導入の雑談――「Is this my pen?」問題
本題に入る前、前田氏とマイキー氏のあいだで交わされた雑談が、この回全体の伏線になっている。前田氏は最近の会話を聞いていて「多くの人がいろいろな物語に触れていない」という感覚があると述べた。言葉が単発で、思いつきで、陳腐である。中学2年生までの英語の教科書に載っている文章程度のものしか作れていないのではないか、と。
マイキー氏はこれを引き取って「ほとんどの人が喋る内容は、中学2年までの英語の短文をそのまま横並びさせているだけだ」と評した。そして伝説の "Is this my pen?"——「このペンは私のものですか?」という、記憶喪失としか思えない例文がいつか現実に出てくるのではないか、と冗談めかして言う。海外で "Is this my pen?" と言ったことのある人などいない。それぐらい奇妙な表現方法をしている人を多数見かける、という指摘である。
会話の中で、その現代版はすでに出ているという指摘があった。「この認識で合っていますか?」である。あなたのペンかどうかをあなたが知らないなら、こちらが知るはずがない——という構造がまったく同じだ、と。言葉を簡単にすることと表現を豊かにすることは別であり、細かいことをたくさん喋れば表現が豊かだと思い込んでいる人が多いが、それは単に単語を並べているだけだ、という整理で締められた。
この雑談が示しているのは、文章になっていない発話が増えているという観察であり、その原因として「物語に触れていない」ことが疑われている、という仮説である。本レポートの最終節(PART 7)で、この論点は『ちいかわ』論とはっきり接続する。
ちいかわは「出口が消えた世界」を描いている
この回でマイキー氏は、メディア取材のために『ちいかわ』を社会学的に分析するという依頼を受け、2日間で映画とアニメ約200話を視聴した結果を共有した。結論から述べられた評価は「この国は終わったと思った」である。作品そのものが面白くないという意味ではない。この作品に強い共感が集まっているという事実のほうが問題だ、という趣旨である。
分析の軸は3点測量だった。第一の比較対象は1997年のアメリカで爆発的に流行した『サウスパーク』。冷戦終結で外的が消えたアメリカが内部の道徳・マナー・表現規制へ向かった時代に、その建前と偽善を全方位から笑い飛ばすカウンターカルチャーとして機能した。能動的に動けというメッセージが強く込められた作品である。
第二の比較対象は『鬼滅の刃』。個人の力ではどうしようもない機械的な社会システムが構築され、真面目に生きるほど報われない構造の中で、損得勘定を超えて他人を守る炭治郎という「まともな人間」を描いた。マイキー氏は、そんなものに憧れを抱く時点で人間性は既に終わっているとしつつ、それでも倫理的な希望だけは残っていたと評価する。
そして『ちいかわ』は、その希望さえ手放した世界として位置づけられた。社会構造への疑問も申し立ても存在せず、キャラクターの多くは言葉を発しない。自分のレベルに合った敵としか戦わず、背伸びをしない。理不尽なモンスターは日々変化する課題のメタファーだが、それは無視してよいことになっている。残されているのは互いに慰め合い、痛み止めを打ち合う共感だけである。
70〜80年代の日本のアニメは「何が自分を補完するのか」を探す装置だった。ドラえもんの道具があればのび太はこうなれる——その補完の想像が、現状を打破するための出口として機能していた。『ちいかわ』が表現しているのは、その出口が消えたという事実である。そして渡辺氏が指摘したように、それは対話的理性が失敗した社会への、沈黙という形をとった抗議でもある。
- 『映画ちいかわ』:公開3日間で興収22.4億円、公開31日間で110億円突破。配給は東宝。講義中の「100億円突破」「110億円らしい」という2つの発言は、いずれも報道時点の違いによるものでどちらも正しい。
- 原作・放送形態:ナガノ氏の作品で、2020年よりX(旧Twitter)連載が起点。アニメは2022年4月からフジテレビ『めざましテレビ』内で放送開始し、後に週2回へ拡大。会場から出た「フジテレビの朝番組で毎週流していた」「元々TwitterとXで流行った」という発言はいずれも正確。
- 『鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』:国内興行収入約402億円、全世界累計動員9,852万人、総興行収入1,179億円で邦画歴代1位。
- 『サウスパーク』:1997年8月13日、米コメディ・セントラルで放送開始。ビル・クリントン政権期にあたる。講義の「1997年」「クリントン大統領」はいずれも正確。
ちいかわの世界設定――背伸びをしない戦い方
マイキー氏の第一の所感は、この作品が大衆文化の変容を示す現代日本社会の精神的な病として読めるというものだった。可愛いキャラクターが入口にあり、その内部では死・暴力・悲劇・生存競争という大人が直面する現実的な問題が扱われている。制作者について「頭がおかしいのか頭がいいのかわからないが、よくこれを表現した」という評価も添えられた。
世界設定はこうである。草むしりや討伐といった仕事があり、草むしり5級・4級・3級といった資格試験が存在する。草むしりは報酬が非常に安く、討伐は高い。つまり資格試験に受かるか受からないかで給料が決まる労働管理社会である。討伐対象のモンスターは理不尽に出現するが、マイキー氏はこれを「日々変化する課題」のメタファーとして読んだ。
日々出てくる課題(モンスター)は無視してよい。自分に合ったものを選んでください、自分のレベルに合わせて戦ってください、という設定になっている。だからほぼ全員が弱い。背伸びをしない。自分にあった敵とだけ戦い、自分のできることだけをやる。草むしりは毎日やれば給料が出るが、モンスターを倒さない限り報酬は上がらない——それでも多くが草むしりに留まる。
そして本作が放棄しているものとして挙げられたのが、社会構造に対する異議申し立てである。政府に文句を言う、企業に文句を言う、社会システムへの不満を表明する——そうした要素を全て放棄したアニメだ、というのがマイキー氏の規定だった。渡辺氏もこれに同意し、この世界は明確に描写されず、登場人物が感じている世界・行動から推し量られる世界であるため全体把握ができないという絶望感が間接的に表現されている、と補足した。しかも戦っているモンスターは本来の自分たちの仲間であり、戦わされているとも読める、と。
コミュニケーションの様式についても指摘があった。主人公のちいかわは言葉を話せず、ハチワレがほとんどを読み取って代弁する。「察して」という状態が常態化しており、言葉になっていない。ハチワレは成長していくが、ちいかわは最も簡単な草むしり検定にさえ受からない。自分が何をしたいかをアウトプットできず、結果として周りの人がやってくれる——救いようのない構造だ、という評価である。
サウスパークとの比較――外敵の消滅と内部統制への反発
比較対象として最初に置かれたのが『サウスパーク』である。1997年にアメリカで大ヒットしたこの作品は、社会や秩序に対するアイロニーを次々に打ち出し、社会のイデオロギー的なものに猛烈に反発するアニメだった。なぜこれがアメリカ人に深く刺さったのか。マイキー氏の説明はこうである。
当時はクリントン政権期。ソ連が崩壊して冷戦が終わり、アメリカは唯一の覇権国となった。ドットコム・バブルの前段階で、社会は謳歌の状態にある。自分たちの生存を脅かす外敵がいなくなったのである。では社会の目はどこへ向かうか。内部である。国内の道徳、マナー、言葉遣いといった規律に強く向かった時代だった。差別や偏見をなくす、子どもを有害なコンテンツから守る——テレビ・映画・学校教育で年齢制限区分(PG-13など)が細かく作られていったのがこの時期である。
世界は狂っているが、その元凶を暴き、笑い飛ばし、回復していこうという攻撃的ベクトル。右寄りも左寄りもなく全方位を攻撃し、ブラックユーモアで笑いを取りながら「解体しよう」というエネルギーを集めた。能動的に動けというメッセージが強い。
世界は理不尽で自分たちではどうしようもないから、互いに褒め合い慰め合って生きていこうという受容のベクトル。苦しいのはお前だけじゃない、自分も苦しいという共感で、すり減った神経に痛み止めを効かせる。心のセラピーとして機能している。
両者の共通点は入口の設計にある。サウスパークもちいかわも、外側は取っつきやすい絵柄でありながら、内部では死・暴力・悲劇・生存競争という大人の現実を扱う。主人公は巨大でコントロール不可能な世界の外に追いやられた無力な弱者である。その状況に対してどう反応するか——ここで両者は決定的に分かれる。サウスパークは「ふざけるなお前ら」と言い、ちいかわは怯えて泣きながら友達と身を寄せ合い、どう耐えるかを考える。
サウスパークは1997年8月13日にコメディ・セントラルで放送開始。冷戦終結(1991年)後の一極支配期、ドットコム・バブル(1995〜2000年)の入口にあたる。当時のアメリカではV-chip搭載を義務づけた1996年電気通信法を受け、1997年からTVパレンタル・ガイドライン(TV-Y/TV-PG/TV-14/TV-MAなど)の運用が始まっており、「テレビの年齢区分が細かく作られた時期」という講義の指摘は時系列的に正確である。同作は放送開始直後から保護者団体や保守系メディアからの強い批判を受けたことでも知られる。
出典:https://www.pastemagazine.com/tv/south-park/comedy-central-2 / https://www.imdb.com/title/tt0121955/鬼滅の刃との比較――倫理的希望が残っていた最後の作品
ちいかわの直前に流行したのが『鬼滅の刃』であり、この順序に日本人の心理状況が表れている、というのがマイキー氏の見立てだった。鬼滅の刃の構図はこうである。個人の力ではどうしようもないほど機械的な社会システムが構築されていて、真面目に生きるほど報われない構造になっている。だから損得勘定で動く人間が急増する。その中で損得勘定なしに動く人間を評価するという社会評価が成立した。
その中心にいるのが炭治郎である。とんでもなく真っ当な人間であり、どんなに理不尽なことがあっても自分の利益や損得を超えて他人を守る。マイキー氏は「そんなものに憧れを抱く時点で、人間は損得でしか動いていないということであり、日本人の人間性自体が終わっている」と厳しく評価しつつ、それでもいくら理不尽で壊せない社会であっても向かい続けるという倫理的な希望は残っていた、そこが鬼滅の刃が人を引きつけた理由だ、と位置づけた。
そしてその希望さえなくなったのが『ちいかわ』である。社会システムがガチガチに固められ、閉塞感があり、今後何をしていいかもわからない。今後必要なスキルと言われても、それを身につける労力も能力も時間もない。麻痺しきった状態であり、他者と戦うエネルギーが残っていない。だからお互いに慰め合おう、鎮痛剤を打ち合おう——というのが中身だ、という結論である。
出口の喪失――70年代アニメの「補完」装置
ここで前田氏が別の補助線を引いた。最近の日本の作品と70年代の日本の作品では、ヒットの条件がまったく変わっているという指摘である。かつてヒットした作品の核にあったのは「何が自分を補完するのか」だった。自分というキャラクターにこれが加われば、自分はこういう人間になれるかもしれない——ドラえもんの道具がもっともわかりやすい。道具があることによってのび太がこうなれる、という変化の想像である。
新しい武器を手に入れることで自分が補完される、その何かを探ること自体が精神的な安定装置として働いていた。そして補完とは、今の自分の現状を打破するための出口である。ちいかわが表現しているのは、その出口がなくなったという事実だ、というのがマイキー氏の整理だった。
渡辺氏はこれをさらに精緻化した。足りないものに対してどういう努力ができるのか、どういったことが社会に用意されているのか——そういう希望を補正するための装置としてコンテンツは働く。ビルドゥングスロマン(教養小説)はまさにそれであり、そこには評価体制がしっかりと存在する場所がある。アニメの中にも報酬と代償があった。それが消えてしまっているのだ、と。
マイキー氏が気持ち悪さの根拠として挙げたのは、社会構造の説明が一切ないことである。社会構造がおかしいと思うなら、まず社会構造の勉強から始めるのが普通だ。点ではなく全体を見たうえで、何が間違っていてなぜこの政策になっているのかを考える。ところが『ちいかわ』の世界では、誰も社会構造を理解しないまま、自分のできることだけをやっている。構造を理解しなければ、そもそも反発という行為が成立しない。鬼滅の刃には社会構造がしっかり作られていた——その差が決定的だ、という主張である。
さらに指摘されたのが、嫌だというものを嫌だと言えない世界である、という点だった。ちいかわは言葉を発せず、ハチワレがいなければそもそも成立しない。ぶつぶつと文句は言うが、いざ主張してみろと言われると何も言えない——これがまさに今の社会そのものだ、という接続がなされた。
渡辺氏の対抗仮説――沈黙という形の抗議
ここで渡辺氏が異なる視点を提示した。『ちいかわ』は『鬼滅の刃』に対して1つのメッセージを発しているのではないか、というものである。社会に対する自己変革が社会の原動力として通用するという前提が、実際には失敗しているという事実がある。かつて対話によって問題を顕在化し、一つひとつに対して合意形成を試みた時代があった。しかし実際に起こったのは、対話的理性の失敗だった。
つまり『ちいかわ』の沈黙は、対話がディスオーガナイズされた社会に対する抗議としても受け取れる。科学的議論や倫理的議論がコミュニケーションとして通用すると期待された時代があり、それに対して一気に「仕分け」の世代が来る。実際に対話的理性を発揮して議論したところで何も変わらなかったし、むしろさらなる格差を生み、喋れる人と喋れない人の差を加速させてしまった。しかも喋れる人がロジックで押し切ることで対話を閉ざしてしまう。対話は開かれているように見えて実は特権化されていたのではないか——その抗議がこの現象を加速させたように思う、という論である。
マイキー氏自身も、プラスに取るならば1点だけあると認めている。ちいかわたちは成長への諦めだけは持っていない。先生に相談してどうやって強いモンスターを倒すかを考え、毎回失敗しながらも草むしり検定を受け続けている。渡辺氏はこれを「決壊しないための静穏を保つ自己防衛の世界」であり、同時に「対話を回復してくれる誰かがいるのではないかと待っている状態」だと表現した。
関連して、1996年ごろの宮台真司の議論——オウム事件後の『終わりなき日常を生きろ』——との近似も会場から提起された。マイキー氏は、宮台氏自身がその後意見を変えている点を指摘したうえで、宮台氏の現在の主張として「損得勘定で生きる人間はクズであり、日本中がそのクズで固まっている」「クズは文句ばかり言って何もしない」「クズは損得勘定で動かない人間を叩くが、本心では自分もそうなりたいと思っている」——そうしたものが今のアニメーションに現れている、という整理を紹介した。
言及された『終わりなき日常を生きろ ――オウム完全克服マニュアル』の刊行は1995年7月(筑摩書房)である。地下鉄サリン事件(1995年3月)の直後にあたる。会場発言の「96年ぐらい」は1年ずれている。同書は「終わりなき日常」を耐え抜くための「まったり革命」を提唱した著作として知られ、後に宮台氏自身がその立場を修正していったことも指摘されている通りである。
出典:https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480857200/ / https://ndlsearch.ndl.go.jp/en/books/R100000002-I000002434210渡辺氏はさらに、社会学的な解として何を提示するかという問いを立てた。私たちがそのような(戦うための)武器をどのようにして取り戻すか、あるいは「弱さを武器にする」とはどういう戦いになるのか。強さへの憧れではなく、弱さそのものをどう扱うかという提案になるのではないか、と。
会場からの別視点――昔話の引用と海外での受容
会場からは、映画版の設計に別の読み方があるという指摘が出た。ギリシャ神話の精錬のモチーフ、日本の昔話における「人魚の肉を食べて不老長寿を得た」という八百比丘尼伝説、そしてアダムとイブ——リンゴを食べる展開と、最後の一葉・二葉というキャラクター名がアダムとイブを表現しているのではないか、という読解である。親子の会話をつなげるクッション剤としては優秀ではないか、と。
マイキー氏はこれに対し、子どもは深く見ておらず「可愛いな」で見ているのだから、子どもには可愛いなと言わせておけばよい、問題は大人が共感してしまっている時点にある、と応じた。また、大人を囲い込む仕掛けとして、アニメの最初の20話が昔の駄菓子屋のお菓子ばかり使っていた点を「うまい」と評価している。
映画のラストについては、本来突き止めなければならなかったことがあったのに、アウトプットができないため最終的な問題を解決せずに終わる、という点が「気分が悪い」と評された。伏線については、多くの映画では観客が回収できずに終わるところ、この作品は誰でも回収できるように作られている。簡単なものに寄りついてそこに共感を得るという構造が、いま日本で最も流行っているアニメになっている——という評価である。マイキー氏はエンディングの後味を「フランス映画ぐらい気持ち悪い」と表現した。
- 八百比丘尼(やおびくに)伝説:人魚の肉を食べたことで不老長寿を得た女性の伝説。若狭国(現・福井県)に伝わるものが有名。会場発言で挙げられた「人魚を食べて永遠の命を得た昔話」はこれを指すと考えられる。
- アダムとイブ:旧約聖書『創世記』。禁断の果実(一般にリンゴとして描かれる)を食べて楽園を追われる。
- これらのモチーフ解釈は会場参加者による読解であり、公式に明かされた設定ではない。要確認
海外での受容についても言及があった。台湾や香港でも流行しているという情報に対し、マイキー氏は海外で流行る理由は各国で異なると応じた。エヴァンゲリオンもそうであり、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の捉え方も国ごとに違う。ただし日本で流行るアニメは海外でも流行るという伝播的な性質はあるだろう、とも述べている。もしそうでなければ『もののけ姫』が海外であそこまで流行るはずがない、外国人にもののけ姫の要素がわかるはずがない、という例が添えられた。
物語とストーリーテリング――PART 0への回帰
議論の最後、冒頭の雑談が回収された。前田氏は「みんな物語を知らない」という話を改めて展開する。多くの人は文章が作れていない。なぜ文章が作れないのかを考えると、文章に触れていない=物語を見ていないのではないか。物語を理解するには文章が理解できなければならない。そして言葉の力がわかってくると、自然に自分が「読む」という作業に入る。何が自分に響いたのかを分析するようになる、と。
マイキー氏はこれを受けて、ストーリーテリングは物語がわからなければできるはずがない、と述べた。プレゼンテーションの合宿でも同じで、伝えるときの溝はここにあるのではないか。次回のプレゼン合宿は映画鑑賞会から始めないと始まらないのではないか、という提案がなされ、鑑賞後に感想文を書いてもらう形式が検討された。
物語とは、現象と自己を結びつける言語化である。だから言語があっても、それが自分のものとして吸いつかず、自分を表現しているという納得も生まれない。説明されたことが全部滑ってしまう。物語で自己把握する、客観視する——そこには大事な要素がある。その訓練がないと、自分に似てきたものにしか共感できない状態になる。本来は自分に似ていないものに自分を見出すという能動的な力(同一化・投影)が文学の力なのだが、いまは作品のほうが受け手に寄ってきている。だから楽なのだ、と。
本来は私たちが作品に寄せなければならない。自分と異質な世界に自分から寄り添い、この世界が自分の世界であると認識できるようになる——それが本来の同一化であり自己認識能力である。しかしそれすら奪われて、作品のほうが受け手の感受性や現状に寄り添ってしまうと、その能力まで奪われることになる。結果として、自分の顔と感情が見えていない状況になる、という指摘だった。
エキスポの応援論――セットアップという概念
同じ回で、マイキー氏は参加者に対して強い問題提起を行った。プレゼンの勉強会でZoomが「死んでいた」——誰も発言せず、質問も出てこなかった——という報告を受けてのものである。
提起の形はこうだった。学生時代の部活で、自分が試合に出る立場ではなく補欠だった場合、ベンチで何をするか。応援する。準備を手伝う。相手チームを偵察する。クラスメイトのピアノの発表会でも、その人が高い評価を得られるよう、どうやって鼓舞するかを考える。今回のエキスポでプレゼンする人はレギュラーメンバーである。彼らがアウェイで初めて戦いに行こうとしているときに、その配慮はないのか、と。
場を盛り上げてくれる人。話しやすい環境を作ってあげること。大きくリアクションすること。これらがそのままスピーカーを鼓舞することにつながる。スピーカーはプロではない。練習の段階でそれをやらずに本番でできるはずがない。プレゼンテーションはプレゼンターだけのものではなく、セットアップで決まる——そして多くの人は、自分がそのセットアップの中に入っているという意識を持っていないのではないか、というのが指摘の核心である。
「桜」の役割についても説明があった。プレゼンではまずお客さんに火をつけ、それを広めることが重要になる。広い方向へ闇雲にやるのではなく、この人に伝えたいということをしっかり伝えて、そこから広める。ただし周りが温まっている状態と冷えている状態では、どちらが火がつきやすいか。周りを温める役割が「桜」である。周りが温まった状態でさらに熱を加えれば、必然的に火はつきやすくなる。
結論として、J.J.エイブラムス氏のイベントについてはチケットを相当数用意できる見込みだが、何もしない人を呼ぶ気は一切ないと明言された。2万円、3万円、中には5万円・10万円を払って来る人がいる中での招待枠であり、応援に来てほしい、という条件付きである。フィードバックを出しているのが常に一部の人だけという現状に対して、視聴者目線でもいいから、自分ごととしてフィードバックを上げればその人のためになるはずだ、という要求が添えられた。
質疑応答・会場とのやりとり
宿題・アクションアイテム
- 『ダークナイト』を視聴する(マイキー氏のYouTube解説動画を先に見てから本編を見ること)。
- 『進撃の巨人』を視聴する(物語構造・作り込みの教材として)。
- 『ちいかわ』のアニメおよび映画を視聴し、共感できるか/できないかを自分で確認する。見たことがない人は「共感性が持てるかどうか」だけを判定軸にする。
- 次回のプレゼン合宿に向けて、映画鑑賞会+感想文(アウトプット)の形式が検討されている。鑑賞した作品について、何が自分に響いたのかを分析して言語化する訓練を始める。
- 8月27日(木)にフリアン氏の催し、28日(金)からエキスポ。参加者はスピーカーが話しやすいよう場を作ること。要確認(日程・主催者名は当日案内で確認)
- J.J.エイブラムス氏のイベント招待枠は「盛り上げてくれる人」限定。案内リンクが後日共有される予定。
- 登壇者に対して、視聴者目線でよいので自分ごととしてフィードバックを出す習慣をつける。