前半の哲学セッションが終わったあと、マイキー氏は画面を共有して財務指標の講義に入った。冒頭に置かれた前提はこうである。指標とは企業の能力を測るための物差しであり、その頂点に立つ考え方は「企業のオーナーは投資家であり、企業の役割はどれだけ投資家に還元するか」という資本主義の基本形である。その頂点に置かれる指標がTSR(Total Shareholder Return、株主総利回り)だ。
TSRの計算は単純である。1000円で買った株が1年後に1050円になり、配当が20円出た。値上がり50円と配当20円で、TSRは7%になる。ではこの7%をどうするか。増えた分を再投資すれば複利で雪だるま式に増える――これがTSRが提示するシナリオである。マイキー氏はここに致命的な論理破綻があると指摘した。全員が再投資できるのか。答えは否である。 企業をバスに、株主を乗客に喩えると、バスが乗客に現金を渡す行為が配当である。ではその現金でバスの座席を増やせるか。座席数は決まっている。株式の発行部数も決まっている。多少の買い戻しはあっても、全員が座席を買い戻すことは原理的にできない。
この点を実証的に突いた研究があるとして、マイキー氏はASR(Aggregate Shareholder Return、総株主リターン)を紹介した。再投資先に流れないぶんが一定数あると仮定して妥当に計算し直すと、TSRが示すよりも実際のリターンは低い。したがってTSRは架空のボーナスを取り込んだ過大評価された指標であり、市場を勘違いさせるものだ、という結論である。そしてこれはTSRに限らず、EBITDAもPBRもPERも全部そうだ、と付け加えた。
後半の主役はCOSR(Core Operating Shareholder Return)である。TSRは三つのエンジン――①事業活動(オペレーション)、②市場環境(運)、③資本政策・ファイナンス――が混ざった数字である。私たちが本当に知りたいのは①だけだ。ならば②と③を排除して①だけを取り出せばいい。それがCOSRの発想であり、マイキー氏の言葉を借りれば「経営者を裸にする」指標である。TSRとCOSRを両方算出して四象限に置けば、見せかけの優良企業と過小評価された掘り出し物を選り分けられる。マイキー氏はこの枠組みで、AppleはTSRが極めて高いのにCOSRが高くない、IBMやNVIDIAは両方高い、という見立てを示した。
「指標というものは全て、それを作った人・提示する側に有利に働くように作られている」。だから常に因数分解をしろ、というのがこのセッションの一貫した主張である。数字をそのまま使う人はアナリストではなく評論家であり、日本の自称アナリストの多くは計算結果をそのまま読み上げているだけだ、という辛辣な評価が添えられた。指標に穴がないのではなく、穴を化粧とパーセンテージで隠しているだけだという見方が、この回の出発点であり結論でもある。
マイキー氏はまず、PSR・PBR・PER・ROE・ROICといった指標を並べたうえで、これらが「非常に分かりやすく説明するもの」だと位置づけた。そしてその体系の頂点に立つのがTSRであると述べ、参加者に「TSRを知っている人は手を挙げてください」と問いかけている。
TSR(Total Shareholder Return、株主総利回り)とは、キャピタルゲインとインカムゲインを組み合わせて、測定期間でどれだけリターンを出したかを示す指標である。マイキー氏は具体例を置いた。
| 項目 | 金額・計算 |
|---|---|
| 購入時の株価 | 1,000円 |
| 1年後の株価 | 1,050円(キャピタルゲイン = 50円) |
| 受け取った配当金 | 20円(インカムゲイン) |
| TSR | (50円+20円)÷1,000円 = 7% |
ここでマイキー氏は参加者に問う。この数字がめっちゃ良かったら、どうするか。欲しくなる。欲しくなるということは、短期的には株価を押し上げるということである。皆が殺到して株価が上がる。しかし長期的には、これが企業本来の力を奪う可能性があると捉えられる、というのがこの講義の入口だった。
7%のリターンが入ったら、増えた分を再投資する人がいる。再投資すれば複利になる。マイキー氏はここで「アインシュタインが人類最大の発明は複利であると言ったように」と付け加えたうえで、配当が増えた分を再投資すれば雪だるま式に増え、長期的に利益が膨れ上がるというシミュレーションが成立する、と説明した。
この言い回しは投資関連の文献で頻繁に引かれるが、アインシュタイン本人の発言であるという一次資料は確認できない。引用の追跡を行った複数の検証記事によれば、一次ソースを示している記事は一つもなく、すべて又聞きに依拠している。初出はアインシュタインの没後28年にあたる1983年のニューヨーク・タイムズ紙という説がある。「世界の8番目の不思議と呼んだ」という別バージョンも流通しているが、こちらも出典は確認できない。誤帰属の典型例として扱うのが妥当である要確認。なお、複利の数学的性質そのものは事実であり、この補足は帰属先についてのみの指摘である。
マイキー氏はここで論理破綻を示す。企業をバス、株主を乗客と考える。バスが乗客に現金を渡す行為が配当である。では、その現金を使ってバスの座席(=株式)を増やせるのか。答えは否である。バスには座席数が決まっているのと同じように、株式の発行部数も決まっている。少しくらい座席を増やす(自社株買いで減らす、または増資で増やす)ことはあっても、全員が座席を買い戻すことはできない。
ところがTSRの計算方式は、配当金もその会社の成長率も同じ利回りで増え続けるという仮定のもとに作られている。全員が再投資できるという前提が置かれ、その前提のうえで「これだけ増えますよ」というバラ色のシナリオが提示される。これがTSRである、というのがマイキー氏の指摘だった。
この前提を否定した研究者たちがいる、とマイキー氏は言う。文字起こしでは大学名が判読しづらいが、文脈からハーバードの研究を指していると解される。そこから出てきたのがASR(Aggregate Shareholder Return、総株主リターン)という考え方である。
ASRの発想は、配当や自社株買いで受け取った現金を、現実には全員が株式に再投資するわけではない、という点にある。再投資先に流れない資金が一定数あるという仮定を立て、それを妥当に計算した場合にどれだけの差が生まれるのかを検証する。マイキー氏の説明では、この検証は過去20年間のデータで行われ、結果としてTSRが示すよりも実際のリターンは20%から260%低かった、という数字が示された。
ASR(Aggregate Shareholder Return)は、ハーバード・ロー・スクールのジェシー・M・フリード(Jesse M. Fried)とポール・マー(Paul Ma)による研究 "Stock Investors' Returns are Exaggerated" に基づく概念である。ハーバード・ロー・スクールのコーポレートガバナンス・フォーラムに2021年11月に掲載され、ECGIのワーキングペーパーとしても公開されている。
公開されている数値は、講義で示された「20%から260%低い」とは異なる。 論文の要旨では、ASRのエクイティ・プレミアムはTSRが示唆するエクイティ・プレミアムより17%から73%低い(投資代替先の設定により幅がある)とされている。また、ASRとTSRの乖離のうち70〜92%は再投資効果によるものだと推計されている。乖離の理由は講義の説明と完全に一致するが、数値の幅は一致しない。「20〜260%」という数字がどの文献のどの推計を指すのかは特定できなかった要確認。実務で引用する際は、原典の17〜73%という数字を確認のうえ使用すべきである。
なお、検証期間についても講義では「過去20年間」とされたが、この論文は米国株式市場について1971年以降の長期を対象としている要確認。「幅大学」という文字起こしは、文脈から「ハーバード大学」の音声認識誤りと判断した。
TSRとは、あくまで指標であって架空のボーナスを取り込んだ過大評価された指標である。市場を勘違いさせるものだ。そしてこれはTSRだけでなく、EBITDAもPBRもPERも全部そうである。基本的に過大評価されているか、機会損失を隠しているかのどちらかだ。
ではTSRという数字は何でできているのか。マイキー氏はこれを三つのエンジンに分解した。株主利回りを構成する三つの源泉である。
| # | エンジン | 具体的に何が起きているか | 実力か運か |
|---|---|---|---|
| ① | 事業活動(オペレーション) | 新製品・新サービスがヒットして、営業利益率が倍増した。 | 実力 |
| ② | 市場環境(マルチプル) | その業界・セクターがブームやバブルになり、PERが膨らんだ。 | 運 |
| ③ | 資本政策・ファイナンス | 本業は横ばいだが、借入を行って自社株買いをした結果、EPSが上昇し株価が押し上がった。 | 化粧 |
マイキー氏はここで参加者に問う。あなたが見ているPSRやPERは、どの要素でその数字が出ているのか、説明できるか。答えは、①から③がごちゃごちゃに混ざって出てきた数字だ、ということである。したがって必要になるのが因数分解である。
マイキー氏は、三つのエンジンそれぞれに対応する勉強領域を明示した。①を分けるにはビジネスモデルと経営戦略の知識が必要になる。②を分けるには経済と産業の知識が必要になる。③を分けるにはファイナンスの知識が必要になる。「なぜマイキーと自分がこんなに事業の話をするのか、なぜファイナンスの話をするのか、なぜ経済の話をするのか。これは全部、因数分解のためである」――この一文が、勉強会全体の構成理由として提示された。
マイキー氏は当初「②と③がTSRを歪ませている」と言い、すぐに言い直した。正確には市場に対しての説明の詳細を歪ませている、という表現である。②と③は実在する要素であって、存在自体が不正なのではない。問題は、それらが混ざった数字を「経営の実力」として説明してしまうことにある。
三つ目のエンジン、資本政策の話にマイキー氏は特に時間を割いた。2000年以降のアメリカでは自社株買いがブームになり、ファイナンスの教科書でも株主還元の効率的手段として紹介されるようになった、というのが出発点である。
参加者への問いかけを通じて、その構造が確認された。自社株買いをするとトレードオフが生まれる。その分だけ事業に投資できない。そして自社株買いとは発行済株式を減少させる行為であり、純利益が同じなら分母が小さくなるので、EPS(1株あたり利益)が上昇する。結果としてTSRは自動的に改善する。ではそのとき企業の稼ぐ力は増えているのか。答えは否である。
マイキー氏がここで持ち出したのが、自社株買いにはタイミングがあり、経営者の判断には巧拙があるという論点である。参加者とのやりとりで次の構造が整理された。
株価は上がっている=割高。企業の現金は潤沢にある。潤沢だから自社株買いをする。
結果として、高値づかみをしている。投資判断としては下手である。
株価は下がっている=割安。しかし企業の現金は減っている。だから自社株買いがしにくい。
本来なら割安なので買い時なのに、買えない。結果として機会損失が発生する。
つまり、多くの企業の自社株買いは「現金があるときに割高で買い、現金がないときに割安を見送る」という構造的に下手なタイミングで実行されている。にもかかわらず、その巧拙を測る指標が市場に流通していない。マイキー氏は、CEOが自社株買いを大量に行った結果として株価が倍になった場合、それは①CEOが底値を見抜く力と相場観を持っていたからなのか、②借入がうまくいったうえに金融緩和で市場全体が押し上げられただけなのか――説明できるか、と参加者に問いかけた。運の要素なのか、見越していたのか。この区別ができないまま「株主還元に積極的な優良企業」という評価が下されている、というのがマイキー氏の問題意識である。
ここでマイキー氏が提示した仮説がある。もし経営者が配当も自社株買いも一切行わず、現金を事業に再投資するか、あるいは安全資産として保持していたら、企業価値はどうなっていたか。これが本来の企業の力である。この考え方に沿って、TSRから①以外の要素を排除しようとして作られたのがCOSR(Core Operating Shareholder Return)だ、という紹介である。
| 論点 | TSR | COSR |
|---|---|---|
| 何を表示するか | 投資家に対するキャピタルゲインとインカムゲインの合計。 | 会社のオペレーション・エンジンの出力。事業の価値に絞り込む。 |
| 配当の扱い | 全額を自社株に再投資する前提。 | 中立化する。リスクフリーレート等で計算し、再投資の幻想を排除する。 |
| 自社株買いの扱い | EPSが上昇するので、化粧ができてしまう。 | 財務エンジニアリングの効果を排除することを狙いとする。 |
| 市場変動の扱い | そのまま含まれる(PERの膨張がリターンに乗る)。 | 期首・期末のPERとEBITの変化を見て、景気でPERが倍になっても経営者の能力ではないと判断し、運を取り除く。 |
マイキー氏が説明した計算の骨格は三段である。第一に、営業資産を特定する。そのうえで資産を二つに分別する。工場・在庫・知的財産といった事業資産と、金融資産・余剰現金である。これによって事業そのものの収益性を明確化する。第二に、配当や自社株買いといったキャッシュアウトが、もし内部に留保されていたらという仮定を置き、リスクフリーレート(国債利回り等の堅実な運用)で計算する。これが再投資の幻想を排除する操作にあたる。第三に、期首・期末のPERとEBITの変化を見て、市場環境による膨張分を取り除く。
COSRは実在する概念であり、出典が特定できた。 ハーバード・ビジネス・スクールのミヒル・デサイ(Mihir Desai)、マーク・イーガン(Mark Egan)、スコット・メイフィールド(Scott Mayfield)による論文 "A Better Way to Assess Managerial Performance"、Harvard Business Review 第100巻第2号(2022年3–4月)134–141頁である。参加者が「ハーバード・ビジネス・レビューで出ていた記事が検索で出てきた」と述べたのは、この論文を指している。
問題意識は講義の説明と一致する。 COSRは、TSRが「戦略と事業運営に由来する成果」と「現金分配(配当・自社株買い)に由来する成果」を混同してしまう点を問題視する。原論文は、TSRが配当を自社株に再投資すると仮定することは実際の株主行動と整合しないこと、自社株買いは本質的に価値を創造しないこと、そしてTSRは経営者を事業成績だけでなく自社株買いのタイミングによっても賞罰してしまうことを指摘している。マイキー氏が強調した「タイミングの巧拙」は、原論文の中心的な論点そのものである。
ただし、分配資金の再投資先の扱いが講義の説明と異なる。 COSRは、配当と自社株買いを「資本の払い戻し」として企業本体から切り離し、自社株ではなく広範な市場ベンチマークに再投資されたものとして扱う。講義では「リスクフリーレート、国債利回りといった堅実な運用で計算する」と説明されたが、原論文の設計は市場ベンチマーク(インデックス)である。この差は、算出結果に無視できない影響を与える要確認。実装する場合は原論文の定義を確認する必要がある。
また、参加者との会話で「COSRは5年くらい前からある」とされたが、HBR掲載は2022年3–4月号であり、この講義の収録時点(2025年12月29日)から見ると約3年9か月前である。
マイキー氏は、TSRとCOSRを両方算出して四象限に置く読み方を示した。
マイキー氏の見立てでは、AppleがTSRは極めて高いのにCOSRが高くないのは、自社株買いに振り切った結果、AI投資を損なったからである。だから自分はAppleを買うなと言っている、というのが結論だった。逆にIBMは両方高いので推奨してきた、NVIDIAもそうだ、と述べている。
Appleが巨額の自社株買いを継続してきたことは公知の事実であり、2018年以降、年間700億〜900億ドル規模の自社株買い枠を毎年設定してきた。同時に、他の巨大テック企業と比べて設備投資(データセンター投資)を抑制した資本配分を採っており、この点は2025年時点で「AI競争での出遅れ」として繰り返し批判されてきた。2025年のWWDCではSiriの大規模なAI刷新が先送りされ、株価は年初来で大きく下落し、マグニフィセント・セブンの中で劣後した。他方、Appleは自社で最先端AIを開発するのではなくOpenAIやGoogle Geminiに外部委託する「水平分業」戦略を選択しており、抑制的な設備投資と安定したキャッシュフローを評価する見方も存在する。
マイキー氏の「自社株買いに振り切った結果AI投資を損なった」という因果の主張は、資本配分の事実関係とは整合するが、因果関係として証明されたものではない。 Appleが投資を抑えたのはAI戦略の選択(水平分業)によるという説明も並立しており、どちらが主因かは公開情報からは決定できない要確認。また、個別企業のCOSRの実測値は公表されていないため、Apple・IBM・NVIDIAの四象限配置はマイキー氏個人の見立てとして扱うべきである。本レポートは投資助言ではない。
マイキー氏はこのセッションの締めくくりに、職業的な線引きを持ち出した。指標を丸裸にする人たちのことをアナリストと呼ぶ。しかし日本で「アナリスト」を名乗って発信している人の多くは、出てきた数字をそのまま使っている。あれはアナリストでも何でもない、というのが評価である。
そのうえで、常に因数分解をすることが重要であり、この思想の中には必ず裏がある、と述べた。財務分析をするとき、企業指標を見ることは非常に大事だが、指標にはすべて穴があり、その穴を化粧・数値・パーセンテージでごまかしているだけである。自社株買いに巧拙があることを考えたこともない人が大半だが、タイミングによって結果は全く違う。本当にうまいのであればCOSRは非常に高くなるはずだ、という論法である。
投資判断への落とし込みも明示された。①が良くて自社株買いも適切なら「買い物件」である。①がだめで自社株買いだけがうまいなら、それは短期トレードの対象にしかならない。①と③が良く、②(市場環境)が悪かった場合は買い時であり、追加するタイミングになる。このように分解して見ると、株式分析の精度が上がる――というのがこの講義の結論だった。
「ちなみに、財務指標を持ってくるとこの辺は僕は全部見破りますからね。面倒くさいことに。」――これは冗談を含んだ発言だが、勉強会の参加者が提出する分析資料に対する評価基準がどこにあるかを示す一言でもある。