ、という結論である。
買い物と情報の例
講師はこれを日常の例に落とした。幼馴染の店でパソコンを買うのは埋め込まれた行動であり、そこに合理性はない。一円でも安くAmazonで買うのが合理的な行動である。しかしAmazonでは実物に触れられないので、品質や不具合についての情報が欠落する。知り合いの店なら、少し高くてもその場でスペックを確認できる。互いにメリットとデメリットがあるのだから、問題はどちらが正しいかではなく、どう使い分けるかだ、という話である。
ここから講師は、情報の質という論点を引き出した。周りにまともな人がいれば「それは買うな」と言われるはずだし、逆に周りの水準が低ければ多くの情報を見過ごす。周囲が弱ければネット依存になり、周囲に固められすぎるとインターネットをまったく信用しなくなる。どちらかに偏るのではなく、どちらでも生きる状態を作れているか。それが自分の埋め込まれた世界であるならば、そこに勝ち筋が見える、というメッセージだと講師は述べた。
講師はこの原理を、学習の手続きにそのまま翻訳している。本を読む人ほど対話が必要になり、対話をする人ほど何かを読んで確認する必要がある。どちらの埋め込みも、もう一方によって中和されている状態を作れば、正しい情報を判断しやすくなる、という形である。「勉強する人ほど対話が必要になる」という一文は、この日の議論の中でもっとも短く実装できる結論だった。
日本の過剰埋め込みという批判
長谷川氏が引いた海外の研究者の批判──日本は埋め込みが強すぎるという指摘──について、講師も同じ方向で応じている。同じ業界、日本人だけ、地域だけで人間関係が閉じていれば、それは埋め込まれた状態であって合理的な判断ができていない。逆に海外にネットワークを持ち、海外から情報が取れる人は両方を行き来できる。だからそれが勝ち筋になる、という整理である。
そして講師はこれを「知の深化と知の探索」の語彙に接続した。埋め込まれた側にいると深化は得意だが探索が苦手になり、外にばかり出ていると探索ばかりで深化ができない。両方を行き来できるシステムを作れる者が、この理論の勝ち組だ、というのがこの日の結論である。長谷川氏はこれに同意し、行ったり来たりできる自由度を持った人間が結局残る、と応じた。
長谷川氏と講師がともに述べた「埋め込みは一定を超えると害になる」という主張は、経営学に対応する研究がある。Brian Uzzi「Social Structure and Competition in Interfirm Networks: The Paradox of Embeddedness」(Administrative Science Quarterly, 1997年, 42巻1号, 35〜67頁)は、ニューヨークのアパレル企業23社への調査から、埋め込みは時間の節約や複雑な適応を促す一方、ある閾値を超えると外部ショックへの脆弱性を高め、ネットワークの外にある情報から企業を遮断する、と結論している。会の後半で講師が使う「オーバーエンベッドネス」という語も、この系統の研究用語である。
なお長谷川氏は日本の過剰埋め込みを指摘した研究者として大学名と教員名を挙げているが、録音が不明瞭で人物を特定できなかった。ここは要確認として残す。「日本の企業間ネットワークや銀行・サプライチェーンの結束が強すぎる」という論点自体は経済社会学で繰り返し扱われてきたテーマだが、特定の発言として引用する場合は出典の確認が必要である。
敷かれたレールの上の合理性
渡辺氏が持ち込んだのは、この理論を個人の生き方の側から読む視点だった。文化人類学でいう機能論の枠組みで見れば、埋め込みとは、この社会が何を目的とするように私たちをシステム付けているか、人生そのものをどう意味づけているか、という問題になる。そこから渡辺氏は問いを立てた。私たちはすでに合理性というレールを敷かれている。その中で考えている合理性が、はたして自分にとっての本当の合理性なのか。
前田氏の応答は、合理から離れることが今は必要だ、というものだった。タイパやコスパで測ることは、歴史的に形成された知を手放すことと同じである。祭りや神話の機能を、理屈ではなく経験して体感して作り直していけば、社会的な必要性をもう一度別の形で生み出せるのではないか、というのが彼の現在地である。さらに渡辺氏が「近代のレールが敷かれる以前に戻るには何を学べばいいのか、批判的思考がまずそうではないか」と重ねると、前田氏は自身の仮説として「脱却することと、所有を捨てること」を挙げた。抽象的すぎて多くの人にはピンとこないだろう、と本人も認めている。
フィヒテと、利益最大化が招く弱体化
渡辺氏はここで一つの例を引いた。ナポレオン戦争の敗北後、フィヒテがドイツ国民に向けて行った演説である。そこで語られたのは、我々は自分の利益を最大化しようとしたがゆえに弱くなった、という主張だった。自分の利益を最大化しようとすると、いかに効率的にやるか、いまある価値をどう取り合うか、何があれば自分は安心で楽をできるか、へと問題がすり替わっていく。だからもし相手が「こちらのほうがあなたの利益になります」と提案してきたとき、その選択肢ばかりを選んでいると、自分にとっての本当の価値を容易に失う、というのが渡辺氏の読みだった。
この論点は、この場でこれまで扱われてきた知の探索の議論と接続される。回収できなさそうなもの、すぐに金にならないものに関心を持たなくなり、探索をしなくなる。利益の最大化がイノベーションを潰す、という筋である。
発言では人名が「ゴッドフリート・フィテ」と聞こえるが、正しくはヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)である。『ドイツ国民に告ぐ(Reden an die deutsche Nation)』は、フランス軍占領下のベルリンで1807年冬から1808年冬にかけて14回にわたり行われた連続講演で、刊行は1808年4月。
なお「ナポレオン戦争にドイツが負けた時」という言い方には注意がいる。当時ドイツという統一国家は存在せず、1806年のイエナ・アウエルシュタットの戦いで敗れたのはプロイセンである。フィヒテの演説は、その敗北と占領を受けて、教育と言語による国民の再生を説いたものだった。発言の趣旨(敗北の後に、利益追求への傾斜が原因だと語られた)は演説の論旨と大きく矛盾しないが、主体は「ドイツ」ではなく「プロイセンとドイツ語圏」である。
オセロと、FBIレポートを取り寄せた小学生
講師はここで、より具体的な像を出した。オセロは枚数を多く取るゲームだと思われがちだが、実際には相手の選択肢を狭めたほうが勝つ。途中の枚数で負けて見えても、最後に全部ひっくり返る。利益の最大化ではなく、相手の可動域の制約こそが勝敗を決める、という比喩である。
もう一つが、講師自身の小学四年生のときの体験談だった。学校で命の大切さを扱う授業があり、なぜ人を殺してはいけないのかという問いに、教師が「警察に捕まるから」と答えた。それなら捕まらない方法を考えればいいのではないかと考えた講師は、FBIの犯罪レポートを取り寄せたという。結果としてレポートが公開されている時点で自分には無理だと気づいたが、そういうところに手を伸ばすことで妙なアイデアが生まれるのではないか、というのが本人の総括である。
この逸話の要点は、倫理の否定ではない。講師の説明は明快で、戦争地域で自分の親が殺されそうになったときに相手を倒せば称えられるのだから、それは環境によって情報が埋め込まれているにすぎない、という点にある。埋め込まれたまま受け取るのではなく、なぜそうなのか、逆はないのか、を常に探すこと。これが講師の言う批判的思考の実装だった。
この逸話は、暴力や犯罪の実行を推奨する文脈で語られたものではなく、「規範がなぜ規範として成立しているのかを問い直す」ことの例として提示されている。本レポートも、その文脈でのみ記録している。
講師自身の運用
講師は自分の思考の型についても述べている。何かを学習した瞬間、何かを体験した瞬間に、自分はもう埋め込まれたという前提で考える。今日Aを勉強したという瞬間に、自分は何かの組織に埋め込まれたと考え、そこから外れるためにまず批判的思考を働かせる。前田氏から学んだこともある意味で前田氏に埋め込まれたことになるので、逆を考えるか、別のところから引っ張ってきて中和する。それによって両方を行き来できる状態が作れる、という運用である。
渡辺氏はこれを機能主義として言い換えた。与えられたストーリーから自由になるには、そのストーリーがどう作られたのかを自覚するか、違うストーリーもあると反論するしかない。そして日本人の場合、自分がどこに埋め込まれているかを客観視できておらず、権利も正義も与えられたものとして受け取っているため、「自分をどこに埋め込むか」という視点自体を持てていない、というのが彼の診断だった。渡辺氏はこの構図を、アマルティア・センのレーショナル・フール論に接続している。当たり前のコミットメントが経済学からも経営学からも説明できなくなった以上、理論の手前まで遡らないと説明がつかない、という筋である。
アマルティア・センの「Rational Fools: A Critique of the Behavioural Foundations of Economic Theory」は1977年、Philosophy and Public Affairs 誌に発表された論文である。センは、経済主体の選好順序に求められる整合性の公理を批判し、共感(sympathy)と関与(commitment)を区別した。共感にもとづく行動は結局のところ自分の効用に還元されるが、関与にもとづく行動は自己利益に還元できない。渡辺氏が「コミットメントが経済学から説明できなくなった」と述べた箇所は、この区別を指している。
この回の質疑(理論編)
次に持ち越されたもの
- アダム・スミス・マーシャル・ケインズは本当に違うことを言っているのか。 前田氏が現在AIを使って検証中の仮説。埋め込みという視点から見ると、この三者は構造的に同じことを語っているのではないか、という問いである。補正が入ることで同じ構造が別の言葉で語られているだけではないか、という見立てだが、本人も「まだ時間がかかりそうだ」と述べている。
- 「無駄」は本当に無駄なのか。 前田氏が並行して進めているテーマ。動物の装飾器官のような、一見して無駄に見えるものが実は機能を持つのではないか、という論点から、シュンペーターのイノベーション論に接続できそうだ、という見通しが語られた。ただし他の論点とどう繋ぐかは未定。要確認(該当箇所の音声が不明瞭で、具体的にどの事例を指しているか確定できなかった)
- エンベデッドネス理論の続き。 前田氏は今回の内容を次回にも接続していくと明言している。