健全経営で現金を積んでいた企業が、1兆円を投じて海外を買いに行った。事業は伸び、フリーキャッシュフローは回復し、配当は倍になった。それでも株価は半値になり、市場が評価するまで7〜8年かかった。この回はJTの10年をキャッシュフロー計算書から読み解き、日本市場が財務戦略を評価しない構造を検証している。
この日のセッションは、講義に入る前の雑談から始まっている。話題は、あるスイス発の医療系スタートアップが日本で資金調達を検討している件についてだった。参加者の一人が、内容は良いし言っていることも的を射ているが、あくまで一つの見解であって、まずスイスやドイツといった周辺市場でうまくいった場合の話になるはずだ、と冷静に整理する。今わざわざ日本に来る必要はないのではないか、と。
ここでマイキー氏が提示した区別が、この日全体の伏線になっている。事業とポテンシャルは違う。日本は需要は大きいが、ポテンシャルはない。この二つを混同すると、日本で調達する理由が説明できなくなる。需要が大きいことと、その市場で資金と組織を成長させられることは、別の問題だという指摘である。
もう一つ、資金調達の構造についての指摘も出た。日本でやる前提であればベンチャーキャピタルを入れてリード投資家を置いたほうがよいが、そうするとガバナンスのベースが日本のものになってしまう。世界中の投資家やVCに顔が利くかどうかを考えたとき、中国のスタートアップですらアメリカの顧問を入れている。金融大国の資本と人材を入れたほうがよいのではないか、という判断である。海外のスタートアップにとって「何十か国で相談やビジネスを進めている」という事実自体が一種のIRとして機能する側面はあるため、プロセス作りが目的なら日本での動きにも意味はある、という留保も添えられた。
日本市場の問題は、需要の有無ではない。資本の側が、リスクを取った資本配分を評価できるかどうかである。冒頭のスタートアップの話も、後半のJTのケースも、任天堂の無借金経営も、すべて同じ論点に収束していく。事業側がいくら合理的に動いても、それを評価する市場が現状しか見ていなければ、財務戦略は組めない。
関連する事例として、別の海外企業の日本進出計画についても報告があった。無償で技術を提供してでも一度シェアを取りに行こうとしたものの、日本で人を採用して事業を回すという方針はボードミーティングで却下されたという。地理的な障壁以上にメンタルバリアを感じ始めていたことも背景にあり、次の判断はアメリカのFDA承認が取れるかどうかを見てから、という結論になったとのことだった。この件については以前から「まともな取締役会なら却下する」と予想されていたことも語られている。
前回の講義では任天堂を題材に、ROICとWACCの関係が扱われていた。無借金経営がゆえにWACCが下がりきらず、資本効率の見え方が悪くなるという論点である。この回では、その宿題に対して実際にDiscordへアウトプットを出していた参加者に発表が求められた。
上田氏の回答は明快な構成を持っていた。WACCの問題は負債比率を上げることで解消できるので、まず社債発行などで負債による資金調達を行いWACCを引き下げる。調達した資金の使い道としては、直近の任天堂の売上構成を見るとアメリカ市場の比率が高く、アメリカが重要な市場だと分かる。そして任天堂の強みはIPにあるが、講義でも触れられていた通り長らく新規IPが出ていない。それでは模倣困難性や希少性が維持できないのではないか。だからその資金を研究開発、とくにIP開発に投じるべきだ——という筋道である。
講師はこのアウトプットを高く評価した。重要なのは、こうした案に対して他の参加者が「賛同する」「この点があるから賛同する」「この点があるから違う視点だ」と応答を重ねていくことだ、という運営上のメッセージも添えられた。
これに対して小賀氏から、実務経験に基づく反論が入った。京都の企業には借金を絶対に嫌うメンタリティがあり、これは20年30年前から変わっていない。任天堂には何度か取材に行ったが、意地悪な質問には答えない、まともに聞かないという印象があった。上田氏の案は理屈としてはまったく正しいが、現実に任天堂にそれを変えさせる力があるかどうかが問題だ、という指摘である。
証拠として挙げられたのがサウジアラビアの政府系ファンドの動きだった。2023年から24年にかけて任天堂株を10%程度保有していたが、昨年末から今年初めにかけてその半分以上を売却している。なぜ売ったのかは分からないが、パフォーマンスとしてはフルには儲かっていない、と。
売却の背景として推測されたのがRobloxの存在である。とくにアメリカにおける子どもたちの浸透率と滞在時間が尋常ではない。学校にも行かずに毎日数時間やっている層がいて、そのためのコミュニケーションでほとんど1日が終わるほどの吸引力を持っている。任天堂が次のステージに行こうとするなら、花札の会社からゲーム機の会社へ転換したときと同じレベルの本当の革命が必要なのではないか、という問題提起だった。
上田氏はこれに対して、京都の本社という属性は理解しているが、いろいろな国の人が働いている組織でなぜ無借金志向という組織文化が引き継がれるのかという疑問を返した。過去に潰れそうになったトラウマのようなものがあるのか、と。小賀氏は山内家のメンタリティがそのまま続いていて、ボードやCFO以外のレイヤーの人たちと話しても同じ空気があったと答え、さらに根本的な問いを重ねた。実際に借り入れをしたとして、どこに投資するかというアイデアが今の任天堂にあるのか。次の10年20年30年を考えたとき、彼らにピボットの構想があるのか。それが素朴な疑問であり、サウジが売った理由もそこではないかという推測である。
サウジアラビアの政府系ファンドPIF(Public Investment Fund)は、2023年2月の変更報告書で任天堂株の保有比率を8.26%と報告している。2024年6月28日時点では8.58%まで積み増していた。
その後、2024年8月21日から10月1日にかけて計28回にわたり市場内で売却し、保有比率は7.54%へ低下。11月2日付の報告書では5.26%、12月26日付では4.19%となっている。
発言では「10%ぐらい持っていた」とされているが、公開されている変更報告書ベースの最高値は8.58%であり、10%には達していない要確認「半分以上を売った」という点については、8.58%から4.19%への低下であり、比率としては半分以下まで落ちているため発言のほうが結果的に正確である。
2025年第3四半期のRobloxのDAU(日次アクティブユーザー)は前年同期比70%増の1億5,150万人、総エンゲージメント時間は同91%増の396億時間に達している。2026年第1四半期では米国・カナダのDAUが前年同期比17%増、エンゲージメント時間は同43%増の310億時間。
MAU(月間アクティブユーザー)ベースでは3億8,000万人を超え、これはNintendo Switchの年間ユニークユーザー数の約3倍、Fortniteの2.25倍、Minecraftの5倍に相当するとされる。「アメリカの子どもたちの滞在時間が半端ない」という発言は、絶対規模でも成長率でも裏付けられる。
セッション中、「マリオだけで興行収入2,000億円くらい、たしかバービーの次に売れた」という発言があった。『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(2023年)の世界興行収入は約13億5,975万ドル(約1,900億円)で、2023年に公開された映画の中では一時トップだったが、同年9月に『バービー』に首位を明け渡している。発言の内容は数字・順位ともにおおむね正確である。
また「マリオギャラクシーの映画が出てくるので楽しみだが、次回作が前作を超えるのは多分無理」という予測も出ていた。続編『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』は2026年4月に公開され、公開11週目で全世界興行収入10億ドルを突破、6月中旬時点で約10億0,236万ドル(約1,605億円)。日本国内は73.7億円でイルミネーション作品歴代2位。前作の約13億6,000万ドルには届いておらず、この予測は結果的に的中している。
任天堂の議論を受けて、講義はJT(日本たばこ産業)の分析に移った。選定理由は明快で、前回「日本企業で分析してほしい」というリクエストがあったからである。ただし後半で前田氏が指摘するように、たばこ産業には世界的にマイナス要因が複数あり、成長していても株価が上がりにくい構造があるため、JT単体で日本市場全体を語ることには留保が必要である。
JTの歴史は明治時代のたばこ税導入に遡る。当初は民間企業が運営していたが、財政基盤を作るという目的から途中で専売制度へ移行し、明治31年に国家専売となった。製造・サービス・販売を政府が独占的に管理する体制である。直接運営していたのは大蔵省だった。戦後は日本専売公社が引き継ぎ、たばこのほか塩や樟脳といった品目も扱った。樟脳は現在でいえば防虫剤や医薬品の原料にあたり、これらの事業は現在も一部引き継がれている。
国内市場で圧倒的なシェアを獲得したものの、国が事業を行っている状態では他の産業が伸びず、民間企業としての競争性が求められたことから民営化に至った。ここでポイントになるのが政府保有株式である。講義では33.35%という「非常にやらしい数字」が示され、半官半民の状態にある企業だと位置づけられた。
JTは日本たばこ産業株式会社法(JT法)に基づく特殊会社であり、同法には政府が発行済株式総数の3分の1を超える株式を保有し続ける義務が定められている。したがって33.3%台という数字は「資本政策の結果ではなく、法律で定められた下限に張り付いた数字」という講義の理解は正しい。
ただし実際の保有比率については食い違いがある。2025年6月30日現在、JTの筆頭株主は財務大臣で保有比率は37.55%である。つまり法定下限の1/3を超えて4ポイントほど上振れている。講義中、後の質疑で小賀氏が「国が37」と述べており、こちらが実測値と整合する。33.35%は法定下限に近い水準を指した概算値と考えるのが妥当だが、「ずっと33.35%がキープされている」という説明は公開データと一致しない。
講義で提示されたJTの財務指標は次の通りである。配当利回りは過去平均で6%、ただし2016年までは平均3%だった。ここに「何が起きたのか」というポイントがあると講師は言う。直近5年の営業利益率は20%をキープ、コロナからの成長は1.5倍で売上は3兆円近く。利益構成では原価率が約40%、売上構成はたばこ90%・医薬3%・加工食品7%。販管費のうち最も重いのが人件費だが、それでも13%しかない。通常の産業から見れば人件費比率13%は極端に低い水準である。
| 指標 | 講義での言及 | 公開データ(Claude調べ) |
|---|---|---|
| 売上収益 | 3兆円近く | 3兆1,498億円(2024年12月期、前期比10.9%増) |
| 営業利益率 | 直近5年20%をキープ | 営業利益6,972億円 → 約22.1%(2024年12月期) |
| 純利益 | 5,000億円超 | 4,634億円(同、前期比3.9%減)要確認 |
| 配当利回り | 過去平均6%(2016年までは3%) | 約4.75%(株価4,925円・年配当234円時点) |
| 売上構成 | たばこ90/医薬3/加工食品7 | 医薬事業は2025年に塩野義製薬へ譲渡し撤退 |
「税引後利益が5,000億円を超えている」という発言について、2024年12月期の純利益は4,634億円で、前期比3.9%の減益となっている。減益の主因はカナダにおける訴訟関連費用3,756億円の計上であり、営業利益以下の段階利益が押し下げられた。2025年12月期の会社予想も前期比2.9%減の4,500億円とされている。5,000億円という水準は税引前の段階か、訴訟費用を除いた実力ベースの数字を指していた可能性が高い。
配当利回り6%についても時点差がある。株価が低迷していた2020〜2022年頃には6%を超える局面があったが、株価が回復した直近では4.7%前後である。2025年12月期の年間配当は1株234円(前期194円から40円の増配)で、配当性向は81.4%。金額としては増配が続いているが、株価上昇により利回りは低下している。
また「たばこ90/医薬3/加工食品7」という売上構成については、その後2025年5月7日にJTが医薬事業と鳥居薬品を塩野義製薬へ譲渡すると発表し、買収総額は約1,600億円規模。TOBは2025年6月18日に成立し、9月1日に完全子会社化された。JTは医薬事業から完全撤退している。この点はセッションの後半でも参加者から言及があった。
ここからが講義の核心である。国内の喫煙率は下落している。男性は20年間でおよそ半減、女性についても日本国内では30%の減少。それで大丈夫なのかという問いに対して、売上構成の変化が答えになる。この5年から10年の間に、JTのたばこ事業の地域構成は大きく変わった。アジア市場は日本が下がる一方でアジア他国が拡大して横ばい。ヨーロッパ、南米、中東、アフリカは拡大が続き、実際に成長率30%以上、欧米でも2桁成長という水準に達した。JTは海外で稼げる事業になったのである。
この転換をどう実行したのか。答えはM&Aであり、10年間で1兆円以上を投じている。そしてこれこそがファイナンス戦略だった。講義はキャッシュフロー計算書を順に読み解いていく。
| 時期 | 投資CF | 財務CF | 現金残高 | 読み取れること |
|---|---|---|---|---|
| 〜2015年 | マイナスがほとんどない | マイナス | 潤沢 | 投資をしていない。既存事業のみで動いていた。健全経営で現金が増えていく状態 |
| 2015〜2018年 | 一気にマイナスが拡大 | ほぼゼロ近辺 | 一気に減少、その後横ばい | 買収ラッシュ。借入ではなく手元現金を原資に投資した。3年間、入ってきたお金を全部出した |
| 2016〜2017年 | 継続 | FCFとほぼ同水準 | 低位 | 投資した事業から利益が出始める。FCFが増加に転じる |
| 2019〜2023年 | — | 借入を開始 | 4年間で3.5倍に増加 | FCFが2018年から約6倍。現金残高上昇に伴い配当性向を引き上げ。配当利回り3%→6%へ |
| 2022年〜 | — | 借入でROEをコントロール | — | ROICが上昇し始める。ROIC>WACCの差を意図的に作りに行く段階 |
この読解には、講義中に実際の対話として展開された推理のプロセスがある。財務キャッシュフローがマイナスだったということは、外部から資金を調達していない。ではどこから買収資金を出したのか。参加者からは「借入を返済した」「資産を売却した」といった仮説が出たが、資産売却であれば投資キャッシュフローはプラスに振れる。答えは自分たちが持っている現金残高だった。2015年から投資キャッシュフローが一気にマイナスになると同時に、現金残高が急減している。
講義中、参加者との対話の流れで具体的な買収案件が列挙された。イギリスのギャラハーを1.7兆円で買収。レイノルズ関連が6,000億円で、有名なところではキャメル。ロシアのドンスコイ・タバクが1,900億円、バングラデシュの秋ジグループ(Akij)が1,600億円、インドネシアとフィリピンの案件が1,100億円、ドミニカ共和国の案件が約16億円で株式50%、スーダンのハガーが356億円、エチオピアのナショナル・タバコ・エンタープライズが出資比率70%で496億円。エジプトとブラジルの大型案件については非公表とされている。
ギャラハー(2007年):株式取得額は1兆7,310億円。純有利子負債を含めた買収総額は約2兆2,530億円。発言の「1.7兆円」は株式取得額として正確である。当時の日本企業による外国企業買収として史上最高額だった。
「6,000億円でレイノルズ買収、有名どころはキャメル」:ここには二つの案件の混同がある。6,000億円(約50億ドル)の案件は2016年1月に完了したナチュラル・アメリカン・スピリットの米国外事業買収であり、レイノルズ・アメリカンから米国外の商標権とドイツ・フランスなど米国外子会社9社の全株式を取得したもの。「買収条件がアメリカ以外の事業だった」という講義の説明はこの案件に正確に当てはまる。
一方キャメルは、1999年にJTがRJRナビスコの海外たばこ事業(RJRI)を約9,400億円で買収した案件に含まれるブランドである。したがって「6,000億円でキャメルを買った」という結びつけは要確認——金額と時期が別案件のものである。ただし「米国外事業のみを取得し、そこから米国外で拡大していった」という戦略の理解自体は、両案件に共通して正しい。
ここが講義の急所である。JTが改革に着手した時期、株価は最高値をつけていた。現金が潤沢に残っている状態で、株はそこまで最高値を更新していた。ところが投資を開始し、ファイナンス戦略を実行した結果、株価は半分になった。
「いいことをしているイメージなんですけど」という参加者の反応に対する講師の答えは、身も蓋もないものだった。「だから株主とか投資家がそれだけ頭が悪いんですよ、日本」。
論理としてはこうなる。ファイナンス戦略を実行すれば、将来への期待から株価は上がるはずである。現金が減った。フリーキャッシュフローがマイナスになった。しかしそれは買収するためだ。それなのに株価は3分の1から半分に落ちた。その後、FCFが成長し、買収した資産が拡大し、高配当を出し、現金残高が上昇して、ようやく評価された。それが2021年から22年——戦略実行から7年後である。
現金を持っていて、借金をせず、既存事業だけを回している状態。リスクを取らず、自分たちの持っているポテンシャルだけでなんとかしている状態。
この状態のほうが株価は高かった。
国内の喫煙率低下を見越して他社を買収するため、財務を一時的に悪化させた状態。リスクを取り、利益を得て、市場を拡大させに行った状態。
普通の投資家であれば「投資しているなら株価は上がる」と考えるはずが、逆になった。
マイキー氏はこの構図を人に喩えた。一生懸命がんばって、借金をして勉強しまくっているA君よりも、同世代でバイトだけをして貯金を貯めているB君のほうを優遇する。それが日本の株式市場がこの10年間JTに対して出した答えだった。そしてA君が借金を全部返済し、その後に稼ぎまくるようになってから、ようやく「A君すごいね」と言い出す。それが今のJTである、と。
参加者が「現状しか見ていないということですね、未来を見ていないから」とまとめたことに対し、講師は同意したうえで、そこから重要な帰結を引き出した。こういう事例を日本の大手企業が作ってしまっている以上、他の企業も借金をしにくくなるのではないか。過去10年間のデータを見ると、日本市場では財務レバレッジをかければかけるほど株価が落ちる傾向がある。営業キャッシュフローしか見ない、PLしか見ないという投資家が未だに多いためである。
講師は明確に線を引いた。任天堂について小賀氏が「京都の人だから」と言った点について、自分はむしろ市場のほうに問題があると考えている、と。仮に任天堂が借入を行い、ROICとWACCの差を広げる戦略を実行したとして、本当に株価は上がるのか。外国人保有比率や外国人の注目度が高ければ上がるかもしれないが、日本人株主が非常に多い状態の企業で本当に上がるのかは懸念がある。やってみないと分からないが、その不確実性自体が財務戦略を組みにくくしている——これが「金融リテラシーの低さ」が企業の財務にまで跳ね返る構造である。
JT株価は2015年に約4,800円台のピークをつけ、その後2016年から2018年にかけて下落が続いた。2020年には1,800〜1,900円台まで下落しており、ピークからの下落率は5〜6割に達した。「半分に落ちた」という発言は、むしろ控えめな表現である。
ただし講義時点の「半分ぐらいは今戻している状況」という認識については、その後の水準と食い違う。2025年時点で株価は4,900円台に達しており、2015年のピーク水準をほぼ回復ないし更新している。配当込みのトータルリターンで見れば、過去10年で約80%のリターンとされる。講義が指摘した「市場が理解するまでのタイムラグ」は、その後さらに株価が伸びたことで結果的にいっそう鮮明になったと言える要確認(株価水準は時点により変動するため、直近値は要確認)
「JTのCFOはきっと優秀な方だったはずだが、株価が落ちているということはCFOとして評価されないということか」という質問に対し、講師の答えはIRの打ち方の問題だった。2015年と16年のIR資料を見ていないので憶測でしか言えないと断りつつ、アメリカ企業がこの種の問題をどうかわしているかを対比させた。
アメリカの大企業のCEOは、民衆の前で説明する立場でもある。こういう投資をしていて、こういうリターンが今後出てくるから、と納得させるスピーカーとしての役割を担う。GoogleもAppleもそれをやっている。人前に出て全部説明するから、一時的にキャッシュフローが悪くなる、現金残高が減るといったことも受け入れられる。逆にそれを説明せずに市場の理解を求めても、市場の人はそもそも分からない。孫正義氏のようなスピーカーがいるかどうかで、同じ財務戦略でも受け取られ方が変わる。
これに対して「CFOがIR部門を見ていないという問題も絡むのではないか」という指摘が出ると、講師はさらに現実的な補足を加えた。一般の人は基本的にIRなど見ていない。重要なのは目につくところに現れるかどうかである。実際、講義の場で「会社のホームページのIRを見たことがある人は手を挙げてください」と問いかけ、その反応をもって説明に代えるという場面もあった。
ここで参加者から、2016年頃までのJTのCFOは非常に著名な人物だったという情報が入る。『JTのM&A』という著書を出しており、1.7兆円のギャラハー買収を実行した人物である。株価のピークが2015年で、その後半分以下まで下がっていることを考えると、この人物の退任も影響したのではないか、と。相当有名なCFOでIRもしっかりやっていた人物だという評価だった。
これに対して小賀氏が、実際に一緒に仕事をしていたという証言を加えた。当時ロンドンにチルドレンズ・インベストメント・ファンド(TCI)というアクティビストファンドがあり、非常に恐れられていたが、この人物はきちんと対処した。グローバルカンファレンスでもギャラハー側と正面から向き合って対応していた。通訳も連れずに単身で乗り込んでいったという。「ミスター・ガバナンス」と呼ぶべき人物であり、CFOとしても取締役会議長としても、彼の上に立てる人はいないという評価が示された。
ガバナンス構造の問題も指摘された。ギャラハー買収後、インターナショナル部門を見ていた時期には、海外戦略やM&A戦略はすべてスイスで行われていた。この人物は東京から通っていたが、彼がいなくなった後、本社とスイスの間でコミュニケーションがうまくいかなかった時期があったのではないか。そうであれば、その後のCFOがしっかりとした役割を果たしていない可能性は十分にある——という推測である。
議論の中で「深海さん」「慎さん」と発音されていた人物は、新貝康司(しんがい・やすし)氏である。1980年に京都大学大学院工学研究科修士課程を修了後、日本専売公社(現JT)に入社。1989年に渡米し、抗HIV薬ビラセプトの開発など米国製薬・バイオベンチャーとの共同研究開発提携を推進した。
JTのCFOを経て2007年の英ギャラハー買収・統合を指揮し、2011年に代表取締役副社長兼副CEOに就任、2018年に退任。著書『JTのM&A』がある。現在は第一生命ホールディングス、西日本電信電話、オリンパスなどの社外取締役を務めており、2022年4月からは新貝経営研究所の代表取締役として、スタートアップの社外取締役やVCファンド顧問、エンジェル投資にも携わっている。「オリンパスの取締役会議長と第一生命の取締役」という証言は、公開情報と整合する。
外国人保有比率についても具体的な数字が挙がった。現在は外国人投資家の保有株が大幅に減っており、国が37%、個人が33%といった構成になっている。6%のイールドが取れるのだから持っておけばいい、という判断が働いている。しかし外国人比率が10%台まで落ちていることは明らかにJTの問題であり、これだけのグローバル企業であるにもかかわらずIRができていないのは大きな問題だ、という指摘だった。
JTの海外シフトが機能した背景には、消費の構造的な法則がある。たばこは嗜好品であり、発展途上国では所得が上がると嗜好品に手が出る。講義が示したサイクルはこうだ。発展途上を抜けたとき、まだ裕福ではないが健康食品に金を使うようになる。それがさらに進むと嗜好品が拡大する。嗜好品が生まれ、健康に目覚め、また嗜好品が拡大する——これが人の消費の大まかなサイクルである。
JTはこの理想的なプロセスに乗った。国内需要が低迷しても、海外の成長率でカバーしている状態になっている。参加者からも、2012年から2014年頃のブラジルで、ワールドカップとオリンピックを控えて健康食品やヤクルトが爆発的に売れた事例が想起された。景気が上がっていくと人はまず嗜好品に向かうため、先進国の成長率よりも発展途上国の成長率が圧倒的に高くなる。東南アジアで、何が入っているか分からないようなたばこを吸っていた層が、2012年以降の経済成長とともに日本やアメリカのたばこを吸うようになった、という現地の観察も共有された。
この観点から、参加者の一人はマイキー氏が南米とアフリカに注目していると聞いてフィリップ・モリスとアルトリア・グループをフォローしていたと述べ、株価の動きにこの構造がよく反映されていると報告した。化粧品でも同様の現象が起きており、中国でまったく売れていなかったものが一気に爆発的に売れるようになった例が挙げられている。
グローバル展開の時期、投資家からよく言われた意地悪な指摘があったという。「たばこで人を病気にして、その一方でハーボニーのような抗がん剤を作るのか」「両方で美味しいよね」といった類の冗談である。ESGの観点からどうなるかという論点も提起されたが、この日は別の議論として脇に置かれた。なお講義の後、参加者の一人が「JTは鳥居薬品を塩野義に売却した。医薬事業からは撤退した」と報告しており、結果として資源は中核のたばこ事業に集約された。
JTの事例が示したのは、正しい資本配分が株価に反映されるまでに長いタイムラグがあるという構造だった。講義はこれを日本市場固有の問題としてだけでなく、市場一般の認知の遅れとしても検証している。
例として挙げられたのがBroadcomによるVMware買収である。買収時には反対されまくっていたが、今やBroadcomが強い理由の一つはこの買収にある。ただし株価に反映されるまでには時間がかかった。人は瞬間的な合理性を感じ取れない傾向がある。直感的にプラスに働くと思えたものは株価に反映されるが、直感的にプラスに見えないものはマイナスに動く——これは最近のアメリカ企業の決算を見てもよく分かる、という指摘だった。
講義では「Broadcomも VMware買収から株価に反映するまで6年かかった」「5年とか」という発言があったが、実際のタイムラインは大きく異なる。Broadcomは2022年5月26日にVMwareの買収を発表(現金・株式合わせて610億ドル、負債80億ドルを含めると約690億ドル)。各国競争当局の審査に18か月を要し、中国当局の承認を経て2023年11月22日に完了している。
したがって発表から完了までが約1年半、完了から市場評価の転換までを含めても数年規模であり6年ではない要確認。ただし「発表時には反対されていたが、後になって強さの源泉として評価された」「市場の気づきには相当なラグがある」という論旨そのものは、この案件で成立している。
もう一つの例がMicrosoftのトポロジカル量子チップである。マイキー氏はこのチップが発表されたとき一人で盛り上がっていたが、株価は落ちていた。量子コンピューター関連のチップが普及する流れになればMicrosoftは一段上に行くと考えていたのに、講義で話したその1週間、株価は落ち続けたという。前田氏はこれを「ストーリーが描けないということ」だと整理した。トポロジカル量子とAIの技術がどう合流し、そこからどのようなエコシステムが形成され、さらにそこに何が絡んでくるかを想像すると、産業自体が相当巨大になることが見えてくる。だがそれが市場に分かるかというと、分からない。
Microsoftは2025年2月19日、トポロジカル・コア・アーキテクチャを採用した世界初の量子チップ「Majorana 1」を発表した。中核に8量子ビットを搭載し、「トポコンダクター」と呼ばれる新素材(インジウムヒ素とアルミニウムによる材料スタック)を用いてマヨラナ粒子を観測・制御する。将来的には単一プロセッサに100万量子ビットの搭載を見込むとしている。
市場反応は分裂した。発表直後、D-Wave、Rigetti、Quantum Computing Inc.といった量子コンピューティング関連株は時間外取引で急騰した一方、Microsoft自身の株価は軟調だった。同社が翌月発表した後継チップの際にも、主張への懐疑が株価の重しになったと報じられている。「テーマ株は上がるが、当の技術を持つ大型株は上がらない」という構図は、講義の観察と整合する。
この文脈でマイキー氏が自身の傾向として語ったのが、「新興株を当てるのは得意だが、大型株はよく外す」という感覚だった。前田氏はこれをレンジの問題として整理した。マイキー氏は長期レンジで話しているから、短期では市場が理解できずに株価が落ちる。マイキー氏自身も、長期レンジで見てはいるが一般の人は短期目線の情報を欲しがるため、どこまで視座を下げて株式を見ればよいかが難しい、と認めている。自分の情報は5年後から10年後に反映される傾向がある、と。
その実例として挙げられたのがNVIDIAである。初めてジェンスン・フアンの決算を見たのは2011年で、当時フアンは取締役会を含めて市場から叩かれまくっていた。それでも「これは絶対に来る、GPUだ」と判断した。株価はその時期やや下落していたが、長期で見ればGPUが市場を取った。トポロジカルの話は前年にしているため、反映されるのは2033年頃ではないか、という見通しも示された。
ただし競争環境についての留保もある。GoogleやAmazonも開発を進めているため、性能だけでなく普及戦略がどうはまるかを見なければならない。この3社が抜け出す可能性は高いが、3社をどうベンチマークしていくかが課題になる。またMicrosoftのアドバンテージの一つはOpenAIとの関係だと考えられていたが、OpenAIが他社との提携を広げている状況を踏まえると、むしろGoogleではないかという見方も出た。TPUの評価が変わりつつあり、Metaとの関係も含めて構図が動いている、という認識である。
セッションの締めくくりとして参加者が述べたのは、ファイナンスを見ても数字だけを追っている人が多いという観察だった。数字はストーリーの結果として現れるものであり、ストーリーが描けなければ数字の意味は読めない。JTの10年も、Broadcomの買収も、Microsoftの量子チップも、市場がストーリーを描けなかったからこそ株価が動かなかった——この一点で全事例が繋がっている。