「まだ注目されていないところをやります」という前置きから始まった地政学講義。舞台は地中海、焦点はギリシャ。港を取り、物流を取り、送電を取り、通信を取る——その順番の意味と、20km先に置かれた米国側の対抗手段までを追う。
この日の地政学パートは、参加者投票で「前回の続き」と「地政学」が割れた末に地政学に決まった。北極海やイランではなく「まだ注目されていないところ」をやる、という宣言のもとで選ばれたのが地中海である。日本人には縁遠い海に見えるが、ヨーロッパにとってはわれわれが太平洋を見るのと同じ意味を持つ、というのが導入だった。
講義の構成はきわめて実務的である。まず地図の上でギリシャの位置を確認し、この海が3000年にわたって戦場であり続けた理由を押さえる。次に、リーマンショック後の財政危機で切り売りに追い込まれたギリシャに、COSCOがどう入っていったかを時系列で追う。そして最も重要な論点——港を取っただけでは意味がなく、そこから物流、エネルギー、通信へと積み上げていく順序がある、という点に焦点が絞られる。
この「順序」の話が、この回で最も転用価値の高い部分である。港湾権益の獲得はニュースになりやすいが、それ単体では単なる不動産投資に近い。そこに内陸へ抜ける鉄道回廊がつながり、送電網の持分が加わり、5Gの契約が乗って初めて、地域そのものが動かなくなる依存構造ができる。講師が「まだニュースとしてそこまで出ていない」と述べたのは、この積み上げが完成に近づいているという意味であって、何も起きていないという意味ではない。
そして米国側の対抗手段が、ピレウスから約20kmのエレフシナである。ここに港を作り、民営化して資金調達し、LNGの長期契約で供給側を押さえる。同じ湾の中で、電気で動く物流とガスで動く物流が客の取り合いをする構図になる、というのが講師の見立てだった。最後に、この構図が前田氏の合理性・正当性の議論と接続する。EUがルールで中国の物流を締め出したとして、それでも安くて速いほうを使う者が現れる。ルールを守った側と破った側で、どちらが勝つのか。
講義は資料なし・地図一枚で始まった。エーゲ海を囲むイタリア、ギリシャ、そしてイスラエル。この海域はずっと戦場だった、という一言が起点である。ペルシャ戦争、サラミスの海戦、ペロポネソス戦争でスパルタとアテネが争い、その後もヴェネツィアとオスマン帝国が島の争奪戦を繰り返した。東洋と西洋という対立概念そのものが、この海を中心に上下左右で分かれているとも言われる、と。
サラミスの海戦は紀元前480年(クセルクセスのギリシャ侵攻における決戦で、ギリシャ側の勝利がペルシャ軍を孤立させた)。講義では「紀元前400年代ぐらい」と述べられたが、正確には紀元前5世紀の初頭にあたる。ペロポネソス戦争はアテネとスパルタの間で紀元前431年から404年まで戦われた。クレタ島をめぐるドイツ軍の空挺作戦「メルクール作戦」は1941年5月で、講義の説明どおり、イギリスが同島に基地を置くことを阻止する狙いがあった。要確認「ヒトラー自身がメルクール作戦をやった」という表現については、作戦の発案・推進はクルト・シュトゥデントら空軍側の主導で、ヒトラーは当初消極的だったとする記述が一般的であり、帰属の粒度が異なる。
戦後の構図として、ユーゴスラビア(現在のクロアチア、セルビアなど)とブルガリアが共産圏であり、ギリシャはその国境線上にあった。したがってギリシャの役割は共産陣営を海に出させない防波堤だった、という説明が置かれた。この視点は、後半のロシアの不凍港問題ともつながっている。
渡辺氏はここで、われわれが思っている土地の近さより、海がつながっているかどうかのほうが歴史的に重要だ、と補足した。土地がいかに近くても、水路がつながっていればそれはハイウェイである。10世紀から12世紀の段階で、ゲルマン民族は北海から地中海まで入り込んで自分たちの国を作っていた。今から1000年前の話である。陸路より水路のほうがはるかに楽だからこそ、産業も工業化もすべて水路に沿って進んだ。
さらに、東西の分割線がここにあったことの帰結として、全く違う文化・全く違う攻撃形態が生まれ、統一が阻まれた。共産圏がなぜこの地域に生まれたのかという問いも、産業的に発達しづらかった地域であり、ドイツとロシアの緩衝地帯であり続けたという条件から説明できる、と補足された。
マイキー氏の問いかけ——「YouTubeで何度も言っている、押さえておいたほうがいい中国の海運グループの名前を覚えていますか」——に対し、参加者から「CKハチソン」(これはパナマ)、続いて「COSCO(コスコ)」という正解が出た。ログインクを扱った回、ペルーのチャンカイ港買収を扱った回でも登場したグループである。
時系列は明快である。リーマンショック後、ギリシャは事実上の財政破綻に陥り、ドイツからの支援と引き換えに国有資産の売却を迫られた。そこにCOSCOが入る。
| 時期 | 出来事 | 意味 |
|---|---|---|
| 2008年 | ピレウス港コンテナ埠頭(第2埠頭の運営と第3埠頭の建設)について35年間のコンセッションを獲得 | まず「運営権」だけを取る。所有権には手を出さない |
| 2016年 | 民営化案件として港湾公社(PPA)株式の51%を取得 | 運営から経営へ。港全体の管理・運営権を握る |
| 2021年 | ギリシャ側が追加16%を譲渡し、持株比率67%へ | 支配権の確定。以後は少数株主の同意を要しない |
図:COSCOによるピレウス港湾公社(PPA)持株比率の推移。2008年時点は株式ではなくコンテナ埠頭の35年コンセッションであるため0%として表示している。出典:公開報道をもとにClaude作図。
講義で語られた「2008年に35年の営業権」「2016年に51%」「2021年に16%を追加して支配権」という三段階は、公開報道と一致する。2016年の51%取得は約2億8000万ユーロで、5年間で約2億9400万ユーロの投資義務を果たすことを条件に追加16%を取得する契約になっており、2021年にギリシャの民営化機関がその16%分の株式を移転して合計67%となった。つまり追加取得は交渉の結果というより、2016年契約に組み込まれていた履行条項である。ここは講義よりもさらに構造的な話で、最初の契約の時点で67%までの道筋が設計されていたことになる。
この回で最も再利用価値が高いのが、ここからの展開である。マイキー氏は「港を押さえるだけでは意味がない」と切り出した。港の先にある内陸への物流を取らなければ、港は単なる荷揚げ場所で終わる。
そこで登場するのがオーシャン・レイル・ロジスティクス(COSCOグループの子会社)である。ルートは、ギリシャのピレウスからスコピエ(北マケドニア)、ベオグラード(セルビア)、ブダペスト(ハンガリー)を経てウィーン(オーストリア)まで。この鉄道会社を買収している、という説明だった。
ここは発言と公開情報でニュアンスが食い違うため、そのまま記録する。オーシャン・レイル・ロジスティクス(2017年設立、COSCO傘下)が実際に取得したのは、ピレウス港のギリシャ鉄道会社 PEARL S.A. の60%持分(2019年)と、ブダペストのRail Cargo Terminal-BILKの15%持分(2019年、オーストリアのRail Cargo Group傘下)である。つまり買ったのは路線そのものではなく、両端のターミナル運営会社の持分であり、その間はスコピエ、ベオグラード、ブダペスト、ブラチスラバ、ドナイスカー・ストレダ(スロバキア)、エンス(オーストリア)の各ターミナルを結ぶサービス網として構成されている。「回廊の路線を買った」のではなく「回廊の両端と結節点に持分を置いた」というのが正確な形である。効果としては講師の説明と方向が同じだが、投資規模と可逆性はかなり異なる。
また、ベオグラード〜ブダペスト間の高速鉄道そのものは中国鉄路国際などの中国企業連合が請け負った建設案件で、COSCOの買収案件ではない。この路線は2026年2月27日に貨物列車の運行開始という形で開通したが、旅客営業は列車制御システムのソフトウェア不備が解消されず、ハンガリー側の発表では2026年9月以降にずれ込んでいる。講義は2026年1月時点のもので、この開通と遅延はその後の出来事である。
次に押さえに行っているのがエネルギーと通信だ、というのがマイキー氏の説明である。中国最大の電力会社SGCC(国家電網)がギリシャの送電会社の株式を取得し、さらにブルガリアやセルビアの送電網会社の買収へ進んでいる、と。加えて、中国が強い再生可能エネルギーを大量に輸出している。
SGCC(国家電網公司)は、ギリシャの送電系統運用者ADMIE(IPTO)の株式24%を約3億2000万ユーロで取得している(2016年12月承認、2017年完了)。現在の株主構成はギリシャ国家が持株会社経由で51%、DES ADMIEが25%、中国国家電網の欧州子会社が24%である。2015年の支援合意でPPC(公営電力)がADMIEの少数持分を売却するか送電網を完全民営化するかを2017年までに行う義務を負ったことが直接の背景で、財政危機が入口になった点は港と同じ構図である。要確認一方、SGCCがブルガリアやセルビアの送電網会社を買収したという事実は確認できなかった。この部分は発言と公開情報が一致しないため、そのまま食い違いとして記録する。
そして通信である。ギリシャで5Gの契約が大量に取られている、と説明された。ただしこの点については講義の後半で自己修正が入っており、ギリシャは米国の圧力を受けて5Gから中国製機器を排除する方向に動いている、と述べられている。ここは講師自身が「今の段階では」と留保をつけている箇所である。
米国の対抗軸としてマイキー氏が挙げたのがエレフシナ港である。米国が出資しており、ピレウスとの距離はわずか20km。同じ湾内に二つの大きな港が向かい合う状態になっている、と。
米国側の勝負手はエネルギーだった。電力ではすでに中国が持分を持っている以上、米国はガス会社を押さえに行っている。LNGである。ギリシャが米国産LNGを20年間買い取る契約も決まっている、という説明があった。加えてエレフシナ港自体を民営化して資金調達するところまで決まっており、米国側の港湾関連の資金調達案件が今後市場に増えてくるだろう、と。
エレフシナ:米国の開発金融機関DFC(国際開発金融公社)が2023年、ONEX社のエレフシナ造船所近代化に1億2500万ドルの債券融資を承認している。DFCはこれにより年間最大200隻の船舶に対応可能になるとし、地中海における重要なエネルギー供給拠点の確立を目的に挙げた。その後、造船所周辺に約400エーカーを加えて港湾・商業・輸送・エネルギー・防衛の複合拠点とし、隣接するトリアシオ貨物センターと組み合わせてピレウスの代替とする構想が報じられている。「ピレウスの対抗軸としての米国の足場」という講師の説明は、報道の枠組みと一致する。
LNG 20年契約:米ベンチャー・グローバルとギリシャのAtlantic-SEE LNG Trade(AKTOR 60%/DEPA Commercial 40%の合弁、2025年11月設立)が、2030年開始・20年間の長期売買契約を締結している。当初は年間50万トン以上、2026年6月に年間100万トンへ倍増した。ギリシャにとって初の米国企業との長期LNG供給契約であり、アレクサンドルポリのLNG受入基地の再ガス化能力の約4分の1をベンチャー・グローバルが押さえている。輸入したLNGは「垂直回廊」を通じて中東欧へ配送する構想である。講義の「20年間の買い取りが決まっている」は正確だが、開始は2030年であり、まだ供給が始まっているわけではない。
マイキー氏の評価は率直だった。ギリシャは「小汚い」、中国からも金を出させ、アメリカからも金を出させて資本を集めている、と。ただし現時点ではアメリカ寄りである。理由は、ウクライナ戦争でギリシャが徹底的に支援側に回った際、ロシアの背後に中国がいることを理解しているからだ、と説明された。
参加者からの「各国はどちらに付くのか、駆け引きがあるのか」という質問に対し、最終的な決定権はEUが持っているとしたうえで、マイキー氏は動向として見るべき3点を挙げた。
| 観測点 | 内容 |
|---|---|
| エーゲ海の軍事化 | 2026年以降、海軍の優位性を取り戻す動きがヨーロッパ支援で始まる(講師予測) |
| 鉄道回廊の完成 | ブダペスト〜ベオグラード〜ウィーン。ヨーロッパがどこまで許容するか |
| エネルギーのハブ争い | 電力(中国側)とガス/LNG(米国側)のどちらが地域の動力源になるか |
講義では「ギリシャのゴールデンビザの7割が中国人」と述べられた。公開データと照合すると、中国籍の取得者が最大グループであることは一貫しているが、比率は時点で大きく異なる。2026年前半の集計では、現行の主たる投資者許可のうち中国籍が約48%(11,921件)で最大だが、過去のピーク時の70%超からは低下している。一方、更新(更新許可)に限れば中国籍が65.6%を占める。「7割」はピーク時または更新ベースの数字としては近く、現在の新規・全体ベースでは約5割である。発言を書き換えず、時点と分母の違いとして記録する。なお、中国人流入をめぐってストライキが起きているという発言については、個別の事実を特定できなかった。要確認
参加者から本質的な質問が出た。国やEUが決めることではあるにせよ、民間人からすれば便利なインフラのほうに流れるのではないか、そうはならないのか、と。
マイキー氏の回答は、この日の前半の議論を地政学に接続するものだった。金の力で押し切るのか、制度で守り抜くのか、という違いなのだ、と。仮にEUが「ヨーロッパの鉄道しか使ってはいけない」というルールを作ったとする。多くの人はルールを守る。しかし「中国の鉄道のほうが便利だから使う」という者が現れる。それが「一抜けた」である。安いか速いかで優位があるなら、結果としてルールを破った側が勝つ。
ここで日本人の気質が対比された。「ルールで決められたから中国のものは使わないでおこう」で止まってしまうタイプである、と。参加者の一人は「相手を潰したいですから、多少触れたとしてもやりますけどね」と応じ、日本の現状はルールに絶対に触れようとしない、という認識で一致した。ルールを守ることが正当性だからである。
最後にマイキー氏は、地政学が企業戦略にまで落ちていることを指摘した。地中海の島国として有名なマルタやキプロスに、BYDが入っている。ヨーロッパ本土に先行するのではなく、地中海を先に押さえに行っている。中国企業は「売れたらいいな」ではなく、地理まで考えたうえで戦略を立てている、と。
要確認BYDがマルタ・キプロスに進出していること、およびそれが「ヨーロッパ本土に先行する意図的な地中海戦略」であることについて、本レポートの調査範囲では裏付けとなる公開情報を特定できなかった。BYDが欧州で販売網を広げていること自体は広く報じられているが、地中海の島嶼国を優先したという戦略的意図の記述は確認できていない。裏取りできていないため、講師の見立てとして記録するにとどめる。