勉強会の後半、講師は画面を共有して「データは前提の条件を見たほうがいい」というテーマを掲げた。出発点は、当時メディアに溢れていた「AIブーム崩壊」「米国株バブル崩壊」という記事である。講師は参加者に問う――こういう記事で比較対象になっている時期はいつですか、と。答えは即座に返ってきた。ITバブル、ドットコムバブル、そして1929年の世界大恐慌である。
ここから講師の議論が始まる。過去にそういうことがあったというのは事実データである。だが重要なのは、それが比較対象になるのかという点だ。講師は大恐慌と現在のあいだにある差を8項目に分解して黒板に書き出していった。市場規模、参加者層、情報伝達と取引速度、規制と制度、金融政策、投資商品、グローバル連動性、そしてガバナンスである。書き終えたところで講師は問う。「これだけの違いがあるにもかかわらず、チャートの動きが似ていますと言われて、皆さんどう思いますか」。参加者からは「そもそもルールがやりたい放題では全く参考にならない」という応答が返った。
後半はさらに具体的な指標批判に入る。ロバート・シラーのCAPE(シラーPER)が25倍を超えるとリスキーだと言われるが、過去数年間40倍を超えても破綻していない。「19世紀からデータを取っているから間違いない」という反論に対して、講師は「そもそも今の話を聞いて、間違いないという意味が分かりますか」と切り返した。市場の構造そのものが断絶しているのに、同じ物差しを1881年から当て続けることに意味があるのか、という問いである。
講師が書き出した比較を、そのまま整理する。講師が黒板に列挙した順序と項目名を保持し、後段のClaude補足で数値の裏取りを行う。
| 前提条件 | 大恐慌時代(1929年前後) | 現在 |
|---|---|---|
| ① 市場規模 | 全時価総額は現在価値換算で約1兆ドル。米国と欧州でほぼ6割を占めていた | 世界の時価総額140兆ドル、米国だけで40兆ドル。しかも多極化(欧米+日本+中国等) |
| ② 参加者層 | 富裕層または都市部の個人が中心。年金・投信が未発達 | 年金基金、保険、ETF。おまけにスマホで誰でも参加できる |
| ③ 情報伝達と取引速度 | ティッカーテープ、新聞、電話。フロア取引で決済まで約1週間 | リアルタイム配信、電子取引 |
| ④ 規制と制度 | SECが存在しない。粉飾決算が横行。ガバナンスがゆるゆる | 規制だらけ。いろんなルールができあがっている |
| ⑤ 金融政策 | そもそも金本位制 | 管理通貨制 |
| ⑥ 投資商品 | 現物株と一部の信用取引 | ETP、ETF、オプション、デリバティブ商品 |
| ⑦ グローバル連動性 | 範囲が限定的。国際的な資金移動も困難 | リアルタイムで資本移動が可能 |
| ⑧ ガバナンス | 粉飾決算が多く、ガバナンスがゆるゆるの状態 | 開示・監査・内部統制の枠組みが整備 |
大恐慌側は概ね妥当。1925年時点のNYSEの総額は270億ドル、1929年9月には870億ドルへ急増した。1929年8月時点でNYSEに上場していた846社の株式時価総額は897億ドルという記録もある。1929年から2025年までの米CPI上昇率はおよそ18倍前後であるため、現在価値換算では1.5〜1.6兆ドル程度となる。講師の「現在価値換算で約1兆ドル」はオーダーとして妥当な水準である。
現在側の数値には大きな差分がある。2025年の世界株式時価総額は、6月時点の集計で約134兆ドル、年末時点では約157.8兆ドルとする調査がある(Visual Capitalist等)。ここまでは講師の「140兆ドル」と大きくは矛盾しない。だが「米国だけで40兆ドル」は明らかに過小である。米国株式市場の時価総額は約68.9兆ドルとされ、世界の44%を占める。指数構成ベースで測る調査では米国シェアを64%とするものもある。40兆ドルという水準は、おおむね2020年前後の米国時価総額に相当する。講師の発言はライブで数値を口頭列挙する形式だったため即興の概数だと思われるが、結果として「米国の比重」を実際よりかなり小さく見せる数値になっている。皮肉なことに、これはこの日の議論(=現在の市場は当時と比べて桁違いに大きく、しかも米国に集中している)をむしろ弱める方向の誤りである。
講師は「SECができたのが1900……証券法ができたのが1933年だからです」と述べており、途中で言い直している。正確な年次を整理すると、証券法(Securities Act)は1933年5月27日にローズヴェルト大統領が署名、証券取引所法(Securities Exchange Act)は1934年6月6日に署名され、この1934年法によってSEC(証券取引委員会)が設立された。1929年の暴落時点では連邦レベルの証券規制は存在せず、規制は各州のブルースカイ法(1910年代に多くの州で成立)にとどまっていた。したがって「SECが存在せず、やり放題だった」という講師の要点そのものは完全に正しい。両法はいずれも1929年の暴落を受けて制定されたものである。
③の「決済まで約1週間」については、1929年当時のNYSEの通常決済サイクルに関する一次資料を確認できなかった。要確認ティッカーテープが取引量の急増で数時間遅延し、投資家が自分の約定価格を知るまでに長時間を要したことは記録されている(10月24日には1時間半以上の遅延)。「注文から確定情報が手元に届くまでのラグ」という趣旨であれば、講師の指摘は実態を捉えている。なお現在の米国株の決済は2024年5月にT+2からT+1へ短縮されている。
8項目を書き終えた講師は問いを投げた。「こういう違いがあるにもかかわらず、チャートの動きが似ていますと言われて、皆さんどう思いますか」。参加者の応答は簡潔だった。「そもそもルールとか、やりたい放題では全く参考にならないと思います。昔のは」。講師はこれを受けて「そういうことです。何の参考になるんだって話なんですよ」と締めている。
講師は次に、実際に頻用される指標を俎上に載せた。「有名なやつがCAPE。シラーPERと言われるやつがあって、ロバート・シラーというイェール大学の人が作った」。この指標については、25倍を超えるとリスキーだと言われてきた。実際、25倍にかかった時にリーマンショック、ロングターム・キャピタル・マネジメントの破綻、ドットコムバブルの破綻、大恐慌の破綻が起きている、と。
ところが、と講師は続ける。2010年代以降、米国市場の平均は30倍になり、さらに40倍を超えている状態が続いた。それでも破綻していない。ロバート・シラーのCAPEはインフレ調整後のPERであり、40倍を超えているからアメリカ経済が危ない、株価が危ないと言われている。だが「ロバート・シラーのPERは19世紀からデータを取っているから間違いない」という人がいる――講師の切り返しはここに向かう。「そもそも今の話を聞いて、間違いないという意味が分かりますか」。前節の8項目が全部変わっているのに、同じ物差しを当て続けることに意味があるのか、という問いである。
シラー本人と指標の基本情報は正確である。ロバート・J・シラーはイェール大学教授で、2013年にノーベル経済学賞を受賞している。CAPE(Cyclically Adjusted Price-to-Earnings ratio)は、株価と過去10年間の1株当たり利益の平均を、いずれもインフレ調整したうえで比を取る。
「過去10年間40倍を超えている状態」という発言は、公開データと食い違う。CAPEは2021年11月に38.6まで上昇したが、2022年のS&P500の約25%の調整で27前後まで低下している。したがって40倍超が定着したのは2025年以降であり、「過去10年間ずっと40倍超」ではない。「2010年代以降おおむね30倍前後で推移した」という部分は妥当である。この差は講師の論旨(=高水準が長期間続いても破綻しない)を弱めるものではないが、数値としては修正が必要である。
25倍という閾値の位置づけも補足を要する。CAPEの長期平均は約17倍である。1929年9月のピーク時のCAPEは32.6倍、1999年12月の史上最高値は44.2倍だった。25倍は「歴史的に見て割高圏の入口」として広く引用される目安ではあるが、シラー自身が公式に定めた売買閾値ではない。なお2026年8月時点のCAPEは41.2〜41.5倍で、1881年以降1,748か月のうち98.9パーセンタイル、これより高かったのは1999〜2000年の18か月のみである。
そして、この日から9か月半が経過した2026年8月時点で、講師の観察は結果として支持された。CAPEは2025年11月時点の40倍前後からさらに上昇し、直近3か月で+2.3%、6か月で+5.5%、12か月で+8.8%と切り上がっている。「40倍を超えているから危ない」という論調が2025年秋に強まった後も、市場は破綻していない。ただしこれは「CAPEが無効である」ことの証明ではなく、「高CAPEはタイミング指標として機能しない」ことの再確認にとどまる点は明記しておきたい。CAPEはもともと10年程度の将来期待リターンとの相関を見る指標であり、翌年の暴落を予測する道具として設計されていない。
講師はここから、当時アメリカで起きていた指標論争に踏み込んだ。もう一人、インフレ調整を入れた指標を考えた人物としてベンジャミン・グレアムを挙げる。「ウォーレン・バフェットの師匠です」。グレアムの指標も景気循環調整後のPERだが、シラーとは決定的に違う点がある――インフレ調整をしない、という点である。
講師の整理を、発言の順序に沿って再構成する。
講師が最も強調したのは最後の2行である。「これって同じPERでも全く違うの分かります? この全く違うという状況にもかかわらず、ここの論争をしているバカな経済学者がいっぱいいるんです。そしてこれが延々と有名なメディア記事で語られている。意味が違いますけど、と突っ込みたい」。
講師の比喩はこうだった。「人はサッカーチームがものすごいという話をしている、その戦いなんですよ、これって。対象とするものが違う」。個別銘柄の割安発見のために作られた道具と、市場全体の温度を測るために作られた道具を並べて「どちらが正しいか」を論じることに意味がない、という指摘である。
講師の整理は、系譜としてはおおむね正確である。10年平均利益を使うという発想を最初に提案したのはベンジャミン・グレアムとデイヴィッド・ドッドで、『証券分析』(Security Analysis、1934年)において、報告PERは景気循環の影響で大きく振れるため、株価を5年・7年・10年といった複数年の平均利益で割ることを推奨した。シラーはこの統計的規律をグレアム=ドッドから継承し、そこにインフレ調整を加えた。物価上昇が累積すると倍率が機械的に変形してしまうため、株価(分子)と利益(分母)の双方をCPIでデフレートすることで、異なる時代の評価を同じ実質の土俵に載せる、という設計である。したがって「グレアム型はインフレ調整をしない/シラーは行う」という講師の対比は正しい。
「対象先が違う」という指摘も概ね妥当である。グレアム=ドッドの手法は個別証券の内在価値評価を目的とする証券分析の道具であり、シラーのCAPEは市場全体の長期期待リターンとの関係を論じるマクロ指標として普及した。ただし現在の実務では両者の境界は流動的で、グレアム=ドッド方式を市場指数に適用する分析も、CAPEをセクターや個別国に適用する分析(Siblis Researchの国別CAPEなど)も一般的である。したがって「対象が違うから論争が無意味」とまでは言い切れず、「何を測るために設計されたかを踏まえずに数値だけを並べる論争は無意味」という限定を加えるのが正確だろう。
ストックオプションの会計処理についての指摘も裏づけがある。米国では2004年にFAS 123R(現ASC 718)が改訂され、2005〜2006年度以降、株式報酬の公正価値を費用として損益計算書に計上することが義務化された。これによりGAAP EPSは押し下げられ、株価が同じでもPERおよびCAPEは押し上げられる方向に働く。講師の言う「オプションを付けると数字が勝手に上がり、結果リスクに見えてしまう」という指摘はこの構造を指している。株式報酬の比率が高いテック企業ほどこの影響は大きく、実際マイケル・バーリが2025年11月以降に展開したNVIDIA批判の一つの柱も、この株式報酬とGAAP/non-GAAPの乖離であった(この点は同日の別テーマとして扱われている)。
デフレーターの説明には言い間違いがある。講師は「名目GDPは実質GDP×100という数字が出てくる」と述べたが、GDPデフレーターの定義は「名目GDP ÷ 実質GDP × 100」である。文脈からは物価指数の一般的説明を意図した発言と読めるが、式としては逆になっている。
講師はこの論争の構造をこう診断した。指標そのものの意味・目的・歴史を知ったうえで、何を参照として作られ、どういうデータの取り方をしているのかを見れば、そもそも話が噛み合うわけがないと分かる。それに気づかないまま延々と論争が行われ、世界を代表するメディアがそれを報じている。「これが世界を代表するメディアのコミュニケーションの取り方なんです」。
そのうえで講師は、記事の読み方の基準を提示した。データの計算式まで分かっていれば、その議論が的を射ているのか、比較対象が本当に正しいのか、正しくない場合にどのような裏付けやプラスのデータを出してくるのか、そこに対する説明があるのか――そういうことが書かれている記事であれば読みがいがある。だが「これがほとんどないんですよね、報道メディア含め」。